「第12章 アイスの溶かし方」(6)
(6)
透がそう言うと、彩子は声を出して笑う。
「そうですね。じゃあ、詩織さんを羨ましがらせる為に頑張って開発してみます」
「その意気だ。おっと、もうすっかりいい時間だな」
時刻は既に午後七時に差し掛かろうとしていた。彩子と待ち合わせをしたのは、午後四時だったから。約三時間、このスターバックスで会話をしていた事になる。映画一本分の時間を透はスターバックスで過ごした。こんな経験はかつて一度もない。シフト時間が短いバイト店員なら、下手すればそろそろ帰り支度を始めてもおかしくない時間だ。流石にそろそろ出なければならない。
その事に彩子も気付いたのか、自身の腕時計を見てとても驚いた。
「うわっ! もうこんな時間。早いなぁ。そろそろ、行きましょうか?」
会話の箸休めに時間を確認していたので、今の時間そのモノには、そこまで驚かない透。彩子も同じはずだが、彼女なりの気遣いなのか普通に驚いた表情を作った。
「そうだな。夕食には丁度の時間だ」
透はMDプレーヤーとMDディスクが入ったプラスチックケースを肩掛けカバンにしまって、ソファ席を立った。すると、まだ立っていない彩子がとても緊張した顔をしていた。透は首を傾げて彼女に尋ねる。
「どうした? 行くぞ?」
「先輩、一つ聞き忘れていました」
「何?」
他に何かあったかと透の頭では、今日の出来事全てを総検索して、彩子の質問内容を予測が、一向に出てこない。戸惑っている透を余所に、小さく口から息を吸った彼女は、口を開く。
「先輩と私の付き合いは、今日で最後になりますか?」
彩子が聞いてきたのは、最初の時点で彼女が透に言ってきた要望である。その時は、透はまだかなり警戒していたので、曖昧な答えで済ませていた。
全てが終わった今、透の答えはもう決まっている。
「いや、続くよ。でも、結婚するんだろう? そうなると流石に旦那さんに悪い。だから、実際には会うのは、今日が最後にして、後はメール程度に留めておいた方が無難かも知れない」
透が素直に気持ちを告げると、彩子は一瞬狐につままれたような顔を作り、それから声を大きく出して笑った。その笑い声は今日一番大きい。
一体、何がそこまで可笑しいのか。透にはさっぱり分からなかった。
「何が可笑しい? 変な事言った覚えはないんだが」
「ごめんなさい。うん、そうですね。先輩は変な事なんて何も言ってません。むしろ変なのは私です。そっか、そうですね。結婚って言いましたね」
笑いながらそう話す彩子に透は「まさか……」っと口から言葉を漏らす。それに反応するように彼女は両手を前に出して合わせて、頭を下げる。
もう何も言わなくても、彼女が謝罪している内容はすぐに分かった。
「はあ~」
意識的に声を混ぜた大きなため息を吐く。
どうやら、やられたという気持ちがあまりに強いと、怒りを超えてしまうようだ。透はため息を吐き終えてから、そう感想抱いた。そして、一度立ち上がったソファ席にもう一度腰を下ろす。
「怒ってます、よね……?」
「そんな気も失せた。やられたよ。いや、確かに冷静に考えたらいきなり結婚話を持ち出すのは妙だ。この前までは、全然そんな話はなかったのに。さっきは勢いで納得してしまったけど、改めて考えたらすぐ分かる事だった」
これは詩織の遺書を聴く為に彩子が取った戦略の一つ。手記の話を進める内に彼女に対する警戒心が完全に薄まっていたのだ。そこを突かれてしまった。
「他に何か騙してたり、隠してる事があるなら、言った方がいいぞ? 今なら聞いてやるから」
透がそう言うと、彩子は首を左右に勢い良く振った。
「ないですっ! ないですっ! 流石にそこまでは……」
「まあ、彩子の作戦勝ちって事にしとくよ。詩織の遺書を聴けて良かったって言ったのは、本当だったと思うから」
透は彩子にやられた事はそれ以上、追求しない事にする。彼の言葉を聴いて彼女は笑顔で頷いて答えた。
「ええ、それは勿論。任せてください。詩織さんが羨ましがるようなアイスの溶かし方を開発してみせますから」
「楽しみしてる。じゃあ、今度こそ出ようか」
「はい」
二人はソファ席から立ち上がる。彩子は先に店の外に出て、透が空のコーヒーカップと氷水が入っていた小さな紙コップを持ち、出入口付近の捨て場に分別して捨てた。久しぶりに外の空気を吸う。と言っても、ココは、ちゃやまちアプローズの建物内なので正確に味わいたいのなら、外に出る必要がある。
隣にいる彩子は両手を上に伸ばして、体を解していた。
「ん~。さて、行きましょうか。ドコに行くか決めてます?」
「スペインバルに行くか。その後は、いつものバーで」
今日何を食べるかなど透は決めていなかったので、咄嗟に知っている店を言う。スペインバルもバーも、彩子と行った事がある店だ。彩子は「おっ、いいですね~。行きましょう行きましょう」っとすぐ乗り気になった。
二人は来た時とは反対方向を歩き、阪急線の高架下へと向かう。ホテル阪急の自動ドアを抜けた時、街がすっかり夕方から夜へと進んだ事を肌で味わった。
「すっかり夜になっちゃいましたね。何だかワープしたみたいです」
「今、俺も似たような事を考えてた」
あれだけの時間を室内で過ごしたのだから、街の変化にそう思ってしまうのは、当然である。交差点の信号を待っていると、ふと彩子が思い付いたように「あっ」っと声を上げた。
「んっ? どうした?」
「先輩、どうせならスペインバルに着くまで、あの曲を聴きませんか?」
「あの曲? ……ああ、分かった」
何を指しているのか。透には最初、分からなかったがすぐに理解して了解する。二人は各々のイヤホンをiPhoneへ挿した。
透の場合は、ミュージックに入れているので、すぐに聴けるが、彩子はどうだろう。そう考えている彼の心情を察したのか。彼女はiPhoneを向けてきた。
「先週、入れたんです。ほら、先輩の話を聞いて、私も聴きたくなっちゃって」
照れながらそう話す彩子に透は微笑む。
「元々名曲だけど、俺にとってはすっかり詩織の曲になっている。きっと彩子もこれからそう事を考えるようになる」
「なりますかね?」
「なるさ。また聴きたくなったら詩織の日記も貸すから」
「本当ですか?」
驚きの顔を見せる彩子に、透は何て事ないという顔で答える。
「勿論。でもその代わりと言っては何だが一つ条件がある」
「何ですか? 今日一日で先輩の条件攻撃には大分慣れましたからね。どんな条件でも大丈夫ですよ」
笑いながらそう言う彩子に透は、人差し指を立てて答えた。
「今日、バーで飲む時に一杯奢ってくれ。彩子の結婚を祝わせてくれ」
「ははっ、いいですよ。ええ、ぜひ喜んで。盛大に祝ってください」
軽口を言い合って、二人はそれぞれのiPhoneの再生を選択した。同時に信号が赤から青になり、交差点を大勢の人が歩き始める。二人も足を動かす。
店の場所は二人共知っているので、どちらかが先頭を歩いて道案内する必要はない。自然な歩調で目的地のスペインバルへと向かっている。
夜の梅田特有の街音がする中、両耳にはあの曲が流れていた。
歩きながらでも英語の歌詞は抵抗なく、街音を見事に消してくれる。
詩織が大のお気に入りだった曲。『Queen』の『Killer Queen』
この曲を詩織は、寂しがり屋の女性の曲だと言っていた。
聴き終わると、歌詞の彼女に恋をするとも言っていた。透はあれから何年もこの曲を聴いている。確かに、詩織の言う通り彼女に恋をした。
ただ、それはもう過去の話、今は違う。
今後も透と彩子は曲を聴き続けるだろう。
そして、聴く度に詩織を思い出す。彼女を忘れる事なんて未来永劫出来ない。
でも、それでいいのだ。
会いたくなったら、いつでもこの曲を聴けばいいという事なのだから。
クリスタルホワイト・アイス (了)
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