「第6章 ガラスの中の平行線」(5)

(5)

 現地点からゆっくりとドアまで倉澤は足を動かした。十歩も歩けば体はドアにぶつかる。ドアにぶつかったら、視線を床に落とす。白いリノリウムの床は綺麗で埃がまるでない。


「……んっ?」


 そこで倉澤はある事に気付いた。


 埃がまるでないというのは、いくら何でもあり得るのか? 


 一見すると、良く清掃されていて、墨田の仕事ぶりが表れている。


 しかし、先程の彼の仕事ぶりから見て、ココまで徹底に綺麗にするだろうか? 


 大学図書館との移動でこの部屋は不特定数の人間が利用する。毎日、夜に墨田が清掃に気を遣ったとしても、ココまで綺麗だと逆に不自然だ。


 この部屋を掃除するのは生徒ではない。それは昨日判明している。用務員の墨田は出納準備室の施錠及び清掃を任されている人間。


 つまり、墨田以外がこの部屋を掃除している。(勿論、彼に最近掃除を行ったのはいつか、後ほど尋ねる必要がある)倉澤は部屋を見回して、教室等なら置いてあるはずの掃除ロッカーを探した。だが、この部屋にはそれらしき物はない。


 この部屋にあるのは本棚と机とイスのみ。掃除道具は雑巾一枚だってない。


 他から道具を持って来て清掃した人間がいる。


 一番近い教室からだろうか? いや、そうだとしても証明するのは難しい。夏でもない今の時期、使用後の雑巾の乾燥速度なんて他と大差ない。


 取り敢えず、特定は出来ないとしても何者かが清掃した事が分かった。その発見だけで現状は満足しておこう。そう結論して倉澤は、自身の腕時計を見る。


 そろそろ制限時間が近い。どうせ菱田は早目に帰って来るだろうから、先に応接室に戻っているべきだ。 そう考えて、出納準備室を後にする。


 応接室に戻る途中、職員室に寄った。中にいた小渕に頼み、立林のクラスの名簿のコピーを二部手に入れる。その際、個人情報を差し上げるのはと、困った顔をしたので、帰り際に返すと約束した。


 校舎内に生徒の足音が聞こえ始めていた。全校集会が終わったのだろう。先程まで通路は職員用、入った部屋は特別室だったせいで、全く気付かなかった。


 廊下ですれ違った男子生徒二人に頭を下げられて、それを返しながら応接室に戻った。


「お疲れ様です」


「ああ、ご苦労様」


 応接室に戻ると既に菱田は本部から帰っていた。倉澤の読みより少々戻りが早い。二人は応接室のソファに腰を下ろす。


「それじゃあ早速聞かせてもらおうか」


「はい」


 菱田は懐から手帳を取り出して、報告を始めた。


「まず、筆跡鑑定の結果ですが簡易結果が出ました。本人が書いた物に限りなく近いとの事です。最終結果が出るのはまだ数日かかるらしいですが、まず間違いないだろうとの事です」


「厄介だな」


「そうですね。遺書の意味が分からない事には……」


 人間が遺書を書く時、一種の興奮状態に入っている事から支離滅裂な内容になってしまう現象は、この仕事をしていたら当たり前に遭遇する。例えば、同じ事をずっと書いていたり、短い文章だけど文法が狂っていたりと様々だ。


 今回の場合、文章上は正確だが、意味不明と言うケース。


 最後に二つ書かれた日付もよく分からない。


「倉澤さんは、あの遺書をどう思われます?」


「正直に言うと、遺書と定義していいのかすら怪しいな。ただ、日付が当日なのと手書きだった事で筆跡鑑定に頼んだんだ。それに、あの意味を理解出来るのは、俺達じゃない気がする」


「っと言うと?」


 倉澤は腕を組んで持論を展開する。


「あの内容は、誰かに向けてのメッセージだ。そして、それは立林達教師じゃなかった。昨日、彼女を送った時に聞いた話だと、森野詩織は相当頭の回転が速かったらしい。周りに勉強を教えると彼女の指導に中毒になってしまう程に」


「昨日本部に帰った時に言ってましたね」


「そこから考えて、彼女が教えている生徒なら伝わるんじゃないかと考えてる。ただ、教えてた数は結構いるみたいだから。全員が全員に伝わる訳じゃない。おそらく特定人物へ宛てた物だ。それなら、日付の件も説明がいく」


 一つ目の日付は何の意味もない平日だったが、彼女と親交が深い人物なら、我々とは違った意味を見出す可能性が高い。


「だから、立林先生に生徒を一人連れて来てもらうように頼んだのですね?」


「そういう事。まっ、いきなり当たりに遭遇する確率は低いから、そこは地道にいく事を覚悟しないといけないが。さて、次は?」


 倉澤は次の結果を菱田に聞いた。


「調べてくるよう頼まれていた二人。墨田と湊ですが、まず墨田の方から話しますね」


「そんな細かい経歴があるような人物とは思えないが?」


 本人の前では絶対言わないような、横柄な言い方で墨田の印象を言う。


 それには、菱田も同意した。


「正直、彼についてはそこまで気にするような事はありません。元々、サラリーマンをしていて、そこからこの高校に用務員として雇われています。家族は妻と息子が一人いますが、もう息子の方は、家を出ており現在は妻との二人暮らしです。勤労年数は結構長いですね。十年程になります」


「ほー。だからあの勤務態度なのか」


「あの勤務態度?」


 菱田の抱いた疑問に答える前に、倉澤は手を振って、話の続きを促した。


「次に司書教諭の湊ですが、彼は元々アメリカで働いていた経歴がありました。日本の大学を卒業したのち、向こうの大学院に留学しています。五年前に向こうの仕事を退職して、日本に在学していた際に得た司書教諭資格を活かして、現在の職についています」


「湊の方も結婚してる?」


「日本人の妻がいます。子供は娘が一人」


 菱田から報告される二人の情報を頭に入れていく。特に湊の情報については多ければ多いに越した事はなく、倉澤は彼の人間像を組み立てていった。


「以上が大まかな二人の経歴になります」


 報告を終えた菱田が手帳を閉じて、そう告げる。


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