賽の目の夜

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賽の目の夜

彼は今日もサイコロを振り、机上に出た目に沿って、夜を生きる。


私は彼と古くからの付き合いを持つ友人で、

彼が不思議な遊びで毎週末、土曜の夜を過ごしているのも当然知っている。

それはいつも夕方、陽が沈みかけた頃合いの喫茶店から始まる。

テーブル席に腰を落ち着かせた彼は、ポケットからある入れ物を持ち出す。

胴の長い立方体の形状を持つそれは、片方に蓋がついており、いつも彼は蓋を開けてはサイコロを取り出す。

そして、それを机の上で転がすのだ。

ここまで聞くと、何か賭け事のような遊びを想像されるかもしれない。

確かにこのサイコロで何の数字が出るのかは重要だ。

しかし、ギャンブルとして数字を当てることが主旨ではない。

彼はサイコロで出た数字の分だけ店をまわり、飲み歩くのである。


どうしてそんなことを始めたのか、明快な理由を私は知らない。

何度か聞いてみたことは当然あるものの、いつも聞くタイミングを間違えてしまう。

例えばいつかのこと、彼がサイコロで数字の5を出した時、私は3軒目のお店で尋ねてみたことがあった。

そのお店はチェーン店が軒を連ねる新宿界隈の中でも、個人でやっていながら、店のスペースがそこそこある居酒屋だった。

そういうお店は駅前から結構歩く距離にあり、しかしそれでも訪れる客はそこそこいて、

私たちは店の片隅にあるテーブル席に腰を落ち着けることになった。

とはいえいまの時代、初めて来た時と比べるとそんなに客はいない。

それでも私を帯同して来店するのはこれで4回目だし、彼としてはお気に入りの店だったのかもしれない。

「前も聞いたことがあるかもしれないけど……」

店員が運んできた飲み物に一度口をつけてから、私は慎重かつ冷静に彼に尋ねた。

なぜ、サイコロを振ってその出た数だけ、飲み歩くのか、と。

「別に……気分……」

と言って微笑を浮かべる彼の頬は赤く、何杯目かのビールを中ジョッキの半分まで減らした。

明らかに酩酊していることが私には分かり、質問に対する答えも真面目に言っていないことを悟った。

しかしそこで憤慨しても仕方のないことなので、私は手に持った烏龍茶を空にし、気分転換にグレープフルーツジュースを頼む。

このようなやり取りを定期的に繰り返していた。

私が彼に何かを聞く時、いつも彼は既に"出来上がった"状態になっているのだ。

だからサイコロについて尋ねた時も、難なくすり抜けてしまう。

4軒まわる時は3軒目で、6軒の時は4軒目、3軒目の時は2軒目で聞いても、常にはぐらかされた。

その度に私はソフトドリンクを空にして、普段の生活以上にお茶を飲むスピードが速くなってしまう。

飲み始めの1軒目で聞くより、多少酒を飲んで気持ちの固さが解けてきたころに確認しようと思った質問のタイミングだったのだが、思惑違いだったようだ。


そもそも私はなぜ彼とお店をまわっているのだろうか。

彼自身、時々は独りで飲んでいるようで、その際に見つけたお店に再び訪れているらしい。

以前サイコロで1が出た時「しゃーない……早いけど、あそこにしよう」とぼやいて、彼は私を地下まで下りるバーに連れて行ってくれた。

その時はさすがに店の雰囲気にのまれ、私は自分のペースを多少崩し、一杯だけお酒を飲んだ。

香りが印象的な黒ビールで、肴として一緒に注文した肉料理の美味しさがひきたっていた。当然飲み終わった後の私の顔は真っ赤になっていたらしく、彼はけらけらと私の顔を指さし、笑っていた。

そういうお店を彼はめぐり歩いて見つけているらしく、一人酒を謳歌しているようだ。

私は仕事で土曜日も働くことがあり、たまの休日にそういう誘いがあるのは有難いのでついつい乗っかってしまうが、

いつになっても彼が私を誘う理由が分からなかった。


「サイコロ、二つにはしないの?」

「え?」

「いつも一個だけ振るだろ。6軒までしか行けないと思うんだけど。二つにすれば、7つ以上はまわれるぞ」

「……それは、面白くないなぁ」

そう呟いた彼の手から、サイコロはゆっくりと離れて机を転がる。

私たちの周囲に存在する重力がその瞬間だけサイコロの周りでよりエネルギーを増し、サイコロが落下するスピードを急激に落としているかのようだ。

机を何度か跳ねたサイコロは、3の数字を出して静止した。

「……イタリア食べたい」

止まったサイコロを見つめながらの彼のつぶやきに、私は「え?」と思わず言ってしまう。

「イタリア、ドイツ、日本でいこう」

そう言って彼はアイスコーヒーの残りを飲み尽くし、伝票を手に持ってレジへ向かった。


ここ二か月、彼からの連絡がなかった。

最初の二週間は私も仕事で忙しかったので特に気にすることもなかったのだが、それが一か月、こえて2週間目に入ると気になり始め、二か月になると何かあったのだろうか、と思うようになっていた。

習慣のようになっていたことが突然無くなると、人間というのは不安になるものらしい。

一方で、彼もまた忙しくしているのではないか、という気持ちが私の中にはあった。それは私の生活リズムがそのようになっていて、自分の基準で考えてしまっている部分が大きいのだが、労働は波のように私たちの生活に侵食して、砂の城を崩していく。

安穏とした彼の週末の時間を何か様々な都合が奪い取っている理由は、考えられなくもなかった。

そう考えてしまうと中々こちらから連絡を入れることも出来ず、土曜の仕事の帰り道、私は買い物籠に缶ビールを一つだけ入れた。


そんな彼から久しぶりに誘われた時、彼の表情は憂いを帯び、疲労感が空気としてその背中に纏わりついているようだった。

都心から離れた23区外の街で飲むというのはかなり珍しく、集合場所の喫茶店に行くのも少し苦労した。

テーブル席で彼と向かい合って椅子に座った時、私は「久しぶり」と言った。素っ気無さを出し過ぎた気がした。

「随分間が空いたけど……どうした?」

「……サイコロを、無くした」

「え?」

彼がいつも使うサイコロは、真っ白い各面にハッキリとした黒点や赤点が彫られた、角砂糖に似たサイズのものだった。

掌に載せた時の感覚、親指と人差し指の二本でつまんだ時のサイズ感、それらが丁度いいサイコロだったらしい。

それを無くしてしまい、ずっと探していたという。

結局今まで使っていたものは見つからず、代わりのものを探したがそれも見つからず、最終的には妥協した。

そんな説明を締めるように彼が取り出したサイコロは、今まで使っていたものより一回り小さくなったものだった。

一個の角砂糖を更に立方体に切り刻んだ、その一部のような。

むしろまた無くしてしまうのではないか。そんな不安を私は勝手に抱いた。

「……別に、サイコロ無しで飲めばいいのに」

「……それじゃ、面白くないだろ」

「面白さ狙って飲んでんの?」

「無いよりかは、いいだろう」

「だからって、サイコロに頼らなくても……」

「いつもは面白くないかもしれないけど、いつかは面白いかもしれない。かといってずっとやってたら、歯止めがきかない。

そういう時、サイコロはちょうどいいんだよ」

そう言って、彼は真新しく小さなサイコロを、机の上に転がした。


夜が一層深くなり、街の電灯の数が少なくなり始めた頃、私は珍しく夜風を求めていた。彼と会うのが久しぶりだったからか、いつもはそんなに頼まないお酒を数杯飲んでいた。

一方の彼は、いつものように飲みながら、普段より足取りが覚束ない。

二人とも酩酊していることは明らかだった。何を話していたのかもだいぶ朧気になっている。

「今日は、飲み過ぎた……」

「あんなんで?」

「俺の限界は、こんなもんなんだよ……」

「……限界が見られて、良かったよ」

唐突に彼が身に着けた小さな鞄から、見覚えのある入れ物を取り出した。

その蓋を開けると、買ったばかりの小さなサイコロが顔を出す。

「なにすんの?」

「今週、月曜まで休みだからさ。明日の分まで、決めるんだよ」

「……行かないぞ、俺は」

「それは、ご自由に……」

と言うと、彼はサイコロを手放した。


あっ、という音が彼の息と共に零れ、

右手から落ちたサイコロは台代わりにした左手を跳ね、重力に身を任せた。

濡れた路面を落ちたかと思えば、生命を得たように路上を進む。

彼はその様子を少しだけまどろんだ眼付きで見ていたが、すぐにその場から動き出し、私の中で過ぎった行動を取り始めた。


「どこ行くんだよ、危ないよ」

私がそう言うと、どんどん遠くなっていく背中から声が聞こえた。

「いくつ出たか、見ないとさ…」

サイコロは路上を跳ねていき、夜の道路を進んでいく。

彼は転がる相手を追いかける。


私も彼を追いかけようとしたが、目の前を車が通り、思わず足を止めた。

ヘッドライトが眩しい。

大型トラックが何台か続いてようやく視界が開けた頃、路上には誰もいなかった。……その後、彼から連絡はない。

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