【二八《空の華をきっと》】:一
【空の華をきっと】
擦り切れた古い畳の上で座っていると、隣で座ってる凛恋が手を握って右腕を抱いてくる。凛恋は腕を抱きながら指を組んで俺の手を握り、べったりと体をくっつける。
「凛恋、夜も会うよな?」
「もちろんよ! 今日は花火大会でしょ」
そう、今日は隣町で花火大会のある日。そして夏休み最終日でもある。そんな日に、俺は凛恋と部屋でダラダラしている。でも、これは凛恋が望んだことなのだから仕方ない。
「このまま時が止まればいいのに……」
「それは嫌だな。凛恋と花火大会に行けなくなる」
「そーだけどさー。今日終わったら毎日学校に行ってる間、凡人に会えないじゃん!」
「でも、夏休みが終わったら会えなくなるってわけじゃないだろ?」
「そーだけどさー……」
唇を尖らせて不満を漏らす凛恋は、顔を俯かせて足をパタパタと動かす。
俺だって凛恋と毎日こうやって会えなくなるのは寂しい。でもだからと言って離れ離れになるわけでもないし、会おうと思えば毎日学校終わりに会える。
夏休みは日常であるが、高校生の俺達にとっては学校に行かなくていいという特別な日常だった。それが学校に行くという普通の日常に戻るのは仕方ないことだ。
それにしても、今日の夜にも会うのにわざわざうちに来てくれるのは嬉しい。もちろん、迎えには行ったが。
「優愛が花火大会に付いて来るって言い出したからゲンコツしといたわ」
「あはは。まあ栄次と希さんと一緒だって言ってもデートだからな」
「そうよ。だから、悔しかったら彼氏作りなさいって言っといた」
ニッと笑う凛恋は実に楽しそうである。優愛ちゃんはモテるらしいが、凛恋に似て凄く真面目な子だ。適当な気持ちで人と付き合うなんてことはないだろう。
凛恋も沢山の男に告白されていても断り、俺に告白してくれた。
凛恋は可愛い。だから色んな男の目に留まって、それで好意を持たれるのも分かる。いや、こんなに可愛いのだから持たれて当然なのだ。
……あれ? ということは、今も凛恋のことを好きな奴が居るかもしれないということになる。そう考えると、急に不安になってきた。
凛恋が俺を好きで居てくれていることは知っているし、それを疑う気持ちはこれっぽっちもない。だが、それにおごっていたらいつか凛恋に愛想を尽かされる可能性も大いにある。
可能性どころか、こんな可愛い子をぞんざいに扱っては罰が当たるだけで済めばいい方だ。ちゃんと優しくして俺のことを好きで居てもらわないと。
俺は腕を抱く凛恋の体を抱き締めて凛恋の温かさを感じる。
「ありがとう凛恋」
「凡人、また不安になったでしょ?」
「いや、うーん……凛恋のことを大切にしないとって改めて思っただけだ」
俺の背中に手を回してくれた凛恋が抱き返してくれながら言う。それに俺が抱きしめたまま言うと、凛恋がフッと笑う声が耳元で聞こえた。
「凡人にこれ以上優しくなんて無理よ。だって今でも目一杯優しくしてくれてるし」
「そうか?」
「そうよ。そうじゃなかったら、こんなに凡人のこと好きじゃないし、こんなに幸せじゃない。それに、こんなに切なくない」
そのふと漏らした凛恋の言葉に、愛おしさが溢れてくる。このまま放したくない気持ちが溢れてくる。
時は止まってほしくない。でも、どうにかして側にずっと居られないかと、非現実的なことを考えてしまう。無理だと分かっていても、考えてしまうのはしかながなかった。
昼過ぎに凛恋を送って、それから家に戻ってひとしきりそわそわした後、俺は時間を見て家を出た。もちろん、再び凛恋を迎えに行くためだ。
夏休み最終日と言うのに、日差しは燦々と強く降り注いで、未だ夏は陰りを見せない。傾き掛けている太陽も、沈む前の、見せる必要のない頑張りを見せているのかもしれない。
いつも通りの道をいつも通り歩いて、俺は凛恋の家の前に立つ。額にはじんわりと汗が滲む。
スマートフォンを取り出して時間を確認すると、今は一九時前だ。
花火が本格的に始まるのは二一時からなのだが、その前に早めに行って出店やらを見ようということになっている。
正直、恐ろしい人混みの中に入るのは嫌だが、凛恋達と一緒ならきっと楽しめる気がする。
「あっ! 凡人さん、こんばんは」
凛恋の家のドアが開くと、中から優愛ちゃんが出て来てひらひらと手を振る。
その優愛ちゃんにひらひらと手を振り返していると、優愛ちゃんが門の外にいる俺のところまで来て、ニヤニヤとしながら腕を組んだ。
「凡人さん、和服の下に下着は着けないって知ってました?」
「えっ? 和服の下に?」
「そうです。和服を着ている時代には、今のブラジャーとかパンツってなかったんです。それで、ブラジャーとパンツを着たまま和服を着ちゃうと、パンツラインとかが浮いちゃうんです。だから、和服を着る時には下着は着けないんですよ」
「へぇー、そうなんだ」
いきなり優愛ちゃんに和服に関する豆知識を披露されて感心する。確かに的を射ている理由だし、嘘には思えない。でも、なんで今その話なんだろう。
「ごめん凡人! 待った!?」
閉じていた玄関のドアが開いて凛恋の声が聞こえる。
「…………」
凛恋の家に来る間に日が落ちた夜空の下で、紺色にピンクのアサガオ柄の落ち着いた浴衣。それを着ている凛恋は華やかであり艶やかで、思わず言葉を失う。
可愛い。めちゃくちゃ可愛い。ズルい、ズル過ぎる。凛恋に浴衣なんて組み合わせたら可愛いに決まってる。
「凡人?」
「えっ!? あっ、いや、全然待ってないから大丈夫です!」
目の前で凛恋が下から見上げて、俺の顔を覗き込む。そのあまりの顔の近さに驚き、後退りをしながら両手を振って否定する。ダメだ、あまりにも強烈過ぎていつも通りに振る舞えない。
「なんで敬語なのよ」
「いや! なんとなくだ! い、行こう! 栄次と希さんが待ってる」
「そうね。じゃあ、行ってくる。優愛も友達と行く時は気を付けるのよ」
「りょーかいりょーかい!」
優愛ちゃんと凛恋が言葉を交わすのを見てから、俺は凛恋と手を繋いで歩き出す。
ふと横に視線を向けると、浴衣姿の凛恋が真隣に居て、恐ろしいくらいの可愛さを俺に振り撒いてくる。その可愛さに視線を落とすと、凛恋の足元が見えた。
「えっ?」
「んっ?」
突然凛恋が驚いた声を上げ、俺は不用意にも視線を上げる。すると、破壊力、攻撃力抜群の浴衣姿の凛恋が俺の顔を真っ直ぐ見ていた。
「凡人、今歩くのゆっくりになった?」
「えっ? ああ、なんか下駄って歩きにくそ――」
日の落ちた住宅街を通る細い道。
その脇にある歩道で、凛恋はつま先立ちをしてキスをした。
浴衣姿の凛恋からの不意打ちキス。それは、俺の心を強く跳ね上げさせるのには十分過ぎた。しかし、俺がもっとキスをしようと凛恋の腰を抱こうとすると、スッと凛恋が体を離す。
「ああ……」
「そんな悲しそうな声出さないでよ。今、凡人の本気チューされたらヤバいの」
ニコッと笑って凛恋が言うのを聞きながら、俺は心の中で浴衣姿を見せ付ける凛恋が言うのかと嘆きたくなる。しかも不意打ちのキスをした後だ。
「もー、まだデートは始まったばかりなのにチョー格好良いし! ありがと、気を遣って歩くスピードを遅くしてくれて」
「まあ、歩きにくそうだしな」
「そうなのよ。下駄の鼻緒もほぐしたし、痛くならない履き方もしてるんだけど、普通の靴と比べると歩きにくくて。でも、凡人に可愛いところ見せたくって」
頬を少し赤くして小さくはにかむ凛恋はジッと俺の顔を見る。
「凛恋。いつも可愛いけど今日はめちゃくちゃ可愛い。玄関出て来た瞬間、ビックリして言葉が出なかった」
「やった!」
「ただ、こんな可愛い凛恋を、他の男にも見られてると思うと悔しいな」
「私は凡人にだけ見せるつもりで着てる。それじゃダメ?」
「いや、ダメじゃない。ありがとう」
凛恋が腕を抱いて手を組む。温かい凛恋が側に居るだけで嬉しかった。
二人で栄次達との待ち合わせ場所である駅前に着くと、かなりの人混みが出来上がっていた。浴衣を着ている人がちらほら居るところを見ると、みんな隣町の花火大会の見物に行く人達なのだろう。
人でごった返す駅前で首を左右に振って栄次達を探していると、後ろから肩を叩かれる。
「凡人くん、凛恋、こんばんは」
「こんばんは、二人とも」
仲良く手を繋いだ希さんと栄次が手を挙げて見ていた。希さんは白地に真っ赤な金魚柄の可愛らしい浴衣姿で、長い黒髪は結い上げていて浴衣によく合っている。
「さーて、早速行くわよ!」
相変わらずイベント事が好きな凛恋がリーダーシップを執って歩き出す。その凛恋に手を引かれながら、俺は周囲の人を見てふと思い出す。
『凡人さん、和服の下に下着は着けないって知ってました?』
ふと思い出した優愛ちゃんの言葉に、俺は視線を巡らせて凛恋に男が近付かないか周囲を警戒する。
和服の下に下着を着けない。ということは、和服である浴衣の下にも下着を着けないということになる。そして、凛恋は今浴衣を着ている。ということは……。
頭の中で想像して焦る。
ヤバい、いま凛恋は布一枚下は裸だ。いや、和服という物がそういう物なのだから仕方がないのだ。だから凛恋の今の状態は正常な状態なのだ。
何も意識することはない。…………イヤイヤイヤ、そんな理屈、無茶にも程がある。
可愛い彼女がノーパンノーブラで外を歩いている状態なのだ、落ち着けというのは無理がある。
改めて周囲を見渡して、凛恋に近付く不届き者が居ないか確かめる。今のところ、凛恋に近付く輩は居ないようだが、周りを歩く人の視線が凛恋に向いているように見えて落ち着かない。
「凡人、なんかキョロキョロしてるけど、どうしたの?」
「い、いや、何でもな――」
「そういう時の凡人くんは何かある時だね」
横から希さんにクスリと笑われながら言われる。彼女の凛恋どころか希さんにまで俺の様子がおかしく見えているらしい。
バレているのなら下手に嘘を吐くのもよくない。そう思い、俺は正直に話した。
「凛恋に変な男が近付かないように気を付けてたんだよ。今日は浴衣だし」
「そっか、いつもありがとう凡――……今日は浴衣だし? …………あっ!」
凛恋がカッと顔を赤くして俺の顔をキッと睨む。そして腕を組んで俺に顔を寄せた。
「もしかして凡人、私が下着を着けてないとか思ってないでしょうね」
「えっ? だって優愛ちゃんが、和服の下に下着は着けないものだって……」
凛恋の言葉に驚いて聞き返すと、凛恋は頭を抱えて小さくため息を吐いた。
「まったく……余計なことばっかり言うんだから優愛は。凡人、確かに和服に下着は着けないって言うわよ。でも、それは下着のままだと、柄とかラインとかが透けちゃうから。白いTシャツと白いペチコートを着たら、ラインも柄も気にしなくていいの。もちろん、私はどっちも着てる」
「ペ、ペチコート?」
聞き慣れない単語が出て来て、思わず聞き返す。凛恋はフッと笑って自分の腰を指さした。
「ペチコートってのは、スカートの下に穿く下着よ。スカートの形を整えたり、薄手のスカートから下着が透けたりするのを防ぐ役割があるの。だから、浴衣の下に白いTシャツとペチコートを着てたら、透けても目立たないし大丈夫なの」
「な、なるほど」
凛恋は説明を終えるとまたフッと息を吐き、俺にジトーっと目を向ける。
「凡人は私のこと、下着を着けないで外を出歩く変態だと思ったわけね」
「いや、そういう訳じゃなくてだな」
責める凛恋に弁解を考えようとしていると、後ろから栄次の声が聞こえた。
「希? 顔真っ赤だけど大丈夫?」
「う、うん! だ、大丈夫!」
振り返ると希さんが真っ赤な顔で栄次に両手を振っていた。それを見た凛恋は希さんに近付き、いきなり希さんの腰回りを両手で触れた。
それは凛恋と希さんが仲の良い親友だから許されるものの、端から見せられる俺からしたら目に毒だ。いや、実際は毒なわけないのだが、とにかく直視出来る光景ではない。
「…………希って意外と大胆だったのね」
「ち、違うよ! お婆ちゃんが下は着けないって言うから!」
「はぁ……凡人、栄次くん、とりあえずそこの服屋に寄っていい?」
俺と栄次に掛けられた言葉に、俺と栄次は黙って頷く。凛恋は希さんの腰回りに触れて確認したのだ、希さんが穿いているかどうかを。
そして、確認の結果、服屋に寄らなければいけなくなった。ということは、今、希さんは――。
「凡人。今から一切希の方を見ちゃダメだからね」
「大丈夫だ、凛恋さん。俺がカズを見張っておく」
凛恋の注意に栄次が深く頷いて言う。この二人、いったい俺を何だと思ってるんだ。
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