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だるぉ
prologue
「お嬢ちゃん、そこのお嬢ちゃん」
ある晩のことだ。この春から大学生となり、その進学を機に一人暮らしを始めた私はこの街に越してきた。そんな下宿先であるアパート周辺を散策がてらぶらぶらしているところ、声をかけられたのだ。
この日はまだエイプリルフールの数日後だったこともあり、薄着で出歩くには少し肌寒かったのを覚えている。
「すまないね、いきなり声をかけちゃってさ」
振り向くと背の高い男が立っていた。
グレーのパーカーを着ている。フードを
「僕は決して怪しい者じゃないんだ。だからそんな怪訝そうな顔をしてくれるなよ」
「……は、はあ」
こんな人通りのない路地裏で声をかけてくるくらいだ。もはやこの時点で男の言葉に信憑性のカケラもない。
私は女子大生として年相応の警戒心を働かせ、男から半歩後退して距離をとった。
「嘘じゃない、本当さ。神に誓っても良い。……ま、僕は無神論者だけどね」
言いながら男が笑うものだから私も釣られて愛想笑い。
男のどこか
「えっと、この場合こっちから名乗るのが礼儀だよな。僕は
「……ご、ご丁寧にどうも」
「それでお嬢ちゃんは?」
「はい?」
「名前だよ、名前」
「私の、ですか──」
教えていいのだろうか。一瞬、躊躇した。
けれども変に逆らって男を刺激してしまうかもしれないリスクを考えると、ここは素直に名乗った方が賢明な気もする。私はこのコンマ数秒の判断を信じて言葉を続けた。
「……
あっちが勝手に年齢まで言ったもんだから、聞かれてもないのに私まで言ってしまった。……年上の男の人と話すのに慣れていないせいだ。
そして私の名前を聞いた途端、男はフードのつばを摘んで更に深く被り直した。薄暗いせいで表情は見えない。しかし、明らかに動揺しているようだった。
「ど、どうかしました?」
「いや、何でもないよ。それよりも名前の字面だと草食系のイメージがすごいね、見た目は肉食系なのにさ」
「なっ……!?」
どこがだよ! 生憎だがそんな見た目をしているつもりはないぞ!
今の服装だって動きやすいダル着のスウェットに短パンだ。そりゃあ足の露出はあるかもだけど別にそれも常識的な範囲だろうに。
……というか着眼点のクセが強すぎる。名前の字面が草食系とか生まれて初めて言われたわ。
「あの、ところで何か用ですか? 私は最近この街に越してきたばかりなので道案内なら力になれませんけど」
「その心配には及ばないよ。なぜなら僕は生まれてこのかた道に迷ったことはなくてね。……むしろ迷った人を導いてやるが僕の
うーん、やっぱり声かけに応じたのは間違いだったか?
話している感じから危ない人ではないようだがマトモな人でもないようだ。これ以上は関わらない方がいい。そう思ってなんとかこの場を後にしようとした私だったけれど、男はそれを許さない。
後ずさりする私は再び呼び止められてしまった。
「いやね、僕はお嬢ちゃん……あ、菜々葉ちゃんか。とにかくさ、君を見てピンと来たんだよ。僕のところで働かないかい?」
「なんで私が……」
「これは僕の憶測だけど、ほら、菜々葉ちゃんってここらの大学に通う学生さんだろ? しかも18歳ってことは新一年生だろうし、良さげなバイト先を探してる最中なんじゃないかと思ってね」
「……そうですけど」
男の言っていることは概ね的を射ていた。
仕送りのない私が健康で文化的な最低限度の生活を営むには生活費を稼がなければならなく、学業に専念する傍らでバイトにも精を出さなければならないだろう。
私は今、この水と油のような相反する二つをどうにか両立できるバイト先を探しているのは事実だ。
「ウチは他よりかなーり給料も良い。それに融通も利くんだ。菜々葉ちゃんならきっと稼げると思うぜ?」
「…………」
それは魅力的な話に聞こえた。
けれども稼げるならどこでも良いわけじゃない。甘い話には裏があると言う。こんな夜道に声をかけてくる人のところなんて尚のことだ。
……怪しすぎるし危なすぎる。
「まあ、この場で返事をくれとは言わないよ。僕の名刺を渡しておくからその気になったら連絡してくれよ」
言いながら男はポケットから取り出した名刺を寄越してきた。恐る恐るそれを受け取る私。
くしゃくしゃなのを除けば、それは何の変哲もない普通の名刺だった。シワを伸ばしながらゆっくり読み上げる。
「……対モノノ
モノノ怪? 導師?
聞き慣れない言葉だ。
「なんですか、これ──……え?」
尋ねようとして私が顔を上げると、もうそこに男の姿はなかった。
すぐに周りを見渡してみたが人影ひとつ見当たらない。
ここは路地裏の一本道。さっきの男が隠れられるような物陰はなく、この場から立ち去る足音すら聞こえてない。
つまり男は私が名刺に目を落とした数秒の間に忽然と、まるで煙のように消えてしまったということだろうか。
「…………」
ゴクリと息を飲んで頬をつねる。
心無しかさっきよりも肌寒い。今晩の気温を見誤り、足の露出がある服装で出てきてしまったからだろうか──いや違う。
ジンジンと痛む頬をさすりながら、私はしばらくその場に立ち尽くしてしまった。
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