第5話 珠姫の告白
「お待たせ、珠姫」
煌と鈴里との話を終えた巧は珠姫の待つ校門へと向かった。
そこまで時間はかからなかったとはいえ、それなりの時間を待たせたのだが、珠姫は嫌な顔一つせずに待っていた。
「お疲れ様。じゃあ行こっか」
そう言いながら珠姫は一歩二歩と歩き出すが、その歩みはすぐに止まる。
「やっぱり、ちょっとだけ話していかない?」
珠姫はそう言い、公園の方に視線を向ける。
今日はこの後、帰宅してご飯を食べてから妹のまつりと練習をする約束をしている。
ただ、特に時間を決めているわけではなく、急いで帰らなければいけないわけではない。
「……ちょっとだけなら」
珠姫の提案に巧は承諾し、二人はそのまま公園に向かった。
今日は以前と違って座って話すわけではなく、公園の周りを歩いていた。
そしてしばらく無言のままゆっくりと歩いているが、やがて珠姫は口を開いた。
「二人、何かあったの?」
切り出してきた話題は先程の煌も鈴里のことだった。話題に困った末に絞り出した話題のようだ。
「うーん……、まあ言っても問題ないとは思うけど、流石に勝手に話すわけにはいかないからなぁ……」
「あ、そうだよね。ごめん」
一応相談に近い話だったため、それを軽々しく勝手に話すわけにはいかなかった。
ただ、珠姫も言ってからそれに気がついたようで、それ以上の追及はしてこなかった。
それから、話題に困ったのか珠姫は口を噤む。
珠姫と帰ることは度々あったが、こうやって『公園で話そう』と言うのは、夏の大会前と合わせて二回目だ。その際には悩みを話していた。そのため、今度は巧の方から切り出した。
「何か悩みでもあるのか?」
巧はストレートに尋ねる。遠回しに聞くよりも、直球で聞いた方がスムーズに話が進むと思ったからだ。
珠姫は「ええと……」と言いながら困った表情を浮かべたが、やがてポツポツと話し始めた。
「最初はさ、プロになりたいって考えてたし、プロになれるなら野球を続けていきたいって思ってるけど、プロになれなかったらどうしようかなって」
珠姫は最後に曖昧な表現をしたが、深呼吸をすると言い直した。
「プロになれなかったら野球を続けようか悩んでる」
唐突な告白に、巧はどんな表情をすれば良いのかわからなかった。
思わず歩みを止めると、珠姫も数歩先で止まる。しかし、こちらを向こうとはせず、その表情はわからなかった。
「私はね、正直グラウンドに戻れると思ってなかったし、自信もなかった。私の高校生活はマネージャーがほとんどで、たまに思い出くらいに試合に出れるだけだって、心のどこかで思ってたんだ」
選手に戻りたいと珠姫は言っていた。
ただやはり、約三年間も治らなかったイップスを、克服できるとは思えなかったのだろう。
戻りたいと思いながらも、戻れないだろうと心の中では思っていたと言うことだ。
「でも、私は戻れた。それは巧くんのおかげで、美雪先生のおかげで、明鈴のみんなのおかげ。あと、美波が発破をかけてくれたっていうのもあるけど」
練習試合の際、珠姫と皇桜の和氣が何か話している様子は目に入っていた。その際のやり取りが、珠姫の心の中に変化をもたらしたのだろう。
しかし、そのことが何故野球を辞めるという話になるのか、巧はさっぱりわからなかった。
「イップスを克服したからこそ、これからも野球を続けれるんじゃないのか?」
「うん、続けられるね」
珠姫はそう言いながら振り向く。
話し始める前の話題に困っていた時よりも、サッパリとした表情でその顔には笑顔までもが見えた。
「でも、私が明鈴に来てなかったら、……巧くんが明鈴に来てなかったら、美雪先生が顧問じゃなかったら、皇桜と練習試合がなかったら、美波が皇桜にいなかったら、もし明鈴にいる誰か一人でも欠けてたら、私はまだ野球ができなかったかもしれない。タラレバの話だけど、私の野球人生はもう終わってたかもしれない」
巧は自分自身何かしてあげれたとは思っていない。むしろ他に監督がいればもっと早く克服できたのではないかとさえ思う。
ただそれも、巧がいなければ克服できずに、マネージャーをしていた可能性だってあった話だ。
珠姫がそう言ってくれる以上、巧は黙って話を聞いた。
「でもやっぱり、プロになりたいと本気で思ってる。アピールできるチャンスがあればアピールするし、プロ志望届けを出してプロになるために最善は尽くすつもり。その気持ちは変わらない」
野球は高校まで。プロ入りできなければ別の道に進む。
そういった選択をする人は確かにいる。もし大学に行っても、社会人野球に行っても、何歳になってもプロ入りできないことなんである。
そして、プロ入りしても長くても四十歳で別の道に進む。そこまで現役で戦えていれば、プロの監督、コーチや実況解説など、野球の道で生きていくことはできるが、平均すると約三十歳には引退するほどで、早ければ高卒一年目に辞めることだってある。
長く現役を続けた選手でも五十歳だ。
夢も大きい分、不安定な職業だ。
もしこれから先もプロになれなかったら。それを考えると別の道に進むのも一つの手段だ。
ただ、珠姫はそういった消極的な理由には思えない。
珠姫が続ける言葉を、巧は黙って聞いていた。
「まだ色々どっちにするかは考え中だけど、プロになれなかったら教師かカウンセラーになりたいって思ってる。もちろんそれも簡単なことじゃないけど、美雪先生みたいに生徒に寄り添える教師になりたいし、私みたいにイップスを抱える人とか、それだけじゃなくても悩みを抱えてる人の助けになりたいと思ってる」
珠姫は今まで抱えていたことがあるからこそ、自分と同じような子供たちの力になりたいということのようだ。
「一番はもちろんプロになりたい。プロになって活躍したいっていうのもあるけど、私みたいに挫折した人でも、やれるだよってことを伝えたい」
そう力強く言う珠姫に、巧は少し感動してしまった。
巧は自分が野球をしたいからという理由で、中学時代はプロを目指していた。
もちろんそういう人を否定するわけでもないし、『野球をしたいから』という理由でプロになるまで成長することは素直にすごいと思える。
ただ、自分のためだけじゃなく、多くの人に夢を与えるであろう珠姫の考えも、間違いなくプロになる動機として素晴らしいと思えることだった。
挫折したとは言っても、珠姫は元々すごい選手だった。
ただ、そのすごい選手になるまでに努力を積み重ねてきた。すごい選手が挫折したけど元に戻ったという簡単な話でもない。
「……それなら、ますますプロになるために応援したいよ」
巧ができることは多くはない。
それでも全く何もできないわけではない。
プロになりたいというのは夜空も一緒だ。この二人をプロに送り出すためにも、全力で力を尽くしたい、と巧は思った。
「私、頑張るね」
珠姫はそう言いながらニッコリと笑った。
プロになりたい。
そう思って目指すこと以外にも、もしなれなかった時のことをしっかりと考えている珠姫を見ると、やはり歳上なのだと実感させられる。
巧はもし自分が珠姫と同じ状況でも、プロになれなかった時はその時にしか考えられないと思うから。
「話聞いてくれてありがとう。……口にする決心もなかったけど、ちゃんと話せて良かったよ」
珠姫はもう話が終わったのか、「帰ろっか」と言い、先に進んで行く。それに着いていくようにして、巧も公園を後にした。
ただ、帰りの道、巧と珠姫が分かれる道までは五分くらいの時間がある。珠姫は憑き物が落ちたように話始めた。
「そういえば前は好きな人いないって言ってたけど、最近明音ちゃんと仲良いよね? 実は付き合ってたりするの?」
唐突な話題の転換に、巧は呆れながら答えた。
「ただの友達。……まあ幼馴染かな。珠姫に会う前の幼稚園の頃だけど、近所に住んでて仲良かったのもあって、最近話すようになっただけだよ。司とも仲良いし」
特に隠す必要があることでもないため、巧は正直に話した。
女子に免疫がない……というより、明鈴の選手たちとはあくまでも監督と選手の関係のため、女子として意識することはほとんどない。巧も思春期のため、全く意識しないと言えば嘘にはなるが。
ただ、明音は他校のため、選手としてではなく友人という意識が強い。
そういった知り合った頃は野球を抜きにして仲の良かったため、他の女子よりも意識する場面は多い。
それでも、今まで恋愛をしてこなかった巧としては、女子として意識してしまうだけで、それが恋愛感情なのかと言えば違うと思うものだった。
「なーんだ。……明鈴の子たちも可愛い子多いと思うのに、巧くんってそういう感情なさそうだよね?」
「まあ、な。俺は監督だし。そりゃ一応俺も男だから全く気にならないわけじゃないし、逆に全くないそれは失礼だと思うけどさ。ただ、もし恋愛感情とか持ったら無意識のうちに贔屓してしまうかもしれないし、それは絶対にしたくない」
自分の中で考えていたことを珠姫に伝える。
今まで言う必要もなかったため言ってこなかったが、誰にどんなことを言われても、監督であるうちは選手に恋愛感情を持つつもりはない。
感情というものは理屈ではないため絶対とは言えないが、少なくとも巧はそのつもりだった。
「へー、やっぱり巧くんも男の子なんだね」
意味ありげにそうに珠姫は「ふーん。へー」と言い、巧の顔を覗き込みニヤニヤとしていた。
何故か少し気恥ずかしくなり、巧は目を逸らす。
「だから何?」
少し怒り気味に巧は言う。本気で怒っているわけではないが、恥ずかしくなってしまい、語気が強くなった。
「私、もう選手じゃないよ?」
ちょうど二人の家までの分かれ道。
珠姫は立ち止まると、突然そんなことを言った。
その言葉に巧も立ち止まり、「え?」と後ろにいる珠姫の方に顔を向けると、ふざけた表情ではなく、真剣な目で巧を見ていた。
「私は練習に参加させてもらってるだけで、もう試合に出るわけじゃないし、贔屓とかもないじゃん?」
確かに珠姫の言う通りだ。
基本的は一、二年生が中心のため、珠姫や夜空、由真の三年生は巧の言い分からすると除外される。
練習試合などに出る可能性が全くないとは言い切れないが、その場合は目的によって出すため、巧個人の感情はほとんど介入しない。
巧が呆然とする中、追撃するように珠姫は言い放った。
「私、巧くんのこと好きだから」
その言葉に巧の頭は真っ白になる。
今まで、こういった感情をまともに向けられたことがなかった。中学時代に告白されたとしても、それは『野球ができる藤崎巧』を好きなだけか、『日本代表にも選ばれる藤崎巧』を彼氏にしたいというだけで、巧個人を好きになったものではなかった……と思う。
全員ではないかもしれないが、裏でそのようなことを話しているところを聞いてしまったことがあったから、それだけ臆病にでもなっていた。
しかし、珠姫は違う。
お互いに野球は大切だが、巧は監督をしているだけで、それが世間から評価されているわけではない。ただの『野球ができる高校生』というだけだ。
それでも好きと言われるということは、藤崎巧という人間を好きでいてくれる証拠だ。
巧は言葉を失い唖然とした表情を浮かべていると、その顔を見た珠姫は笑い始めた。
「巧くん、驚きすぎだよー」
そう言われて巧は我に返る。
からかわれたのかと思い小声を言いたくなったが、珠姫の言葉によってそれは遮られた。
「本気だよ」
表情は一変して真剣なものに戻った。
これが『実は嘘だった』と言われれば、女優を目指した方が良いと思うほど本気の顔をしていた。
「まあ、巧くんは高校の間は彼女作らなさそうだよね。野球に集中したいって言って」
心の中を見透かされてるように言い当てられる。
巧は自分自身、両立できるほど器用ではないと思っている。少なくとも選手とは恋人関係になるつもりはなく、選手でなくとも自分が両立できると思った場合やそれを度外視しても好きだと思える人でない限り、彼女を作ろうと思っていなかった。
「今すぐ返事が欲しいわけじゃないよ。もちろんもらえたら嬉しいけど。しばらくは私も野球部にいるとは言っても、卒業したらたまにしか会えないから、牽制みたいなものだよ」
珠姫は巧が話す隙も与えずに話し続ける。
「私と付き合っても良いって思えるならいつでも返事して欲しいけど、ダメならまだ言わないで欲しい。二年後……巧くんが卒業する時にはハッキリとした返事が欲しい。良くてもダメでも。……ズルいかもしれないけどさ」
寂しそうな表情を浮かべる珠姫。
巧は少し考えた後に口を開いた。
「ごめん、珠姫の気持ちには応えられない。保留にするにしても、それってキープしているようなものだし」
巧はハッキリと断った。
二年後に答えると言ったとしても、それは仮に誰かに振られたとしても、珠姫に乗り換えるということができてしまう。
今は少なくとも付き合えるという返事ができない。
もし女子野球部の監督をせずに珠姫に告白されていれば良い返事ができたかもしれないが、監督をしている今では状況が違う。
告白されて意識しているのは事実だが、だからと言って二年後に良い返事ができるという約束もできない。
珠姫だって良い人ができるかもしれない。巧もこれから誰かを好きになるかもしれない。
そういう可能性がある以上、二年後の約束はできない。
「……そっか」
「ああ……」
無言で俯く珠姫だが、巧はどうすることもできない。
たった今告白を断ったというのに、できることは何もないから。
しかし、珠姫は顔を上げると、巧にグイッと顔を近づけた。
「じゃあ、また二年後に改めて告白する。別に他の人を好きになっても構わない。でも私も巧くんに好きになってもらえるように努力するし、好きになってくれたら巧くんから言ってくくればいい。ただ、誰かを好きになっても、二年後に断るつもりでもそれは改めて告白した時に教えて」
結果的には珠姫の最初の提案とは変わらないかもしれないが、それでも二年後に告白するかどうかは珠姫の自由だ。
「珠姫も別に、他の人を好きになってもいいんだけどなぁ」
「それは絶対にない。どんな進路になっても、巧くん以外を好きになる余裕はないから」
珠姫はそう言い切り、巧は根負けした。
ここでダメと言っても珠姫は聞かないだろう。二年後も断ると言い切ったとしても、今の珠姫ならそれでも告白して来そうだ。
「私はこれからアピールしていくよ。……勝手かもしれないけど、練習中はいつも通りにできたら嬉しい。難しいかもしれないけど、気にしなくてもいいから」
「……難しいなぁ」
一度気持ちを聞いてしまったため、いつも通りと言われても意識はしてしまうだろう。
それでも、そう言われただけ気持ちは楽だった。
「それにしても、人通り多くなくて良かったよ。流石に見られたら恥ずかしい」
今更だが、こうやって話をしているのは道端だ。
立ち止まって話し始めてから五分として経ってないが、それでも人が通る可能性だってあった。誰かいたとしても普通に歩きながら話している分には目立たないかもしれないが、立ち止まって話していれば人目についていただろう。
「まあ、それは賭けだったね」
珠姫は笑いながらそう言う。
告白した側よりも、告白された側の方が恥ずかしがっている気がする。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。まつりも待っているし」
珠姫と話している時間も、公園で話したのも合わせて大体二十分くらい。巧は携帯で時間を確認し、そのまま自分の家の方へと向かおうとする。
しかしその瞬間、左腕に柔らかい感触が触れた。
珠姫が巧の左腕に抱きついた。それを理解した瞬間、珠姫は顔を一気に巧の耳元に近づけた。
「巧くん、好きだよ」
それだけ言うと、珠姫は自分の家の方へと走って行った。
腕に残る感触と耳元で囁かれた言葉が、巧の中から離れなかった。
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