№101・『思い出』・下

 ピーポーピーポー、と耳慣れた音が間近で聞こえる。


 目を覚ました南野に、救急隊員のひとりが慌てて声をかけた。


「大丈夫ですか!? 自分の名前と今日の日付は言えますか!?」


 どうやらここは救急車の中らしい。南野はあのとき『赤の魔女』に突き飛ばされて歩道橋から落ちたところを救急車で搬送されているようだ。


 ということは、一年弱の異世界での年月は、この世界ではほぼ数分しか経っていないらしい。


 名前と落ちた日の日付を答えると、救急隊員はほっとした表情を見せた。


 ストレッチャーに乗せられた南野は、いつも通りの安物のスーツ姿だ。


 もしかしたら、あの世界で過ごした日々は自分が見ていた夢の中のことだったのではないか……?


 そんな不安が胸をかすめた。


 ふと、なにかを握りしめていることに気付く。


 それは、メルランスから託された『緑の魔女』謹製の短剣だった。


 急いで懐を探ると、『念写機』で映した仲間たちとの写真が出てきた。


「……夢じゃ、なかったんだ……!」


 物的証拠を確認した南野は、目じりに涙を浮かべながらつぶやいた。


 あの輝かしい日々は脳が見せたまやかしではなかった。本当に南野は、異世界で冒険をしてきたのだ。


 救急車は近くの緊急病院へと南野を連れていく。


 どうやらこれから精密検査らしい。


 ほっとして緊張の糸が切れた南野は、そのまま再び眠りについてしまった。


 


「いやぁ、南野くん! ここ最近調子いいみたいじゃないか! 先月は部内でも営業成績二位だっただろう、まさかあのダメ社員がここまでやるとはな!」


 がはは、と笑いながら課長が言う。


 あれから三か月。病院での精密検査も異常なしということで、南野は元の暮らしに戻っていった。


 仲間たちや冒険のことは時折思い出したが、南野は元の暮らしに慣れるのに精いっぱいだった。


 異世界で海千山千を相手に交渉をしてきたおかげか、南野の営業のテクニックは段違いに上がっていた。課長の言う通り、先月は部内でも二位で、今月のノルマも達成できそうだ。


「やめてくださいよ課長、僕は頭を打ってマトモになっただけです」


「がはは! 言うじゃないか!」


「……ねえ、最近南野さんってさ……」


「……なんか、男前度上がったよね……」


「……やっと人間らしくなったっていうか……」


 影から聞こえるうわさ話にも動じない。こんな職場など、異世界に比べたらまだまだユルい戦場だ。


「それでは、僕はこれで」


「ああ、南野くん、明日もがんばってくれ!」


「お疲れ様です」


 残っている社員たちに頭を下げて、南野は自社ビルから出ていった。


 三か月経った元の世界では、もうすぐ春が訪れようとしていた。まだまだ寒い日が続くが、それも徐々に短くなって、あたたかい日が増えていくのだろう。


 春先特有の強い風にコートをはためかせながら、南野は電車に乗り込んだ。夜の車窓に映る自分の顔つきを見て思う。


 あれから、コレクトマニアの方もずいぶんと落ち着いた。憑き物が落ちたかのように『なにかを集めなければ』という強迫観念はなくなり、『城』のコレクションもすっかり解体してしまった。


 一度形のないものに意味を見出してしまうと、形のあるコレクションが薄味に感じられてしまったのだ。これもまた、経験のたまものと言えよう。


 最寄り駅で電車を降りた南野は、近くのコンビニに食料を調達しに行った。


 ぴんぽーん、と間の抜けた電子音が入店を告げると、イラッシャイマセー、とやる気のない店員の声が聞こえた。


 夕飯の弁当をあれこれ物色していると、ふとペットボトルコーナーに目が行く。


 今、ペットボトル飲料のオマケキャンペーンをやっているらしい。


 すでにいくつか持っているが、まだコンプリートはしていなかった。


 コレクトマニアが沈静化したと言っても、やはりこういうものはついつい集めてしまうのだ。もはや業としか言いようがない。


 ペットボトルを取ろうと手を伸ばした、そのときだった。


 がっ、と横合いから手首をつかまれる。


 そして、涙が出るほど懐かしい声が聞こえてきた。


「よっ、蒐集狂! お金返してもらいに来たよ!」


 ……それは、数万ページに渡る図鑑の中の、たったひとつの誤植のような奇跡だった。


 結うのをやめてしまったせいか、少し髪が長くなったような気がする。まだ幼さが残っていた面立ちも、もうすっかり大人の女性だ。


 突然のことに目を丸くしていた南野だったが、やがて小さく苦笑いして彼女に告げる。


「……とりあえず、お茶でもどうですか?」

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