こころの位置

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こころの位置

職場のあるビルから一歩足を踏み出した途端、彼の休日は始まった。

黒字で書かれた毎日を淡々と過ごしていつの間に眠りに落ちていた心は目を覚まし、彼の全身へエネルギーを送り出す。


一歩、二歩と交互に足を前に踏み出し、三歩目の右足が地面を蹴り上げる。

こうして彼の帰宅の幕があがる。


浮き上がった身体は地面から離れ、彼を重力から開放した。三歩目の拍子で前に出した左足を伸ばした格好のまま、彼は次第に空へ近づいていく。

今日は生憎の空模様、灰色の重たい雲が空を覆い、降雨の予感に人々は戦々恐々として傘を片手に歩く。一方の彼は雲などには恐れをなすことなく、その灰色のベールへと突入する。


水気を含んだ冷たい空気を切り裂きながら彼は上昇を続け、遂にその幕を突破し、雲に隠れていた真っ赤な夕焼けの空で身体を乾かす。


地上で溜まる鬱屈さとは正反対の穏やかな風がふき、彼の前髪を微かに揺らした。ここには誰もいない。静寂に包まれた時間の中で、彼の身体は飛んでいく。


さらなる飛躍を遂げようとする彼の心の中で、ある想像上の休日風景が浮かぶ。


先日ネット上で見つけた喫茶店の窓際の席で、オールドファッションドーナツとコーヒーを楽しみながら、店長と常連客の雑談に耳を傾けつつ目を閉じた自分の姿。仕事など遠い宇宙の出来事だと信じてしまえる瞬間。


あの心地よい時間を自分は求めているのだから、このまま宇宙へ飛んでも意味が無い。

そう思って、彼は身体をほんの少し下に傾ける。若干斜め下に向いた全身はゆっくりとではあるが、また雲に向かって進み始めた。


そんな時、自分がこの先通ることになるであろう先の雲から、1人の女性が姿を現した。ボタンダウンシャツにジーンズ、スニーカーと動きやすい格好で雲を突き抜けた彼女は、やがて彼とすれ違う。その瞬間に目が合い、彼女は笑みを浮かべていた。それだけで分かった。だから何も言わない。彼女は彼を通り過ぎ、ひたすらに上昇していく。


再び雲の中へ突入した時、子どもの泣き声がどこからか聞こえた。思わず周囲に目を配ると、一組の男女と小さな一人の子どもが沢山の荷物を抱えて雲を抜けようとしている。子どもは「帰りたい」と言いながら表情をくしゃくしゃにして涙を流し、両親は真剣な眼差しを自分達が進む方向へ向け、子どもをあやしはしない。だが、その手は固く、大事に、子どもの手をそれぞれが握っていた。事情は分からないが、彼は頑張って欲しいと思った。


雲を抜けた。雨が降っていた。彼はずっと手に持っていた鞄から、折りたたみ傘を取り出した。傘を広げて空へ向ける。さっきとは違って乾かす余裕もないから、なるべく濡れないようにしたかった。そこではたと気付く。彼の眼下に映る街が、全く見覚えのない場所だと。


彼は戸惑った。あんまりに休みが嬉しくて帰宅への道を忘れてしまったのかと。


不安は彼の心を重くする。呼応するように身体は重力の存在を思い出し、段々と地面へ近づいて行く。傘が適度に風を受け止め、左右に揺れた。その心地が気持ちよく、不安な彼の心を落ち着かせていく。地面に両足をつけたと同時に、彼は周りを見た。


さて、ここはどこだろうか。何か目印になるものはないか。答えが出る前にくしゃみが止まらなくなった。肌寒さを解消したい。広い通りには人はおらず、車の通行も少ない。そんな時に最初に見つけた喫茶店に思わず足を踏み入れる。


いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。


言われるがままに空いたテーブル席へ座り、机の上で自立する小さなメニューを見る。メニューに並ぶのは幾多の種類のドーナツとコーヒーの名前。天井隅のスピーカーからは、知らない国の言葉の音楽がゆっくりと流れ、時間を形成する。


あぁ、僕はあまりにも来た過ぎて、ここに来てしまったのだなぁ。


自分のはやる心に苦笑を抑えきれない彼は、とりあえず目的を達成しようと、カウンター席の向こうで皿を洗う店主と思しき老人に声をかけた。老人はカウンター席に座る一人の客と話をしていたが、こちらの声に気付いて目を向けた。


オールドファッションドーナツと、ホットコーヒー。ミルクだけください。

抑えきれない笑みは喜びにかわり、彼は目を閉じた。


そうやって彼はたった一人の職場での時間を過ごし、会社の冷蔵庫に入れておいたドーナツは冷たくすると美味しい、という秘訣の有り難さを今も噛み締めている。

社会面で拡げっぱなしにした机の上の新聞に、ドーナツのくずをこぼしながら。

そういう風に残業を過ごすのが楽しいと語る自分を見つめる彼女の呆れた眼差しを感じながら。

自分の意識を絶えず移動させながら。

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