日々是好日

若狭屋 真夏(九代目)

死神

ホールには満員の客が入っているが舞台には一人の老人しかいない。

満員の客がまさに「水を打った」ようで舞台の上の老人を凝視している。

「消ぇるよ」

老人がいう一言に緊張を感じている。

「きえるよ。。。」



「ほら消えた」

と言って老人がバタッと前に倒れるとホールは拍手で満たされる。

老人はすくっと体を戻すとお辞儀をし立ち上がり下手に下がっていった。


老人がわきにはけると「師匠お疲れさまでした」と多くの弟子たちが頭を下げる。

「どうだい。死にかけた爺さんのやる死神は?」そう老人が言った。

「大変勉強になりました」そういったのは老人「四代目若狭屋老虎」の惣領弟子「九代目若狭屋真夏」だ。

その弟子の小夏もここにいる。

「じじいは主席をとるのがしんどいんだよ。一番最後までいなきゃならねぇから眠くてしょうがないよ」

そういって楽屋にはいり私服に着替えた。


ホールの関係者出入口にはタクシーが待っていてタクシーには老虎と孫弟子の小夏が荷物持ちとして乗り込む。

「師匠お疲れさまでした」と真夏たちは頭を下げて見送った。


「は~つかれた、まったくなんでこんなしんどい稼業をやってんのかねぇ、おいらは」

老虎の独り言に小夏は返事も答えに困る。

この日はちょうど大晦日。

所々で除夜の鐘が聞こえる。


30分ほどして老虎の自宅にタクシーが着いた。

小夏がタクシーから荷物を下ろし老虎の自宅まで運ぶ。

老虎は神田に住んでおり「神田の師匠」と言われていた。


「ただいま」と家に入ると老虎の妻「玲子」が

「なんだ。あんたかよ」とつぶやく。

若い夫婦ならこの一言で大喧嘩となってしまうがそこは連れ添ってうん十年の熟年夫婦。

「ざんねんだったな。おいらでよ」

と返す。

「小夏が荷物持ちで来てくれてさ。真打になったってのに感心なやつだ」

「え、小夏がきてんのかい?そういうことは早くいいなよ。こなつ~。こなつ~」

「へっおれよりも小夏かよ」これもいつものことだ。

この時玲子つまり「おかみさん」は相当酔っている。


「はい」と小夏は部屋の隅っこに座った。

「なにそんな隅っこにいるんだよ。もっとこっちに来な」

「はい」


真夏が近づくとおかみさんは机の上に一升瓶と湯飲み茶わんをだし

「まあ。一杯やんな」と酒を勧めた。

「おい、明日っから正月だぞ。芸人は正月が書き入れ時って昔から決まってんだ。明日っからは忙しいんだ。明日小夏がポカしたら真夏に怒られるぞ」と老虎

「真夏だって大晦日に呑ませた事あるだろ。もう名人になっちまってこっちに来てくれないんだから」


本来ならば落語界における師弟関係は絶対である。弟子は最初のうちは師匠の家に住み掃除洗濯や師匠のかばん持ちなどいろいろなことをしなけらばいけないが若狭屋はそういうことをやらせなかった。

それは老虎夫婦のもとに子供がいなかったというのが大きな理由であろう。

「じゃあおいらは寝るぜ。小夏。ばあさんの相手してやってくれ」

といって老虎は奥に引っ込んだ。

「じゃまもんはいなくなったからほら一杯」

と言って湯飲みを渡される。

「じゃあ頂戴いたします」といってくびっと飲み干した。

「良ぃー飲みっぷりだね、ほら駆けつけ三杯っていうじゃないか。後二杯」



こうして朝までおかみさんと一緒に呑んであかした。


「えーあけましておめでとうございます」といって朝から老虎の自宅に多くの弟子や関係者があいさつにやってくる。

もうその時は小夏もぐでんぐでんに酔っぱらっていた。


老虎という名前はいわゆる「隠居名」というもので惣領弟子に「真夏」の名前を譲った者が名乗る。

つまりはセミリタイヤみたいなもので寄席も時々でるだけである。

だから老虎を名乗った次の正月からは一日には明神様へと初詣をするのが決まりになっている。

しかし小夏は真打になってまだ数年。いわば一番脂ののっている時で元日から仕事がある。

老虎が言ったように芸人はお正月が忙しい。普段は来ないテレビの収録があったり鏡開きがあったりと大忙し。

それなのに小夏は酔っぱらっている。

「え~おかみさん。わらしも寄席にいかなきゃいけらくって。。」

「すこしやすませーていたらきますとありゃーてーですが」

「なんだい。こりゃこまったね。まあ飲ませたあたしもいけないんだけど。ほんとにこれじゃ真夏に怒られるね」


「しょうがないねぇ。今日は休んじゃいな。まあ噺家もお前ひとりじゃないんだし

そんなに酔ってちゃ仕事にもならないだろ?」


「ええ。おかみさんがそこまで言ってくださるなら、あたすも覚悟ができゃーした。」


ちょうどそこに真夏の弟弟子の千夏が手伝いに来ていた。


「おい。千夏。」

「はい」


「今の協会の会長って誰なんだい?」

「生楽師匠ですが」

「すまないけど生楽に電話かけてくれないかい?小夏がこんなんだから今日は休むってね」

「えぇー」千夏は驚いた。

「出来ませんよ。私みたいな下っ端には」


「そうかい、わかった。じゃああたしが電話するから」といっておかみさんはふらふらと立ち上がり電話機のもとへと移動した。

千夏はどうしようか悩んでいるところを多くの弟子たちがおかみさんを止めた。


仕方ないので小夏は出番を遅くしてそれまで老虎の家で酔いを醒ますはめになった。


そのあともおかみさんは酒を飲んでいて夕方になって

「おかみさん。ごちそうになりました。これから仕事に行ってまいります」というときにはもうべろべろになっていた。


「では失礼いたします」と玄関で靴を履いていると

「おい。小夏。」とふらふらっとおかみさんがやってきて

「手を出しな」といった。

小夏が手を出すと

「ほら。お年玉」

といって小夏の手の上にくしゃくしゃになった五千円札をおいた。

「じゃあ。がんばっておいでよ」と眠そうな目をしていった。


それがほんの2年前の出来事である。



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