【六六《秘めた想い》】:二

「それと、最初の話に戻るけど、凛恋さん……カズが居ないと不安なんじゃないか? 希の話だと、凛恋さんも海外は初めてらしいぞ」

「…………」

「初めての海外で周りは言葉が通じない人の方が多くて、それに外国人って体も大きいだろ、特に男の人は」

「…………」


 見知らぬ土地で、知っている人は家族三人だけ。どこに行っても言葉の通じない人ばかりで、自分よりも遥かに体の大きな男性外国人も居る。…………それは凄く怖いに決まってる。


「もう、断った話だ」


 そう言いながら、頭の中では、イギリスのロンドンにあるビッグベンの下で泣いて座り込んでいる凛恋の姿が浮かぶ。

 日本からイギリスのロンドンまで直線距離だと約九六一五キロメートル。飛行機で約一二時間。

 そんな遠い距離に居たら、凛恋に何かあった時、俺は凛恋を守れない。

 凛恋が悲しい思いや怖い思いをしても安心させてやれない。


「来週いっぱいまで待ってくれてるんだろ? じゃあ――」

「それにやっぱり、三〇万は払えない」

「お金は心配しなくて――でも、三〇万を気にするなって言うのが無理だよな」


 栄次もそこは同意してくれるのか、困ったような声を出して息を吐く。

 凛恋のことが心配だ。でも俺には金はない。

 爺ちゃんには夏期講習代も出してもらっているし、そもそも彼女と旅行に行きたいからと三〇万出してほしいなんて頼めるわけがない。


 でも……頭には凛恋の泣いている姿が焼き付いている。


「ん? 凛恋?」


 ポケットに入れたスマートフォンが震えて取り出すと、凛恋から電話が掛かってきていた。


「もしもし凛恋? 何かあったのか?」


 俺は手を付けていないベイクドチーズケーキを栄次の方に押して、伝票を手に取りながら立ち上がる。

 この時間に凛恋が電話してくるのは珍しい。ストーカー事件のことを思い出して不安になってしまったのかもしれない。


 そう思った俺だったが、電話の向こうから聞こえる凛恋の言葉は、俺が予想していたものとは全く違う言葉だった。


『今から、凡人の家に行っていい?』




 居間に座る俺は、隣に居る凛恋の手を握った。

 凛恋の隣には凛恋のお父さんも座っていて、黙って凛恋を見守っている。


 凛恋は体を小刻みに震わせて緊張しているようだった。いや……緊張もあるが、怖がっている。

 視線の先には、斜め前に座る俺と隣に座る婆ちゃんを、オロオロした様子で交互に見る爺ちゃんが居た。


「爺ちゃん、婆ちゃん、凛恋が二人に話したいことがあるらしい」


 俺は正面の二人に話を切り出した。

 栄次とファミレスで会ってる時、凛恋から電話があって家に来たいと言われた。

 それで凛恋の家に戻って事情を聞くと、凛恋が爺ちゃんと婆ちゃんに話したいことがあると言ったのだ。

 だが、俺はその話したいことが何なのか知らない。凛恋が自分で話すと聞かなかったからだ。


 震える凛恋の手を強く握ると、凛恋がしっかりと握り返してきた。


「あ、あの……お久し、ぶりです……」

「久しぶりだね、凛恋さん」


 凛恋から爺ちゃんにそう言葉を発した。

 俺はそれを聞いて、もう十分だと凛恋を止めたかった。

 男性に対して自分から声が掛けられただけで十分過ぎる。でも、凛恋はまだ頑張って言葉を続けようとする。


「あの……夜遅くに、すみません……」

「凛恋さんならいつでも歓迎するよ。それで? 話したいことというのは何かな?」


 爺ちゃんも恐る恐るといった感じで、凛恋を怖がらせないように気を遣っているのが分かる。でも、そもそも雰囲気が怖いから、言葉遣いを変えても爺ちゃんの場合は焼け石に水でしかない。


「夏休みに、家族でイギリスに行くんです。それに……凡人も一緒に来てほしいんです!」


 凛恋が爺ちゃんと婆ちゃんに話したいこと。

 それは、八戸家の家族旅行に俺を連れて行きたいという話だった。


「うちは! お父さんもお母さんも! 妹の優愛も! もちろん私も凡人に一緒に来てほしいって思ってます!」


 凛恋の言葉に爺ちゃんが困った顔をした後に俺へ視線を向ける。

 おそらく、爺ちゃんは今、俺に怒っている。「昨日話したことを話したら凛恋さんに嫌われるじゃないか」と。


 俺は爺ちゃんに八戸家の家族旅行に誘われたことを話した。そして、結論は八戸家に金銭的な面も含めて迷惑を掛けるわけにはいかないというもの。

 ……つまり、俺は八戸家の家族旅行には行かない。


 それを話せば凛恋をガッカリさせてしまい、せっかく自分から心を開いてくれた凛恋の、爺ちゃんに対する印象が悪くなる。とでも思っているのだろう。

 でも、凛恋はそんなことで人を嫌いになるような子じゃない。


「凛恋、昨日爺ちゃんにも話したんだ。迷惑を掛けるわけにはいかな――」

「迷惑なんかじゃない! 私は……凡人と一緒にずっと行きたかったの!」


 目に涙をいっぱい溜めた凛恋が、鞄をガサゴソと漁り、座卓の上に鞄から何かを取り出して置いた。


「これって……」

「私の通帳です。この中に、四〇万円あります!」


 俺も爺ちゃんも目が点になり、二人で通帳を見る。

 婆ちゃんは変わらず冷静な表情で凛恋を見ていた。


「それは、凛恋がアルバイトをして貯めたお金だったんです」


 そこで、ずっと黙っていた凛恋のお父さんが口を開いた。


「海外旅行の話は去年の一〇月からしていて、今年はまだ凛恋も二年で受験もありませんし、優愛は高校受験を終えた後、だから今年の夏が旅行に行くのは丁度良いかと思って」

「去年の一〇月? それは早いですな」

「爺ちゃん、夏休みの海外旅行はホテルの予約とか飛行機の予約とかが集中するから、早めに段取りを組んでないといけないらしいんだ」


 驚いた声を出す爺ちゃんに、栄次から聞いた話を説明する。

 それを聞いて凛恋のお父さんは小さく頷く。


「凡人くんの言う通り、予定は早く立てておいた方が良いんです。それで、凛恋が凡人くんも一緒に連れて行きたいと言いまして」


 凛恋のお父さんは、凛恋に困ったような、でも優しい視線を向けた。


「当初は私は反対したんです。それは、凡人くんを連れて行きたくなかったわけではなく、凡人くんが気を遣ってしまうだろうと思ったからです。やはり、彼女の両親と一緒にというのは、かなり気を遣って仕舞うでしょうし」


 アハハと笑う凛恋のお父さんが、膝の上で隠すように拳を握るのが見えた。


「でも、凛恋が聞かないもので。それで、年明けに私が承諾したんです。でも、その時に凛恋と凡人くんが喧嘩をしてしまって」


 俺はその言葉に視線を落として俯いた。

 俺と凛恋の喧嘩。凛恋のお父さんは表現を変えたが、俺と凛恋は一度別れている。


「凛恋は喧嘩のわけを教えてはくれませんでしたが、絶対に夏休みまで凡人くんと仲直りをするから、キャンセルはしないでほしいと頼まれました」


 胸にズキズキと痛みが走る。凛恋はずっと俺のことを想ってくれていた。


「凛恋は以前からお友達の家で時々アルバイトをしていたのですが、その貯金では凡人くんを連れて行くには足りないと、コンビニでアルバイトを始めました。もちろん、凡人くんの旅費を凛恋に稼がせるつもりは全くありませんでした。……ですが、自分で稼いで凡人くんとも仲直りして、それで笑って旅行に行きたいんだと言ってました……」


 凛恋のお父さんの震えた声に、俺は目が熱くなって涙が滲んだ。


「凛恋は毎日遅くまで頑張っていました。それで…………辛い思いをしていても、怖い思いをしていても、私達家族に悟られないように毎日頑張っていました」


 凛恋の手を強く握り、空いている手で自分の腿をつねった。

 凛恋は俺を旅行に連れていくためにアルバイトをしていた。

 それに、そのアルバイト先でストーカーに付きまとわれてもアルバイトを辞めなかった。それは俺と一緒に旅行に行くためだった。


 全然、知らなかった……。

 凛恋のそんな気持ちを、俺は全然分かってなかった。

 分からずに知らずに、ずっと俺は凛恋を避け続けてた。


「私は、そこまで凡人くんのことを想った凛恋の気持ちを無にしたくはありません。多野さん、凡人くん、どうかよろしくお願いします」

「頭を上げてください!」


 頭を下げた凛恋のお父さんに、俺は慌てて立ち上がり両肩を持って頭を上げさせる。


「八戸さんのお気持ちと凛恋さんのお気持ちは十分理解出来ました。凡人、八戸さんのお言葉に甘えなさい」

「爺ちゃん、でも……」

「旅費は心配しなくても良いと言って下さっている。それに、掛かる旅費以上に、凛恋さんの気持ちと八戸さんの気持ちを無下にすることは出来ん。凡人にも、そんなことはさせん」


 爺ちゃんの言う通り、掛かる費用以上に、凛恋と凛恋のお父さんの気持ちが大切だった。

 凛恋のお父さんにとって、俺は娘の彼氏だ。

 本来なら、娘に変なことをしないかと目を光らせる対象だ。でもそんな俺に、一緒に旅行に来てほしいと言って頭まで下げてくれた。


「凛恋のお父さん、一度断ってしまった話ですが、お言葉に甘えてもいいでしょうか?」

「もちろん、凡人くんなら大歓迎だ!」

「凡人……」

「ありがとう、凛恋。俺も一緒に行っていいか?」

「凡人……うん! 一緒に楽しもう!」


 凛恋が俺に抱き付いて来て、凛恋のお父さんは寂しいやら恥ずかしいやら、複雑そうな顔をしていた。


「あの、少し凛恋と二人で話しても良いですか?」

「大丈夫。私は多野さんと少しお話があるから」


 俺は凛恋のお父さんに了解をもらい、凛恋の手を引いて庭にある自分の部屋まで歩いて行く。

 そして、凛恋と一緒に入ってドアが閉まる音を聞きながら、俺は凛恋の唇を強引に奪った。

 凛恋と唇を重ねながらベッド上に倒れ込み、凛恋を強く抱き締めた。


「凛恋、ありがとう」

「凡人……」

「ずっと、俺のために頑張ってくれてたなんて知らなかった」

「……凡人のためだから、頑張れたよ」

「もう、頑張らせないから。凛恋が頑張らないといけないこと、全部俺が引き受けるから」


 凛恋と熱く深いキスをして息を荒くしながら、俺はグッと理性を振り絞って我慢する。


「明日……俺の家に、直行な」


 俺がそう言うと、下から凛恋がクスッと笑ってからかうような視線を俺に向ける。


「凡人、明日の放課後まで我慢出来るの?」


 その挑発的な言葉に何か返す前に、凛恋が俺の頬に軽くキスをした。


「私も明日まで我慢するね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る