Epilogue 〜そらのいろ〜
にじさめ二八
Epilogue 〜そらのいろ〜
「病室の外からたくさんの子供の声が聞こえるわ。あなたにも聞こえる?」
僕はそっと頷いた。無邪気な歓声は、お見舞いにきた子供達か、もしくは小児科に入院している子供達が中庭ではしゃいでいるのだろう。
幸せな日々の光景がすぐそこに広がっている。叶うならば君と一緒にその光景を眺めてみたい。
いや、そんなことを望むだなんて、僕はまだまだ未熟だね。
「どんな子達なのかしらね。たけちゃんと同じくらいの子供達かしら?」
僕の掌に乗った君の指。その感触と熱に意識を向けた。
違うよ、たけちゃんはもう中学生だ。あんなに無邪気な声で駆け回っていたのはずっと前のことで、今は陸上部で凛とした顔で走っているんだよ。
「きっとまだまだ遊び足りないのね。もうそろそろお夕飯の時間でしょうに」
その言葉を聞いて、僕は手元に転がっている小さなゴム製のおもちゃから、金平糖のように凸凹した形を選んで手に取った。
すると君は僕の手を探り出し、握られていた凸凹をじっくりと触る。
「まあ、もう空は赤いの? じゃああっという間に暗くなるわね。美智子とたけちゃんもそろそろ迎えにくるかしら」
君と付き合い始めた時のルールだ。球体は青。四角は黄。トゲトゲは赤。
生まれつき視力が無い君に少しでも寄り添うため、そして少しでも君が近づくための大切な形だ。
青かったり、かっこよかったり、君に似合う柄だったり、安全だったり。そんな時は球体。
赤かったり、鮮度が悪かったり、たけちゃんが表彰台に立てなかったり。そんな時は凸凹。
君と結婚して五十年が過ぎたけれど、僕らは幸せだった。時には喧嘩もしたけれど、数えるほどしかない。一番最後の喧嘩は何だったか憶えているかな? 僕が海釣りで鯛を釣ってきたと君に話した時だ。帰り道で君にもらったマフラーを失くしてしまって。僕がそれを正直に伝えたら、君は魚を触りながら言ったんだ。「この魚、鯛じゃなくて鯖じゃない!?」って。おかしかったよね。あの時の話をすると、君は今でも怒る。
でも、もうすぐでそれも終わってしまう。僕はそれが悲しいよ。美智子、たけちゃん、間に合うだろうか。
「ねえ、あなた」
ふと、君が話しかけてきた。
「空は、赤いのよね」
僕は頷きながら、今度は球体を渡した。
「憶えているかしら。昔、今の天気を教えてって言ったらあなたは球体をくれたわ。でも、私が天気を聞いた時は夜だった。あの時は不思議に思ったわ。夜の空って青いのかしらって。子供の頃に教わった色とは違うなーなんて思ったのよ」
その時のことは憶えているよ。僕の、君への理解がまだまだ足りないと感じた出来事だったから。
だから、君に謝ってきちんと教えた。
「その後であなたが改めて教えてくれたのよね。夜の空は黒。私が唯一見たことのある色と同じだよって」
黒。それは君に伝えないよう、意識的に避けていた言葉だった。
君が唯一知る色。昼夜も関係なく、季節も、年月も、美智子が生まれても、一緒に笑っても、背を向けて心を閉ざしても、君を常に包む色だったから。
でも、その考え自体が君を理解できていなかった証だった。きちんと教えてほしいと、初めて喧嘩をした日だった。
あの頃は僕が馬鹿だったんだ。でも、今ははっきりと言える。黒は、好きな色になった。
「私が知っている色は黒だけ。自分の顔も見たことないし、あなたの顔も見たことがない…………でもね、それが逆に良かったと思うこともあるのよ」
徐々に君の声が小さくなってきた。美智子もたけちゃんも間に合わないかも知れないな。
でも、僕は君と二人きりでいる時が何よりも幸せだから。これはこれで良いか。
「あなたが夜の色をきちんと教えてくれた時、ああ、この人で良かったって。魚の嘘をついたときも、マフラーを失くしたって正直に伝えてくれる人で良かったって…………これまでの人生で、あなたを何度も好きになれるんですもの」
僕もだ。君のために何をしたっていつでも喜んでくれる。心から感謝してくれる。僕だって何度も、今でも、君に恋をする。
「ねえ、教えてほしいの…………空は、本当に赤い? 嘘はついていない?」
…………ごめんね。もうベッドの上に横たわる僕の目は、ほとんど何も見えていない。人工呼吸器に邪魔されて、声を届けることもできない。三日前まではお腹の空き具合で何となく時間も読めたのに、今では空腹も苦しさもほとんど感じないんだ。
唯一出来るのは、手元の形を手にすることだけ。
「ごめんなさいね。あなたの表情が分からないから、いつお別れになってしまうのか怖くって」
僕の方こそごめんよ。今度こそ、今見えている色をきちんと伝えるよ。
いつまでも、僕に恋をしてくれるように。
「ねえ、何色か教えてちょうだい」
僕は最後の力を振り絞って、君の手を取った。
<了>
Epilogue 〜そらのいろ〜 にじさめ二八 @nijisame_renga
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