【五六《理屈では説明出来ないこと》】:一

【理屈では説明出来ないこと】


 昨日と同じ時間に公園へ行くと、ベンチにセーラー服姿のステラが座っていた。

 公園の出入り口の方を見ていたステラは、俺と目が合うと立ち上がって出入り口の方に走ってくる。

 俺の前に駆け寄って来たステラは、俺の後ろを見た後に俺に視線を戻した。


「ステラ、こんばんは」

「凡人、こんばんは」


 挨拶をして俺が公園の中へ歩き出すと、ステラも横に並んで一緒に歩き出す。

 二人でベンチに腰掛けると、ステラが俺を見て口を開いた。


「凡人、昨日のチーズタルト、美味しかった」

「そっか、良かった」

「だから、今日はそのお礼に凡人のためにヴァイオリンを弾く」


 演奏を聴かせてもらっているお礼で上げたチーズタルトのお礼に演奏を聴かせてもらう。

 その状況に可笑しさがこみ上げて思わず笑ってしまう。


「でも、その前に聞きたいことがある」

「聞きたいこと?」


 笑っている俺にステラがいつも通りの無表情を向けて言う。


「昨日の女は誰?」


 ステラの言葉は、演奏会に来ていた露木先生のことを尋ねる時と同じ言葉だった。でも、あの時よりも語調が強い。

 いや、冷たかった。


 俺は、ステラに凛恋のことを尋ねられて、俺と凛恋の関係をどう言おうか迷った。

 学校のクラスメイト。それが一番簡単で分かり易い関係だった。でも、俺は敢えて別の言い方をした。


「前に付き合ってた人」


 その言葉を言って、俺は何故この言い方をしたのだろうと自分に問う。でも、その答えは自分でも出なかった。


 俺の言葉を聞いたステラは、スッと表情から温度を消した。

 元々、喜怒哀楽が分かりづらいステラだが、それでも今のステラの感情が喜と哀と楽ではないのは分かった。


「凡人を傷付けた人?」

「ああ」


 最初に問われたことは迷ったのに、二回目の問いには迷わなかった。でも、その自分の言葉で自分の心に細長い切り傷が付くのを感じた。


「何故、凡人は凡人を傷付けた人と一緒に居たの?」

「ステラに差し入れを買おうと思って入ったコンビニが、凛恋のアルバイト先だったんだ」

「そう。あの人の名前は凛恋というの」


 ステラは立ち上がり、ヴァイオリンケースからヴァイオリンと弓を取り出して構える。そして、俺に視線を向けたまま演奏を始めた。


 決して掻き乱すような激しい曲じゃない。でも、かといって大人しい曲でもない。

 冷静さのある激しさ、情熱的な落ち着き、そんな相反するものが並列して組み上がっているような印象を受ける。


 ステラの右手と左手の動きが、完璧なタイミングでその曲を組み立てている。

 それは序奏とロンド・カプリチオーソも、チャールダーシュも、そしてクワジ・プレストも同じだ。

 でも、今演奏している曲は、それが如実に表れているように見えた。


 随分長い間演奏されていた曲が終わりを迎えると、ステラがゆっくりとヴァイオリンの構えを解く。

 それでも、俺に向けた視線は逸らさない。


「凡人はスマートフォンを持っている?」

「え? ああ、持ってるけど」


 演奏が終わって開口一番に、ステラが言ったその言葉に戸惑う。演奏と全く関係ない上に、演奏前の会話とも全く関係ない。


「凡人の電話番号を教えてほしい」

「俺の? 良いけど、いきなりどうしたんだ?」


 ステラはヴァイオリンケースにヴァイオリンと弓を仕舞い、鞄から自分のスマートフォンを取り出して両手に持つ。

 両手でスマートフォンを握っているステラは、ジッと俺に視線を向けている。


「これが俺の番号」


 俺がポケットからスマートフォンを取り出し、画面に自分の電話番号を表示させる。

 スマートフォンの画面をステラに向けると、ステラは自分のスマートフォンと俺のスマートフォンを交互に見ながら電話番号を入力する。


 ステラがスマートフォンをタッチしていた指を止めると、俺のスマートフォンが震え、画面に知らない番号が表示される。俺

 が画面をタッチして電話を受けてスマートフォンを耳に当てると、正面に居るステラもスマートフォンを耳に当てた。


「もしもし?」

『「凡人、私」』


 スマートフォンのスピーカーと視線の先から、ステラの声が聞こえる。


『「凡人、私」』

「うん、目の前に居るから分かってるけど、どうしていきなり番号を聞いたんだ?」

『「知りたかったから」』

「まあ、そうだろうな」


 隣同士に座っているのに電話をしているのも不自然だ。しかし、真面目な顔をして電話しているステラがなんだか可愛く見えて、もう少し電話を続けてみることにした。


「さっきの曲はなんて曲だったんだ?」

『「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、パルティータ第二番ニ短調BWV一〇〇四、第五曲シャコンヌ」』

「…………え、えっと、なんだって?」

『「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、パルティータ第二番ニ短調BWV一〇〇四、第五曲シャコンヌ」』

「よく、そんな長い曲名がスラスラと出てくるな」


 バッハという作曲家は聞いたことがある。でも、その他は全く分からない。でも、ステラの演奏が凄く良かったのは、曲名が分からない俺でも分かった。


『「凡人が曲名を覚えられるまで、何度も弾く」』

「ありがとう。でも、ステラの演奏をタダで聴かせてもらってると悪い気がするな」

『「悪くない。私は凡人のために弾いた」』

「そっか。うん、ありがとう、ステラ」


 ステラの真っ直ぐな言葉を聞くと、やっぱり気恥ずかしい。でも、そういう真っ直ぐな、偽りが見えないステラの言葉は嬉しい。


 人は偽る。でもステラは偽らない。だから、ステラと話していても安心感がある。

 ステラは偽らないから疑わなくて良い。俺が見ているステラは全て真実だから、だから俺は安心して話が出来る。

 そんなステラは、周りを信じない俺にとって貴重な存在だった。




 家へ帰るステラと別れて俺は自分の家に帰る。

 今日も、怒鳴られないギリギリの時間に帰り着くと、玄関を開けてすぐ廊下を歩いていた田丸先輩と出くわした。


「あ、お帰り凡人くん」

「ただいまです」

「喜川くんと赤城さんが来てて、結構前に来たんだけど待たせてほしいって言われて。今は凡人くんの部屋で待ってる」

「……そうですか、ありがとうございます」


 今更何の話だ。

 そう思ったが、追い返す理由もないし、そういう気も起きなかった。


 庭にある俺の部屋に行くと、並んで座っている二人の後ろ姿が見えた。そして、俺が部屋に足を踏み入れると栄次が振り返った。


「カズ」

「なんだ?」

「何してんだよ!」

「は?」

「凛恋さんのことを放って何してんだよって言ってんだよッ!」


 胸倉を掴んで怒鳴る栄次の横から、希さんが栄次の腕を掴む。そして、黙って首を横に振った。

 それを見て、栄次は突き飛ばすように俺から手を離す。


「凡人くん、お願い。私達の話を聞いてほしい」

「とりあえず、座らせてくれ」


 俺はベッド側に行って床に座り、出入り口側で座る二人を見る。


「希さん、足を崩して座ってくれ」

「ううん、このままでいいから」


 栄次は床にあぐらを掻いている。しかし、希さんは正座をしている。

 俺が部屋に入った時も二人は同じ姿勢だった。ということは、いつからか分からないが、希さんはずっと正座をしていたということになる。


「足を崩さないと話は聞かない」


 俺が引き下がらずにそう言うと、希さんは右手の手の甲でゴシゴシと目を擦った後、コクリと頷いて足を崩した。


「それで? 話っていうのは?」

「私達とはいいから、凛恋と仲直りをしてほしい。凛恋は凡人くんのことを疑ってしまったことを本当に後悔して反省してる。だから、凛恋のことはもう許してほしい」

「希さん。希さんは溝辺さんが、凛恋のことで責任を感じてるって言ってたよな?」

「うん、本当に悪いことをしてしまったって言っ――」

「あの後、ファストフードの店で、溝辺さんと溝辺さんの彼氏、それと凛恋が好きだった入江と凛恋が四人で飯を食べてた」

「えっ…………」

「それで笑いながら話してたよ。俺と凛恋は別れて正解だった。俺は凛恋に釣り合わない。凛恋は入江みたいなイケメンと付き合うべきだって」

「それは何かの間違いじゃ――」

「この目で見てこの耳で聞いた」


 俺の答えを聞いて、希さんは両手の拳を握って唇を噛んだ。


「他人の言葉なんて信じられないだろ? それが答えだ」

「凛恋のことは信じて――」

「凛恋は俺のことを信じなかった。もうこの話は終わったはずだ」

「今、凛恋さんにはカズが必要なんだよッ!」


 希さんの横で話を聞いていた栄次が、また声を荒らげる。


「俺が必要な時、味方してほしい時に、凛恋は俺の味方じゃなかった」

「カズッ! 凛恋さんは今――」

「栄次ッ!」


 栄次が何か言い掛けると、希さんの短く大きな声で言葉を止められる。そして、栄次は自分の拳で膝を叩いた。


「カズは、凛恋さんのことが好きじゃないのかよ…………あんなに、あんなに凛恋さんのこと大切にしてただろ……。たった一度疑われただけで」

「たった一度?」


 栄次の言葉にカチンと来て、俺は栄次を睨み返す。


「栄次のバカ……」


 栄次の隣で、希さんがそう呟くのが聞こえる。しかし、俺の怒りは収まらない。


 何がたった一度だ。


 何がたった一度疑われただけでだ。


 一度だろうが二度だろうが、そんなの関係ない。俺は一番信頼してほしい人に疑われて裏切られた。

 その辛さにたった一度も二度もない。


「帰れ。二度と来るな」


 俺は衝動的にその言葉を吐く。


「凡人くん……凛恋と――」

「帰ってくれ。もう二度と凛恋の話はしないでくれ。迷惑だ」

「…………夜遅くにごめんね」


 希さんが立ち上がり、入り口の方に歩いて行く。


「のぞ――ッ!?」


 歩いて部屋を出て行こうとする希さんの手を栄次が掴む。しかし、その希さんの手を掴んだ栄次はそれ以上言葉を続けられなかった。


「栄次は何も分かってないッ! 凡人くんは凛恋のことを本当に信頼してたの! その凛恋に疑われた凡人くんは凄く傷付いたの! それをたった一度疑われただけなんて! ……なんで凡人くんの気持ちを分かってあげないの!? 今日だって、私達は凡人くんにお願いしに来たんだよ? 傷付いてる凡人くんから凛恋に歩み寄ってほしいってお願いしに来たの! それを――」

「帰ってくれって言っただろ。俺の部屋で痴話喧嘩しないでくれ」

「…………ごめん。じゃあ、また学校で」


 希さんが頭を下げて部屋を出て行く。

 それを見送り、俺は立ち上がって風呂に入る準備をする。その途中、ポケットからスマートフォンを出した時、ステラとの電話を思い出す。


「…………流石に、さっき会ったばかりだしな」


 ステラに電話を掛けようとして止める。そして、テーブルの上にスマートフォンを伏せて置いた。




 次の日、朝から寝起きが最悪だった。体は怠いし吐き気がする。

 こんな寝起き…………凛恋と別れた後の数日以来だ。


 学校で、小鳥、筑摩さん、希さん、それから凛恋に挨拶をされても、それに挨拶を返す余裕もなかった。


 授業は何とか受けたものの、休み時間は全て机に突っ伏して目を瞑っていた。

 そうしないと、体が保つ気がしなかった。


 やっと午前中の授業を乗り切り、やっと昼休みになった。でも昼休みになっても体調が良くなる気配はなく。

 昼飯のパンを買う気力もなく、俺はずっと机に突っ伏し続けた。


「多野凡人、居るか?」


 目を瞑って体と心を休めていた俺の耳にその言葉が聞こえて、のそっと俺は顔を上げる。

 出入り口の向こう側から見覚えのある男子がこちらを見ていた。あの男子は、溝辺さんの彼氏だ。


 出入り口のサッシに手を突いて、苛立った様子をしている溝辺さんの彼氏は上履きの裏で床を鳴らす。

 今、教室内には俺以外に、小鳥、筑摩さん、それから凛恋と希さん、そしてその他数名のクラスの奴等が居る。いつもより教室に居る人数は多い。


「有馬(ありま)くん。今日、凡人くんは体調が悪いみたいなの。だから、そっとしといてあげて」

「筑摩は首を挟まないでくれ。おい、多野! 女に守られてないでさっさと出て来い」


 言い方を聞けば、穏やかな話じゃないのは分かる。でも、そのことよりも自分の体調が最悪な方が問題だ。

 無視していても帰る気配はない。だから、俺はゆっくりと立ち上がって教室の出入り口まで歩く。


「付いて来い」

「ここでいいだろ」

「付いて来いって――」

「人前で話せないようなことを話すのか?」


 雰囲気で良くない話をされるのは分かってる。

 そんな話をここで出来るわけがないのも分かっている。


 溝辺さんの彼氏の有馬は、無言で背を向けて歩き出す。

 このまま俺も無言で自分の席に戻ってもいいのだが、それだとまた面倒事が大きくなるに決まっている。


 正直、歩くのもしんどいし、話を聞くのも億劫だ。でもついて行って話を聞いてやらないと、有馬は諦めない。


「有馬くん、話は里奈のことでしょ。その話、凡人には関係ない。話は私が聞くから」

「私も里奈ちゃんのことには関係あるから話を聞く。でも凛恋の言う通り凡人くんは関係ない」


 俺の後ろから凛恋と希さんが前へ出て、有馬の背中にそう言う。また人が増えて揉め事が大きくなる気配が見える。


「二人が来ると話が長くなる。教室に戻ってくれ」


 揉め事が大きくなって話が長くなれば、それだけ俺が体を休める時間がなくなってしまう。

 凛恋と希さんの登場で少し顔に焦りを滲ませていた有馬は、俺の提案に笑顔を浮かべて凛恋と希さんに視線を向ける。


「多野もこう言ってる。だから二人で話させてくれ」


 そう言って歩き出す有馬の背中を見て、俺も再び歩みを始める。


「凡人……」


 凛恋の声が後ろから聞こえたが、それを無視して俺は有馬の後を歩いて行く。

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