【六四《温かな時間》】:二

 放課後、凛恋の家に行くと、玄関を入ってすぐに優愛ちゃんが玄関に駆けてきた。


「凡人さん! いらっしゃい!」

「こんにちは優愛ちゃん」

「お姉ちゃんもおかえり!」

「ただいま、優愛」

「ほらほら! 上がって上がって!」


 優愛ちゃんが凛恋の鞄を持って二階に上がって行く。それを見送る凛恋の目は、少し寂しそうだった。


「凡人、行こう」

「ああ、お邪魔します」


 階段を上って凛恋の部屋に行くと、そこには凛恋の鞄は置かれているものの優愛ちゃんは居なかった。


「優愛にね、気を遣わせちゃってるの」

「凛恋……」


 優愛ちゃんが置いてくれた鞄を撫でながら、凛恋がまた悲しい顔をする。


「私がお姉ちゃんなんだけどね。優愛、毎日私が寝るまで一緒に居てくれるの。凡人と仲直り出来て良かったねって一緒に喜んでくれるし、学校であった話を沢山してくれる」


 鞄から手を離した凛恋は、その手をダラリと下げて唇を噛んだ。


「情けないって思う。頭では分かるの。男の人だからってみんながみんな悪い人じゃないことくらい。でも……やっぱり、凡人以外の男の人は怖くて」


 凛恋は目を手の甲で拭って、床に崩れ落ちた。


「凛恋ッ!」


 とっさに肩を支えて一緒に床に座る。凛恋は俺に体を預けゆっくりと息を吐いた。


「凛恋は情けなくないッ! 凛恋は……凛恋はこんなに頑張ってるじゃないか! こんなに震えてるのに……怖がってるのに……凛恋は頑張ってる」


 学校で凛恋が怖がっているのは、痛いほどよく分かった。でも毎日学校に来て、凛恋は頑張ってる。


「凡人……泣かないで……」


 凛恋が手の親指で俺の涙を拭ってくれて、優しく頭を撫でてくれる。


「凛恋は頑張ってるのに……俺は何も凛恋のために出来てない……」

「凡人はずっと私を助けてくれた」


 凛恋は左手の薬指に填めた指輪を撫でながら、優しい声で言った。でも、すぐに不安そうな顔を俺に向けてくる。


「この指輪をずっと付けて寝てると、凡人と心が繋がっていられる気がして、別れた後もずっとずっとずっと、凡人のことを考えてた」


 視線は凛恋の左手薬指に集中する。


「…………気持ち悪いよね。凡人と別れてたのに」

「気持ち悪くない! 俺は凛恋に酷いことをしたから……捨てられてても――」

「捨てるなんて絶対にしないッ! これは……これは、私と凡人の愛の証だからっ!」

「ごめん……ありがとう、凛恋」


 自分の左手を抱く凛恋は、キュッと目を閉じる。その凛恋の背中を、俺は控え目に擦った。


「凡人も、ちゃんと持っててくれた」


 閉じた瞳をゆっくりと啓いた凛恋は、俺の左手を両手で握り嬉しそうに微笑む。凛恋の手の中にある俺の左手の薬指には、凛恋と一緒に作った指輪が填めてある。


 凛恋が捨てなかったように、俺だって捨てられなかった。でも、凛恋と違って、俺は凛恋と別れた日からずっと指輪を仕舞い込んでいた。

 指輪を見ると、どうしても凛恋のことを思い出してしまうからだ。でも、また付き合うことが出来た今、その時の俺の行いには罪悪感しかない。


「俺は……凛恋みたいに、指輪を付けてなかった……ごめん」

「凡人は私のこと、嫌いだった?」

「そんなことない! 好きだった。ずっと好きだった……だから、その好きな気持ちから逃げようと――」

「それなら嬉しい」


 俺の頭に凛恋が優しく手を置いて、ゆっくりと撫でてくれる。


「凡人が私のことを好きで居てくれたなら、私はそれでいい」

「凛恋……」

「ねえ凡人」

「ん?」

「私達、お互いに気を遣うの止めない? 凡人は私を傷付けないようにって凄く気を遣ってくれる。それは嬉しいけど……なんか、前よりも凡人が遠くなった気がするの。私も、凡人とまた付き合えるのが嬉しくて、でも、それ以上にまた凡人と別れるのが怖くて、凡人に嫌われないようにって気を遣い過ぎてた。だから、それを一緒に止めよ」

「凛恋の言う通りだ。俺も凛恋と距離が出来たみたいで寂しか――」


 凛恋の顔がスッと近付き、軽い音を立てて凛恋の唇が俺の唇を塞ぐ。しかし、すぐに凛恋の唇が離れる。そして、離れた凛恋は両頬を膨らませて俺を睨み付けた。


「ずっと思ってたけど、凡人のチュー変わった」

「は? えっ?」

「前まではすぐ舌入れてくれたのに、今はすぐに入れてくれない」

「いや、それは……」

「私のこと……前よりも嫌いにな――ンンっ! ……んっ」


 俺は凛恋の体を引き寄せて、凛恋が逃げられないように体をしっかりと抱く。でも、凛恋は逃げるどころか俺にしがみつき、俺のすぐ目の前で優しく目を閉じていた。




 甘い凛恋の香りに包まれて、凛恋の香りが強く香る布団にうつ伏せに寝転ぶ。その隣では、凛恋が仰向けで寝転がっていた。


「はぁ~、めっちゃ幸せ」


 息を吐きながら俺の方に体を向けた凛恋は、ニカッと笑う。その明るい笑顔を見て、俺は嬉しくなって顔を布団に埋めた。目頭は熱くなり、目に涙が滲むのが分かった。


「凡人!? どうしたの?」

「凛恋が、笑ってくれるのが嬉しかった」


 涙を必死に止めながら顔を向けると、凛恋がギュウっと体を抱き締めてニコニコと明るい笑顔を向ける。


「全部、凡人のおかげ! 凡人が前みたいに抱き締めてくれたから!」

「凛恋……ごめん。凛恋のこと信じてあげられなくて」

「だからそれは、私が悪いんだって! 凡人は……私のこと信じてくれてた。悪いのは私の方……」

「凛恋だって悪くないだろ」

「ううん、私……凡人のこと、試しちゃったから……」

「そりゃ知った時は凹んだけど、凛恋は動揺してたんだから」

「それでもダメなの! ……だって凡人のこと試したってことは、私が凡人のことを信じ切れなかったってことだし。凡人は私のこと信じて、あの偽の証拠だって壊したのに」


 モゾモゾと布団の中で動く凛恋は、俺の手を自分の腰に回させて俺の胸に頬を当てた。


「筑摩かあの可愛い外人の子に取られるかと思った」

「筑摩さんと外人の? ……ああ、ステラのことか」

「名前で呼んでるんだ」


 ジーッと俺の顔を見上げる凛恋に、俺は苦笑いを返す。


「ステラには告白されたけど断った。俺には好きな人が居たから」

「やっぱりあの子、凡人のこと好きだったんだ。チョー可愛かったから本当に焦ったし」

「俺は凛恋が一番だ。俺だって入江かあのバイト先の大学生と付き合うのかと思った」


 凛恋にそう言うと、眉をひそめて目を細めた。


「いや、あの二人はあり得ないし。バイト先の大学生、伊田さんって言うんだけど、伊田さんは見た目真面目そうなのに、あの人相当チャラいのよ。バイトに入る度にしつこく遊びに誘われたし、バイト先で話す話題も自分が女の子にモテるって自慢話ばっか。それに入江は前も言ったけど、全然これっぽっちも好きじゃない。私が好きなのは凡人だけ。…………凡人に話しておきたいことがあるの」


 急に凛恋はシュンとして、俺から離れようとする。しかし、俺はその凛恋の体を引き寄せて離れることを許さなかった。


「このまま聞く」


 俺がそう言うと、凛恋は小さく頷いた。


「あの日、私と凡人が別れた日、里奈があの偽の証拠のことを里奈の彼氏に話したらしいの。……それで、彼氏に私と凡人を別れさせた方がいいって言われたって」

「それは、本人が言ってたのか?」

「うん……希が問い詰めたら、そう言ったの」


 俺は凛恋の話に驚きはしなかった。

 俺も、溝辺さんの彼氏である有馬に全部、白状させていたからだ。でも、それを凛恋も知っていたとは思わなかった。


「希がね、私と里奈と、里奈の彼氏と入江くんが一緒に居るのを凡人が見たって里奈に言って、それでその時話してたことも怒りながら里奈に怒鳴ったの。それで、なんでこんな二人を別れさせるようなことしたのって聞いたら、彼氏に頼まれたって……」


 凛恋は体を震えさせて、俺はその震えを収めるために強く凛恋の体を抱き締める。


「入江くんがね、私のこと話してたんだって。八戸って前より可愛くなったよなって……それで、里奈の彼氏が、私は入江くんと付き合った方が良いから、私達を別れさせようって……」

「そっか……」


 凛恋の聞いた話が本当なら、ほぼ有馬の独断で行われている。

 それは前に考えた通り、過剰な仲間意識のせいだろう。でも、それが仲間意識とか男の友情だと言われても、俺にとっては迷惑な話でしかない。


「里奈……結構彼氏の言いなりっていうか、彼氏の言うこと何でも聞いちゃう感じだったから、それであんなことしたのかもしれない」

「仲直りしろよ」

「でも……」

「それをあえて話すってことは、凛恋は仲直りしたいんだろ? 悪いのは溝辺さんじゃなくて溝辺さんの彼氏だ。まあ……俺はそう単純に考えられないけど、凛恋は仲直りした方がいい。高校生の友達は一生の友達になるって聞くし、そういう友達は大切にした方がいい」


「……やっぱり凡人だ」

「え?」

「やっぱり凡人以外あり得ない。こんなに優しくて格好良くて……私のこと真剣に考えてくれるの、凡人以外に居ない」

「凛恋のことが好きなんだから、凛恋のことを真剣に考えて当たり前だ」

「…………明日、希と話して里奈と仲直りする」

「ああ、凛恋なら大丈夫だ」


 凛恋の頭を撫でると、凛恋はクシャッと笑って優しく俺の頬にキスをした。


「凡人、大好き!」

「俺も凛恋が大好きだ」


 凛恋とそうやって笑い合う時間が、とても幸せで温かだった。




「里奈が凹んでた」

「ごめん」

「ううん、でも希も萌夏も里奈に言ってたし。人の信頼って一度失ったらなかなか取り戻せないって」


 翌日の放課後、校舎を出ながら凛恋とそう話す。

 凛恋は今日、溝辺さんと仲直りをした。その仲直りの件は上手く行ったのだが、俺が溝辺さんから直接謝りたいという申し出を断ったのだ。


 大人げない。そう思われるのかもしれない。でも、自分で言うのもおかしいが、あの人に付けられた心の傷は深い。

 彼女の凛恋が仲直りをしたから、一緒に俺も仲直りをする。なんていう単純な話にはならなかった。


「凡人の気持ちは分かるから。私も、里奈が凡人に酷いことを言ったりやったりしたことは許してない。でも……ストーカー事件の時、里奈は私のことを凄く心配してくれたから」

「良かったな、仲直り出来て」

「うん、ありがと」


 そう話しながら凛恋と手を繋いで歩いていると、俺は耳に聞き覚えのある音を聞いた。その音に、俺は思わず足を止める。


「凡人?」

「序奏とロンド・カプリチオーソ……」


 響いてくる音色は、ステラと初めて会った夜の公園で聴いた音と全く同じものだった。

 つまり、今俺が聴いている序奏とロンド・カプリチオーソは、ステラが弾いているということになる。


「こらっ! どこの生徒だ!」


 校門から池水の怒鳴り声が聞こえる。その声が響いた後、俺の手を握る凛恋の手に力が入った。


「凛恋、一緒に来てくれ」

「う、うん」


 凛恋の手を握り返しながら、俺は凛恋にそう言って校門まで駆け出す。

 すると、校門のちょうど真ん中で、ヴァイオリンを構えたまま立つステラと、両腕を組んでいる池水が向かい合っているのが見えた。


「その制服、どこの生徒だ!」

「貴方のような野蛮な人間に用はない」

「何だとぉッ!」

「凛恋、ここで待ってろ。ステラッ!」


 凛恋を離れた場所に待たせて、池水がギリギリと握り締めた拳を振り上げる前に、俺は池水とステラの間に入る。


「多野ッ! またお前かッ!」

「ステラ、どうして刻雨に?」


 後ろで怒鳴る池水を無視してステラに話し掛けると、構えていたヴァイオリンを下ろしてステラが真顔で言う。


「凡人に会いに来た」

「それで? 何で校門の前でヴァイオリンを弾いてたんだよ」

「凡人なら、私のヴァイオリンの音を聴いて、来てくれると思った」

「俺は指笛で呼ばれる鳥か何かなのか……」

「多野くん!」


 ステラの言葉に小さくため息を吐いていると、横から露木先生の声が聞こえて、視線をその声の方向に向けると、露木先生が走ってくる姿が見えた。


「露木先生、お騒がせしてすみません。ステラが俺を訪ねてきたみたいで。すぐに一緒に帰りま――」

「「凡人ッ!」」「多野くんッ!」


 露木先生に事情を説明している途中、俺は横から頬に衝撃を受け、硬いアスファルトの上に倒れ込んだ。


「凡人ッ!? 大丈夫!?」


 駆け寄って来た凛恋が俺の肩を支える。それとほぼ同時に、ステラが俺の横にしゃがみ込んで俺の顔を覗き込んだ。

 そしてその直後、目の前で凛恋とステラが視線を合わせて睨み合った。


「この女たらし! 二度と八戸さんに手を出すなッ!」


 睨み合う二人の、一触即発の雰囲気を掻き消すように、正面から怒鳴り声が降ってくる。

 その怒鳴り声の方を見ると、両手の拳を握り締め憎しみに満ちた顔で俺を見下ろす男子生徒が立って居た。

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