男二人が雪原を歩いているだけ
草森ゆき
ほぼ遭難
ざく、ざく、と新雪を踏みしめる連れ合いは、首だけで振り向き口角を吊り上げる。その奥にはどこまでも真っ白な山が連なり、白黒の枯れた木々がその麓に寝そべっていた。雪はやまない。分厚く灰色の雲は音もなく雪を吐き出して、世界の彩度をじりじりと下げ続けてゆく。
色も音も削れ続ける銀世界の中、途方に暮れたまま棒立ちする私を見兼ねた連れ合いが、雪を蹴り上げながら寄ってきた。首に巻き付けた赤いマフラーが息を呑むほど鮮やかで、彼だけは奇妙なほど浮いている。冷静な顔立ちに似合わない色だったが、冷めた光のような雰囲気自体には噛み合った。雪を払う仕草にすら冷徹さが滲んでいた。
吐いた白い息が散り散りになって消える。伸びた指先が私の髪に積もった雪を払った。それとなく避けて歩き出し、白の山脈ではない方向へ視線を定める。遮るもののない空間に、紙吹雪のような雪が降る。あちらへ進めば海がある、岩礁を削る荒い津波や黒々と渦巻く海面を脳裏に浮かべてから、追い掛けてきた連れ合いを肩越しに覗った。
彼は何かを言いかけたが、その瞬間に強い風が吹いた。横殴りの雪が互いの側面を激しく叩き、思わず顔を反らしたが連れ合いは笑い声を上げた。赤いマフラーがモノクロの中ではためいて、横に降る雪の形を浮かび上がらせる。白が映える色ではないが雪の映える色だった。耳鳴りがする。むき出しの頬を叩く雪の粒が、寒さと痛み以外を連れてくる。郷愁だったかもしれないし、焦燥だったかもしれない。連れ合いだけが寒々しい雪原の上で笑い続けている。
風は徐々におさまった。振り向くと、私と彼のつけた黒い足跡が、時折蛇行しつつ、遠くを目指してぽつりぽつりと続いていた。足跡の先には私達の降りた駅が蹲っている。ずいぶん小さくなった無人駅は無数の雪に遮られ、消し損ねた誤字のように掠れながらそこにある。付近を埋める小振りの山も玩具のようだ。中心を穿って作られたトンネルから、小さな列車が点灯したまますっと姿を現したが、幾許も経たないうちに駅を出て行き、やがては行方がわからなくなる。銀色の幕が下りるかのように、雪が塗り潰して消してゆく。
呆けていると首元を掴まれた。私のマフラーを引っ張った連れ合いは、やはり楽しそうに笑っていた。顎で行き先を示し、返事を待たずに歩き始める。ざく、ざく、と、黒いブーツが白い雪を踏み固めて進んでゆく。茶色のコート、赤いマフラー、雪の積もった乱れた髪、後頭部を見つめていると振り向いた。醒めた色合いの双眸が冬のようだと不意に思う。白か黒か灰色か、寒いか痛いかの景色の手前で、彼はじっと私をまっている。
隣に行こうと走り出すが、雪に足をとられて転んだ。強かに顔を打ち付けて鈍痛が走り、半分ほどは雪に沈んだ。起き上がる前に二の腕を掴まれ起こされる、鈍い色の雲を背にした連れ合いが、呆れ顔で私を見下ろしている。
今度こそ隣に並び、一度視線を合わせた。雪がジャケットについたようで、黒い手袋に包まれた掌が雑な手付きで払ってくれる。それから、白の山脈を右手に、海の方向を目指して歩き出す。向かい風が吹き付けて、阻害するような雪の合間に潮の香りを微かに嗅いだ。目の前は開けている。層のように重なった木々の奥、黒い森を突き抜けた先には何処までも黒い、総てを飲み込む大海が、腕を広げて現れる。
皮膚の感覚が殆ど死んでいた。時間の感覚もあまりない。くしゃみをするが、その音すら聞こえない。自分自身が雪に埋もれて消えかける、しかし連れ合いが鼻で笑う声に引き戻される。海の匂いがすると呟き醒めた目を海の方角へ滑らせる横顔は、白く染まった息を吐き絞りながら瞬きをして、黒目だけで私を見つめる。名前を呼ばれて返事をする、その途端に寒さが痛みを伴い蘇る。まだ歩ける。無言で訴えれば彼は何度か頷いた。
雪はしんしんと、風が止んでも降り積もる。あまりの白さに何処へ向かっているのか忘れかけるが、その度目の端では赤が揺れた。雪原に滲む血痕のように、雪の中で燃えている。
男二人が雪原を歩いているだけ 草森ゆき @kusakuitai
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