【八五《炎天下の太陽》】:一
【炎天下の太陽】
両腕を組んだ凛恋が、上から俺を見下ろし両頬を膨らませる。
「凡人、正座!」
「…………」
記憶を失った俺は、自分の家に戻っていた。だが、記憶が戻ったことと、何より凛恋の強い希望により再び凛恋の家でお世話になることになった。
そして今は、荷物を持って凛恋の家に来てすぐに、凛恋に部屋へ連れて行かれ正座させられたところだ。
「なんで無言なのよ」
「いや、なんで正座させられてるのかと思って」
「昨日、調子に乗り過ぎたエッチな彼氏は何処の誰かな~?」
「……フローリングに正座します」
ぐうの音も出ない俺がフローリングに正座しようとすると、凛恋が慌てて俺の腕を掴む。
「ちょ、ちょっとダメ! フローリングに正座したら足痛くなっちゃうじゃん! カーペットの上に正座して」
優しい凛恋は俺を引き止めると、すぐに気を取り直してまた頬を膨らませる。
「私は昨日の埋め合わせが必要だと思うけど?」
「凛恋、俺とデートに行かないか?」
「……何処に?」
「水族館」
「私も水族館に行きたかったの! やっぱり私と凡人は相性ピッタリね!」
凛恋が嬉しそうに飛び込んで来て、真正面から俺をひしっと抱き締める。
俺が記憶を失った日に、本当なら凛恋と水族館デートに行くつもりだった。だから、俺も凛恋といつか水族館デートに行こうとは思っていた。
凛恋も俺と同じ気持ちだったんだろう。しかし。俺は今日行くつもりじゃなかった。
前にデートへ行くつもりだった日は雨だった。だが、今日は清々しいほどの晴天だ。ここまで来る時も、強い日差しを注ぐ太陽の下を歩いて来た。
正直、こんな暑い日に出掛けるのはしんどい。だけど、凛恋と一緒なら、そんなしんどさにも打ち勝ってどこにだって行ける。
凛恋が着替えるのを待っている間、俺は二階から一階に下りて、ダイニングのソファーにお母さんと一対一で向かい合って座る。
「凡人くん、本当に今回のことはどうお詫びをしたら……」
「お母さんに怪我は無くて、凛恋も優愛ちゃんも無事ならそれで良いですよ」
「でも、私の家――家だった場所との問題に巻き込んでしまった」
お母さんは視線を下に落とす。お母さんの言葉から、完全にお母さんの実家と決別する意思が見える。
親との決別。俺はそれを経験している。でも、俺とお母さんでは状況が大分違う。
俺は物心付く頃から親の愛情なんて受けていなかった。その状況で、突然現れた母親と決別したのだ。でも、お母さんには幼い頃から家を離れるまでの思い出があるはずだ。
その思い出は、きっとお母さんの心を悩ませ痛ませたはずだ。
その決断の重さは、俺には正確に分からない。だけど、辛かったことは想像出来る。
「凛恋が笑って居る今があるなら、俺は何があったとしても良いことだったと思います。結果的にそうなっただけとも言えますけど、俺は凛恋が笑顔で居てくれればそれで良いですから。だから、もう謝らないでください。そんな悲しそうな顔しているお母さんを凛恋が見たら心配します」
「ありがとう凡人くん。そうね、私も凡人くんを見習わないと」
お母さんが凛恋とよく似た優しい笑顔を浮かべる。
「今日は凛恋が凡人くんとデートだって言ってたけど」
「はい、水族館に行こうかと」
「良いわね」
「お昼は外で食べるので、俺と凛恋の分は大丈夫です」
「分かったわ」
お母さんと話をしていると、階段をバタバタと下りてくる音が聞こえ、ダイニングのドアが開いた。
「凡人お待たせ!」
ダイニングに入って来た凛恋は、シースルースカートとレギンスを合わせ、トップスにはタイトめの半袖シャツを着ている。
「凛恋……凄く可愛い」
「ホント!? やった!」
凛恋が嬉しそうに笑って隣に座る。さり気なく俺の手を握った凛恋は、ニコニコ可愛く笑ったまま俺の顔を横から見ている。
「凡人、行こ!」
「ああ」
「ママ、行ってくるね!」
「二人とも気を付けてね」
お母さんに見送られて、凛恋と一緒に家を出る。歩き出してすぐに、凛恋が腕を絡めて抱き付く。
「凛恋、暑い」
「私も暑いから大丈夫」
「何が大丈夫なのか分からないんだが」
「分かったわよ~」
腕から体を離し恋人繋ぎで手を繋いで、凛恋が嬉しそうに俺に顔を向ける。
「凡人とデート! 凡人とデート!」
「凛恋、テンション高いな」
「だって、世界一格好良い凡人とデートだよ? テンションが上がるに決まってるし!」
腕は抱かないものの、凛恋はピッタリ横に付いて鼻歌を歌っている。
久しぶりにのんびり凛恋と歩けている気がする。明るい日差しに照らされる凛恋の笑顔は、太陽に負けない明るさで、ついつい目を奪われてしまう。
凛恋には心配を掛けた。それに、凛恋は怖い思いもした。だから、今日は一日笑顔で居させたい。
本当はずっと凛恋を笑顔に居させなければいけない。凛恋に悲しい顔をさせちゃいけない。でも、俺の力不足で――。
「凡人、眉間にしわ寄ってるよ」
「えっ?」
横から凛恋に眉間をツンツンと突かれる。その凛恋は唇を尖らせながら呟いた。
「そういう顔してる時の凡人は、悪くないことで自分のこと責めてる時の凡人でしょ。何考えてるか知らないけど、絶対に凡人は悪くないから」
「ごめん凛恋。凛恋が笑顔だと良いなって思ってただけだ」
謝りながら答えると、凛恋はニコッと笑って俺を引っ張る。
「凡人が笑って私の隣に居てくれると、私は笑顔で居られるんだけどな~」
小悪魔っぽく微笑む凛恋に言われ、俺は笑顔を作ろうとする。しかし、その前に凛恋に頬を摘まれた。
「無理に笑ってもダメ。私達はそういう無理する関係じゃないでしょ?」
「そうだな。今日はせっかくの二人きりだしな」
「そーよ、家に凡人が居るのはチョー幸せだけど、結構優愛に凡人のこと取られてるしー」
「でも、凛恋ともちゃんと一緒に過ごしてるだろ?」
「まあ、結局毎日一緒に寝てるしね。凡人はまだ慣れないみたいだけど」
「凛恋と寝ると落ち着きはするけど、朝起きるとお母さんとお父さんを裏切ってる気がして罪悪感があるんだよ」
「いーのいーの。凡人はパパママ公認の私の彼氏なんだからさ」
ニーッと笑った凛恋は、グイグイと俺の手を引っ張り、駅前のパスターミナルへ足を進めていった。
駅前のバスターミナルからは、地域の主要な施設へのバスが何本か通っている。
その中の一本が水族館近くのバス停に停まる。今回は、そのバスを利用することにした。
通勤ラッシュを過ぎた時間だからか、バスの中は比較的空いている。
これが地下鉄とかだったらラッシュ時間を過ぎても人が多い。そういう人が多過ぎる場所は凛恋がダメだ。
俺も人が多いところは苦手だが、凛恋の場合は体調を崩したこともある。
電車内は痴漢も出る可能性がある。そういう奴の魔の手から凛恋を守るには、バスは結構便利だ。
二人掛けの座席に座り、窓際の席に凛恋を座らせ、俺は通路側に座る。これなら、凛恋の隣に居るのは俺だけになり、他の奴は凛恋に手出しが出来ない。
隣に座る凛恋は、窓の外に向けていた視線を俺に向けてニコッとはにかむ。
「凡人は水族館来たことある?」
「あー、小学生の頃の遠足であったかなー。でも、一人でクラゲ眺めてた記憶しかない」
「私も小学生の頃に行ったことあるよ。でもその時は、クラゲは見てなかったかも。ペンギンとかイルカとかの記憶はあるんだけど」
「クラゲは良いぞ。あのふわふわ動く様は、何も考えずにボーッと見てられる」
「じゃあ、一緒に見よ!」
凛恋と一緒に行くのだから、凛恋と一緒に見て回るのは当たり前なのだが、手を握られ見詰められながら改めて言われると嬉しいしドキドキする。
バスは橋を渡って川を越え、目的地の水族館に到着する。
水族館前と書かれたバス停で停車したバスから降りると、手を繋いでいる凛恋がジーッと俺を見る。
「……凡人」
「ん?」
「腕、組みたい……」
バスから降りて歩き出す他の乗客達を見送りながら、俺は隣でそう呟いた凛恋の顔を覗き込む。顔は怖がっている様子はない。だから、男性に対して不安を感じたわけではなさそうだ。
ただ、俺の顔をチラチラと探るように見ている。腕を組みたいというのは、凛恋が純粋にそうしたいという願望からの言葉のようだった。
腕を組むことは一度暑いと断っているが、凛恋が改めてせがむというのは結構珍しい。
凛恋は俺に何処かに行きたいとか何かをしたいとかせがむ時はままある。でも、俺が断れば「凡人が嫌なら無理させない」と言ってくれる。
その凛恋が俺が断ったことを改めてせがむというのは頻繁にあることじゃない。
「ひゃっ!」
俺は凛恋の体を左手で引き寄せて凛恋の頭を優しく右手で撫でる。
「さっきは断ってごめん。腕組んで歩くか」
「ううん。ありがとう、凡人」
凛恋は可愛らしくはにかんでゆっくりと俺の左腕に自分の右手を絡め、左手を添えて安定させる。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
くしゃっと笑って凛恋が俺の左の二の腕に頬を付ける。若干の歩きにくさは感じるが、その分凛恋の距離が近く感じられて幸せだった。
夏休みと言っても、世間は平日。その今日は水族館に向かう人の足も少なかった。
これが土日に来ていたら人の渦に巻き込まれてゆっくり展示されている魚達を見ることは出来なかったはずだ。
水族館の正面入り口の脇にある入場券売り場に行くと、中年くらいの女性がニコニコと営業スマイルを浮かべていた。
「高校生二枚お願いします。凛恋、学生証を出してくれ」
「うん」
俺は自分の学生証を出しながら凛恋にも学生証を出すように言う。
水族館の高校生の通常料金は大人と同じ区分になっていて案外高い。しかし学生証を提示できれば学生割引が利く。
「はい、高校生二枚で一六〇〇円になります」
「二〇〇〇円からお願いします」
凛恋が自分の財布から小銭を出そうとする前に、俺は二〇〇〇円を出して払う。そして、お釣りと入場券を受け取ると、横に立っていた凛恋が俺に頬を膨らませて睨み付けた。
「私の分は私が払うのに」
「二人で別々に払ってたら時間が掛かるだろ。ほら、行くぞ」
腕を組んだ凛恋を引っ張りながら、俺は入場券を館員に見せて中に入る。
館内は冷房が強めに設定されているのか少し肌寒かった。特に、汗を掻いている額はひんやりとする。
「凛恋、寒くないか?」
「うん、凡人とくっついてるから丁度良い! あっ!」
凛恋は俺の顔を見るとハッとした顔をしてバッグからハンドタオルを出し、俺の額に滲んだ汗を拭いてくれる。
「汗掻いたままだと風邪を引くわよ」
「ありがとう、凛恋」
若干恥ずかしかったが、周囲に居る見学客は誰も俺達の方を見ておらずホッと安心する。
入り口を入ってすぐの場所は淡水魚を展示している水槽があった。
展示のコンセプトとしては、周辺を流れる川に棲んでいる水棲生物の展示ということらしい。
一階のそれぞれの区画に個別のコンセプトで展示がされていて、ただ水槽が置かれているわけではなく、周辺地域のジオラマや展示生物の説明が書かれたプレートもある。
「凡人、ヒトデが居るよ! ヒトデって動くんだ!」
「本当だ。微妙に動いてるな~」
「なんか地味だね」
水槽に敷かれた砂の上をジワジワと横移動するヒトデを、二人で顔を並べて眺める。
「あ! あっちにはエビが居るって!」
子供のようにキャッキャッとはしゃぐ凛恋は、グイグイと俺の腕を引っ張って小さなエビが展示されている水槽の前に立ち、ガラスの向こう側でこっち側に向かって泳ぐエビを見る。
凛恋は泳いでくるエビの目の前に左手の人指し指を出して、ツンツンとガラスを軽く突いていた。
館内は奥まって行くに連れて強い明かりから、優しく淡い明かりに変わっていく。
凛恋は通路の両脇にある水槽を、俺を引っ張りながらあっちに行ったりこっちに行ったり忙しく動き回る。そして、目を丸くして驚いたりニコニコと笑ったりと表情もコロコロと忙しく変化する。
幸せだ。そう俺は思う。凄くシンプルで、自分でもなんて言葉足らずな表現だと思う。だけど、やっぱり幸せなのだ。ただ、凛恋の笑顔を見ているだけで。
凛恋の姿を見ていると、周りの音も景色も希薄していって、凛恋という存在だけに俺にある全ての感覚を集中させられる。
凛恋には人の感覚を独占する才能がある。それは凛恋の長所ではあるが、やっぱり良からぬ人間も惹き付けてしまいそうで危うい。
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