【三八《転換の予兆》】:四

 凛恋がそれらしく見せるように、上品な動作で置かれたオムライスを見ると『カズト、ダイスキ』と書かれていた。もちろん。最後にはハートマークのおまけ付きだ。


「凡人、メイド喫茶で出したオムライスのメッセージは、全部男子が書いてたのよ」

「えっ!?」

「凡人以外に商売でも大好きなんて書きたくないって駄々こねて、男子にやってもらったの。だから、私がメッセージ書いたオムライスはこれだけ」

「凛恋……」

「希から聞いてめっちゃごめんって思った。でも忙しくてちゃんと言う時間無かったから、だから……」


 ゆっくり近付いた凛恋の唇が、そっと俺の唇に触れる。凛恋の唇は俺の上唇を挟んだあと少し離し、より強く今度は下唇を挟む。

 それから啄むような軽いキスの連続があり、どちらからともなく互いを引き寄せて舌が絡むキスをする。


「ぷはぁ……ヤバい、学校でチューするとめっちゃドキドキする」

「俺も、凄くドキドキする」

「凡人はやっぱりキス上手過ぎ。凡人とキスしただけで疲れが吹っ飛んだし」


 抱き合っていた凛恋が手を解き、その手を俺の腕に回してギュッと抱き締める。


「ありがとう凛恋。メイド服も着させてオムライスまで作ってくれて」

「オムライスもメイド服も凡人のためだから。午後はTシャツと短パンに戻るけど」

「でも、Tシャツでもなあ……」


 俺は凛恋の胸元に視線を落とす。形までは分からないものの、Tシャツだと胸の膨らみがよく分かる。それが他の男に――。

「いてッ!」

「胸ばっかりジーッと見て、凡人のエッチ~」


 ニヤッと笑う凛恋は、デコピンをした後に優しく俺の頭を撫でる。

「私は調理係だから接客しないわよ」

「そ、そっか。はぁ~」


 それを聞いて思わず安心して息が漏れる。

 俺が心配していた何もかもが杞憂だったことを知って脱力もしたが、やっぱり安心したのが一番大きかった。


「でも、ちゃんと言わなかった私も悪かった。ごめんね、凡人」

「凛恋が謝ることじゃないだろ。俺が勝手に思ってただけだし」

「ううん。私だって、凡人が作って誰が食べるか分からないオムライスに、大好きとかメッセージが書いてあったら嫌だし。凡人の大好きを他の人に取られた気持ちになるから」


 凛恋が撫でていた俺の頭から手を離し、俺の腕を引き寄せる。


「さっ、冷めないうちに食べて食べて! あっ!」

「ん?」


 オムライスを勧めていた凛恋が、ハッとした表情をしてスプーンを手に取る。そして、丁寧にスプーンでオムライスを一口大に切ってすくう。


「はい、ご主人様。あ~ん」

「……り、凛恋?」


 辺りを見渡した後、手を添えてオムライスの載ったスプーンを持ち上げている凛恋を見る。

 鍵はさっき凛恋が閉めたから外から誰か入ってくることはない。だが、学校の中であーんをするのは凛恋としては恥ずかしくないのだろうか?


「凛恋、無理しなくていいぞ?」

「無理じゃないし! ……凡人とラブラブしたいの!」

「――フグッ!」


 口に勢いよくスプーンを突っ込まれ、俺はスプーンからオムライスを口で抜き取って噛み砕く。

 凛恋のオムライスは中身がチキンライスになっている。

 オムライスなんて凛恋が作ってくれるまで食べたことが無かったから、初めて食べた時は本当に感動した。

 凛恋はそれから、ちょくちょく俺にこのオムライスを作ってくれる。


「やっぱり、凛恋のオムライスは最高だ。あ~、他の男に食べさせたくなかった……」


 メッセージは男子製だったとしても、オムライス自体は正真正銘凛恋の手作りだ。だから、凛恋の手料理が色んな男に振る舞われたのは間違いない。それは、やっぱり悔しい。


 俺が思わず嘆きを漏らすと、凛恋はスプーンを持ったままクスクス笑う。そして、斜め下から俺の顔を見上げてジーッと俺の目を見る。その凛恋の行動に首を傾げると、凛恋はニヤッと笑った。


「凡人以外に作ったオムライスなんて適当よ。中身はただのケチャップライス。それに、凡人に作った本気オムライスなんてそんなに手早く作れないし」

「じゃあ……」

「言い方は悪いけど、メイド喫茶で出したのは手抜きオムライスよ」

「凛恋、大好きだ」

「ありがと!」


 凛恋の体を引き寄せて肩を抱く。凛恋の本当の手料理を食べられているのが俺だけで良かった。


「凡人って結構独占欲強いよね」

「えっ? ご、ごめん」


 凛恋の『独占欲』という言葉に、俺はサッと血の気が引いてすぐに謝る。

 独占欲が強いと、相手はそれを窮屈だと感じたり重いと感じたりすると聞いたことがある。ということは、俺は凛恋に窮屈だとか重いと感じさせてしまったということになる。

 そういう嫌な思いをさせてしまっていたとしたら、俺はいつ嫌われてもおかしくない。


「本当にごめん。凛恋に嫌な――ッ!?」


 俺は横からの衝撃で、椅子から滑り落ちて床に尻餅を付く。そして、その直後、俺の体は床に押し倒されていた。

 俺を押し倒した凛恋は、上から覆い被さって唇を塞いだ後、唇を離して俺の体を抱き締める。


「凡人のチューは絶対、私以外に渡したくない。凡人の大好きだって私だけのもの。凡人の頭の天辺から足のつま先まで、ぜーんぶ独り占めしたい」


 苦しいくらいギュッと抱き締める凛恋がそう言い、俺の頭から頬を撫で、鎖骨を経て俺の胸の上で止まる。


「私の方が凡人よりチョー独占欲強いから、だから、凡人が私を独り占めしてくれるの嬉しい。だから……安心してもっと独り占めして」


 俺を優しく抱き締めて、凛恋は俺の胸に頬を付ける。その凛恋の頭を撫でながら、俺は高鳴る鼓動を抑えるのに必死になった。



「凡人、今日はありがと」


 凛恋の家の玄関前で、手を繋いで向かいに居る凛恋が微笑む。


「俺の方こそ、オムライスも美味しかったし、メイド服も可愛かった」

「ありがと」


 凛恋のメイド服姿は、あのまま見納めというのが勿体なくて、俺のスマートフォンには写真が残っている。しかし、凛恋はただでは撮らせてくれなかった。代わりに要求されたのは俺の写真。だが、ただの写真ではなく……凛恋の頬にキスをしている写真だ。


 俺は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、凛恋もメイド服姿が残るのは恥ずかしいようで、お互い様ということになった。


「凡人のキス顔って可愛いのよね~」

「り、凛恋……あんまりマジマジ見ないでくれ」


 スマートフォンの画面を見てニコニコしながら言う凛恋に、俺は額に冷や汗を掻きながら言う。


「凡人だって私のメイド服姿を撮ったでしょ~。私のメイド服姿なんて撮って何に使――ッ!」


 凛恋が言い掛けて顔を真っ赤に染める。俺はそれを見て首を傾げ凛恋の様子を見る。チラッと俺の方を凛恋は手をモジモジしながら小さく唇を動かした。


「他の女の子の写真よりマシだけど、その……程々にしてね」

「ん? 他の女の子? 程々に?」

「き、気にしないで! じゃ、じゃあ、もう遅いし凡人も気を付けて帰ってね! 女の人に声を掛けられても付いて行っちゃダメだからねっ!」


 真っ赤な顔で捲し立てる凛恋が可愛くて、俺は自然に笑って凛恋の体を引き寄せてキスをする。唇を重ねた凛恋は両目を閉じて、俺の背中に手を回している。

 ゆっくりと唇を離し凛恋の体を解くと、凛恋は胸元まで手を挙げて控えめにヒラヒラと手を振る。


「おやすみ凡人」

「おやすみ凛恋」


 振り返った凛恋が玄関まで歩いて行き、玄関のドアを開いた時に再び振り返って俺に手を振る。俺は凛恋が家の中に入るのを見送りながら手を振った。


「さて、帰るか」


 凛恋の家に背を向けて、俺はいつも通り家までの道を歩き始める。一人で歩く夜道は、さっきまで凛恋と一緒に居たせいか寂しい。でも、また明日になれば凛恋に会える。


 今日、刻雨の文化祭に行って、凛恋と過ごした時間が一番楽しかった。凛恋がオムライスを食べさせてくれて、お返しに俺も凛恋にオムライスを食べさせた。

 オムライスを食べた後は、凛恋が疲れているということもあり、家庭科室で話をして午後の開店時間まで二人で過ごした。


 午後のメイド喫茶は開店した早々にオムライスの材料が切れ、オムライスを作らなくてよくなったから楽だったという話や、その代わりに切山さんのケーキが飛ぶように売れて、結局予定していた閉店時間を前倒しして閉店した。

 余った時間で凛恋と希さん、それから栄次の四人で文化祭を見て回った。


 帰りは、俺は遠慮したのだが、凛恋のクラスの打ち上げに引っ張られ、凛恋の仲の良い女子グループの面々と俺と栄次でカラオケに行った。

 そのカラオケで、栄次の策略によって歌を歌わされ、凛恋の友達に褒められはしたもののとんでもない恥を掻いた。


 そして、打ち上げの帰り、いつも通り凛恋を送るために、凛恋と手を繋いで帰った。

 いつも凛恋とは一緒に居るのに、凛恋との会話は途切れない。それは凛恋がよく話してくれるというのもそうだが、凛恋が俺から話を引き出してくれるのもある。


 凛恋はやっぱり最高の彼女だ。凛恋が居るだけで、何でも楽しくなる。一人じゃ絶対やりたくないことも、凛恋が一緒というだけでやる気になる。だから、凛恋に嫌われないようにもっと凛恋のことを大切にしようと思った。


「それにしても、昼休憩の時はやばかった」


 昼休憩で家庭科室に二人きりの時は、凛恋は甘えてくるし二人だけの空間だったこともあって大胆だった。押し倒された時は危うく理性のたがが外れそうで危なかった。でも、凛恋に独り占めしたいと言われた時は嬉しかった。


 独占欲は窮屈だとか重いなんてことはなかった。本当に好きな人、本当に大好きな凛恋から求められることには嬉しさしかない。

 もしかしたら俺と凛恋の関係は特別なのかもしれない。でも、そうだとしたら俺と凛恋はもの凄く相性が良いということになる。

 そう考えるだけでもっと嬉しくなった。


 凛恋のことを考えていると帰り道も早く、もう家の玄関が見えた。俺は玄関の引き戸を引いて中に入る。


「ただいま~」


 そう言って中に入ると、中から返事が聞こえて来ない。いつもは婆ちゃんと田丸先輩の「おかえり」という声の後に、爺ちゃんの「帰ったか、凡人」というちょっとお堅い声が聞こえる。でも、今日はその声が聞こえない。

 しかし、玄関を入って家の中を見ると明かりが点いているのは分かる。だから、留守というわけではない。


 玄関から廊下に上がって居間に向かう。そして、ふすまを開けて居間に入ると、いつも通りの定位置に爺ちゃんと婆ちゃん、そして田丸先輩が座っていた。だが……様子がおかしい。


 婆ちゃんは俯いて両手で顔を覆っていて、田丸先輩は婆ちゃんの背中を擦っている。爺ちゃんは微動だにせず座布団の上に正座し、座卓の天板をジッと睨み付けていた。


「何か、あったのか?」


 何かあったのは確かだ。それも、婆ちゃんが泣き出し、爺ちゃんが厳しい顔をするほど悪いことが。でも、それが何か分からない俺にはそう尋ねるしかなかった。


「凡人、そこに座りなさい」

「あ、ああ」


 爺ちゃんが低い声で俺にそう言う。でも、その爺ちゃんの声は俺に怒っている、という風な声ではなかった。怒ってはいると思う、でも、その怒りを抑えているような声だった。

 俺は爺ちゃんに言われたとおり座布団の上に座る。でも、いつも通りのあぐらではなく雰囲気を察して正座する。


「爺ちゃん、何があったんだ?」


 聞き辛かった。でも、聞かないわけにはいかなかった。そうしないと、多分爺ちゃんも話し辛いから。


「えっ……?」


 爺ちゃんは座卓の天板から視線を挙げて、俺の目を見る。俺はその目を見て、思わず驚いて声を漏らした。


 爺ちゃんの目が、泣いていたのだ。


 優しくもあって厳しくもある爺ちゃんは、怒ったり笑ったりする顔は沢山見てきた。でも……泣いた顔なんて滅多に見せない。


「どうしたんだよ! 何があったんだ!?」


 婆ちゃんを泣かせ、爺ちゃんも泣かせるようなことは想像が付かない。でも、想像が付かないほど最悪なことが起こっているのは分かる。

 俺が焦って身を乗り出して尋ねるのを見た爺ちゃんは、涙を浮かばせた目のまま、必死に抑えた声で言った。


「凡人、お前の母親が……逮捕された」

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