真昼の狗

コオリノ

第1話「天を衝く狗」

世界には多種多様な憑依現象がある。

その内日本では大まかに分けて三種類。

動物や人間の霊魂。精霊や神といったものが突発的に憑依するものと、特定の家筋が故意的にそれらを使役し憑依させるものや、その家筋に生まれたがために、知らぬ間に憑き物筋として生きる事を余儀なくされた物、この三つに分類される。


特に三つ目に関しては、この日本の格差社会と根強い関係性を持っている。


憑き物筋とは言わば中世ヨーロッパで流行った魔女裁判のようなものだ。

対象に対し、何かしらの理由を付け排除する。

特に女性はその立場からか標的にされやすい。

また、古くから存在する同和問題や村八分といったものも、これに該当するだろう。


さて、憑き物筋といえば、特に有名なのが犬神信仰と言われるものだ。

その多くは西日本を中心に近世に出現した。

大分県、島根県、四国北東から高知一帯なので根強く見られる傾向がある。


今回、研究の一環として行っているこのフィールドワークでは、憑き物筋と一般的社会との密接的な関係性を改めて認識し調査するものであり……。


「教授!真昼教授!!」


突然名前を呼ばれ、俺はハッとしてノートPCの画面から目を離した。


「あれ、椿……」


そう呼んだ先には、眉間に皺を寄せ俺を非難するかのような目で見つめる女の子が一人。


吉永 椿。

大学の生徒で、つまり教授である俺の教え子だ。

民俗学部のフィールドワークで、俺は付き人として椿と共にここ、大分県に来ていた。


来ていたはずなのだが……。


「椿……じゃないですよ教授!」


さっきよりも輪をかけて怒鳴りつけてくる椿。

怒っている理由は一つ。


実は、俺たちは今、遭難中真っ只中だったりする。


「何こんな時に呑気にパソコン何か弄ってるんですか!」


「何を言ってるんだ、こんな時だからこそ落ち着いてレポートをだな」


「変人ぷりをアピールするのは研究だけにして下さい!」


「変人ってお前なあ、その言い方は酷くないか?」


「変人に変人って言って何が悪いんですか!民俗学の研究と称して自分のオカルト好きを満喫するために、可愛い生徒を大学の単位で釣ってこんな所まで連れ回し、あまつさえ道に迷ったあ!?」


「いや、それはまあそうなんだが……ていうか今さり気なく自分の事可愛いとか言ったか?」


「だって可愛いでしょ?これでも大学じゃ結構人気あるんですからね」


ドヤと言わんばかりに腕組みし鼻を鳴らす椿。

なんだかんだ言いつつも、まだ余裕がありそうだ。


「はいはい……」


「あっ何その態度!そんなんだから四十にもなるのに独身なんですよ、ふん!」


「ほっといてくれ……それより少し近くを散策してみよう。携帯の電波が届く場所に出られればみっけもんだ」


「そう……ですね。下手に動くのもアレですけど、流石に私もこんな山奥で一晩明かすのは嫌ですし。ていうか本当にこんな山奥にいるんですか?その、神谷 静子って人」


「正確には神谷 静子の痕跡だ。本人はとうに亡くなってるはずだからな。調べ回ってやっと掴んだ情報だから間違いはないと思うんだが……」


今回のフィールドワークの目的は、憑き物筋、犬神の研究なのだが、この犬神に関して、俺はある人物をここ、大分県で探していた。


神谷 静子。

その昔、大分県速見郡山香町で、ある事件が起きた。

とある巫女が、犬神の霊薬だと称して、犬の生首に群がる蛆を乾燥させ、それを煎じたものを町の人間に売り付けたという。

巫女は逮捕されたが、憲兵の厳しい取り締まりにあい、その短い人生の幕を牢屋で閉じてしまった哀れな女性。


その女性の名前が、神谷 静子だ。

一見してこの女性はただの詐欺師だと言われているが、この神谷 静子の事を調べるうちに、俺はある興味深い情報を掴んだ。

そしてある一つの可能性を導き出したのだ。


神谷 静子は本物の霊能者であり、本物の狗神筋だったのではないか……と。


それを確かめる為にも、まずはこの森から脱出しなければならないが。


「さてと、」


「あ、あぁぁっ……!?」


バックパックを担ぎ直し立ち上がった時だった。

先に立ったはずの椿が突然震えるような驚きの声を上げた。

何事かと立ち尽くす椿の元へ向かう。


「なんだ変な声出して、蛇でも居た……」


そこまで言いかけて、俺は言葉を失ってしまった。


「グルルルルッ……」


身の毛もよだつような呻き声。

葉や小枝をベキベキト押し退け、木々の間から、1メートルはゆうに超える黒い巨体が姿を現した。


熊だ。


「嘘だ……ろ……」


九州には熊は居ない。

2001年には、この地方で絶滅宣言が出されたはずだ。

然し、今俺と椿の目の前にいるのは間違いなく熊だ。

しかも明らかに威嚇体勢を取っているのが分かる。


「き、教……授……!」


「しっ……!静かにしろ……!刺激するな……」


俺は震える足を何とか前に出し、椿を庇うような形で構えた。

こんな事をしても何にも解決しない事は分かりきっているが、せめて教え子である椿を逃がす事くらいは出来るかもしれない。


俺は椿に顔を寄せ、小声で話しかけた。


「椿……合図したら逃げろ……」


「そんな……教授は……!?」


「俺も逃げる、けどもしダメな時はお前が誰か見つけて助けを呼んでくれ……」


「で、でもそんな……」


「グルルルッ……!」


──ドスンッ


熊が前のめりになり、四足歩行へと切り替えた。

俺はそれを見るなり無我夢中で叫んだ。


「逃げろっ!!」


──ドンッ


椿を押し退けるように突き飛ばし、熊の注意を引く。


「きゃあぁぁぁっ!!」


泣き叫ぶようにして走り去る椿。

振り返ると熊は勢い良く俺へと迫り、今にも飛び交ってきそうな状況だった。


足が動かない。それどころか腰が砕けるようにして全身の力が抜け、俺はその場にへたりこんでしまった。


巨体が俺に暗い影を落とす。


俺目掛けて振り下ろされる熊の鋭利な尖抓が、スローモーションのように見えた。


衝動的に目を瞑る。

振り下ろされた爪は俺の肉を裂き!骨すら砕く……はずだった。


おかしい。


体感的にはもうやられてもおかしくない。

然し痛みも何も無く、状況は変わらぬまま。

まるで時が止まったかのような感覚。

必死に瞑った眼をうっすらと開け、視界が開けたその時だった。


信じられない光景が、俺の目の前で繰り広げられていた。


「そ、そんなっ……!?」


熊の前に立ちはだかる人影。

しかもよく見ると少女の姿。

絹糸のような真っ白な髪をたなびかせる少女が、熊の腕を掴み、その動きを制している。

少女の腕は血管が浮き出るほどの筋肉が盛り上がっており、とてもじゃないが現実とは思えない姿。

だが実際に今目の前で、そんな非現実的な事が正に起こっている。

思考が追いつかない。

頭の中はパニック寸前で、それ以上俺は言葉を発せなかった。


「グアッ!」


硬直した状況に痺れを切らしたのか、熊は掴まれた腕を振りほどき距離をとった。

その瞬間だった。


「ワオォォォォンッ!!」


顔を上げると同時に、少女が叫ぶ。

天を衝くような咆哮。

木々がざわめき、強風が森全体を震わすように吹いた。


瞬時に、熊が怯えるように辺りを見回す。

そして急に背を向け、元から来た方向へと実を翻しその場を立ち去って行った。


助かったのだろうか……。


そう思いながら少女を見ると、それに気が付いたのか、少女もまた振り返り俺を見下ろした。


綺麗に整った、何処と無くあどけなさの残る顔。

一目見て引き締まった身体をしているが、不思議な事に先程熊を止めた時のような筋肉隆々の姿ではなかった。


見間違いか……?

いよ、そもそも熊とやり合うこと自体が人間離れしている。


それにさっきの、狼を思わせるような鳴き声は……。


「教授!教授!!」


声の方に振り向くと、顔をクシャクシャにさせながら此方に走りよる椿の姿が見えた。


「良かった……無事……か、」


椿の無事な姿を確認した瞬間だった。

極度の緊張、生死の境、そここら解放された衝動からか、糸が切れたかのように俺の体は倒れ天を仰いだ。

視界が薄れる中、泣きじゃくる椿の顔と、真昼の陽光に照らされた、少女の凍てつくような冷たい眼差しが、微かに見えた……。




瞼の上に、微かな明かりを感じた。

重い瞼を開くと、木造の天井に、古い電灯が目に映った。


外ではない、家の中……?


「教授!教授!?」


耳元で聞き慣れた声がする。

顔を横にすると、枕元で俺の顔を心配そうに覗き込む椿の姿があった。

そしてその隣には見知らぬお婆さんの姿もあった。


「ほらなあ、気を失ってただけだから心配いらんよ、もう大丈夫」


お婆さんは椿の肩に軽く手を置いて言った。


「は、はい」

椿もそれに落ち着いたのか、目橋の先を指で何度か拭う。


俺は上半身だけ起こすと、お婆さんに向かって深々と頭を下げた。


「すみません、どうも助けて貰ったみたいで、失礼ですが貴女は?私は東京の大学で、」


「ああ、ええよええよ、あんたの事はこのお嬢ちゃんから聞いとるから、わしは杉原 元子、この民宿の女将をしとるもんだ」


「杉原……元子さん、助けて頂きありがとうございます。何とお礼を言えば……」


「助けたのはわしじゃない、わしはハクが連れてきたあんたらをこの宿で休ませただけよ」


「ハク?」


「教授を助けてくれた女の子ですよ」


元子さんの隣に居た椿が、なぜか得意そうな顔で言った。


「何でドヤ顔なんだお前……まあいい……あの子はハクって名前なのか……」


白く雪のような肌、氷のような冷たい眼差し……人とは思えない美しさすら感じた。

ハク……。


「名前は珀明(ハクメイ)……わしらはハクと呼んどるけどな」


「珀……明。あの、そのハクって子は?」


「あの子は普段、森の中に住んどる、滅多な事じゃこの辺りの集落にも姿を現さんが、アンタをおぶって家に来た時は本当に驚いたよ」


「そう……ですか、何から何まで助けて貰ったんですね……その子にお礼がしたいのですが、どうにか会えませんか?」


「あ、ハクちゃんなら後でまたここに来るそうですよ!」


「何だって?本当かい、あのハクが……?」


「はい!ハクちゃんに私からお礼がしたいって言ったら後で顔を出すって」


「はあ、たまげたもんだね。あの子は誰とも関わろうとしないし、ましてや森から出る事も滅多にないってのに」


元子さんが驚く顔を見せ椿の顔をまじまじと見つめた。


椿の人懐っこさには常日頃から目を見張るものがある。

どんな相手の懐にも飛び込んで、いつの間にか仲良くなっている。

大学でも顔が広く、常に輪の中心にいるが、そのくせ人当たりもよく人気者だ。

実は今回このフィールドワークに連れて来たのも、聞きこみ調査等の事も考えての抜擢だった。


「まあいいさ、ハクが来るまでには時間があるんだろ?その間に晩飯の用意でもしとくから、風呂でも浸かってゆっくりするとええ、どうせこの辺りじゃ泊まる場所なんて、このボロ民宿ぐらいしかありゃせんからの。なあに、人間屋根と飯、畳一畳ありゃあ十分よ、でも料金はちゃんと頂くけどね、あははは」


軽快な笑い声で立ち上がり、元子さんが部屋から出て行く。

その様子に呆気に取られ、俺と椿はしばし放心したまま互いの顔を見合せた。








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