【七六《良い関係》】:一

【良い関係】


 どうして夏という時期は、人を外という世界に掻き立てるのだろう。

 どうして夏というだけで、人は外という世界に掻き立てられるのだろう。

 どうして、俺は夏休みの早朝から電車に揺られながら男の顔を眺めているんだろう。


「相変わらずカズは外出すると不機嫌だな」

「凡人くん、随分外出に慣れてるはずなのにね」


 目の前で仲睦まじく俺を見て微笑む栄次と希さんから視線を逸らすと、今度はニコニコ笑う萌夏さんが見えた。


「ほらほら、隣に彼女が居るんだからいちゃいちゃしていいよ」

「萌夏、凡人をからかわないの。連れ出して来るの大変だったんだから」


 隣で凛恋がニコニコ微笑みながら言うのを聞いて、俺は視線を自分の膝に落とした。

 夏休みの早朝、俺はいつも通り八戸家で使っている部屋のベッドの上で寝ていた。その俺を凛恋が揺り起こして言ったのだ。「凡人、川に遊びに行くよ」、と……。


 寝ぼけていた俺は何かの冗談だろうと思ったが、凛恋は俺の目の前に荷物の入ったバッグを持っていた。

 その中には、俺の水着や着替えも入っていた。そして、承諾をしていない俺の服をひん剥いて着替えさせた凛恋は、眠気の覚めていない俺を連れ立って外に出たのだ。


「なんか、寝ぼけてる多野くん可愛いね」

「里奈、凡人はあげないからね」

「取らない取らない」


 栄次達の座る座席の後ろから、顔を出した溝辺さんが微笑む。

 今日は、みんなで川に遊びに行く日になっていたらしい。そして、それを俺が知らなかったのは、栄次と希さんと凛恋の意見が合致したからだそうだ。


 事前に知ってたら俺が絶対に行かないと。


 俺だって凛恋に、可愛く甘えられて行きたいとせがまれたら、やぶさかではないという気持ちを押し隠し「仕方ないな」とでも言って付いてきたのだ、素直に誘われていれば。

 しかし、今回は完全なる騙し討ちで、早朝に起こされたことも相まって、なかなかの不機嫌さを滲み出している。


 今回の川遊びには凛恋と希さんのいつもの女友達と栄次と俺。

 なんで男二人かというと、それは凛恋の男性恐怖症をみんなが気遣ってくれてのことだ。

 場所が川なのも、海水浴場やプールのように、男が多い場所に凛恋を連れて行かないようにという配慮もある。


 まるっきり男から遠ざけるのは良くないのだが、海水浴場やプールはナンパ目的の良からぬ男が大勢居る。

 そういう場所に水着姿の凛恋を置いておくなんて、狼の群れのど真ん中に子羊を一頭放置するようなものだ。


 …………水着姿の凛恋?


 俺は視線を凛恋の持っているバッグに向ける。川に遊びに行くのだから、当然凛恋も水着を持ってきている。


 去年の水着は黒のフレアトップビキニだった。しかし、去年は凛恋のあの水着姿を他の男に見られているという苦しさから、最大限に凛恋の水着姿を堪能出来なかった。

 だがしかし、今年は人の少ない川。それなら、他の男の視線を気にする必要もない。

 栄次は居るが、栄次は希さん一筋だし、タオルで目隠しをしてやれば問題ない。


 凛恋の水着姿を想像したおかげで頭がスッキリと覚めた。


「ところでさー。来週からイギリスなんでしょー? 二人で」


 萌夏さんがニヤニヤしながら凛恋に話し掛ける。いつも通りの凛恋いじりが始まった。


「家族旅行に凡人も付いてくるだけよ」

「へぇーふぅーん」

「な、何よ」

「凡人くんと二人っきりが良かったんじゃないかな~って思って」

「べ、別に部屋は二人で一緒だけど、何もやま――……あっ」

「「「二人で一緒!?」」」


 俺はさり気なく視線を窓の外に向ける。のどかな田園風景が広がっていて、心が洗われるようだった。


「ちょっ、マジで? こら、もう言い逃れ出来ないんだから目を逸らさない!」


 墓穴を掘った凛恋は、萌夏さんの追及に顔を引きつらせる。しかし、自分で口走ったのだから仕方ない。


「喜川くんと多野くん席変わって。今から緊急女子会を開くから」


 俺と栄次は席を追いやられ、少し離れた空いた席に並んで座る。すると、横から栄次が俺に尋ねる。


「凛恋さんの両親がよく認めたな」

「まあ、お父さんは凛恋に弱いし、それに今回は凛恋が少し上手かった」

「上手かった?」

「ホテルの部屋、最初はお父さんお母さんでツインを一部屋。凛恋、優愛ちゃん、俺がシングル三部屋の予定だったらしい」

「まあ普通に見えるな」

「それを凛恋が、俺と凛恋でダブルにすれば宿泊費が安くなるって言ったんだよ」

「なるほど……えっ!? ダブルって」


 栄次は目をギョッとして俺を見る。どうやら、栄次はすぐに分かったらしい。

 俺はホテルに泊まる経験なんて全く無かったから、ホテルのシステムには詳しくない。せいぜい、スイートルームは高いくらいの知識だ。


 ホテルの部屋はスイートルームのように部屋のランク以外に、泊まる人数によっても種類が変わってくる。

 シングルが一人、ツインとダブルが二人になる。

 他にも、トリプルやクアッドもあるらしいが、重要なのはツインとダブルの違いだ。


 ツインとダブルは同じ二人用の客室だが、いくつかの違いがある。その違いで最も大きいのが、ダブルの方がツインより安いことだ。


 何故ツインよりダブルが安いかというと、単純に部屋面積がツインより狭いからだ。そして、何故ダブルがツインより部屋面積が狭いのか。

 それは、ツインがシングルベッド二台に対して、ダブルはダブルベッドが一台なのだ。だから、部屋面積を狭く出来る分、ツインよりも宿泊費が安くなる。


 それを持ち出した凛恋が娘の力に物を言わせて、お父さんを説得してしまったのだ。

 俺はお父さんを説得した後に凛恋からツインとダブルの違いを聞いてビックリした。だが、栄次はツインとダブルの違いを知っていたようだ。


「……ズルい」

「なんでその意見になるんだよ」

「俺だって希と旅行に行きたいし、ダブルの部屋に泊まりたい」

「それを俺に言われても困る」

「困れ」

「理不尽だな」


 俺は一言も今回の件に口を挟んでいないのだから、俺が栄次に不満を言われるいわれはない。でもまあ、俺も栄次が俺の立場だったら恨み節の一つでも言っただろうが。


「はぁ……」

「なんでため息なんだよ」

「希としたの、一週間も前なんだよ」

「あのな、そういう話は他――」

「カズは俺と希の親友だから良いんだよ」


 そう言って栄次は腕を組んで小さく息を吐く。どうやら、栄次も男としての悩みがあるようだ。


「希とは毎日会ってるんだけど、そういう雰囲気にならないんだよな。部屋に二人で居ても」

「それは栄次の問題だろ。ちゃんと良い雰囲気を作ってやれよ」

「カズはどうしてるんだよ」


 俺はそう言われてとっさに言葉が出ない。あれ? 俺って雰囲気作りなんて考えたことあったっけ?

 思い返してみても、雰囲気を作ろうと何かした覚えはない。自分から誘ったり凛恋から誘われたりするだけだ。


「栄次はさ、エッチする時はどう言ってるんだ?」

「どうって……手を握ってキスして行けそうだったら……」

「したいって言えばいいんじゃないか?」

「それが言えたら苦労しないだろ。もしかして、カズは毎回言ってるのか?」

「うーん……雰囲気でそのままって時もあるけど、言う方が多いな」


 凛恋に「エッチがしたい」と言うと、大抵はニヤッと笑って「いいよー」と言われる。しかし、凛恋の体調が優れない時は「今日は我慢して」とも言われる。

 それに俺と凛恋の立場が逆の時もある。まあ、俺の場合は断ることなんて無いが。


「栄次」

「なんだよ」

「お前、初めての時のこと、トラウマになってるだろ」


 俺がそう尋ねると、栄次は視線を逸して下を向いた。ズバリ当たったようだ。

 栄次と希さんは初めてエッチする時に、希さんが驚いて逃げてしまったことで互いに傷付き、そして互いに嫌われたと勘違いをしていた。

 勘違いの方は俺と凛恋で引き合わせて解消されたが、あの日のトラウマが栄次に残ってしまっていたらしい。


 自分から誘って断られるかもしれないという恐怖と、また希さんを傷付けるかもしれないという恐怖が栄次の中にあるんだろう。


「希さんは栄次が好きだから、よっぽどのことが無い限り断らないだろ。それに、栄次が誘って断るってことは、希さんが栄次に無理してないってことだろ。最初はめちゃくちゃ凹むけど、そのうちなれる。変に気負わずキスした後にでもエッチしたいって言えば良いんだよ」

「カズ……」


 栄次は真っ直ぐ俺を見て、フッと笑った。


「カズに相談して良かった」

「全く、栄次が恋愛のことを俺に相談するなんてな。逆だろ普通は」

「何言ってるんだよ。彼女の両親公認で海外旅行に行くくせに」

「棘があるな」

「付けたからな」


 ニッと笑う栄次は、凛恋の方を見て呟く。


「俺、来てよかったのかな」


 栄次は気にしてくれている。凛恋が男性恐怖症だから、男の自分が居ていいのかと。でも、その心配は必要ない。


 凛恋は栄次にも笑顔で話せるようになった。元々仲が良かったこともあり、他の男よりも恐怖心を抱かずに済んでいる。

 もちろん、栄次も含めて男と二人きりになるのは絶対に嫌だとは言っていたが。


「みんなで居る分には大丈夫らしいぞ」

「そっか。でも、カズのおかげで凄く笑うようになったな」

「俺のおかげじゃない」

「何言ってるんだよ。カズじゃなかったら、凛恋さんの笑顔は絶対に戻らなかった」


 栄次の言葉を聞きながら、俺も凛恋へ視線を向ける。

 希さん達と話す凛恋は楽しそうに笑っている。


「カズ、顔がニヤけてるぞ」

「見るな」


 隣で笑う栄次にそう言って、俺は凛恋の表情を眺め続けた。

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