【七九《最高の大前提》】:二
ベッドの上で寝転がり、天井のライトを見つめながら大きくあくびをする、
そろそろお昼時で腹も減ってきた。きっとお父さん達も衛兵交替式を見終わってホテルに戻って来る頃だ。
浴室の方からはシャワーから出たお湯が浴室の床と、凛恋の肌を打つ音が聞こえる。そう、凛恋は今シャワーを浴びている真っ最中だ。
胸がドキドキして落ち着かずに体を起こす。
どんなに凛恋との時間が積み重なっても、大好きな彼女がすぐ近くでシャワーを浴びているという状況に慣れることは出来ない。
凛恋の綺麗で滑らかな肌を滑るようにお湯が流れ落ち、凛恋の綺麗に染め上げられた黒髪が濡れて肌に張り付く。そんな様子を想像してしまい、顔から火が出るようなほど体が熱くなる。
「…………凛恋とシャワー入れば良か――いやいや! 二人でシャワー浴びてる時にお父さんから電話が来たら大変だろ!」
頭をブンブン横に振りながら、部屋に備え付けられた内線電話を見つめる。
海外でスマートフォンを使うのはかなり金が掛かる。だから、緊急時以外は使わないことになっている。そして、その代わりの連絡手段がホテルの内線だ。
絶対にお父さんは戻って来たら俺達の部屋に連絡してくる。
その時に二人共シャワーを浴びていたら、凛恋のお父さんを心配させる上にお父さんの信頼を地に落としてしまう。
「凡人ー」
「どっ、どうした!?」
急に凛恋の声が聞こえ、俺はビックリしてベッドから立ち上がりながら返事をする。その後、凛恋のクスクスと笑う声が聞こえた。
「凡人が全然覗きに来ないからどうしたのかなって思って」
「覗くかっ!」
「凡人ってやっぱしチョー真面目! そういう凡人には大サービス!」
浴室から出て来た凛恋は、真っ白いバスタオルを体に巻いていた。
…………むしろ、凛恋はバスタオルしか巻いていない。
「凡人はこういうの好きでしょ?」
「バッ、バカ! 服を着ろッ!」
「ちょっと! バカって酷くない!?」
バスタオル一枚の凛恋は、腰に手を当てて頬を膨らませる。だが、そんなことを言われても、今の凛恋の姿は目に毒……いや、毒なんかじゃなくて目に良過ぎるのだ。
「もー、凡人は何でこういう時に限って恥ずかしがるかなー、毎回」
「とにかく服を――」
腰に置いていた両腕を胸の前で組む凛恋から視線を逸らすと、丁度内線が鳴った。
俺は凛恋に服を着させるのを諦めて、受話器を取る。
「もしもし?」
『凡人くん?』
「はい」
凛恋のお父さんは凄く心配そうだ。まあ、お父さんが最後に見た凛恋は酷く怯えている状態の凛恋だった。
今はすっかり落ち着いて、いつも通りの明るく可愛い……いや、今は普通より大分挑発的な格好だが、元気を取り戻している。
「今、凛恋に代わりますね。凛恋、お父さんから」
「ありがとう」
凛恋は受話器を受け取ると、俺の方に体を向けたままお父さんと会話をしている。
俺はとりあえず、凛恋から目を逸らして窓の外に視線を向ける。
午後からはテムズ川のランチクルーズに行くことになっている。ランチクルーズは凛恋も優愛ちゃんも楽しみにしていた。
ランチクルーズのクルーザーは貸し切りらしく、俺達の五人しか乗らない。だから凛恋もゆっくりと昼食を取れるはずだ。
「凡人、パパが迎えに来てくれるって」
「そっか。じゃあ準備しないとな」
俺は視線を窓の外に戻して息を吐く。そして、さり気なく窓に映る凛恋の姿を見て、すぐに罪悪感から視線を逸した。
迎えに来てくれたお父さん達と合流し、ホテルを出てテムズ川のすぐ側にあるボート乗り場に行く。
そこには、真っ白いボディーをしたクルーザーが停泊していた。
お父さんが白人の男性と話をしている間、俺は隣に見える風景を見て微笑んだ。
視線の先には、凛恋の腕を抱いてキョロキョロと周囲を見渡す優愛ちゃんと、優愛ちゃんに腕を抱かれて困り笑顔を浮かべる凛恋が居る。
「大丈夫、変な男の人は居ない」
「優愛、もう大丈夫だって」
「ダメ! お姉ちゃんを怖がらせる奴は私が絶対に近付けない!」
ここまで来る途中、お母さんから俺達がホテルに戻った後のことを聞いた。
俺と凛恋を見送った後、優愛ちゃんは目に涙を浮かべながら、怒鳴り声を上げた近衛兵を日本語で怒鳴り付けたらしい。
相手は自分より遥かに大きい男性で、手には銃を持っている。しかも、直前にちょっかいを出してきた男性達に銃を向けながら怒鳴り追い払っている。
そんな相手に、優愛ちゃんは怒ったのだ。お姉ちゃんを泣かせるなんて許さないと。
大抵のことには動じない近衛兵も、泣きながら捲し立てるように日本語で怒鳴る優愛ちゃんには流石に戸惑ったようだ。
お父さんも優愛ちゃんをなだめながら、近衛兵に英語で事情を説明したようだが、結局、日本語が話せる近衛兵や職員が数人出てくる大騒ぎになったそうだ。
怒鳴り声を上げた近衛兵は全ての事情を理解すると、優愛ちゃん、お父さんお母さんに真摯に謝ってくれたようで、それで優愛ちゃんはやっと怒りの矛を収めたらしい。
そのエピソードは、本当に微笑ましかった、やっぱり二人は良い姉妹だということが本当に分かるエピソードだと思う。
凛恋はべったりくっ付く優愛ちゃんに、まだ困惑しながらも優しく優愛ちゃんの頭を撫でている。
凛恋だって、優愛ちゃんを守るために苦手な男との間に割って入った。
俺には兄弟姉妹は居ないが、これだけ仲が良くて、互いを大切にし合っている兄弟姉妹が居るだろうか? いや、俺は居ないと思う。
「凡人くん、優愛が凡人くんのこと褒めてたわよ」
「優愛ちゃんが、ですか?」
横に並んだお母さんが微笑ましそうな表情で凛恋と優愛ちゃんを見ながら話し出す。
「私は兵隊さんが怒鳴った瞬間は何も出来なかった。でも、凡人さんは真っ先にお姉ちゃんを庇ってた。やっぱり、凡人さんは凄いって。ありがとう、凡人くん」
「いえ、凛恋は絶対に守ります」
「でも、危ないことはしないで。凡人くんに何かあったら、みんな悲しむから」
「すみません」
少し釘を刺されるが、それでもお母さんは柔らかい笑顔を崩さなかった。
「優愛がまだ小学校に上がる前に、その時、優愛のことが気になってた保育園の男の子からイタズラをされて、それにビックリした優愛が泣いたことがあったの」
いわゆる、好きな女の子にちょっかいを出してしまう男の子、という男の子だったんだろう。俺にはそんな覚えはないが、そういう話はよく聞く。
「それで、優愛がワンワン泣くものだから、一緒に迎えに行ってた凛恋が怒っちゃって。優愛を泣かせた男の子を今度はこっちが泣かせちゃって」
「そんなことがあったんですか」
困った顔をするお母さんだったが、すぐに笑って口を開く。
「その時の凛恋は結構大人しい子で、人前で大声を出すような子じゃなかったわ。家ではよく話してたけど、他人だと人見知りをして話せなかった。そんな凛恋が、おままごとセットのプラスチックの包丁を持って怒鳴るの。優愛を泣かせたあんたは絶対に許さないって」
「やっぱり、昔から仲が良かったんですね」
「そうね。よく喧嘩もするけど、お風呂は毎日一緒で、凛恋が小学校高学年になるまでは一緒の部屋に寝てたわ」
「一緒に遊んでても、二人が仲が良いのは伝わってきます。まあ、時々喧嘩しますけど」
お母さんと二人でクスクスと笑いながら凛恋と優愛ちゃんの話をする。楽しかったし、凛恋の幼い頃の話を聞けて嬉しかった。
「あの小さな凛恋が、あんなに大きく育って、それに知らないうちに凄く大人になってた。月日が経つのは早いわ」
「凛恋の昔話、また聞かせて下さい」
「良いわよ。今度はお風呂から出られなくなった時の――」
「ママッ! なんてこと話そうとしてるのよっ! 凡人はこっち来るっ!」
俺達の会話に気付いた凛恋が、俺の腕を引っ張ってお母さんから遠ざける。そして、俺の正面に立つとビシッと俺に指さした。
「凡人、あの話は忘れなさい」
「凛恋がお風呂から出られなくなった話か?」
「ちょっ! もしかして全部聞いたの!?」
凛恋が真っ赤な顔をして俺に詰め寄る。一瞬、知っている振りをするというイタズラ心が芽生えたが、凛恋を騙すなんて良心が痛むことを避けて俺は正直に事実を話す。
「そんなことがあったってだけだよ。詳しい内容は聞いてない」
「よ、良かったぁ~。それ聞かれてたら、お嫁に行けないところだったわよ……」
「凛恋は俺がお嫁にもらうんだから心配しなくていいぞ」
「も、もう! そんなことで私の機嫌は簡単に直らないわよ!」
そう言いながら、凛恋は嬉しそうに笑って俺と手を繋ぐ。
「凛恋と優愛ちゃんは本当に仲が良いよな」
「ありがと。でも、さっきのはちょっと度が過ぎてるわよね。嬉しかったけど」
凛恋は、お母さんと笑顔で話す優愛ちゃんに視線を向けニッコリ微笑んだ。
「優愛ちゃん、バッキンガム宮殿の近衛兵を怒鳴り付けたらしいぞ。日本語で」
「えっ!? マジ!?」
「凛恋を怖がらせたのが本当に許せなかったんだろうな。それで、結局、近衛兵に謝らせたらしい」
「もー、なに危ないことしてるのよ優愛のやつ」
プクゥっと膨らむ凛恋の両頬を、横から指で突いて空気を抜く。
「凛恋だっておもちゃの包丁持って、優愛ちゃん泣かせた男の子を怒鳴ったんだろ?」
「ちょっと! ママからその話聞いたの!?」
さっきよりも顔を真っ赤に染めた凛恋は、目をまん丸と見開く。そして、ハァっとため息を吐いて唇を尖らせて不満げに声を出す。
「ホント、ママは何でも凡人に話しちゃうんだから~」
「俺は聞けて嬉しかったけどな。俺の知らない凛恋の話が聞けて。次は凛恋のアルバムを見ながらお母さんに色々聞いてみたいな」
「ちょっ! 絶対に嫌だし!」
「えー、良いだろ?」
「ダメよ。凡人は恥ずかしい話ばっかり聞くでしょ、絶対」
横からムニムニと頬を凛恋に突かれ、俺は視線を凛恋に向ける。その凛恋の表情は楽しそうに笑っていた。
俺と凛恋がじゃれ合っている間に、ランチクルーズの準備が終わり、俺達はクルーザーに乗り込んで用意された席に座る。
テーブルの上には、パプリカを使った前菜料理が並び、お父さんとお母さんはワインを乾杯していた。
「なんか、凄いセレブになった気分!」
「優愛、その発言が貧乏臭いわよ」
「えー、お兄ちゃん、優愛に味方して!」
「優愛ちゃんの言う通りだ。何か金持ちになった気分だな」
「凡人、金持ちって言うと優愛より貧乏臭いわよ」
「お兄ちゃん、流石に金持ちはないよ」
「味方したのに裏切られた……」
凛恋と優愛ちゃんがクスクス笑って料理を食べる。
「お姉ちゃん、凡人さんと並んでランチクルーズしてる気分はどう?」
「もちろん最高よ。こんな格好良い彼氏と一緒なんだから」
ニコッと笑って答える凛恋を見て、優愛ちゃんが嬉しそうに笑う。
テムズ川の上をゆっくりと進むクルーザーの上でランチを楽しみながら、凛恋が俺の顔を眺めてクスッと笑う。
「何だよ、凛恋」
「私の見る景色には、凡人が入ってないとダメだから」
「えっ?」
微笑む凛恋の言葉に戸惑って聞き返すと、凛恋は大人っぽく微笑した。
「凡人が居る。それが私の最高の大前提なのよ」
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