【五九《窮追するもの》】:一

【窮追するもの】


 ステラが楽譜の並べられた棚の前に立ち振り返った。


「凡人の好きな曲を弾く。選んで」

「えっ?」


 放課後、ステラの家でステラがヴァイオリンを弾いてくれると言ってくれた。

 それでついてきて部屋に通された瞬間にそう言われる。


 ステラの部屋に置いてある、楽譜の収められた棚には、恐らく一〇〇〇部以上の楽譜が収められている。

 そしてそれらには背表紙に曲名が書いてあるが、正直、俺は曲名を見てもどんな曲か分からない。つまりさっぱりだ。


「凡人の元気がない。だから、私のヴァイオリンを聴いて元気になって」


 ステラが真っ直ぐ目を向けてそう言う。


「ありがとう。ステラ……」


 ステラが心配してくれて、俺を元気付けるために演奏してくれる。それが嬉しかった。


「凡人が好きな曲を何でも弾く」


 ステラに促され、俺は棚の楽譜を見る。

 細長い楽譜の背表紙には、一つ一つ曲名が書かれている。印刷された文字の物もあれば手書きの物もある。

 それに古く色褪せている物もあれば、新しく綺麗な物もあった。


「曲名を見ただけじゃ分からないな~」

「凡人の直感で選んで」

「じゃあ……これで!」


 適当に指で挟み楽譜を手に取る。その楽譜の背表紙を見て曲名を読み上げた。


「エチュード作品一〇第三番ホ長調。…………やっぱり曲名を見てもさっぱりどんな曲か分から――」

「それはダメ」

「えっ?」


 前に居たステラは、俺が持っている楽譜を取り上げて元の場所に戻す。


「ごめん、ステラの嫌いな曲だったのか?」

「そんなことはない。とても良い曲」

「じゃあ何でダメなんだ?」

「言いたくない。代わりにこれを弾く」


 今度はステラが代わりに楽譜を選んで手に取る。その楽譜には『美しきロスマリン』と書かれていて、作曲者はフリッツ・クライスラーという人だった。


「凡人はベッドに座って」

「ああ、そういえばこんな時間にヴァイオリンを弾いたら近所迷惑になるんじゃないのか?」


 今は放課後と言っても、もう日も落ちてかなり良い時間になっている。

 ステラのヴァイオリンが凄く良い音色を奏でると言っても、夜に大きな音を立てるのはご近所さん的にマズイような気がする。


「大丈夫。このマンションは防音されてるから」

「そっか、なら問題ないな」


 ステラの両親も音楽家で、ステラ自身もヴァイオリンを演奏する。だから防音がされていても不思議じゃない。

 俺がベッドに座ると、ステラがヴァイオリンを手に持って構える。


 ステラが演奏を始めた曲は、初めて聴く曲ではなかった。でも、聴いたことかあるというだけで、どこで聴いたのかは思い出せない。


 軽快なリズムから始まったその曲は、軽快なのに軽過ぎる印象は受けない。

 晴れの日の昼下がり、西洋の町を散策するステラ。そんな風景が頭に浮かぶ。

 演奏を終えたステラは、ゆっくりとヴァイオリンの構えを解く。そして、ヴァイオリンをケースに仕舞ったステラは、セーラー服姿で隣にちょこんと座る。


「ステラの演奏を聴くと凄く落ち着く。ありがとう」

「凡人」

「ん?」

「何かあった?」


 俺はその言葉に視線を下に俯かせる。

 さっきステラが、俺の元気がないことを心配してくれていた。

 だから、その理由を聞かれて当然だ。でも、ステラには話し辛い話だった。


 俺は田丸先輩に言われたとおり、最後の最後で凛恋を信じなかった。そして、その凛恋を信じなかった俺は、凛恋が俺を信じてくれなかったと逆ギレして凛恋を振った。

 露木先生が言っていたとおり、一方的に振ってもう話は終わりだと凛恋の言葉をまともに聞きもしなかった。


「付き合っていた彼女のこと?」

「え?」

「凡人が、初めて会った時と同じ顔をしているから」

「……俺は凛恋に、付き合ってた彼女に酷いことをしてしまった」


 もう認めるしかなかった。

 俺は間違っていた。俺が全て悪かったんだ。

 俺が凛恋を信じ切れなくて、凛恋を傷付けた。でも、凛恋だけじゃない。


 自分が悪いのにも関わらず、俺は全部周りの人のせいにした。

 栄次も希さんも切山さんも、信じてくれた人の信頼を裏切って拒絶した。

 逆ギレでもなんでもない、ただの八つ当たりだ。俺は友達に八つ当たりしたんだ。


「俺は……友達も傷付けた……大切にしないといけない友達に八つ当たりして……。全部、俺が悪かったんだ。凛恋が悪いとか、周りが悪いとか八つ当たりしてたことは全部俺の間違いだった」

「間違ったのならやり直せばいい」

「そんな簡単なものじゃないんだ。間違ったら――」

「私のヴァイオリンの先生がいつも言う。ミスをしたら、ミスをする前以上の演奏をすればいい、と」

「え?」


 ステラはヴァイオリンケースを撫でながら、視線をヴァイオリンケースに向けて言葉を続ける。


「私はその言葉の意味が分からなかった。楽譜には、メロディーにテンポ、音の強弱みたいに音楽の全てが書かれている。そう私は思っていた。だから、楽譜の通りに間違えずに弾くことが全てだと思っていた。でも、私はそうではないことを凡人に教えてもらった」


 ステラはまたヴァイオリンを取り出して、さっきと同じ曲を演奏する。でもさっきより曲のテンポはゆったりしていて、さっきより音色が強く大きく感じた。


「一度奏でた音は消えない。たとえそれが間違っていても。でも、曲は間違えた音で終わりじゃない。曲の終わりは終止線まで」


 ステラが演奏しながら話すのは初めてのことだった。そして、ステラの演奏する曲も、ステラの話も、終止線を迎える。


「凡人の曲は、まだ終わっていない」




 ステラが出場するインターナショナルミュージックコンクールの開催会場は、ステラが発表会をした音楽ホールだった。

 だが、この前は小ホールだったが、今回は大きなコンクールだからか一番大きな大ホールで行われる。


「多野くん、神之木さんにお礼言っておいて! まさか本戦とガラコンサートのチケットを両方ともくれるなんて!」

「先生の言うとおり、本戦出場者枠で何枚かチケットの融通が利いたみたいです。でも、いいんですか? この前、勘違いされて問題になったのに」

「会場内で一緒に居るくらいは大丈夫だよ。この前みたいに、外で二人っきりにならない限り」


 建物内に入ってすぐの場所で、嬉しそうにチケットの半券を持っている露木先生に視線を向けていると、横から服の袖を引っ張られた。


「ん? ステラ!? こんなところに居ていいのか?」

「凡人を探しに来た」


 ライトピンクのドレスを着たステラが、横から視線を真っ直ぐ向けている。

 ヴァイオリンの演奏の邪魔にならないようにか、肩口には無駄な装飾はない。

 それに、スカートも邪魔にならないためか丈は短い。シンプルなドレスだが、そのシンプルさが大人っぽさを感じて、更に腕や足の露出が多いからかなり色気がある。


「神之木さん、初めまして。私は多野くんの担任で、露木真弥と言います。今回はチケットを取ってくれてありがとう。コンクール頑張って!」

「いえ、凡人に頼まれただけなので……」


 ステラがスッと俺の後ろに隠れてそう答える。

 目上の人にちゃんと敬語を使いながらも、恥ずかしいのか俺の後ろに隠れている。その反応が可愛い。


「凡人、付いてきて」

「ああ」

「じゃあ、私は先に大ホールに行ってるね」


 露木先生が手を振って歩いて行くのを見送ると、ステラは俺の手を引っ張って歩き出す。

 建物の入り口付近は、観覧客でごった返していて、このコンクールの規模の大きさが分かった。


 ステラは人混みから外れて『関係者以外立ち入り禁止』という張り紙がされた看板の横を通り過ぎて行く。


「ス、ステラ? 俺って入って良かったのか?」

「凡人は私の関係者。だから問題ない」


 それは関係者違いだ。と言いたいが、まあ誰も見ていないし咎められたら出ればいい。

 ステラは通路をどんどん進み、通路の突き当たりにたどり着く。

 突き当たりで振り返ったステラは、俺の両目を見据える。


「凡人、私は今日のコンクールも凡人のために弾く。でも、凡人は今日のコンクールを凡人のために聴いて」


 プロの音楽家でも予選で落ちるコンクールの本戦に出るのだ、いくらステラでも緊張するに決まっている。

 でも、そのコンクールの直前までステラは俺のことを心配してくれた。


「ステラ……ありがとう」

「でもきっと、今日の演奏を聴いたら、凡人は私を嫌いになる」


 ステラは視線を下に落として、両手を握る。しかし、ステラは顔を上げた。


「私は凡人に大切なものを貰った。だから、凡人にも大切なことを伝えないといけない。でも、私にはヴァイオリンしかない。だから、私はヴァイオリンで伝える。だから約束して、私から絶対に目を逸らさないで」

「あ、ああ」


 ステラは圧倒的な雰囲気を持ってして、俺に有無を言わせない言葉を発した。

 俺の返答を聞いたステラはゆっくりと頷く。


「約束した。絶対に忘れないで」

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