【三〇《繰り返し》】:二
「お互い、懲りないわね。同じことで悩んで」
「そうだな」
「でも……凡人にあんな風に抱き締めてもらえるならチョー嬉しい」
顔を赤らめた凛恋を見て、やっぱり自分を最低で自分勝手だと思う。もしそれが、みんなが通る、みんなが経験する普通のことだとしても。
凛恋が握った手を握り返しながら笑って歩く。もう何度目だろう、凛恋を見て嬉しくなるのは。
凛恋を家に送るのも、俺は何度も経験した。でも何度経験しても、凛恋は可愛くて魅力的で……何度繰り返しても、俺の大切な彼女はキラキラと輝いている。
「凛恋……ちょっと遅くなったけど大丈夫か?」
「うーん、お父さんは怒るかも。でも、凡人のことならお母さんがフォローしてくれるし、優愛も味方してくれるから」
「俺のことなら?」
「私がペアリング落としてみんなに心配掛けちゃった日から、凡人がデートの日は絶対に迎えに来てくれるでしょ? それをお母さんが凄く良い彼ねって褒めてくれるし、優愛は凡人に懐いてるし」
「そっか」
「あ、でもお父さんは凡人のことを嫌ってるわけじゃないの。子供離れ出来てないって言うか、単に今日は凡人のせいでちょっと遅くなっちゃったし」
ペロッと舌を出して笑う凛恋が俺をからかうように言う。正直、彼女の父親という存在は、かなり恐ろしい存在だ。
それに、俺の場合は俺自身が対人スキルが低過ぎるというのもある。
人が苦手な上に、大抵の男が接し方に困る彼女の父親。相性が悪い相手だ。
「凡人」
「ん?」
「また凡人のことで怒っちゃうと思う。それで凡人をまた困らせちゃうと思う。でもその時はまた今日みたいにギュッとしよう。多分、それが一番私達に合ってる」
「そうだな。凛恋はどうか分からないけど、俺は単純だから、凛恋を抱き締められるだけで安心出来る」
「抱き締めるだけねー。今日は一段と激しかったけどー?」
「からかうなよ」
「ごめんごめん。でも嬉しいから、凡人に好かれてることがよく分かって。あっ……もう着いちゃったし」
自分の家の玄関が見えた凛恋が、そう悲しそうな声を漏らす。俺も、今日はもう凛恋に会えなくなるのが寂しい。
「私は何があっても凡人のことが好き」
「俺も何があっても凛恋のことが好きだ」
繋いだ手を名残惜しく放した俺と凛恋は、また手を繋ぐ。そして、俺は凛恋の体を引き寄せてキスをした。凛恋もそのキスを受け入れてくれて、俺の背中に手を回してギュッと引き寄せる。
何があっても好き。その言葉はとても簡単な言葉で、とても重い言葉だ。
土曜の昼、爺ちゃんと婆ちゃんに大事な話があると言われた。そのせいで今日は凛恋に会えない。
昼飯を食べて、居間の座卓前に座布団を敷いて座る。婆ちゃんは台所で洗い物をして、爺ちゃんは真正面で新聞を広げ黙って読みふけっている。
「爺ちゃん、話ってな――」
「婆さんが話があるんだ。俺じゃない」
「そうか……」
爺ちゃんは俺に目を向けずにそう言う。なんとなくはっきりしないその態度は、爺ちゃんにしては珍しい。
爺ちゃんはけっこうはっきりした性格でズバズバと言ってくる。その爺ちゃんかこんな歯切れの悪い態度を取るなんてどういうことだろう。
「凡人、凛恋さんを泣かせてはないか」
「……いや、大丈――」
「今の間はなんだ」
爺ちゃんの鋭い目が俺を睨み付ける。爺ちゃんは新聞を畳んで座卓の上に置き、体を俺に向けた。
「いいか? 凛恋さんはお前にはもったいない人だ。あんなに可愛らしく真面目で家事も出来る子はな」
「……凛恋が俺にはもったいないくらい良い子だってことは分かってるよ」
自分でも思っていることだが、自分以外から言われると傷付くものがある。
「そんな凛恋さんを泣かせるんじゃない。もっと大切にしなさい」
「ごめんなさい」
確かに凛恋を泣かせたことは俺が悪い。でも、それを凛恋の両親や優愛ちゃんはともかく、何で爺ちゃんに謝らなければいけないのかよく分からない。
「凡人、お爺さん、はい」
「ありがとう、婆ちゃん」「すまないな、婆さん」
俺と爺ちゃんの雰囲気を察してか、婆ちゃんが湯呑みに入った温かいお茶を出してくれた。そして、婆ちゃんは爺ちゃんの隣に座って自分の湯呑みに口をつける。
「婆ちゃん、話って何?」
湯呑みのお茶を飲みながら尋ねると、婆ちゃんが穏やかな笑顔で座卓の上に湯呑みを置いて口を開いた。
「私の友達に、児童養護施設でボランティアをやっている人が居るの。その友達がボランティアをしている施設がね……もう続けられなくなったの」
「理由は?」
「運営してくれていた会社の社長さんが亡くなったの。それでその社長さんの息子さんが社長になったのだけれど……施設の運営を止めることになったわ」
俺は座卓の陰で、両手の拳を握った。それは、婆ちゃんが悲しそうな表情をしていたからじゃない。大人の身勝手さに腹が立ったからだ。
確かに、施設の運営は大変だと思う。俺は経営なんてしたことないけど、物を売って利益を得られる店舗ではない。国からの補助金はあったとしても、施設の運営で利益が出るとは思えない。だから、その先代の社長さんは善意で運営していたのだろう。
それで、その社長さんが亡くなって、社長を引き継いだ息子にはその善意がなかった。
善意は持てと言われて持つものじゃないし、示せと言われて示すものではない。その人の本当の真心から溢れるものだ。
それに沢山の従業員の生活を背負っている立場の社長なら、未来を考えて非情にならないといけない部分もある。それも分かっているつもりでいる。
でも、やっぱり身勝手だと思う。
「建物も古くなっていて、新しくなった建物の基準にも合わなくなったそうなの。だから、続けるには建て直しが必要になるそうよ」
「そっか……」
施設の規模にもよるが、建て直しに掛かる費用は多分、億は超えるのではないかと思う。そんな大金を利益の見込めない児童養護施設に使うのは厳しいのかもしれない。
「施設で生活している子供達は、他の施設に受け入れてもらえるように施設の職員さん達が頑張ってる」
「なら、良かったね。いきなり放り出されることにならなくて」
そうは言うが、それは当然だと思う。自分達がいきなり放り出すんだ。その責任はとって当然のこと。褒めることでもない。
「でも、その施設には高校生が居てね。途中で別の高校に転入するのは良くない。その友達はそう思ってるの」
「確かに、高校は専門的な高校もあるし」
中学まではどの中学も同じ教育課程を修了する。だが、高校に上がれば工業系や商業系と言った、専門的な高校に進学する人達も居る。
それを考えると、途中で転校するのは良くない。それに俺の通う刻季のような普通科高校でも、落ち着いて勉強するためには環境の変化はない方が良い。
「そのお友達はその高校生を引き取りたい思いがあるの。でも、旦那さんが最近体を不自由にされてね。そのお友達は介護をしなければいけないの。そんな状況では、とても子供を一人お世話出来る状況ではないわ」
その話を聞いて、俺はなんとなく婆ちゃんの話の行く末が見えた。
婆ちゃんは、その子供を引き取ろうと思っているのだろう。そして俺はそれに何か意見を言える立場ではなかった。
両親に捨てられた俺は、爺ちゃんと婆ちゃんに助けてもらった。二人と俺に血の繋がりがあるとしても、血の繋がりがあるから当然だと言えるようなことじゃない。もしかしたら、爺ちゃんと婆ちゃんが俺を助けてくれなかったら、その施設の高校生と同じことになっていたかもしれない。
「いいよ、俺は。その人を婆ちゃんがこの家に引き取っても」
「そんなに簡単に決めるんじゃない」
俺の言葉に爺ちゃんが静かな声で、そう反論した。でも、その言葉は意外だった。正義感の強い爺ちゃんが、そんなことを言うとは思わなかったからだった。
「凡人。お前は気を遣う。ずっと昔からそうだっただろう。お前は人に気を遣って我慢をする。だが、これは我慢するだけでは駄目だ。納得しなければいけない。納得しなければ、首を縦に振っていい問題ではない」
「この後、その子をうちに連れてくることになっているの。だから会って話してみて、それから凡人の考えを決めてほしいの」
「…………分かった」
俺はその爺ちゃんと婆ちゃんの言葉にそう返事をして立ち上がる。そして、自分の部屋に行ってドアを閉めた。
爺ちゃんと婆ちゃんは俺の意見を聞きたいと思っている。そしてその意見は参考にされるわけではなく、絶対に結果を左右する意見になるだろう。
多分、爺ちゃんと婆ちゃんは施設を出る高校生を引き取ると決めている。でも、ここで俺が反対しても多数決で引き取る、なんてことを爺ちゃんと婆ちゃんは絶対にしない。
俺が反対すれば、爺ちゃんと婆ちゃんは絶対にその人を引き取らない。家族全員が納得して了承しないと、絶対に引き取らない。
「俺にそんな重い選択出来るかよ……」
畳の上に座り込み、膝を抱える。
もし俺が反対すれば、二人が引き取ると言った人は何処かの施設で新しい生活を始めるだろう。
その新しい生活が、その人にとって良い生活になるか悪い生活になるかは、その人はもちろん、爺ちゃん婆ちゃん、そして俺にも分からない。
でも、それが引き取っても引き取らなくても良い方向に転がるとしても、確実にその人の人生は変わる。でも確実に言えるのは、もしその人を引き取ったら、爺ちゃんと婆ちゃんは絶対にその人を大切にする。
うちに来れば、その人の人生は良い方向に転がる。それが確信出来るから、首を縦に振るしかなかった。
人の人生を変える選択なんて、俺には重過ぎる。
断ったら、良くなるか悪くなるか分からない。受ければ必ず良くなる。
それが分かっていたら、どうなるか分からない選択なんて出来るはずがない。確実にその人の人生を崩さない選択を選ぶしかない。
いきなり、人の人生を左右出来る権利を持たされても、怖くてそんな権利を振りかざすなんて出来るはずがない。
この後その人が来ることになっている。話が急過ぎると思う。
でもそれは、今回の話が余裕のある話ではないことを表している。今日すぐに答えを出す必要はないのかもしれない。
でも出来るだけ早く出さなければいけないのは確かだ。
「……凛恋に、みんなに会いたい」
テーブルの上に置いたスマートフォンを手に取って握り締める。凛恋に、栄次に、希さんに会って話したい。
会って話して楽になりたい。俺一人で抱え込みたくない。
「凡人、来たぞ」
「分かった」
背中を付けたドアの向こう側から爺ちゃんの声が聞こえる。俺はその声に返事をしながら頭を抱える。「早い。もう少し心の整理をつける時間をくれ」そう喚きたい気持ちだった。
話を聞いたのはついさっき。簡単に決めるなと言われた割には、俺に考える時間を与えてはくれない。
「凛恋……」
せめて凛恋に電話をして声を聞きたかった。せめて、凛恋だけにでも話したかった。でも今はそんな時間はない。
俺は重い体を立たせて部屋のドアを開ける。重い足を必死に動かしながら廊下を歩き、さっきまで座っていた居間に戻る。
居間に戻ると、座卓を挟んで向こう側に爺ちゃんと婆ちゃんが立っているのが見えた。そして手前には、背が低く腰の曲がったお婆ちゃんの後ろ姿、そして髪はセミロングでスラリとした体型で、大人っぽい服装をした若い女性が背を向けて立っているのが見える。
「こっちに座りなさい」
爺ちゃんが自分の隣を指さして俺に指示する。俺がその指示に従って歩き出そうとすると、若い女性が振り返った。
「は、初めまして! 私――…………凡人、くん?」
緊張した様子で振り返った女性が、俺の顔を見て目を見開く。そして、俺はその女性を見て体の動きを止めた。
「……田丸、先輩」
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