私たち二人を乗せた原付が走り出してから数分が経った。後ろを見る限り、さっきの大蛇が追いかけてくるような気配はない。

 一時はどうなることかと思ったが、とりあえず窮地は抜け出したよう。その事実に安堵する。


「えーと……芳楼ほうろうさん、でしたっけ? 先ほどはありがとうございました」


 多少の落ち着きを取り戻した私はお礼を続ける。

 彼との密着度に気を配りながら。


「もう死んだかと思いましたけどお陰様で助かりました。このお礼は必ずしますので……」

「いやあ、礼には及ばないよ。僕は業務を全うしたまでだからね」

「そ、そうはいかないですよ! 助けてもらったんだからお礼はさせて貰わないと!」

麻代ましろちゃん、見たところ大学生くらいだろ? そんな前途ある若者から二重で絞るとるような趣味、僕にはないっての」

「二重で?」


 思わず聞き返す。

 ちなみにエンジンと風の音でかき消されぬよう、割と大きな声での会話だ。


「後日、今回の件で麻代ちゃんの家に請求書が届くと思うから、それを支払ってくれたら良いよ。いちおう僕は業務委託でやらせてもらっててね。麻代ちゃんからも別で報酬を貰っちゃうと雇用規約に違反しちゃうし」

「……どういうことですか?」

「どうもこうもないよ。今言った通りさ」

「…………」

「だーかーら! そのうち君の家に請求書が届くから、そこに記載されてる金額を口座振込やら何やらで払ってくれたら良いってこと」

「え?」


 つまりお金を取られるってこと?

 いや、お礼はするつもりだったから構わないんだけど……え、いくら取られんの? マジで今はお金に余裕ないから請求されても金額によっては払えない可能性あるぞ⁉︎


「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! いったん状況を整理します!」

「それは構わないけど、だったら全部が終わった後のが良いんじゃない? 奴との距離は出来たかもしれないけど縄張りから抜け出せてはないわけだ。今はまだあいつの手の上にいると言っても過言ではないよ──いや、くらやは蛇のモノノだから腹の中と言ったほうが良いかもな」

「クラヤミ?」

「さっきの大蛇の名前だよ。……とは言っても正確には大蛇じゃない、モノノ怪だがね」


 芳楼さんの言っていることがイマイチ理解できない。

 知らない単語が並びすぎている。


「さっきの大蛇を知ってるんですか?」

「もちろん知ってるとも。くらや巳は別に珍しいモノノ怪じゃないからね。そうじゃなくてもモノノ怪に関しては僕の専門分野なんだ。知らないわけがない」

「あなたが知っていても私は知らないです! モノノ怪ってのもなんですか! 私にもわかるように説明してくれないとさっぱりですよ!」

「まあまあ、そんなに慌てるなよ。一度にいくつも質問されたって答えられないだろ。僕には口がひとつしかないんだから」


 駄々をこねる子供をなだめるように言われてしまった。ちょっと我に返る。

 けれども浅学非才な私は芳楼さんを頼ることしかできない。あの化物について知っているのなら教えてほしいと心の底から思った。


「──モノノ怪はモノノ怪だよ」


 私の胸中を汲み取ったのかだろうか。

 相変わらずエンジンをフルスロットルで回しながらであったが、芳楼さんはゆっくりと口を開いた。


「麻代ちゃんにも馴染み深い言葉で説明するなら妖怪や怪異、あやかしの類と言えば良いかな?」

「ふざけないでください! オカルトの話をしたいんじゃないんです、私は!」

「ふざけてないよ、僕は真剣さ。嘘じゃない、本当だよ」

「今がどんな時代かわかってますか? そんな非科学的なこと信じられませんって」

「君も強情だねえ。……それなら聞くが、この世の全ての事象が科学で証明できると本気で思っているのかい?」

「そ、それは……っ」


 言葉に詰まった。

 そんなのいち大学生である私にわかるわけがない。

 科学の進歩によって文明は発達してきた。そのおかげで今の便利な世の中がある。しかし宇宙の果てや死後の世界、それこそオカルトや心霊現象のように挙げ出すとキリがないが、万能に思える科学をもってしても解明し切れていない謎が多くあるのも事実だ。


「その通りさ。この世は科学でも説明が出来ないことで溢れている。ロマンがあって嬉しいったらないよな」

「全然嬉しくないです!」

「おいおい、そんな連れないこと言うなよ。……でもまあ、それを手放しに喜んでいられないのも事実だ。モノノ怪が悪さをして、僕らの平穏を脅かすこともあるからね」

「……ということは、その、モノノ怪はさっきの大蛇以外にもいるってことですか?」

「そうだよ。モノノ怪は何処にでもいて何処にもいない。気づいてないだけで彼らは僕らの回りにも潜んでいるのさ」

「…………」

 

 あんなのが他にもいるだと?

 想像するだけでも恐ろしい。

 こちとら一生もののトラウマをすでに負わされているんだ。今後もし他のモノノ怪と出会うことになったら失禁してまうかもしれない……、夢なら早いうちに覚めてくれ。この歳になっておねしょはしたくないんだよ。


「でも恐れることはない。モノノ怪から守るために僕みたいな仕事をしている人間がいるんだから」


 その口ぶりからして芳楼さん以外にもモノノ怪について詳しい人が他にもいるということだろうか。知らない世界すぎる。実際にモノノ怪を見た後でもにわかに信じがたい話だ。


「まあ、一気に話してもこんがらがっちゃうだろうから今はこれくらいにしておこう。それよりも優先すべきは、くらや巳に魅入られた麻代ちゃんを助けることだ──くらや巳と君を正しく導いてやらないとね」

「……導く? 私とさっきの化け物を?」


 芳楼さんはどこへ向かっているのだろう。

 後ろの方を見ても大蛇が追いかけてくる様子はやはりなく、二人乗りでの会話も不自由ったらない。ここらで一度停まっても良いように思えるのだが。


「勘違いをしているようだから言っておくが、モノノ怪を麻代ちゃんの物差しで測らないほうがいい。奴らは超常的な存在なんだ。僕でさえ面食らうことはある。くらや巳と物理的な距離ができたからと言って、君の安全の保証はどこにもないんだぜ」


 芳楼さんは言う。

 当初のちゃらけた様子はどこかへ消え、どっしりとした真剣な声音で。


「生兵法は怪我のもととも言うだろ? 中途半端が一番よくない。しっかりと始末をつけなくちゃ」

「どうするんですか?」

「言ったじゃないか──僕は導くだけだよ」

「…………導く」


 と、私がその言葉を反芻したときだ。

 くらや巳は再び私たちの前に現れた──いや、

 巨大な体躯は着地と同時にアクション映画のワンシーンのように土煙を上げ、その振動で空気が揺れる。

 あまりに急な出来事で気が動転してしまった私は悲鳴を上げることすら叶わない。そんな私を尻目に芳楼さんは、


「……ここなら多少暴れても問題ないか。そろそろカッコイイところも見せておこう」


 そう言いながら原付を急停止させた。

 急ブレーキの反動で私は振り落とされてしまう。足を擦りむいた。……けれども今はそんな小さな傷どうだっていい。

 鬼と出るか蛇と出るか──蛇はもう間に合っている。

 だからどうか、今ばかりは鬼が出てきてくらや巳を倒して欲しいと願う私だった。

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