神亡き世界のエデン第一話眠り姫ルチアナ
大谷歩
第1話眠り姫ルチアナ
ピエタは閉じていた目をゆっっくりと見開いた。開けた瞼の向こう側にはうっすらとした闇が漂っていた。その不可思議な闇に微かな魔力をピエタは感じた。
その闇がじょじょに薄れ、少しずつ周囲の様子が見えてきた。
それほど広くない部屋に魔法実験に使うのであろう奇妙な道具や魔法陣を記した書類が散乱し、その床には何人かの魔導士が倒れ込んでいた。
別に死んでいるわけではなさそうだ。その証拠に微かな寝息が聞こえてくる。
ピエタはまだはっきりとしない意識のまま壁づたいに身体を起こした。
ここは、どこだっっけ?
そんな疑問が脳裏をかすめるや、まだ薄ぼんやりしている意識の中に一人の女性の声が飛び込んできた。
「ほう……吾輩の魔力を受けて、まだ数秒ほどしか経っていないというのに、もう目覚めることができるのか。やはり貴公には我が『昏睡の魔力』もさほど効果はないようだな」
じゃりっっと床に積もるわずかな砂を踏みしめるような足音にピエタは目線を上に向けた。何かの獣の皮で作られたブーツ。そこから伸びる白くて細長い両脚。タイトな黒いスカートに黒いチュニッック。その上には同じく黒に染められた竜皮で作られたと思しき軽鎧がまとわれている。さらに目線を上に向けると白皙の美貌が目の中に映り込んできて心臓が軽く跳ねた。夜の闇を川に流し込んだかのように流れる艶やかな黒髪。造形師が何日もかけて仕上げたような完璧な容貌。しかし、女はそこに背筋も凍りそうな嫣然とした微笑を浮かべて立っていたのである。
「まだ挨拶をしていなかったね。吾輩の名はルチアナ・フューネリア。世間に蔓延る梵百の輩は『常闇の魔女』などと怖れているようだが、他にも様々な異名をつけられていてね。さて自分では自分をどう紹介していいのか迷ってしまうのだよ。ピエタ・ローランド君」
ようやくそこでピエタの意識は完全に復活を遂げた。
そして、ただ一言呟く。
「眠り姫……ルチアナ……」
咄嗟に頭に浮かんだその異名は魔法学に疎いピエタでもさすに耳にしたことがあった。
「ああ……その異名は少し気に入ってる。さすがは心得ているね君は。吾輩はいい買い物をしたようだ。覚えているかい。君は今日から吾輩の奴隷なのだよ」
女は嫣然と笑いながらそう言った。
その微かな笑声を耳にしながらピエタは数時間前の事をようやく思い出した。
戦場へ赴き、そのままそ行方知れずとなってしまった養父が言っていた。
剣の腕はいつ如何なる時もその身を助けてくれるものだと。
おかげで今こうして生きていられるわけだが……かといって今置かれている状況は完璧に救いようのないものだった。
「さて、次の咎人はピエタ・ローランド。我が神聖なるエルドワン魔導王国の王女アンナを死に至らしめた罪により第一王子たるキデル様の控訴を受けて三十年の奴隷奉仕の罪を与えられた者である。尚、この判決はソロモン大陸同盟の決議にもよるものであり、いかなる国へ逃れようとも、この罪状が消滅することはない。さて、お立ち会い、これより競売を始めるとしよう。最も高値を付けた者に咎人ピエタの身は託される。魔王サタナエルの名のもとにこの約定は確約されたり」
しーんと辺りが静まりかえる。ピエタは手錠を填められ、おまけに足枷までされた状態で台上に上げられ、大衆の面前に曝されていた。
そして、まず最初の挙手があがった。
「うーん。十イエン、それ以上はさすがに出せんなぁ……」
イエンとは、この広大なソロモン大陸に群雄割拠する各国に共通している通貨名である。 十イエンはだいたい飴玉一個分の値段である。そのあまりにもあんまりな値段にピエタはさすがに愕然とした。ううう、ぼくの価値はそんなものなのか。
「二十イエン……」
「いや、俺なら三十イエンくらいは出してもいいが、いや、でもなぁ、下手に手を出して王家に睨まれたりしたら、この国では商売がやりにくくなるかもしれんしなぁ……」
咎人を一目見ようと集まってきた野次馬は皆うちそろって消極的な態度である。あまりの価値の低さに人格までが崩壊しそうになる屈辱にピエタは耐えるしかない。だが、それ以上の高い金額をつける者は依然と現れない。それもそうだろうとピエタは心の中で述懐する。なにしろ、この国の権力者から恨みを買ってしまったのだ。下手に手を出して睨まれるのは誰もが避けたいところだろう。それにピエタが忌み嫌われる理由は他にもある。
「他に値段を付ける者はいないか? いなければ……」
いまやピエタは三十イエンという子供のおこづかいにも満たない値段で身売りされようとしていた。そこへ凛然とした声があがったのだ。
「二千イエン! まぁ、そのくらいの価値はつけてやらねばあまりにも不憫であろう」
女の声だった。言葉の最期のほうはやや溜息まじりの呆れた声になっていたが、今のピエタの身の上を考慮すれば、それは破格の値段であるともいえた。
見れば、そこに軽鎧を身につけた旅姿の麗人が立っていた。
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