【一六《失うより》】:一

【失うより】


 宿泊施設までは電車で一時間半、そして駅からのバスで三〇分、合計二時間の移動になる。

 宿泊施設に九時には着いておかないといけないらしく、余裕を持って俺達は六時半の電車に乗った。


 電車の方向が、街中ではなく山間部へ向かうためか、車内は人が居らずほぼ貸し切り状態だった。


「ふわぁー…………」


 二人掛けの座席で窓際に座る凛恋が大きな欠伸をする。

 荷物を座席の上の棚に載せて座席に座った後から、凛恋は何度も欠伸をしている。


「凛恋、昨日眠れなかったのか?」

「ちょっと夜に友達から電話あってさ。大した用事じゃなかったんだけど」

「そうか。まあ夏休みだしな」


 俺は長電話はしたことがない。しかし、女子は話が好きだし、ちょっとした電話のつもりが長電話になってしまったのだろう。


 欠伸を終えた凛恋は、学校行事ということで学校指定の体育着を着ている。刻雨はそういう所は厳しいらしい。

 しかし、刻雨高校は凛恋のように髪染めや化粧をしていても特に注意はされないらしい。

 刻季は髪染めも化粧も禁止されてるから、生徒指導部が毎日怒号と共に指導を繰り返す日々が続いている。


「刻雨は体育着参加なのか? うちは生徒会が私服でも良いって言ってたが」

「他の高校の生徒と会うから、けじめがどうのこうのって言ってたわ。まあ、スカートは穿きづらいし、パンツスタイルだっただろうけど」

「ハイキングがあって動くしな」


 今回の『同地域他校間交流を目的とした宿泊研修』は、基本的に交流という点が重視されているらしく、ハイキングと晩飯のカレーを一緒に調理すること以外は『自由交流』という時間に割り当てられている。


 自由交流とは、宿泊施設内に軟禁されて多人数との交流を強いられる時間のことだ。

 俺にとってはこれ以上ない拷問と言える。


 何かの講義を聴けとか、何かについて話し合えとは言われないからマシではあるが、それでも会話を強制されるのは意味が分からん。


「今日、出来るだけ凡人から離れないようにしないと」

「せっかく参加したんだし、凛恋は他校の友達作れよ」


 ただし女子だけな。とは言えなかった。

 凛恋が男と仲良く話す所を見たら、多少……いや、結構不安になるのは分かり切っている。

 だけど、それで俺が凛恋の交友を制限するようなことはあってはならない。

 それはいわゆる束縛ということになるからだ。


 俺は友達を栄次と赤城さんの二人だけで十分だと思っている。でも、凛恋は学校でも色んな人と話すようだし、凛恋のことを考えれば、交友を増やす今回の機会は良い機会だと言える。


「何言ってるのよ。今日は友達作りに来たんじゃなくて、凡人に悪い虫が付かないようにするためよ」


 悪い虫、というのは俺をこの宿泊研修に巻き込んだ、二年の先輩のことで、確か名前は……そう、田丸先輩と言っていた。


 凛恋はどうやらその田丸先輩が俺と関わるのが心配なようだが、宿泊研修の人数合わせに使われただけだ。

 凛恋が心配するようなことは無い。


「あっ! 凡人、ちゃんと約束守ってきた?」

「約束って、朝飯を食べないでってやつか? それなら食べてないが」

「じゃーん! 凡人の彼女特製サンドイッチだぞー!」


 凛恋がニコニコしながらラップで包まれたサンドイッチを沢山取り出す。

 よく見る三角ではなく四角く揃えられたもので、よく見れば具の種類が多い。


「こっちがカツサンドで、こっちがタマゴサンド、あと王道のBLTの辛い系のサンドイッチで、こっちがジャムとかバナナとかチョコレートの甘い系」

「これ、作るの大変だっただろ?」

「そんなことないわよ。意外と簡単なの。でもちゃんと愛情たっぷり入れてるから安心して」


 ニッと笑う凛恋は、前の座席の背もたれに付いた簡易テーブルを広げ、その上にサンドイッチを置く。


「とりあえず全種類二つずつ作ったけど、凡人の余りで私は良いから好きなの食べて」

「いや、一種類を二人で一つずつ食べよう」

「ありがと凡人」


 凛恋がサンドイッチを包んでいたラップを広げてくれる。凛恋が食べ出そうとせず俺の表情を窺っている。

 俺が先に食べるのを待ってるんだろう。


 とりあえず、BLTサンドを手に取る。

 BLTサンドとはベーコン、レタス、トマトを使ったサンドイッチのことを言う。

 凛恋のBLTサンドにはチーズとマヨネーズも使われているようで、全体的にあっさりしていそうだ。


「頂きます」


 弾力のあるパンの食感の後、レタスのシャッキシャキ感、熟した真っ赤なトマトのジューシーな甘みにチーズとマヨネーズの味が絡む。

 そして、口にカリッとして香ばしい香りが鼻に通る。


「美味い、ベーコンが焼いてあるのか」

「やった!」


 隣で凛恋が拳を握ってグッと嬉しそうにガッツポーズをしていた。

 残りのBLTサンドを食べると、隣でも凛恋が両手でBLTサンドを持ってモグモグと食べていた。


「凛恋、これ作るために早起きしたんじゃ?」


 凛恋はまだモグモグと食べている。

 凛恋が作ったサンドイッチは意外と簡単と言っていたが、たとえ簡単だとしても作る時間は必要だ。

 きっと凛恋の欠伸は友達との長電話ももちろんだが、サンドイッチを作ったことも影響したのではないだろうか。


 凛恋は食べ掛けのサンドイッチを手に俺の顔を見て、慌ててサンドイッチをガジガジと囓る。


「ありがとう、眠いのに早起きしてくれて」

「彼氏のために早起きして料理って憧れてたの」


 BLTサンドを食べ終え恥ずかしそうに言う凛恋は、カツサンドを手に取って俺に差し出す。


「はい! 凡人のために作ったんだから食べて!」

「ああ、ありがとう」


 凛恋と一緒に同じカツサンドを食べる。

 凛恋は右手でカツサンドを持って、俺の服の裾を掴む。そしてそっと身を寄せてきた。



 曲がりくねった山道を登るバスの車内。電車と同じ窓際の席に座った凛恋は、俺にもたれ掛かって寝息を立てている。

 凛恋は一度寝たらなかなか起きない。でも、今はそんな凛恋でよかった。


 凛恋はずっと欠伸をして眠そうにしていた。だから到着するまで少ししかないが、今はぐっすり眠れている。


 凛恋を起こさないように体勢を維持しながら、窓の外を眺める。

 目に映るのは木ばかり。まあ山の中だし、木ばかりなのは仕方ない。


 宿泊施設は小五の頃に宿泊学習で使った経験がある。

 あの時は学校の用意したバスで行ったが、俺は指定席のように運転手の真後ろに座っていた。

 隣には先生ではなく、雑多な荷物が載っていた。


 悪い思い出はないが良い思い出もない。あの時はハイキングではなくオリエンテーリングだったが、俺は楽しそうに課題をこなすグループメンバーの後ろをついて行っただけだ。


 俺は宿泊学習当日になっても行動班が決まっていなかった。

 小五にもなればかなり自分の立場を冷静に判断出来るようになり、いい感じに人を見下し始める。

 だから「腐った奴らと何故俺が行動しなければいけないのか」そんなことを当時の俺は考えていた。

 そして、そんな奴らと一緒に行動することに嫌悪していた。


 その小五の頃の俺は、ただ人を嫌いという気持ちと、人が自分を貶める敵ということくらいしか理解していなかった。

 本当に理解すべきだったのは、自分が人間の社会で生きなければいけないことだった。

 つまり、上手くやるとか無難にそつなくこなすことが出来なかったのだ。


 わがままだと男性教師に怒鳴り散らされ、俺は適当な行動班に放り込まれた。

 そして、放り込まれた行動班では、明らかに迷惑だと嫌悪感丸出しの顔で班員に見られた。

 もしあの時の俺にそつなくこなす能力があれば、多分宿泊施設のことは全く覚えてなかっただろう。


 左右に曲がる道は、九十九折り(つづらおり)とまではいかない。でも、定期的に左右に軽く振られる振動は、凄く心に痛い。


 フッと凛恋の体が離れ、今度は凛恋の体がグッと押し付けられる。切なくなって心が痛くなり、ドキドキして胸をギュッと締め付けられて心が痛くなる。

 それが何度も繰り返される。


 バスは山の中腹にある宿泊施設前にあるバス停に近付いていく。そろそろ凛恋を起こさないといけない。


「凛恋、もう着くぞ」


 俺にもたれ掛かる凛恋の肩を揺する。凛恋はムウっと顔をしかめて首を軽く振る。 


「あと、一〇分……」

「一〇分も寝たら、バス出ちゃうだろ」


 肩を叩いてさっきよりも強めに揺する。それでも起きない凛恋の顔を覗き込んだ時だった。


「――んっ!?」


 ニッと歪ませた凛恋の唇がサッと近付いて俺の唇に触れた。

 俺のシャツの襟を掴んでしっかり引き寄せた凛恋はゆっくり唇を離して、俺の顔を見てニヤリと笑う。


「おはようのチューしちゃった」

「……お、起きてたのか?」


 俺が焦って聞き返すと、凛恋はニコニコしながら軽く首を振る。


「ううん、凡人が声を掛けてくれるまでぐっすり寝てた。でも凡人が起こしてくれたらなんかすっきり目が覚めちゃって。だけどこのまま起きるのも嫌だったから、チューしようかなって」


 凛恋から顔を離した俺は呆然と座り込んでいて、バスが停車した反動で体を揺すられ我に返った。


「いーでしょ? 彼氏のために愛情込めたサンドイッチを作ったんだし、これくらいのご褒美が貰っても」


 唇に人差し指を当ててニコッと笑った凛恋は立ち上がる。俺も慌てて立ち上がり、笑って振り返りながらバスの出入り口まで歩いて行く凛恋を追い掛ける。


 凛恋にからかわれることは多々ある。

 でも、バスの車内という公共の場所での出来事でいつもよりも全身を駆け巡る熱が熱い。


 バスから降りた俺達は、白い外観の建物を眺める。

 俺が小五の時に来た時はもっとくすんでいたイメージがあるが、それ以降に外壁を塗り直したのかもしれない。


 この宿泊施設はいわゆる『少年自然の家』と呼ばれる施設で、国が補助金を出して運営している施設。


 この少年自然の家は様々な活動に使用されるが、大きな特徴がある。

 施設の使用料がほとんど無料ということだ。

 ただし、学校教育法という法律の第一条に規定されている区分に入った学校の生徒という制限はある。

 でも、普通に何処かの民間の宿泊施設を借りるより遥かに安上がりに出来る。


 実際、今日の昼飯になる弁当、あとは夜の野外炊飯と朝の弁当、それから使用するシーツと枕カバーのクリーニング代金等を諸々含めて一人当たりの費用が二〇〇〇円を切っている。


 俺の場合は強制参加で二〇〇〇円を払わされているという状況で高く付いているが、普通に行事で使用するならかなり安い。

 それにこの少年自然の家には体育館も運動場もあるし、部活やスポーツ少年団の合宿もやれる。

 まあ、ものすごく良い点を並べてみたが、どの点もあまり俺には関係ない。


「初めて来たけど、なんかもっと学校っぽいのかと思ってた」


 二階建ての建物を見て凛恋がそんな感想を述べる。

 確かに、学校行事で使う国と地方公共団体が運営している施設と言ったら、もっと堅い雰囲気なのではと思う。


「八戸さん、おはよう」

「あ、先輩おはようございます」


 ボケッと見ていた凛恋に、爽やかな笑みを浮かべる眼鏡男子が近付いてくる。

 その後ろには眼鏡男子と同じジャージを着た男子が数名と、凛恋と同じジャージを着た女子が数名立っている。

 どうやら刻雨の生徒達らしい。


「初めまして、私は刻雨高校二年で生徒会会長をしている逸島真吾(いつしましんご)と言います。今日はよろしくお願いします」

「どうも、刻季高校一年の多野凡人です」


 銀縁眼鏡で黒髪短髪。いかにも真面目そうで爽やかな人で、その見た目のイメージに違わぬ爽やかな笑顔を向けられる。

 そういう外交的なやりとりはうちの生徒会の人間とやってもらいたい。


「君があの……」

「あの?」

「いや、八戸さんととても親しい男性が居るって噂を聞いていたから。八戸さん、最初は学校毎に固まっていた方が良さそうだから一緒に行こう。向こうにみんな居るから」

「はい。じゃあ凡人、また後でね」

「ああ」


 凛恋が手を振って歩いて行く。それを見送り、俺は小さくため息を吐いた。

 この宿泊研修、凛恋が居なければ正に地獄だった。そして、凛恋の居ない今は地獄だ。


「凡人くん、おはよう!」

「おはようございます」


 これからどうしようかと考えていると、横から田丸先輩に肩を叩かれ声を掛けられる。

 田丸先輩は膝丈のレギンスにTシャツというカジュアルな服装で、さっきの刻雨の生徒会長に負けないくらいの爽やかな笑顔を浮かべている。


「もう向こうでみんな集まってるよ」

「分かりました」


 凛恋が歩いて行った場所とは反対方向に連れて行かれながら、俺は後ろを振り返る。

 そして頭の中にはすぐに悪態が浮かぶ。


 早くこの地獄のような時間が過ぎればいいのにと。

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