え
下手に動けば呑まれてしまうだろう。
くらや
とは言っても恐怖で腰を抜かしてしまい、自力では一歩も動けなくなった私には杞憂なのかもしれないが。
「正しい対処法だよ、
ここは街外れに位置した空き地。
山火事にでも巻き込まれたのだろうか、錆びた鉄骨が剥き出しの廃屋があるものの周囲は雑木林で囲まれている。
そこで私と
奴の体表を覆い尽くす鱗はこの世のどんな黒より黒く、夜の暗さに溶け込んでいる。そのせいで尾の先がどこまで続いているのかもわからない。
「だからってそんなに怖がる必要もないけどね。この僕がいるんだから」
「そ、そそ、そんなこと言われてもっ」
深夜、大蛇、見知らぬ土地。
この状況で取り乱さずにいられる人間がいるのだろうか。それでも芳楼さんは依然として冷静さを保っており、未だ飄々としているようにも見えた。
もしかすると動揺している私がおかしいのか?
そんなことさえ思ってしまうが断じて違う──異常なのはやはり平然としている芳楼さんの方だ。
「蛇の道は蛇と言うだろ? ここは僕に任せて菜々葉ちゃんはそこで蛙の真似をしていたらいい」
「……それは私が蛇に睨まれた蛙だという皮肉ですか、それは」
「井の中の蛙という意味で捉えてもらっても構わないよ。君はまだモノノ怪の世界を知らないのだから」
芳楼さんはこの緊迫した状況でも減らず口を叩けるのだから余裕綽々らしい。
私は自分を保つので精一杯だと言うのに。
「だとしても無茶です! 逃げましょうよ!」
「今を逃れたとしてもマーキング状態にある菜々葉ちゃんはどこへ行こうがくらや巳の手の上さ──まあ、蛇に手はないんだけど」
「じゃあ私はどうすれば良いんです!?」
「言ったろ? 僕に任せなよ。場所的にも今がケリを着けるベストなタイミングさ」
「信じますよ、私!? もう無事に生きて帰れるなら何だってしますから!」
「……ほう、それは良いことを聞いた。じゃあ後で一つお願いさせてもらおうかな」
くらや巳を前に余裕な口ぶりの芳楼さん。
さっきまで彼の背中にしがみついていたからわかる。確かに並以上の筋肉はあるようだ。
しかしそれは他の人と比べたらという意味で、相手が規格外の化け物ならば話は全くの別になる。
武器を隠し持っている様子もない。
何か秘策でもあるのだろうか?
それでも芳楼さんの堂々とした後ろ姿を見ていると、この人ならどうにかなるんじゃないかと思ってしまう私がいる。
「でもなんで空から降ってきたんですか、おかしいですよ!」
「何度も言うがこいつは蛇じゃない。くらや巳というモノノ怪だ。常識で測ろうとするなよ」
芳楼仗助。
只者ではないと改めて感じた。
「4発だ。4発で僕の勝利を収めよう」
言いながら芳楼さんはくらや巳との距離を詰め始めた。
その足取りはゆっくりだが、じりじりと距離を縮めていく。
私を獲物として狙っていたくらや巳は、果たして青白く光った双眸を芳楼さんに向け変えた。奴の射程圏内に入ったのだ。
くらや巳はその巨大な体躯はもとより、口を開けば幾千本もの鋭く尖った牙が覗かせている。
「……ゴクリ……」
体格差からしても戦力差は明らかだった。
どう贔屓目に見ても勝機があるようには思えない。
地面にへたりこむ私がそう思った瞬間のことだ。
芳楼さんは爆発的な跳躍力で跳んだ。
まるで空を飛ぶように。
そのままくらや巳の背中に飛び乗った彼は、両腕をずぶりと突き刺す。血は出ない。代わりに黒いガスのようがものが傷口から吹き出した。
「恨むなよ、くらや巳。相手が悪かっただけだ。今夜のことを教訓にして、次からは獲物を選ぶことを覚えるんだな」
芳楼さんがくらや巳の体表を紙のように
モノノ怪と言っても痛覚はあるようだ。背中を開かれたくらや巳は不気味な
「そんなに暴れるなよ。危ないじゃないか」
勢いで振り落とされた芳楼さんだったが、綺麗な受け身をとって着地する。くるりと一回転。その鮮やかな身のこなしは体操選手顔負けだろう。
早くも致命傷を負わされ激昂したくらや巳が周囲の木々をなぎ倒しながら暴れ狂う。
そんな猛攻を紙一重でさばいていき、あっという間に芳楼さんは奴の懐に忍び込んだ。
その動きに無駄はない。かすり傷の一つすら負うことはなく、
「いったん落ち着けって。衝撃で菜々葉ちゃんが怪我したらどうするんだよ」
芳楼さんがくらや巳の顎を蹴り上げた。
奴の大きな頭部が目算でも三メートルは浮かび上がる。
吐血するようにたまらず口から黒いガスを吹き出すくらや巳だが、その隙を芳楼さんは見逃さない。がら空きの胴体に次の一撃を入れる。
ちょっとばかし大振りの右ストレート。
それは静かな夜に轟音を響かせるほど重たく、モロに食らったくらや巳の体表は大きな鉄球をぶつけられたが如く波打った。衝撃で鱗も剥がれ落ちていく。
「ラスト──!」
そう言って放った芳楼さんのオーバヘッド気味の蹴りがこめかみ辺りに直撃したとき、くらや巳の全身がズシンと大きな音を立てて地面に崩れ落ちた。
戦いが始まって三分も経ってない気がする。
戦いはそれだけ一方的かつ芳楼さんの圧勝であり、予告通りの結果も加味したら完封勝利と言っても過言ではなかった。
「やあ待たせたね。怪我はないかい?」
「大丈夫……ですけど」
巨躯を横たわらせピクリとも動かなくなったくらや巳を背に、服の砂埃を払う芳楼さんが寄ってきた。
彼の息は少しも乱れておらず最初から何事もなかったかのよう。
「さて。これにて一件落着したことだし、約束通り頼みを一つ聞いてもらおうかな」
「な、何ですか。私に出来ることは限られますけど、とりあえず言ってみてください……」
どんな要求をされるのだろうか。
状況が状況なだけに想像もつかない。
心臓の鼓動が今日一の動きを見せる。
「これからは君のことを菜々葉ちゃんじゃなく、友好の意味も込めて菜々ちゃんと呼ばせてもらおうかな」
「……はい? そんなことで良いんですか?」
「くっくっく。君にとってはそんなことだろうが僕にとっては重要なことさ。これは僕と菜々ちゃんとの約束だよ」
言いながら芳楼さんが小指を差し出してきた。
指切りげんまん。地面にへたり込む私がそれに応じると、絡めた小指づてに私の腰を持ち上げる。
「どうしたんだよ、そんな腑抜けた顔して」
「いや、だって……もっと、その、とんでもないことをお願いされると思ったので」
拍子抜けした。
正直なところ、この純潔の身体に傷をつけられるくらいの覚悟はしてたものだから。
「くっくっく。そりゃ惜しいことをしたかもな」
「あ、でももう遅いですよ? お願いの変更もできません!」
「まあ良いさ。僕からすれば菜々ちゃんと小指を絡められただけでも儲け物だもの」
「?」
芳楼さんの言っている意味がわからない。
まあ、これは今に始まったことじゃないけれど──そしてこれからも彼の言うこと為すことに振り回されてしまうのを、このときの私はまだ知らないのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます