File 37: The Chain

 医務室を出たエルは、出入り口の傍に人影があるのを認めた。

 腕を組み、壁にもたれるようにし立つ、長髪の女性。

 夜間であるのにも関わらずサングラスをかけていて、その表情はどこか浮かない。

 エルは彼女がⅡ課の捜査官であることを思い出し、うろ覚えの名前を口にする。


「えっと、たしか和泉ヨウカさん」

「そうや。うち名前はヨウカや。よーく覚えといてくれ、黒ちゃん」


 「黒ちゃん」と反芻し、エルはその綽名のポップさと口調の暗さが釣り合わないことに首を傾げつつ、


「……盗み聞きなんて趣味が悪いですね」

「まあ、趣味が悪いことは認める。でも、別に盗んでなんかないやろ。あんた、うちの存在気づいとったくせに」


 ヒバナと会話している最中、すでに悲し気な女性の臭いを感じ取っていたのは事実。

 身内の能力はあらかた把握しているとはいえ、中々勘が鋭いなと思う。

 ヨウカは二、三話す内容に迷ったような素振りを見せ、


「端的に言う。共存なんか無理や」


 と冷たく言い放った。


「……難しいことは分かってます。だけど」

「いんや、世界から差別意識は無くならない。それを禁止したらしたで、より陰湿になるだけや。そんでもって、不満や恨みは長い時間をかけて積み重なり、いつか大爆発を起こす。結局は、同じことの繰り返し」


 エルを遮るようにして発せられたヨウカの言葉は、彼女の人生を詰め込んだかのような、含蓄のあるものだった。

 言い返そうと思ったが、うまい反論が見つからない。

 最終的には絞り出すようにして、咬みつく。


「じゃあ、ヨウカさんは差別し、差別される現状を何とかしたいとは思わないんですか」

「……そりゃ、思っていた時期もあるよ。でも、世の中には諦めたほうがいいこともある。どうせならポジティブに考えようや。うちらみたいな危険な存在でも、力を持って、無能力者に尻尾を振ってさえいれば、それなりに裕福に暮らせる。ありがたいことやで、ほんまに」


 たしかに、そうだ。

 これ以上何かを望むのは、烏滸がましいことなのかもしれない。

 だが、それでも頑なに認めたくない自分がいた。


「理想を抱くのは、悪なのでしょうか」

「悪とか善とか、そういう話やない。うちらは所詮、ちっぽけな人間でしかないってことや」


 どう足掻いたところで、世界を変えられるほどの力は持てない。

 皆、何らかの罪を背負って生きている。

 こういうのを何といったけか、と頭を巡らせ、原罪という言葉を思い出した。

 考えても仕方がないこと。己の矮小さを自覚し、諦めるべきこと。思考は袋小路に至る。


「……心に留めておきます」

「うむうむ。……さ、帰ろうや。もうこんな時間やし」

「えっと、ヒバナさんには同じこと言わないんですか?」

「あの子はほら、頑固やし。一度自分が正しいと思ったことは、中々曲げへんやろ」


 果たしてそうだろうかと半信半疑になるも、自分よりヒバナと一緒にいる時間が長いであろうヨウカの言葉なので、結局は疑義を呈すことはしなかった。

 彼女は足早に先を行っていたが、突然思い出したように振り向き、


「あ、そうそう。気ィ付けや、あんた。うちの経験上、早死にするタイプやで」


 エルは返答しなかった。

 それは決めつけられた怒りからではない。ああ、そうかと妙に納得してしまって、咀嚼するのに時間を要したからだ。

 この仕事に就いた以上、いつでも命の危険と隣り合わせであることは承知している。

 だから、早死にするなどと不吉なことを言われても特別嫌悪感は抱かなかった。

 が、早死にするタイプがどんな人間かと考えれば、たしかに自分のようなどうでもいいことをグチグチと悩んで、自己憐憫に浸るタイプなのだろうなと腑に落ちてしまうのは、不思議な感覚である。


 共存を目指すべきかどうか。

 自分の中で結論は出ているものの、絶望的な状況に風穴を開けられる方法が思いつかず、どうしても二の足を踏んでしまう。行動を起こせないでいる。

 なので、対照的に希望を抱けているヒバナのことがある種不可解だった。

 彼の目には何が映っているのだろう。

 勝算があるとでもいうのだろうか。

 現時点ではただの命知らずにしか思えないが――。


 そういえば、と。

 エルはヒバナの臭いを思い出す。

 複雑な感情が入り交じり、一概にこれと言えない臭いではあったが、最も異彩を放っていたのは、「母を希う赤子の臭い」だ。


 それとあの変化ぶりに何か関係があるのだろうかと、エルは首をひねった。

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