【二四《恋人から恋人に》】:三

『もしもし多野くん?』


 赤城さんへはすぐに繋がった。どうやら、赤城さんは学校の用事は頼まれていないらしい。


「もしもし赤城さん? 凛恋と一緒じゃないよね?」

『凛恋? 凛恋とは学校が終わって一緒に帰ったけど』

「……それって何時くらいの話?」


 胸にゾワッとした感覚が走る。俺は赤城さんの答えを聞く間に、駅舎に設置された時計を見る。

 時計の針は、一三時五〇分を指している。


「えっと、今日は四時限目の途中で終わったから、多分一二時くらいだとは思うけど。凛恋、今日多野くんと会うって言ってて、帰ったらすぐに出て、一〇分前には行くって……もしかして来てないの?」

「ああ、一三時待ち合わせでもうすぐ一四時になる」


 胸にあったゾワゾワは明確な焦りとして俺の心を襲う。


「多野くん、絶対に凛恋がすっぽかすなんてあり得ないから! 朝からずっと今日多野くんに会うことをずっと不安そうにしてたけど、絶対に――」

「分かってる。でも、凛恋にさっき電話を掛けたけど繋がらない。今から優愛ちゃんに電話してみる」

「うん、私は凛恋に掛けてみる」


 電話を切ってすぐに優愛ちゃんに電話を掛ける。


『もしも――』

「優愛ちゃん! 凛恋、家に居る!?」

『お姉ちゃんですか? 帰って来てすぐに、久しぶりに気合い入れておしゃれして出て行きましたけ――』

「ありがとう!」


 電話を切って凛恋の家に向かって走り出す。

 心の中の焦りは、もう押し隠すことも出来ない。


 凛恋は家までは帰った。家から出るのも優愛ちゃんが見ている。でも、待ち合わせ場所の駅には来てない。

 だから、家から駅までの間で何かあったんだ。


 赤城さんの話では、凛恋は一二時五〇分には着く予定で出ている。

 もう時間は一四時一〇分になろうとしている。ということは、一時間以上遅れていることになる。


 交通事故。そんな良くない言葉が頭をよぎる。でも、もし仮に、交通事故であれば、一時間以上経っているから家へ連絡があるはずだ。じゃあ……。


「まさか、誘拐?」


 誘拐。その言葉を口にした瞬間、体に感じていた真昼の暑さは消え去り、全身を凍えるような寒気に包まれる。

 太陽の日差しに当てられていた時よりも遥かに多い冷や汗が全身から溢れる。体が小刻みに震え、地面を踏みしめているはずの足の感覚もない。


 大丈夫、大丈夫。大丈夫大丈夫大丈夫。絶対に凛恋は無事だ。ちゃんと見付かる、絶対に見付ける。

 俺は自分にそう言い聞かせ、水をかけたように滲む視界を拭って、凛恋の姿を必死で探した。



 途中、刻雨高校に寄って刻雨高校の教師に凛恋のことを聞いたが、刻雨高校には居なかった。

 赤城さんにまた電話して、心当たりのある場所を聞いて探してもらった。でも、まだ見付からない。


 時間が経つに連れて悪いことしか思い浮かばない。


 優愛ちゃんが、凛恋は気合いを入れておしゃれして家を出たと言っていた。凛恋は普通でも人目を引く可愛さを持っている。

 それが気合いを入れておしゃれなんかしたら、もっと人目を引くに決まってる。

 もし、凛恋が悪い男に連れ去られていたら――。


「クソッ! 何で家に迎えに行かなかったッ!」


 声に出して自分を責め立てる。凛恋の家に迎えに行けば良かったんだ。凛恋を一人にさせた俺の責任だ。

 今まで何も無かったから、凛恋と元通りになれると思って安心したから、だから気が緩んだ。その結果がこれだ。


 何でもっと凛恋のことを考えなかった?

  キャンプの時だってそうだ。家族が居て羨ましいと思ったなんて聞いて、凛恋が困ることくらい分かるだろう。

 分かってもらう方法だって他にもあった。

 急に言われても飲み込めるわけがない。そんなことくらい、凛恋のことを大切にしていれば分かっただろ!


 俺を変えてくれたのはいったい誰だ?

 二人も友達が出来たのは誰のおかげだ?

 初めて人を好きになることを、人を好きになることの素晴らしさを教えてくれたのは誰だ!

 凛恋だろ! 俺の大切な彼女の凛恋じゃないのか!

 なのに、なのに何で……凛恋を大切にしなかった……。


 もし凛恋が戻って来なかったら、凛恋が怪我をしたら、全部お前のせいだ。お前が、俺が! お前の、俺の大切な凛恋を大切に出来なかったせいだ。


 一級河川に架かる橋の上を走りながら、何度も何度も、何度も何度も何度も自分を責め立てる。

 責めたって何も事態が動かないのは分かってる。でも、頭の中には後悔しか湧かない。


 橋を半ばまで走った時、向こう岸の河川敷に小さな人影が見えた。

 緑色の草に覆われた河川敷の上を行ったり来たりしている。遠くて顔は分からない。でも、それが誰だか分かった。


「凛恋ッ!」


 歩き方と姿勢。判断材料はそれだけだった。でも、絶対に見間違えるわけがない。

 ずっと、毎日見て来た、記憶に焼き付いて消えることのない、大好きな人の姿を。


 橋を渡り切り、河川敷の上に通った舗装された道を走る。どんどんと人影が近付くに連れて、その姿が歪んで滲んでいく。

 手の甲で視界を歪ませ滲ませているものを拭い。俺はやっと、その姿を鮮明に視界に捉えた。


 凛恋はいつものギャル系ファッションではなく、女の子らしく可愛らしいミニ丈のワンピース姿だった。

 でも凛恋は、河川敷の坂で必死にしゃがみ込んで何かを探している。


「嫌だ……やだよ……。お願い、見付かってよ……。このまま、嫌われたままなんて嫌なの……」


 河川敷に流れる風に乗って、凛恋のその声が聞こえる。だけど、その声に爽やかさは無く、切羽詰まったような、余裕の無い声だった。

 何かを探す凛恋の手は、真っ黒に汚れていて、凛恋は右手の腕で目元を拭う。


「こんな私じゃ仲直りしてくれない! だから出てきてよッ! お願い! お願いだから、お願いだから……出てきてよ……。私、凡人に嫌われたままなんて、嫌だよ……」

「凛恋……どうしたんだ?」


 俺が河川敷の坂を下りながら、凛恋に声を掛ける。すると、凛恋は顔を上げて俺の顔を見ると、グニャっと顔を歪ませて俯いた。そして、腕で何度も目を拭う。


「かず――」


 凛恋の状況はよく分からない。でもとりあえずそんなことどうでも良かった。


 俺はしゃがみ込む凛恋の横に膝を突き、強く凛恋の体を引き寄せた。

 懐かしい凛恋の温かさ、落ち着く凛恋の香り、そして確かに感じる凛恋の存在。


「めちゃくちゃ心配した。悪い奴に連れ去られたかと思った。怖かった、本当に怖くて怖くて仕方がなかった。でも……本当に良かった。無事で本当に良かった……」


 凛恋を抱き締めて、力強くギュッと抱き寄せていると、ポケットでスマートフォンがブルブルと震えた。

 左手は凛恋を抱き締めたまま、俺は名前を確認せずに電話に出る。


『多野くん!? 凛恋、何処にも居ない! どうしよう! 凛恋が、凛恋が戻って来なかったら――』

「赤城さん大丈夫! 見付けた!」

『えっ!? 何処!? 何処に居るの!?』

「河川敷に居る。今、ちゃんと目の前に居る」

『待ってて! すぐ行くから!』


 赤城さんが電話を切ったのを確認して、俺はポケットにスマートフォンを仕舞う。そして、俺は腕の中で小刻みに震える凛恋の顔を覗き込んだ。


「凛恋、いったい何があったんだ?」

「かず、と……。ごめんなさい、ごめんなさい凡人……お願い嫌いにならないで、お願い、嫌われたくない。凡人に嫌われるなんて嫌だ。だからお願――」


 凛恋の頭を支えて、唇を押し当てる。

 久しぶりに重ねた凛恋の唇は乾いていた。そして触れ合う舌も水分が少なく、俺の水分を吸い取られそうなほど吸い付いてきた。

 ゆっくり唇を離した俺は、凛恋の目を真っ直ぐ見て頭を撫でた。


「嫌いな彼女にキスなんてしない」

「凡人……」

「落ち着いてゆっくり話してくれ。いったい何があったんだ?」


 俺がそう声を掛けると、凛恋は俺の左手を見てワッと泣き出した。


「家に帰って、凡人にまた好きになってもらおうと思って、女の子らしく見えるように可愛い服に着替えて家を出たの」

「うん、それで?」


 内心、俺はずっと凛恋のことを好きなままだったんだけど、とも思ったが、俺は頷いて話の続きを尋ねた。


「それで、河川敷を歩いてる時に、指輪を抱き締めて勇気を出そうって思って……」

「大丈夫だから、それでどうしたんだ?」

「それで、指輪を外して抱き締めようって……抱き締めようってしたら…………指輪を……指輪を、落としちゃった……」


 凛恋は俺の胸に顔を埋めて声を漏らしながら泣く。


「落としてすぐに探し始めたの。でも、全然見付からなくて! アスファルトに落ちた音はしなかったから、草の中に落ちたと思って探したけど……全然見付からなくて……。私が作ろうって言ったのに、私が欲しいって作ってもらったのに……私が失くしちゃった……。仲直りするために会うのに、ペアリングしてない私の言葉なんて、何言っても信じてもらえないって思って……ずっと、ずっと探してて」


 さっきスマートフォンの時計を見た時、一五時半を過ぎていた。この真夏の炎天下、二時間以上も指輪を探していたことになる。だから舌が乾いていたんだ。


「凛恋、とりあえず俺の飲みかけだけど飲め。脱水症になる」

「ありがとう……」


 鞄からペットボトルを出して、凛恋に手渡しスポーツドリンクを飲ませる。その間も、凛恋の背中に回した手は離さなかった。


「凛恋、指輪はお守りみたいな物だ。指輪が無くなったってことは、凛恋の身代わりになって、悪いものを持って行ってくれたんだ。それで凛恋が無事なら俺はそれでいい」


 凛恋の背中を擦りながら言うと、凛恋は横に首を振る。


「身代わりになんて出来ない! あの指輪は、凡人が初めて私のために作ってくれて、初めてプレゼントしてくれた物だもん! あの指輪は、私と凡人の愛の証なの! 凡人との愛を身代わりになんてしたくないっ!」


 そう言って泣き止まない凛恋の背中を擦りながら、俺は視線を落とした。

 俺だって、凛恋の立場なら同じだ。凛恋が一生懸命作ってプレゼントしてくれた指輪を失くして、自分の身代わりになってくれた。なんて思える訳が無い。

 失くしたことで冷静さを失って、必死に探し出そうとする。絶対に見付けられるまで諦めない。


「分かった。じゃあ、一緒に探そう。でも、条件がある」

「じょう、けん?」

「ああ。手を繋いだまま一緒に探す。絶対に手は放したらダメだ」

「土で汚れて――」


 凛恋が手を引っ込める前に引ったくり、絶対に放さないようにギュッと握る。


「さて、探すか。どの辺で落としたんだ?」

「ここから、真っ直ぐ上に上がったところ」

「じゃあ、もう一回上に上がりながら探してみよう」


 立ち上がって、雑草の生えた坂を上りながら地面に目を凝らす。ゆっくりと一歩一歩、一緒に足を進めて上っていると、俺は草の間に光る物を見付けた。


 空いている手でそれを拾い上げると、銀色の小さな輪っかで内側に『KAZUTO to RIKO』という文字が彫られ、その文字の隣には日付を示す数字が彫られている。


「…………あっ、た……」

「あったな」

「凡人ッ!」

「おわっ! 凛恋! 落とす落とすッ!」


 思いっ切り抱き締められ、その衝撃で俺は思わず指で摘んだ指輪を落としそうになる。


「ご、ごめん! ゆ、指輪は?」

「大丈夫。ここにある」


 開いた凛恋の手にそっと指輪を置くと、凛恋は手を握り胸にその手を抱き締め、ギュッと目を閉じた。

「良かった、見付かって本当に良かった……」

「凛恋ッ!」


 凛恋も見付かって指輪も見付かってホッと一息吐いていると、坂の上から凛恋を呼ぶ声が聞こえた。

 声が聞こえた先には、泣いてくしゃくしゃになった顔の赤城さんが慌てた様子で坂を駆け下りてきた。そして、凛恋を思いっ切り抱き締めた。


「凛恋、凛恋っ! 良かった、本当に無事で良かった……心配した。もう凛恋に会えなくなっちゃうかと思った」

「希……ごめんね。ごめんね、心配掛けて……」


 抱き締め合う二人を眺めていると、後から栄次が下りてきて、俺の肩を叩く。


 元通りに戻れる。

 俺は前にも同じことを思ったことを思い出した。凛恋を好きになって悩んでいた時のことだ。


 人と人との関係は元に戻すことなんて出来ない。

 人間関係は時間と共に変化し、元だった人間関係は元通りに戻したいと思った時は、既に過去へ過ぎ去っている。


 今回もあの時と同じで元通りにはならない。

 でも、友達から恋人へ昇華した時と同じように、俺と凛恋の関係は変化した。その変化を言葉にすれば、恋人から恋人に変わった。そう表現するしかない。

 でもその言葉の中には、俺と凛恋しか分からない、確かな変化がある。


 俺と凛恋は、恋人からもっと恋人らしく変化した。それを具体的に言うなら『愛が深まった』というくさい台詞になるのかもしれない。


 俺は、幸せの中、そんな俺らしくないことを考えた。

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