【七九《最高の大前提》】:一
【最高の大前提】
熊皮の帽子に赤い上着が特徴的なイギリスの近衛兵。ライフル銃の銃口を上に向けて構え、直立不動の体勢のまま警備を行う姿は有名だ。
俺はバッキンガム宮殿の見学に来て、噂に違わぬ直立不動さを見せ付ける近衛兵に視線を向ける。
バッキンガム宮殿は有名な観光スポットだからか、周囲には他にも観光客が宮殿の写真や、警備を行う近衛兵の写真を撮っている。
その近衛兵に三人の若い白人男性達が近付いて行く。
どうやら彼等も観光に来たようで、楽しそうに笑いながら近衛兵に手を振って声を掛け始めた。距離が少し遠いし、本場の英語はほとんど聞き取れないが、どうやら近衛兵をからかっているようだ。
「パパ、あの人達、兵隊さんに何言ってるの?」
「えっと……近衛兵をからかってるのは聞こえるな」
お父さんが困ったように優愛ちゃんの質問に答える。どうやら、父親が娘に話すのは躊躇われるようなことを言っているようだ。
からかう三人にも全く動じない近衛兵に、白人男性達は笑いながら顔の前で手を振って気を散らそうとする。しかし、それにも近衛兵は全く動じない。
何をしても反応を示さない近衛兵にしびれを切らしたのか、白人男性の一人が近衛兵の肩に手を置いて話し掛けようとした。
俺は思わず凛恋の前に出て後ろに庇う。
それは、白人男性が近衛兵の肩に手を置いた瞬間、直立不動で無反応だった近衛兵が、白人男性にライフル銃を向けて怒鳴り声を上げたのだ。
急に怒鳴られた白人男性達は仰天し、蜘蛛の子を散らすように走って逃げる。
周囲ではその状況を見て笑い声を上げる人が沢山居たが、すぐに俺は凛恋の方を振り向いて肩に手を置く。振り返った先に居る凛恋は、真っ青な顔をして体を震わせていた。
近衛兵の怒鳴り声はかなり大きく響いた。男性が苦手な凛恋にはかなり怖かったはずだ。
「凛恋、大丈夫か?」
「凡人……」
俺の腕を掴んでしがみつく凛恋を見て、俺はお父さんに視線を向ける。
「お父さん、凛恋をホテルに連れて帰ります。すみません、タクシーを拾ってホテルまで送ってもらえますか?」
「私も一緒に――」
「私は大丈夫……凡人も、居るから」
凛恋はそう言ってホテルに戻ることを拒むが、表情を見れば無理しているのが明らかだ。
「二人で大丈夫です。お父さんは優愛ちゃんとお母さんと居てください」
「分かった。凛恋のことは凡人くんに任せるのが一番だ」
お父さんがタクシーを拾ってくれて、俺は凛恋と一緒にタクシーに乗る。
ホテルの場所を凛恋のお父さんから聞いている運転手は、迷うことなく車を進めていく。
俺はその運転手から視線を外して隣の凛恋へ視線を向けた。
両手を膝の上に置いて唇を噛んで俯いている。体はプルプルと震えているが、それはさっきまでの恐怖による震えじゃない。凛恋は、悔しくて震えているのだ。
凛恋のことだから、自分のせいで俺のロンドン観光を台無しにしたとでも思っているのだろう。でも、俺にとって凛恋は何よりも優先される存在だ。
昨日、凛恋とロンドン・アイでも約束した。
ロンドンにはまた来れば良い。でも、凛恋に代わりは居ない。
「二人きりになれるな」
「凡人……」
凛恋の手を握り凛恋の方に近付いて座ると、凛恋の強張った表情が少し緩んだ。
タクシーでホテルに戻ると、エレベーターに乗って泊まっている部屋の前に行き、カードキーでドアのロックを外す。
凛恋を先に入れてドアを閉めると、凛恋が俺に真正面から抱き付いて涙を流してすがり付く。
「凡人っ……凡人っ……」
「凛恋、大丈夫。もうドアも閉めたし鍵も掛かってる。だから、俺達以外は誰も入れない」
「思い出しちゃった……忘れられてたのに……コンビニに来た男と池み――」
「凛恋は俺が守る!」
力いっぱい凛恋を抱きしめながら言うと、凛恋が優しく俺を抱き返してくれた。
「ありがとう、凡人」
「凛恋が淹れた紅茶が飲みたいな」
凛恋の頭を撫でながらねだると、凛恋はクスッと笑って俺を見上げる。
「凡人の頼みなら何杯だって淹れてあげる」
凛恋は俺と手を繋いで部屋の奥に行き、カップにティーバッグを入れてお湯を注ぐ。紅茶が出来るまでベッドに座ると、凛恋も隣に座って小さく息を吐く。
「そういえば、凛恋って小さい頃はどんな子供だったんだ?」
「小さい頃?」
「そうそう」
「う~ん、小学生の頃は大人しい子供だったかな。あまり友達も多い方じゃなかったし」
「やっぱり、その頃も可愛かったんだろうな」
今の凛恋を幼く小さくすると、とんでもない美少女小学生になる。
そうなると、大人しくて目立つような子じゃなくても、絶対にクラスで最低三人くらいは凛恋のことを好きな男子が居たはずだ。
「はい、凡人の分」
「ありがとう」
紅茶の入ったカップを凛恋が手渡してくれて、凛恋と一緒に紅茶を飲む。
「凡人はどんな小学生だった?」
「俺は、色々冷めてたな。栄次とは仲が良かったけど、他とは口も利いた記憶がないな」
「筑摩と出会ってたんでしょー?」
大分落ち着いたのか、凛恋がジトっとした目で俺を見る。
「いや、出会ってたのかもしれないけど、俺は全く知らなかったからな」
「凡人と修学旅行にも行ったって言ってた。しかも同じ班だって」
「でも、修学旅行も面倒くさかった記憶しかないしな。どこに行って何を見たかもよく覚えてないし」
思い返してみても、小学生時代の修学旅行の記憶なんて、どの引き出しを引き出しても出て来ない。そもそも、小学生時代のエピソードが全然思い付かない。
「凡人と私が小学生の頃に出会ってたらどうなってたのかな」
「俺と凛恋が小学生の頃に出会ってたら、か」
俺は小学生の頃は栄次としか話してなかったし、凛恋は小学生の頃は大人しかったらしい。そうなると、俺と凛恋が関わっていた可能性は低い。
「絶対に私が凡人のことを好きになって、それで凡人に勇気出して仲良くなって、それで絶対両想いになれてた。絶対にそう」
凛恋が言い聞かせるように、語気を強めて真っ直ぐ俺に言う。そして、カップに口を付けながら手をギュッと握り締める。
「小学生の頃に会ってても……凡人は私のこと……好きになってくれたかな?」
「好きになったに決まってる。いつ出会っても俺は凛恋を好きになって、凛恋と付き合ってた」
「そうだよね。ごめん」
「謝る必要なんて何もないだろ」
凛恋と紅茶を飲み終え、部屋に備え付いているテレビを点ける。
ニュース番組のようだが、キャスターが流暢な英語で喋っているから何を言っているか分からない。でも、無音の空間よりもマシだ。
凛恋は紅茶を飲み干したカップをテーブルに置き、俺の手を握ったまま呟く。
「凡人、ごめん」
「それは何についてのごめんだ?」
「バッキンガム宮殿の衛兵交替式……私のせいで見られなかった」
そう言って、凛恋はクシャッと顔を歪ませる。俺は凛恋の頭に手を置いて、ゆっくり頭を撫でる。
「大丈夫だって。またいつか来るんだから、その時に見れば良いだろ」
「そうだけど……」
「それに、俺も丁度良かったんだよ。間に休憩を挟めて」
凛恋が恐怖を感じたことは、絶対に良いことではない。それは凛恋にとっても俺にとっても。
でも、そのことで俺にとって何か良いことがあったと分かれば、凛恋の心を少しくらい軽く出来るかもしれない。それに、休憩が必要なのも決して嘘ではない。
凛恋とロンドンを観光するのはめちゃくちゃ楽しい。でも楽しいから、疲れが溜まっていることに気が付かないのだ。
いくら、凛恋と付き合い始めて、外を出歩くことに慣れたと言っても、異国の地という日頃とは違う環境に置かれていたら、いつもよりも疲れを感じてしまう。
それに、やっぱり彼女の両親と一緒というのは緊張するものだ。
凛恋も、凛恋のお父さんお母さんも、俺に気を遣わないで良いと言ってくれる。気を遣わないということは、相手を信頼しているということだ。
だから、お父さんお母さんも俺に気を遣わないでほしいのだと思う。でも、俺が凛恋のお父さんお母さんに向けている気遣いは丸っきり信頼していないからじゃない。
凛恋と出会うまで、俺は他人の評価なんてどうでも良かった。でも、凛恋を好きになって凛恋に好かれたくなったし、凛恋に嫌われたくなくなった。
そして、凛恋と一緒に居ることを認めてほしいと思い始めた。
特に、凛恋の両親には、凛恋と付き合うことを、凛恋の側に居ることを認めてほしかった。
その願いは今認めてもらえている。でも、それが永遠とは限らない。
凛恋は俺のことを好きになってくれるし、俺のことを嫌いにならない。もちろん、俺が凛恋の好きな俺で居られていればの話だ。でも、凛恋の両親に対して、凛恋に抱いているほどの信頼はない。
凛恋に対する信頼と凛恋の両親に対する信頼の差、それが凛恋の両親に気遣いが必要な理由だ。
凛恋の両親に嫌われてしまったら、凛恋と一緒に居られなくなる。
凛恋の両親に嫌われないためには、気を遣って失礼のないように振る舞う必要がある。それで多少なりとも俺は気疲れしている。
「だから、凛恋と一緒に休憩出来て良かった。やっぱり、凛恋と二人で居る時が一番落ち着くし」
「……私も、凡人と二人っきりの時が一番落ち着く」
凛恋と抱きしめ合って、ゆっくり唇を重ねる。俺と凛恋は互いに互いの体と心を引き寄せながら、互いを知り尽くした最適解の愛の伝え方を繰り返す。
俺は片手でテレビのリモコンを取り、テレビを消す。
「凡人は今日も凄く格好良かった。兵隊さんが銃を構えた時、凡人はすぐに私を守ってくれた」
「凛恋が世界で一番大切な人だからだ」
「凄く凄く格好良かった。やっぱり、凡人は私のナイト様ね」
凛恋が何度も丁寧に俺の頭を撫でてくれて、凛恋が撫でてくれる度に心の疲れが洗い流され、張っていた心が解かれていく。
火照った凛恋の肩に手を置いて撫でると、その手に凛恋が手を重ねて微笑む。
「パパ達が帰ってくるまで、ナイト様にはご褒美をあげないと」
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