【一三《確かにあるもの》】:一
【確かにあるもの】
いつものファミレスで、夏休み前にある定期考査の結果を披露しろと凛恋に言われ、仕方なく試験結果の書かれた紙を出したら、絶句された。
「今回、カズに勝てた科目、数学だけだったんだよなー」
「数学満点の異次元脳に言われると嫌味みたいだな。どうやったらあの意地悪教師の偏屈問題が解けるのか理解出来ん」
向こう側から栄次の声が聞こえ、俺は数学の場所に『一〇〇』と書かれた紙を前に置いた栄次を睨む。
「ちょっ、学年順位二位ってどういうことよ! しかも全部九〇後半って……」
「今回は問題が俺に合ってただけだ。いつもは一〇位くらいだし」
そう言うと、栄次が苦笑いを浮かべて自分の紙を見る。
「俺は今回三位だったからなー。化学の八七が無かったらカズに勝ててた」
「俺は別に勝負してない。今回みたいに運が良くなかったら、全部九〇後半なんて採れるわけがないからな。で? 凛恋も期末考査の結果出たんだろ?」
「見せたくない」
「俺の見といて自分の見せないとは卑怯だぞ。ちなみに赤城さんは?」
渋る凛恋を置いといて赤城さんに話を振ると、赤城さんは遠慮がちに結果の書かれた紙を差し出した。そして、俺と栄次は結果を見て戦慄した。
「「全科目満点!?」」
綺麗に並んだ『一〇〇』という数字に腰を抜かす。見た目からして頭が良さそうには見えたが、まさか全科目満点とは思わなかった。
「栄次。とんでもない人を彼女に持ったな」
「ああ、希が頭が良いのは知ってたけど、全科目満点ってのは驚いた」
そして、俺が凛恋に視線を向けると、凛恋はビクンと体を跳ね上げた。
「ほら、見せてないの凛恋だけだぞ」
「わ、分かったわよ……」
鞄の中に手を突っ込んでガサゴソと漁る凛恋は、そーっとテーブルの上に紙を置く。
「順位は八三位。学年全員で二四〇人ってことは十分良い数字だろ」
「それ、嫌味にしか聞こえないんだけど」
「でも、家庭科が満点って凛恋らしいな」
炊事洗濯が得意な凛恋らしい。そして視線をずらしていくと、もう一つ満点の科目を見付けた。
「満点もう一つあるじゃないか。保健体育って、運動得意だったのか?」
俺が紙から凛恋に視線を向けると、凛恋は真っ赤な顔をして固まっていた。
「凡人、まず言い訳させて」
「何の言い訳だよ」
「保健体育のテスト、選択問題ばかりで適当にやっても結構点が採れるの」
「だから、何の言い訳だよ。満点は凄いじゃないか、言い訳なんて必要ないだろ。保健体育も実技の成績がなんとかなれば、俺もよかったんだが……」
そう言いながら、紙の下の方に視線を向けると『体育実技』という文字が見えた。その横の数字は七〇と書かれている。
「実技は別なのか、じゃあ筆記が得意なんだな」
そう言い切ると凛恋が真っ赤な顔のままそっぽを向いてアイスティーを吸い始める。そして、無言を決め込んでしまった。
俺は栄次に視線を向けてみたが、呆れた笑顔を向けられた。
栄次の隣に居る赤城さんにも視線を向けてみたが、赤城さんはちょっと困った笑顔を俺に向けていて、結局二人とも明確な答えはくれなかった。
ファミレスでの期末考査成績披露会が終了し、いつも通り俺の家に到着する。そして、いつも通り凛恋と一緒に台所でお茶の用意をする。
丁度その時、さっきの成績披露会で凛恋が不自然な態度をしていたのを思い出した。
「凛恋、そういえばなんでさっき黙ったんだよ」
そう話を切り出した瞬間、凛恋は体をビクッとさせて行動を止め、何事もなかったようにお茶の用意を続ける。
完全に無視された。そう感じた時、背中にスッと寒気が走るのを感じた。ヤバイ、嫌われ――。
「ごめん! 今の無視は無し! ホントごめん!」
前から俺に抱きついた凛恋が、頬を俺の胸に付けてギュッと締め付けたまま謝る。凛恋の体温を感じて、俺は更に背中にゾッとした寒気を感じる。
凛恋の体が震えているのが伝わり、その震えから凛恋の恐怖を感じたからだ。
「ごめん、嫌なことだったんだな」
「ううん、大したことじゃないから大丈夫」
「でも、凛恋……震えてる」
「……これは、凡人のこと無視しちゃって、凡人に嫌われたかと思って、そしたら凄く怖くなった」
俺は凛恋の背中を優しく撫でた後、凛恋に左手の薬指を見せる。すると凛恋は、俺の左手の薬指に自分の左手の薬指を当てた。
お互いの指にはめられた指輪がカチッと音を立てると、凛恋の体の震えは収まった。
「あのね――」
「嫌なことなら言わなくていい」
凛恋が話し出す前に俺がきっぱりそう言い切る。凛恋が嫌な思いをするなら、聞く必要はない。そんなことを一瞬でも聞いてしまった自分が最低だと思った。
「違うのよ。学校でもね、成績を見せ合ったの。でも私の周りで頭が良いのって希くらいだから、みんな気楽な感じでそんなもんよねーって話してた。でね、横からクラスの男子に言われたの。八戸は知識はあるけど実践は下手なんだなって」
「はぁ? 知識? 実践?」
「ほら……保健体育の筆記って、性教育があるじゃない? それでからかわれたの」
「そいつ誰だよ」
「いや、大したことじゃないか――」
「俺の彼女にそんなこと言った奴を許せるか!」
凛恋にそんなことを言った奴を許せる訳がない。何が知識はあって実践は下手だ。立派なセクハラじゃないか。
「良いのよ。多少の下ネタとかは女子も話すし。それに、気にしたのは言われたことじゃなくて、凡人に思われたくなかったのよ。変態だって」
「凛恋が変態だったら俺はド変態だな。俺は中一から保健体育の筆記は満点以外採ったことないぞ。それに体育の実践は昔っから苦手だった。だから、俺は実践が下手くそなくせに知識だけあるド変態ってことになる」
慰めにならないのは分かる。でも、自分より酷い奴が居れば、多少は凛恋の心も軽く出来るかもしれない。
「それに学校のテストで満点を取るのは凄いことだ。俺は満点採った凛恋を凄いとは思うが、変態だとは思わない。保健体育の成績が良かったら変態とか、そんな中学生みたいなアホなことを言ってる奴のことは気にするな」
凛恋は一生懸命テストを受けて満点を取れたんだ。それなのに、そんな凛恋を茶化すなんて許さない。
しかも、そんな話題でなんて、今すぐにでもそいつを八つ裂きにしてやりたい。
凛恋は俺の顔を見上げてツンと唇を上に向ける。俺はその唇にそっと唇を重ねた。
凛恋がキスをねだるときは、ちょっとだけ遠慮しがちで可愛らしい。その凛恋の体をキツく抱き締める。
前に栄次と、凛恋と一緒の学校に行きたくないか、という話をした。
その時は別がいいと言ったが、今回は、一緒の学校がよかったと心の底から思った。凛恋が嫌な思いをするのを、もしかしたら防げたかもしれない。
「プッハァッ……凡人、息……止まりそう」
「ご、ごめん……」
つい時を忘れていた俺に、赤くなった顔で凛恋が言う。そして、凛恋は俺を抱き締める手に力を入れた。
「凡人に抱き締めてもらったら、どうでも良くなったわ。……ホント凡人って凄い。凡人に抱き締めてもらうだけで嫌なことがどうでも良くなって、凡人とチューしたら、頭の中が幸せでいっぱいになる」
凛恋は強くギュッと俺の体を抱き締めた後、ゆっくりと離れて俺の左手を握る。
両手で俺の左手を広げ、凛恋は指輪をうっとりと眺める。凛恋の柔らかい人差し指が薬指をなぞり、指の腹が指輪に引っ掛かると、凛恋の指は優しく指輪を撫でた。
「もうすぐ、夏休みね」
「そうだな」
「今までも学校に行かなくていいって意味で夏休み楽しみだったけど、今年はチョー楽しみ。色んな所行こーね!」
「……手加減してく――」
「喜川くんと希と私で引っ張り回すから!」
コップを持った凛恋はハッとした表情で俺を見る。
「今日は夏休みの計画を立てるわよ!」
「いや、まだ早――」
「良いのよ! 早めに考えとけばいっぱい色んなこと出来るじゃん!」
俺は凛恋に手を引かれ、いつも通り俺の部屋に引っ張られていった。
「今日、赤城さんと夏休みの計画を立てるって言ってたから、栄次も覚悟しといた方がいいぞ」
「夏休みの計画を立てるのに何の覚悟が必要なんだよ」
「凄いテンションが永遠と続くから酷く疲れる。……はぁ~」
机の上に体を預けて大きく息を吐く。
次の日、学校で栄次に注意喚起をする。前の日に凛恋がずっと夏休みの計画を立てていて、後半の方は俺は疲れ果てて凛恋に体を揺すられながら話を聞いていた。
俺は基本的に何処かへ行こうという熱意が無い。だから凛恋とは一緒に居たいとは思うが、何処かに行きたいとは思わない。
凛恋は色々と計画を立てていたが、よくそうポンポンと行く場所やイベントが出てくるものだ。
夏休みというのは、暑いから授業が出来ない、という理由以外に『普段の学校生活では出来ないことを体験する』という目的もある。
その点でも、今年の夏休みは、夏休みらしい夏休みになりそうだ。
「夏休みかー、希と何処に行こうかなー」
「そうやってクソ暑い夏に外出することを楽しみに出来る栄次が羨ま――」
「あの、タダノカズトくん居ますか?」
教室にその声が響いてシンと静かになる。
「あのー、タダノカズトくんは……あっ! 居た!」
教室の出入り口で、地味なセーラー服を来た女子生徒が教室の中に向かって手を振っている。
「凡人のことじゃないか?」
「俺は多野凡人だ。タダの凡人じゃない。そもそも売買されてない」
「いや、字を読み間違えてるだけだろ」
栄次の指摘に反論すると、すぐに反論が返ってきた。しかし、俺にはその反論さえも覆せる主張がある。
「第一、女子が俺に用事があるわけ無い」
この学校で、俺に話し掛ける女子は居ない。遠くから中傷を浴びせる女子ならごまんと居るが、俺と会話しようなんて気を起こす人間が存在するわけないのだ。
「あの、喜川くん」
「なに?」
「その、あの二年生、そっちの人に用事だって」
遠慮がちに栄次へ話し掛けた女子が俺を指さす。ちなみに人差し指は人を差す指って書くが、人を指さす行為は失礼になる。
指さすという行動は、優位な立場の人が自分より劣っていると認識した人へ向ける行為だ。だから、その行為は暗に相手をバカにしているということになる。
……いや、待てよ? 俺はスクールカースト最下位で、俺を指さした女子はおそらく中位くらい。中位と最下位なら、最下位の方が劣っている。
そう考えると、女子が俺を指さした行為はごく自然なものだ。
まあ、女子の礼儀とか一般常識を危惧する立場でも無いし、とりあえず出入り口の女子、いや先輩に視線を向けてみる。……あの人、誰だっけ?
「カズ、先輩を待たせるのはマズいぞ」
「あ、ああ」
栄次に促されて席を立ち、正体不明の先輩へ近付く。俺の悪名は上級生にも伝わっていたのか。
悪名と言っても、俺は何も悪いことしてないけど。
「久しぶり。この前学校で見掛けて、高校生なんだってビックリしちゃった。それに年下って言うのも本当にビックリ」
何が面白いのかクスッと笑う先輩は、異様に眩しい笑みを浮かべる。
それにそもそも、久しぶりも何も初対面だ。
「あっ、もしかして覚えてない?」
「……すみません。上級生と話す機会が無いので、人違いだと思いますが」
「牛焼肉弁当とミックスサラダ。合計六七〇円になります」
その言葉を聞いて、そういえばちょっと前に行ったコンビニで、強面お兄さんに絡まれていた女性店員さんが居たのを思い出した。そういえば、顔はこんな顔だった……ような?
「あの時の、女性店員さん?」
「そう! あっ、私は二年の田丸栞(たまるしおり)。タダノくんは名前、合ってる?」
「俺は多野凡人です」
「ごめん! 名前、間違えてた!」
「いえ、よく間違えられるので」
日頃はただのぼんじんと言われるのだから、タダの凡人になってまだ個人を特定出来る情報があるだけマシだ。
「多野くんね。覚えた!」
「はぁ……それで先輩、俺に何か?」
先輩が一年の教室に来てるだけで目立つのだ。さっさと話を終わらせてほしい。
「放課後、職員室に来てくれる?」
「え? なんで職員室に?」
気付くと先輩の少し後ろに、鬼のような顔をした、生徒指導部の教師が腕を組んで立っている。
「つべこべ言わずに来い」
「は、はい!」
有無を言わさない低く圧のある声にそう言われれば肯定しか道は無い。肯定以外の意思を示した瞬間、おそらく俺は首が飛ぶ、物理的に。
「じゃあ、また放課後ね」
手を振って先輩が帰って行くのを見送り、俺は嫌な視線を集めながら席に戻って腰を下ろす。
「なんだって?」
「職員室に呼び出された」
「は? カズ、何かやったのか?」
「俺は良いこともしてないが悪いこともしてない」
「そうか。案外良いことかもしれないな」
「いや、人と関わって良いことなんて無い」
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