五 章

 森さんと新川さんが去った後で俺は後ろを振り返った。

「朝比奈さん、今の聞いてらっしゃいましたか」

「ええ。向こうには向こうの、組織的な方針があってなかなか難しいようね」

「俺が人情に訴えようとしたのは甘かったですね」

「相手が個人ではない分、動かすのは簡単ではないと思うわ」

「すまん長門、説得できなくて」

「……いい。あなたの主張は正しい」

 四人はテーブルの周りの丸イスに座り込んだ。古泉が長門と朝比奈さんにコーヒーを渡した。

「機関が動かないとすればどうしようもないよな。朝比奈さん、一度元の時代に帰りましょうか」

それを聞いて古泉が言った。

「ちょっと待ってください。このままにしておくと涼宮さんの閉鎖空間が世界をおおい尽くしてしまうかもしれません」

「そうだったな。でも時間移動できるんだから、一度戻って休んでからでもいいんじゃないか?」

朝比奈さんがそれをさえぎった。

「いいえ、時間の断層が生まれてしまうと戻ってこれないかもしれないわ。このままこの時代にいましょう」

「じゃあ閉鎖空間発生まで、どこかで晩飯を食うなり休むなりしますか」

ええっと、この時代で四人が邪魔してもよさそうな知り合いは……と。やっぱり鶴屋さんか長門(小)しかいないだろうな。とはいっても二十四歳の俺が鶴屋さんに接触したらまた未来に影響がでかねんわけで、事情を知ってる長門(小)のほうがいいか。

「長門、お前んちで少し休憩させてもらいたいんだが」

「……いい。と、思う」

まあ現地の長門に聞いてみないことにはな。


「……わたし。また来た。四人いる」

「……」

 長門のマンションでインターホンを押すと、無言でドアを開けてくれた。度重なる来訪に若干喜んでいるような表情に見えたが、気のせいではあるまい。

「すまんな。歴史改変がまだ続いていてな」

「長門さん、突然お邪魔してごめんね」

「……いい。何度来ても」

相変わらず殺風景な部屋だ。居間から和室に通じるふすまは閉じてあった。そこには俺と朝比奈さんが遠洋漁業漁船の冷凍マグロのようにして眠っているにちがいない。

 長門(小)はいつぞやと同じようにお盆に急須きゅうすと湯のみを載せて台所から出てきた。笹の葉と星の模様のこたつにトンと置き、ちょろちょろとお茶を注いだ。

「……飲んで」

「ああ、ありがと」

長門の入れてくれるお茶をすすって少し気分が落ち着いた。時間移動でなにが疲れるかというと、生活のリズムを失うことだ。自分の時間的には眠いはずなのに現地の時間がまだ昼だったり、飯を食ってもいい頃合が分からなくなったり、たぶん軽い時差ボケなんだと思うが。

 朝比奈さんが湯のみから立ち上る湯気をかいで、

「いいお茶ね」

「……そう、あなたがれていたのと同じ銘柄」

なるほど。お茶に関しては朝比奈さん仕込みか。

 長門は何度も朝比奈さんの湯のみにとぷとぷと注いでいる。

「な、長門、そうおかわりを何度も注がれてもな」と言いかけたのだが、

「あらキョンくん、お茶は三杯いただくものよ。最初の一杯で色と香を楽しむの。二杯目で味、三杯目ではじめて結構なお手前を言うの」

「そうだったんですか」

長門が立て続けに三杯も注いでくれたのは正統な飲みかただったわけだ。知らなくてちょっと恥じ入っている。


 二人の長門は台所にこもって晩飯の用意をはじめていた。俺はいつもの長門空間で足を伸ばした。歴史は変わってもこの部屋は変わらずにいてくれて正直ほっとする。

「思ったんだが、古泉自身は味方になるんじゃないか?」

「僕はいつでもあなたの味方ですが」

それはお前流のボケなのか。この時代のお前に決まってるだろう。

「そうですね。未来人の言うことならたぶん信じるでしょう」

「ちょっと話をしてみるか。協力くらいはしてくれるかもしれん」

「僕は過去に未来の僕と会った記憶はないので、僕自身が話すわけにはいかないですが」

「そりゃそうだ。朝比奈さんにお願いしていいですか、未来人として知っているはずなんで」

「いいけど、あまり未来の情報を教えるのは気が進まないわ」

「機関の方針がどうなってもハルヒのことを頼む、くらいでいいんです。機関に隠れてでも会ってやってくれと」

「それくらいならいいわ」

古泉に自宅の電話番号を聞きだし、古泉(小)を呼び出すことにした。昨日今日の異動だ、まだ遠方には飛ばされていないだろう。

 四人は部屋の主の長門(小)を残して出かけた。ついてきたそうにしていたが、未来の情報を覗かせるわけにはいかないと長門自らが制して留守番させることになった。まあすぐ戻ってくるから、すまんが晩飯の用意を頼む。


 古泉(小)は待ち合わせ場所になぜか俺たちが映画を撮った池を指定してきた。池の中に機関の人間がひそんでいたりはしないだろうな。

 ポケットに手を突っ込んだ人影が、朝比奈さん(小)が池の中に放り込まれる予定の場所に立っていた。朝比奈さんを先に行かせ、俺たちは将来みくるビームで切り取られるはずのフェンスのそばで見守ることにした。

「古泉くん……お久しぶり」

朝比奈さんは不可視フィールドから出て若かりし日の古泉に話し掛けた。

「あの……朝比奈さん、ですか?ほんとに未来からいらしたんですか」

「うふふ、わたしです。朝比奈みくる本人です」

古泉(小)が疑いの目を向けていたので朝比奈さんは近づいて顔を見せた。

「あ、信用してないでしょ。証拠を見せてあげる」

うわ、朝比奈さん、まさかこんなところで未成年の男子に胸のホクロを見せたりするんじゃ。俺は今にも不可視フィールドから飛び出てその胸を古泉の視線から守ってみせるという勢いだったのだが、さすがに杞憂きゆうだったらしく胸のポケットから出てきたのは一枚の写真らしい。

「未来の五人よ」

「ほんとですか、意外に変わってませんね。僕少し太りましたか」

「太ったのはキョンくんのほうね。古泉くんはほとんど変わらないわ」

え、まじっすか。俺そんなに太った?と長門のほうを見るが、ブンブンと強く否定した。あんまり必死に否定されるとかえって不安になるんだが。

「この写真は何年後の僕たちなんですか」

「それは禁則事項なの。でも信じて、お願い」

「解りました。信じますが、この時代へいらした理由はなんですか」

「ごめんね、あまり説明してる時間がないの。あなたにひとつだけ言いたいことがあって」

「僕自身は来ていないんですか」

「すみません、それも禁則事項なの。あ、また言っちゃった。わたしこればっかり言っててもうイヤになっちゃう」

朝比奈さん、こんなときにこんな場所で過去の人間に向かって愚痴ぐちるのはやめてくださいよ。

「だから手短に言います。王子と乞食って知ってます?」

は……?俺も長門もここにいる古泉も向こうにいる古泉も同じ顔をした。

「それは知っていますが……」

「これからあなたが何か困った状況に置かれたとき、」

「ええ、困った状況なら今がちょうどそうなんですが」

「この状況は王子と乞食が入れ替わったために起こったことなの」

そのたとえ話は非常にこじつけがましくて非常に語弊ごへいがあると思うのですが、まあほかに説明のしようがあるのかといえばそうでもなくて、こっちで見ている三人はうんうんとうなずいてしまうほかないですが。

「王子と乞食というと、アメリカ文学を代表するマークトウェインの小説ですよね。確か一八八二年の作でしたか」

何なんだその借りてきた百科事典みたいなセリフは。どっからそんな知識が沸いて出てくるんだ。

「そう、立場も育った環境も大きく違う人間が入れ替わるお話ね」

「それと今回の異例の人事異動じんじいどうがどう繋がるんです?」

「ごめんなさい、これ以上は言えないの。でもヒントだけでもと思って。これがわたしの精一杯」

「つまり涼宮さんがらみで、未来からの干渉により主役と脇役が入れ替わっているということですか。僕の解任もその一環いっかんなんですね?」

王子と乞食だけでなぜそこまで解る!古泉、お前は勘が働きすぎるぞ。今のうちに始末しておくべきだ。

「今回のあなたは主役なの。ただそれを望まない人たちもいて、あなたをエキストラにしてしまおうとする動きがあるの」

「陰謀の匂いがしますね」

なにワクワクしてんだ古泉(小)。

「それで、僕はどうすればいいんでしょうか」

「エキストラになっても、プリマドンナのことを忘れないであげてほしいの」

プリマドンナって何だハムの一種か?などとくだらんボケをかます俺に、隣の古泉は空気を読めといった様子で眉毛を寄せていた。

「分かりました。今回の人事じんじについては僕もみすみす引き下がるつもりはありませんから」

「ここにはいない誰かも、きっと応援してるわ。涼宮さんの幸せのために」

「それが王子と乞食なんですか」

「ええ」

「覚えておきます」

そうだ。ハルヒの幸せ、それが俺たちの目的なのだ。

「最後にもうひとつだけ。もっとわたしのことを気遣きづかってやってください。涼宮さんのおもちゃにされるのはストレスが溜まります」

「は、はい。分かりました。極力フォローするように心がけます」

朝比奈さんは言いたいことを言うと、じゃあまたねと言って古泉(小)から離れ右手をにぎにぎした。朝比奈さんが俺たちのいるところに戻ったところで、向こうから古泉が呼びかけた。

「僕にもひとつだけよろしいですか」

フィールドの手前で朝比奈さんはくるりと振り返った。

「朝比奈さん、あなたはいつまでもおきれいです」

「まあ……」

こ、この野郎、土壇場どたんばで朝比奈さんの心を奪うつもりか。


 古泉(小)と別れて長門のマンションに戻ってきた頃には九時を回っていた。台所からいい匂いが漂っている。今日はカレーか。

「長門、ただいま」

「……今戻った」

「……おかえり」

二人の長門を見ていると双子の姉妹みたいで、おそろいのゴスロリとかアリスエプロンを着せて並べてみたいものだ。あいにくと(小)のほうは北高の制服しか持っていないが。

「……ごはん、完成した」

「お、おう。いい具合に腹が減った」

「おいしそうな匂いですね。僕もおなかが減りました」

朝比奈さんは一度長門の山盛りカレーに苦痛を味わったようで、いい匂いね、と言う表情の影で冷や汗を垂らしていた。

 長門(大)がカレー皿にご飯をぺんぺんと盛り固め、長門(小)がルーを丁寧にバランスよく盛り付けている。おなじみの業務用缶カレーかと思っていたのだがそうではないようだ。ちゃんとじゃが芋も角切りの肉も入っているな。

 いただきますの合唱と共にスプーンでごはんを切り崩しカレーとまぜて口に運んだ。食ってみるとなかなかに味わいがある。いつもの日本的とろり系カレーじゃなくて、さらっとしたルーの中に香辛料の粒が残っている。

「長門さん、おいしいわ。前のとぜんぜん違うわ」

「これ、もしかして自分でスパイスを調合したのか」

「……そう」

「……そう。わたしが教えた」

なるほど。同位体と情報の共有は一切しないのかと思っていたが、レシピの共有はするんだな。ここにこの時代の俺がいたらぜひ食わせてやりたいものだが。

 古泉は飲まなかったが俺と朝比奈さんはビールを注いでもらい、四人で軽く乾杯した。長門(小)は表向き未成年なのだが、まあこの際かまうものか。未来から来た同位体が飲んでいることにすればいい。


 古泉はおかわりをしつつのんびりと食ってるように見え、実は閉鎖空間の発生を待っていて神経だけはとがらせていた。もっと肩の力を抜けと言っても無理だろう。今日のハルヒは一触即発しそうなただならぬオーラを発していたからな。

 十一時を回ってもまだ発生せず、古泉はお茶をすすりながらじっと待った。さすがに今日一日走り回った疲れもあって俺は眠気に襲われている。

「……今日は泊まっていけばいい」

「……そうする」

「そうか。すまんな、俺も少し寝るわ」

いつもの和室は時間凍結されているので居間か長門の寝室しかないのだが、男は居間で、女は寝室で寝ることになった。まさかここに泊まるとは考えていなかったので着替えは持ってきていない。長門が人数分の緑色のパジャマを出してきた。それいつからストックしてあったんですか。との問いに、長門が言うにゃ、たった今分子レベルでコピーした、らしい。便利なものだな。

 古泉はまだ起きて待機していると言い、毛布を一枚だけ借りて横になっていた。俺は用意されたパジャマに着替え、布団を被ってそのまま目を閉じて深い眠りに落ちた。やれやれ、時間移動は疲れるぜ……。


 ところでレム睡眠が一日に一時間程度しかないのをご存知だろうか。大人がだいたい八時間眠っているとすると、六、七時間はノンレム睡眠、残りがレム睡眠らしい。子供の場合はレム睡眠の割合が多く、新生児は眠っている半分がレム睡眠の状態だ。これが動物になると、爬虫類や鳥類は短時間だがレム睡眠があり、魚類や両生類にはない。つまり金魚は夢を見ないが、トカゲは見るわけだ。哺乳類でも肉食動物はレム睡眠が多く、草食動物は少ない。天敵にいつ襲われるか分からない草食動物にとっては、夢などおちおち見ていられないということなのだろう。


 猛烈な勢いで誰かに首根っこをつかまれて引っ張っていかれる感じに襲われ、突然回りの風景が突風にあおられたかのように横に流れて歪んだ。疲れをいやしつついい感じに眠っていたはずなのだが、これは夢の続きなのか。

「起きなさいキョン」

「イヤだ、まだ目覚ましは鳴ってないぞ」

俺は草食動物じゃないんだ、もっと眠らせてくれ。

「寝ぼけていらっしゃるんですか。緊急事態ですよ」

「起きなさいつってんでしょうが!」

パシパシと何度もほっぺたを叩かれる夢から覚めて目を開けると、ハルヒの顔がアップで映っていた。その後ろで古泉が俺を覗き込んでいる。

 目をこすりこすり体を起こして周りを見てみると、見覚えのある建物と風景が目に入った。灰色の地面に灰色の校舎、灰色づくめのあの日と同じだ。ただひとつだけ違うことは古泉がここにいることだった。

「あんた、ほんとにキョンなの?」

「ああ、俺だが。なにか変か?」

よだれでも垂れているのかと自分の顔をなでた。げっ、俺パジャマのままかよ。しかも裸足じゃん、手抜きにもほどがある。

「にしてはやけに老けてるわね」

余計なお世話だと返しそうになったんだが、よく見りゃこいつら高校一年のハルヒと古泉(小)じゃないか。やけに肌がスベスベしてるぞ、小じわがぜんぜんない、ってなに感心してんだ俺は。


 閉鎖空間、なぜだか前と違う気がする。上空を見上げてみたが現実世界との境界が分からない。奇妙なことにときどき雷鳴が聞こえる。やたら波乱含はらんぶくみだが、まさか異世界のアレみたいに豪雨になるんじゃあるまいな。

「キョン、ここ、どこだか分かる?」

分かるさ。前にも来たことがあるからな。あのおぞましい経験は二度とないと思っていたのだが。

「目が覚めたと思ったら、いつの間にかこんなところにいて、隣であんたと古泉くんが伸びていたのよ。どういうこと?古泉くんはアラスカに行ったはずなのに」

「僕にもさっぱり分かりません。ただ、この空間は僕のよく知っている、」

古泉(小)が言おうとした矢先に俺は人差し指を口に当てた。ハルヒの前でそんな話をするんじゃない、と目で知らせたのだが、迫力も込みでちゃんと伝わったようだ。

 俺は何も言わず、先に歩き出すと二人とも後ろについてきた。ハルヒはときどき空を見上げたり木々や建物を見たりしながら、気味が悪いほど灰色に染まった世界を驚愕の表情で眺めている。この古泉も同じ表情をしていた。

「あんた、あんまり驚かないのね」

驚いてるさ。この古泉がいっしょにいることにな。俺がいるのはお前が呼んだからだろうけど、こいつが未来の古泉でなくて十六歳の古泉なのはなぜだ。

 三人は校門を出た。俺は手探りで見えない壁に触れようとしたが、そこにあるはずのねっとりした水のような壁がない。数歩歩いてみたが道路の端までなにも抵抗を感じるものはなかった。

「キョンなにやってんの?」

「いや、なんでもない」

ハルヒよ、お前はついに世界を裏返しにしちまったのか。長門や朝比奈さん、それから俺の知る古泉もろとも。それから俺の知っているお前自身。

「それより、どこかと連絡取れない?電話でもあればいいんだけど」

それが無理なことは前にも経験しているが、連絡が取れる可能性があるのは古泉と長門だけだな。もしまだ存在していたとしての話だが。

 俺は廊下のすみに置いてある消火器を取り、職員室の部屋のガラス窓を割った。別に電話に期待などはしていないんだが、もしかしたら長門や古泉(大)に連絡がつくかもしれない。

「……通じていないみたい」

そりゃまあ、そうだろな。

 あの日と同じように鍵が並ぶキーボックスから文芸部部室の鍵を取りながら、俺はふと思った。この異空間がハルヒが作ったものなら部屋の鍵を開けておくくらい意のままだろうに。そこまで気が回らなかったのか。

 俺はまた二人を連れて、ペタペタと裸足のまま部室へと向かった。ハルヒは古泉の腕にすがりついて離そうとしなかった。まったくこんなときにだが、あのときのシーンを思い出して忍び笑いした。

 俺はドアを開けて中に誰もいないことを確かめ、部屋の明かりをつけた。

「お茶でも飲むか」

電気ポットのコードをつなぎ、お湯を沸かし始めた。別に意識してやってるわけではないんだが、なぜか俺はあのときと同じ行動をなぞっている。

「どうなってんのよ、何なのよ、さっぱり分からない。ここはどこで、なぜあたしと古泉くんと老けたキョンはこんな場所に来ているの?」

老けたは余計だヲイ。

「ハルヒ、ちょっと、」探検でもしてこないかと言おうとしたがハルヒがそれをさえぎって、

「ちょっと偵察に行ってくるわ。誰かの罠かもしれない」

また妙な想像上の敵を作っちまいそうだな。まあいい、俺はこの古泉と話があるから行って来い。

 ハルヒがドアを開けて走り去っていくと古泉が質問を浴びせ始めた。

「未来からいらしたんですね?朝比奈さんにも会いました」

「そういうことだ。俺の知っている過去とは若干違うが」

「なにが起こっているのか、教えていただけませんか」

「ハルヒが暴走して閉鎖空間を作っちまっただけだ」

「これが、閉鎖空間なんですか?」

そうだが、その発生を検知できるのはお前の特技じゃなかったのか。

「こんな大規模な異空間は経験したことがありません。いつもは空間の外から見ているだけなので」

「ああ、その辺の話は森さんと新川さんに聞いた」

「なぜこんなことに?」

「ある女の子が自分の願望を意のままに実現する能力を持った。宇宙人未来人超能力者をかき集めて正体不明の集団を作った。そのうちの超能力者のことをやけに気に入ってしまった。超能力者の組合がそれをやめさせようとした。その反動がこれだ」

「未来人なら当然でしょうけど、事情はすべてご存知のようですね」

「すべてってわけじゃないがな。機関の上層部とも話したが、聞く耳を持たなくてな。前代未聞の異空間発生に今ごろは慌てふためいてるだろう」

「分かりました。信じましょう」

なんだ、案外物分りいいんだな。

「僕とあなたがここにいるのはなぜなのでしょうか」

実に鋭い質問だが、その答えはあらかじめ用意されているのだよ古泉くん。

「この状況はハルヒが望んだから起こった。俺とお前はハルヒに選ばれたんだ」

「では、未来のあなたがここにいながら、未来の僕が来ないのはどういう理由でしょうか」

ううっ、その答えは用意してなかった。

「そのへんはまあ、未来人の禁則事項というやつでだな。未来のお前が十六歳のときに自分に遭遇そうぐうした覚えがないからだろ」

「なるほど」

古泉は妙に納得したようだった。

「朝比奈さんばかりが未来人だと思っていましたが、そうではなかったのですね」

「お前から見りゃ、たとえ五分後でも未来人だろう」

「そういう意味ではなくて、ずっと謎だったのですよ。あなたの存在が」

「俺が?」

「ええ。SOS団には涼宮さんが望んだとおり、宇宙人未来人超能力者がいます。ですが、あなたはそのうちのどれにも属しません。機関の間ではこの人はいったい何者なのだろう、とずっと謎でした」

「そりゃまあ俺にとってもずっとある疑問だがな」

「あなたには物理法則を超えた魔法や時間移動や、一風変わった超能力のどれも備わっていませんし。役回りが曖昧なこの人はいったい何なのだろうかと」

まるで役立たずだと言われているような気もしないでもないのだが、まあこの歴史ではそうかもしれん。

「そのへんは俺にも分からん。ただしひとつだけ言えることは、なぜかは知らんが俺はハルヒを動かせる。それを能力と呼ぶかどうかは別としてな」

というかこれもお前自身が言ったことなんだが。

「そうだったんですか。それは我々機関も、いえおそらく情報統合思念体も未来人組織も欲しながら手に入らない能力なのでは」

何に使うんだそんなもん。世界征服でもするのか。

「もしかして、あなたがここにいるのも涼宮さんを動かすためなんですか?」

これ以上は言わないほうが身のためだな。こいつはやたら勘がいいから、俺なんかが隠し事しているとすぐバレちまう。

詮索せんさく好きなのはいいんだがな古泉、お前は勘がよすぎる。それが命取りになることもあるぞ」

映画で聞いた脅し文句をそのまま吐いてみたが、意外にも効果あったようで古泉は黙り込んでしまった。


「これからどうなるんですか。この異空間を消滅させるにはどうすればいいんですか」

「そろそろ神人が生まれるはずなんだが」

俺は窓を開けて外を眺めた。そういや古泉(小)がここにいるってことは朝比奈さんと長門のメッセージを受け取ることはできないんだろうか。古泉(大)はなにやってんだ、あいつまだ長門んちで寝てんじゃないだろうな、この非常時に。さっさと助けに来い。

「シンジンってなんですか?」

かみの人といってな、」と言いかけて、「いや、俺の口からは教えないほうがいい。あれは実物を見ないことには分からんだろう」

この機関が言うように、もしかしたらこの空間も自然消滅するかもしれないし、あれが生まれなきゃそれに越したことはない。

「それにしても涼宮さん遅いですね」

「そうだな。ちょっと様子を見てこい、みぞにハマってるかもしれん」

ハルヒを心配して駆け出す古泉(小)は、どうでもいい俺なんかとちがって白馬の王子様っぽく見えた。俺の目にそう見えてもしょうがないのだが。

 ポットのお湯が沸いたようだ。溌剌はつらつとした足音が遠ざかるのを聞きながら一人不味まずいお茶を飲んでいると、やっと奴が現れた。あのときのような小さな赤い玉、かと思ったのだが徐々に近づいてくると二メートルくらいはあった。俺は窓の外に向かって呼びかけた。

「古泉か?」

「やあ、どうも」

「遅かったな。もうちょっとまともな姿で、」

と言いかけたのだが、古泉の赤い玉は部屋の中に入り込んで人間の姿になった。

「前回と違うな。侵入できたのか」

「ええ。今回は長門さんのご助力により、このとおり実体化可能です。手間取ったのはこの閉鎖空間の直径が百キロを越す大規模なものだったため、一度境界の外に出て侵入したからです」

「百キロって県境を越えてんじゃねえか!そんなにでかいのかこの空間は」

「ええ。しかも時間と共に拡大しています。数時間で日本横断してしまうでしょう。涼宮さんはいよいよ世界を書き換えるつもりのようです」

なんてこった。

「入り込めたのはお前一人なのか」

「ここの機関の人間も何人か侵入しているようです。ただ、あまりに異例の規模なのでどうすればいいか方策ほうさくに迷っているようですが」


 窓の下で足音と二人の話し声が聞こえた。

「まずい古泉、この時代のお前が戻って来る」

「じゃあ僕はそろそろ戦闘に備えます。時間どおりにいけば数分で神人が生まれますから」

「ああ、ケガすんなよ」

「そうそう、朝比奈さんと長門さんから伝言を言付ことづかっています。朝比奈さんからは『無事に戻ってきてね』、長門さんからは前回と同じ、『パソコンの電源を入れるように』ということです」

「分かった」

アクションシーンも二度目となりゃ、余裕を持って大きく構えていられるってもんだぜ。

 古泉は再び赤い玉になって窓の外へ飛び出していった。俺はパソコンのスイッチを入れて長門とチャットをすることにした。


YUKI.N> みえてる?

KYON> ああ。二度も同じ経験をするなんて俺もとうとう運に見放されたな

YUKI.N> うん

KYON> 長門、それはシャレか、シャレなのか

YUKI.N> うんwww


YUKI.N> 今回の異空間は規模が尋常ではない(汗

KYON> まあ今回は古泉がいるからあいつに任せておけば大丈夫だろう。前回の二の舞はごめんだ

YUKI.N> ひとつ、頼みがある

KYON> なんだ?

YUKI.N> あのとき涼宮ハルヒにしたことを、わたしにして X-D

KYON> なに、あのときのシーン見てたのか長門!こっちが赤面だぞオイ


KYON> 帰ったらする(棒読み

YUKI.N> 約束 :-(

KYON> 分かった約束するから。そりゃそうと、今どこにいるんだ?

YUKI.N> 部屋にいる あなたの帰りを待っている

KYON> ああ、必ず帰るからな。遅くなりそうだから寝てていいぞ

YUKI.N> We are the sleeping beauties... ;-D


そこで会話は途切れた。ハードディスクが回りだし、アクセスランプが点滅した。起動にやたら時間がかかるOSのスタート画面が青白く俺の顔を照らした。にしても長門、その草とか顔文字とか、どこで覚えたんだか。We areってなんだ?


 俺は窓の外に目をやった。時間どおり、青白い光が窓の枠内を埋め尽くしていた。

「キョン、なにか出た!」

ハルヒが飛び込んできて、続けて古泉が荒い息をしながら走りこんできた。

「なにアレ?やたらでかいけど、怪物?蜃気楼しんきろうじゃないわよね」

あれは神人といってな、食えないし食ってもうまくないし寿司のネタにもならん。

「あれはいったい……」

古泉は唖然としたまま言葉を失っている。まあこいつははじめて見るわけだからな。

「宇宙人かも、それか古代人類が開発した超兵器が現代によみがえったとか!」

まったく、ハルヒのセリフだけは変わらんな。などと悠長ゆうちょうなことを考えていると、中庭にそそり立つ人型のでかい塊が腕を伸ばし、部室に向かって大きく振りかぶった。俺はとっさにハルヒと古泉を開いたドアの向こうに突き飛ばし、天井から床にめり込んだ神人の拳をけた。俺は冷蔵庫にしがみついたまま床に開いたでかい穴を見下ろした。この神人、いつもよりでかいぞ。ときどき体から派手な稲妻を散らしている。

 見上げると天井に開いた穴の向こうから赤い目んたまがこっちを見ていた。今度は左手を握って俺に向けて拳を突き出してきた。俺は長テーブルをひっくり返して橋代わりにし、ぶっ壊れているドアへと飛び移った。次の瞬間神人の手が長テーブルを真っ二つに割り階下に落ちていった。うお、やべ、あいつ俺を狙ってんじゃないのか。


「お前ら校舎から出ろ!」

もんどりうって廊下に転がり出ながら俺は二人に叫んだ。この神人は尋常じゃない。ハルヒを見るかぎりはいつものハルヒなんだが、今まで溜めに溜めていた鬱憤うっぷんがここぞとばかりに大放出されたのだろうか。この古泉にはもっと小出しにさせることを教えなきゃいかんな。

 暗闇の中、モクモクと沸き立つ砂ぼこりやらセメントのカケラやらが青白い光に照らされて浮かび上がる。俺はとにかく二人を脱出させることを考え、壁に設置された消火栓を開き、消火用のホースを全部引っ張り出して廊下の窓から外へ垂らした。

「これを伝って逃げろ、降りたら校門に向かって走れ。できるだけ遠くに逃げろ」

二人はうなずいて、まずハルヒを先に、続けて古泉を降ろした。俺は上から手を振ってさっさと走れと合図した。二人が走り出すのを見てから、俺は摩擦熱で手が焼けそうになりながら地面にすべり降りた。その間にも校舎は崩れてゆき、神人の拳が当たるたびに空気と地面から振動が伝わってきた。

 二人の後を追いかけて校門に向かおうとしたところ、青白い円筒状の物体にはばまれて前を進めなくなった。なんだこりゃと見上げてみると、神人の太い足だった。やべぇ踏まれるぞ俺。あいつらちゃんと逃げられたのか、まさかスルメみたいになっちまってんじゃないだろうな。迂回うかいしてグラウンドへ出ようとしたところ、真中に人影が見えた。古泉(大)だろうと思って俺はそっちへ走っていった。


 人影がだんだんはっきりするにつれ、ひとりじゃないことが分かった。ざっと十人くらいがじっと立ち尽くしている。そのうちのひとりが俺に気がついた。

「キョン……くん、どうしてここに?」

森さんだった。こいつらは機関の連中ってことか。俺は、言ったとおりになったでしょうという表情で全員を見回した。森さんはなんとも説明のつかない表情でびるようなすまさそうな、それでいてこんなことが起こるはずはないという気持ちを隠せないでいた。

「このことだったんですね」

「神人を見るのははじめてですか」

「ええ。まさかこんな破壊力を持った巨人が生まれるなんて、わたしたちは涼宮さんを誤解していました」

そりゃそうでしょうとも。あの情報統合思念体ですらハルヒの正体が分からずに頭をひねっているんですから。

 青白い巨人のパフォーマンスを遠巻きにして見ていた十人がオオッと声をあげた。振り向いてみると神人がまるでアメーバのように分裂して二体になろうとしている。

「増えましたね」

「あの、あれはどうやったら退治できるのでしょうか」

それを考えるのはあなたたちの仕事でしょうと言いたかったのだが、

「それを知っているのはたぶん古泉だけですね」とだけ答えた。

 見ていると、二体がそれぞれ分離して四体になった。四体があっという間に分離して八体になったときにはもう誰も声を上げなかった。このままいくと鼠算式ねずみざんしきに増えてしまうことになる。

 神人は校舎を木っ端微塵みじんにぶっ壊し、講堂の屋根にボコボコと穴を開けてぶっ潰した。特に職員室のある校舎は念入りに踏み潰しているようだった。ハルヒってやつぁよっぽど学校が嫌いなんだな。


 そのとき、プールのある方角から赤い火の玉が飛んできた。いよいよお出ましだな。機関の連中がそれを見て、今度は何なんだと指差した。神人も妙な物体が飛んできたことに気が付き、しばし破壊の手を休めた。赤い球体はそれが何であるかを見定める余裕すら与えず、神人の右腕に絡み付いてハムのように切り落とした。残った左腕で赤い玉を捕まえようとするが手のひらに穴を開けただけでそれは通り抜け、右腕が地面に落ちてしまわないうちに左腕も切り落とした。

 うるさいハエを追い払うように神人が寄ってたかって古泉を叩き落そうとするのだが、そのたびに空振りし、背中に回られた古泉に狙い撃ちされている。すきをつかれて足を切り取られたそのでかい体が、自分を支えきれずに横倒しになり、光る粒子となって散っていく。

「あの赤い玉は何なんですか、わたしたちの味方ですか」

「あれは……あなた方が解任しようとしている古泉の本当の姿です」

森さんも他のスタッフも黙ったまま何も言わなかった。

「あいつ、腕が上がったな」

表現力に乏しい俺が、華麗かれいなる赤玉裁き、スピニングレッドスフィア、とでも命名しようか。空中での古泉の動きは確かにスピードも技も向上している。神人の動きを先読みして攻撃をギリギリで交わすテクニックは喝采かっさいものだ。


 一体、また一体と砂の像のように崩れていくのだが、増殖する速さのほうが勝っていて次々に新しい神人が生まれてくる。まとめて数体にいどむ古泉だったが、あちこちで分離する神人の数に追いついていないようだ。それもそうだろ、たったひとりで全部を相手にしてるんだからな。

「これではきりがない……」

森さんが不安そうな表情を見せた。

「古泉の解任を取り消せばこの異空間は消滅するでしょうか」

「今ここで取り消してもだめなんじゃないかと。あれを発生させているのはハルヒのイライラですから」

この人たちは、ハルヒが暴走したら力尽きるまで止められないってことを知っておくべきだったな。

 数体の神人が顔を上げ、古泉から離れ始めた。粉々になった校舎を後にして敷地の外に向かっている。うるさいハエなんぞ相手にしていられんということなのだろうか。古泉は相変わらず手近にいる神人を切り刻んでいる。

「森さん、離れたほうがいいです。こっちに向かってきます」

「そうですね。全員退避、学校から出なさい」

機関のスタッフが西側の校門に向かって走った。こいつら異空間内なのに飛べないのか。にしても神人退治ができない超能力者なんてただの人じゃないか。

 神人はとうとう住宅街を壊し始めた。電柱を引き抜きバットのように振り回し家の屋根を叩き壊している。車を潰すと爆発炎上することを知って味を占めたのか、片っ端から車を持ち上げ地面に叩きつけている。とうとう趣味に走りやがったか。

 古泉の赤い玉もそれに気が付き、学校の中に引き戻そうと神人の周りをブンブンと飛び回っているがまったく相手にされない。その間にも青い塊は分離増殖を繰り返していく。そろそろ百二十体くらいにはなっているのか。これでは一体を狩る間に数体が生まれるという焼け石に水のありさまで、閉鎖空間の拡大を止められずに世界が終わっちまう。

 すまん長門……もしかしたらもう帰れないかもしれん。ただ一人戦える古泉の体力も、もうすぐ尽きてしまうだろう。あいつがあと数人でもいりゃなんとかなったのかもしれんが。

 暴れ狂う神人の猛威もういを避けて俺は学校の敷地の外へ走った。

「キョン、大丈夫?」

校門を出たところで後ろから呼び止められた。植木の陰に古泉(小)とハルヒが隠れていた。

「お前ら遠くに逃げろって言ったはずだろ」

「あなたを置いては逃げられませんよ」

ったく、こんなときに正義の味方みたいなこと言ってんじゃねえ。

「ちょっとキョン、あの家をぶっ壊してる怪物なんとかしなさいよ。あたしんち近いのよ」

お前も俺を正義の味方みたいに言ってんじゃねえ。俺はもうスーパーヒーローにはいい加減うんざりしてんだ。俺に世界を救えなんてのはまっぴらごめんだし、そんな役を買って出るほどの物好きじゃない。俺は英雄にはなれないしガラじゃない。

 古泉は俺を『涼宮ハルヒに選ばれし者』だと言った。朝比奈さんは『ハルヒの大切な人』と言った。長門に至っては『ハルヒに情報爆発を起こさせるイレギュラー因子いんし』だ。ついでに付け加えるなら谷川氏は『白馬の王子様』と言った。では俺にとってはどうなのか?

 ジョンスミスはジョンスミスであってジョンスミスでしかない、なんてトートロジーでごまかしても俺はぜんぜんかまわない。かまわないんだがジョンスミスの名前をぽろりと口からこぼしちまったのは確かに俺自身で、そのきっかけを作ったのは朝比奈さんだし、そもそもキョンの語呂ごろからジョンを連想したからで、それは俺にあだ名をつけた叔母さんにも責任の一端があるわけで。欧米に行きゃどこにでも転がってる田中一郎的名前のジョンスミスにどんな意味があるっていうんだ。

 いや、すまん。これは八つ当たりだな。俺はキョンであってハルヒの理想のジョンスミスなんかじゃない。あるはずがない。ジョンスミスという名前はハルヒと出会うための指定席特急券なのだ。これを握ったやつがハルヒの隣に座り、時間の彼方へと超特急で走り抜ける。ただ単に俺のほかにこの切符を手にするチャンスがなかっただけなのだ。だがハルヒの隣に座るのは俺じゃない。そう、俺は今ここでジョンスミス指定席を古泉にゆずり渡す。各駅停車でモラトリアムな鈍行どんこうに乗り、長門と窓の外を眺めながらゆったりと人生を謳歌おうかしてやる。

「こうなったらもう最後の手段だ。二人ともちょっと来い」

俺は二人の手をひっぱってグラウンドに戻ろうとした。

「なによ、あそこに戻るつもりなの?踏み潰されるわよ」

「これを止められるのはお前しかおらん。お前らしかな」

ああだこうだ言ってごねる二人を強引にひっぱってグラウンドの真中に引きずり出した。

「なにをするのかくらい教えてくださいよ」

「うるさい、白雪姫だ」

古泉とハルヒは、は?という顔をしていた。

「白雪姫の話を知らんのか、キスだ、ジュテームだ、接吻せっぷんだ、なんでもいいから古泉、ハルヒの口を吸え」

なんてロマンもムードもないやつだとクレームの電話がかかってきそうだが、あのときの俺はまさにそういう心境だったのだ。土壇場どたんばで苦境に立たされ無理強いさせられた挙句の、苦痛でしかないキスを古泉にも味わわせてやる。

「そんなことでほんとに閉鎖空間が消えるんですか」

「やってみなきゃわからんだろ」

「いいわ」

俺と古泉は拍子ひょうし抜けした間の抜けた顔でハルヒを見た。ハルヒは目を閉じて唇を突き出してじっと待っている。古泉が躊躇ちゅうちょしているとハルヒが再び目を開け、

「さっさとやんなさいよ、あたしがバカみたいじゃないの」

ハルヒ、お前ってやつぁ……。

 古泉はそのまま固まっていた。俺のときと同じ延々数ページに渡るモノローグが頭の中でひしめいているのか、ときどきブツブツと唇が動いている。その肩越しのはるか向こうではもうひとりの古泉が今もブンブンと飛び回り、青白く光る巨人と必死で戦っている。もう残り時間がない、世界が裏返ってしまう三分前。俺の脳裏にはベートーベン交響曲第九番合掌付きが声高らかに大音響で流れていた。

「涼宮さん」

「な、なに」

「僕はツインテールが好きなんです」

なに、ここで古泉に一本負けるのか俺は。

 古泉の両手がハルヒの肩をそっと掴んだ。その背景に踊る神人の光がさらにいっそう増した。あたり一面が白い光に包まれ、二つの小さな影が一つになり、つんととがったつややかな唇が軽く触れ、やがて離れ、もう一度触れた。今度はずっと長く深く、さらに熱く。この光の集合点が時間と空間のはじまりへと変わる。そうだ、これが俺が夢にまで見た大団円なのだ。


 宇宙が超新星の中心温度に達したかとも思えるような光に包まれ、次の瞬間俺は足元から無重力空間に飲み込まれ上下と前後が反転したような感覚に襲われて地面に叩きつけられた。前回よりひでえななどとつぶやきながら目を開けると、俺はパジャマのまま長門の部屋で布団の中にいた。え、なに?もしかしてあれ全部夢オチ?夢にまで見た夢オチ?ってフロイト先生も笑えないジョークだぞ。

 ふと両脇に暖かな柔らかい感触を味わって布団をはぐってみた。そこには長門さんと長門さんが、右と左にそれぞれひとりずつ俺の腕に寄り添って眠っていた。

「なるほど。Sleeping beautiesか」

その独り言が聞こえたらしく、右の長門が目を覚ました。

「……おかえり」

夢じゃなかったようだ。

「ああ、疲れた。おやすみ」

俺はそれだけ言うと目を閉じ、ふと思い出してまた目を開け、右の長門のほっぺたに軽くキスをし、左の長門のほっぺたにも軽くキスをした。これって両手に花ってやつだよな。なんたる幸せであろうかと感慨かんがいにふけりつつ俺は眠りに落ちた。ああ、赤玉古泉のことを忘れてたが、まああいつはほっといても死なないだろう。


 翌朝、朝比奈さんと俺と二人の長門がごはんに味噌汁に卵焼きという清く正しい日本的朝食を取っていると、古泉がボロボロになって帰ってきた。頭を包帯でグルグル巻きにしている。腕や足が湿布薬しっぷやくだらけだ。

「古泉くん!大丈夫なのそのケガ!?」

「あれだけの数の神人相手ですからさすがに傷を負いました。ひさしぶりに百二十パーセントの体力を出し切った気がしますよ」

などとスッキリ爽快笑顔でのたまう。朝帰りのミイラ男くん、ご苦労。味噌汁でも飲むか。

 長門(小)が風呂を沸かしてやり、古泉は一時間ほどゆったりと湯船に浸かっていた。浴室から演歌が聞こえてくる。ハルヒを目の前にしての活躍シーンをナルシスト的に思い出しているのかもしれんが、あいにくと赤玉がなにもんなのか気が付いてなかったようだぞ。まあハルヒのためにここまで真剣になれるやつはこいつ以外いないだろうね。それは認めよう。

 古泉はあの後、森さんや新川さんと共に機関の本部に行き、深夜にもかかわらず幹部クラスを非常招集しょうしゅうしたらしい。今回の閉鎖空間発生の責任を追及する会議を開き、ハルヒの持つエネルギーを軽視していたお偉方を座らせて説教を垂れた。中途半端に正義の味方気取りはするな、ハルヒにちょっかいを出すなら死ぬまで面倒を見ろ、と。難しいことは分からんが、まあ俺の言いたいことも含めてそんな感じだ。それから神人を狩るためのテクニックを即席でレクチャーした。

「もちろん僕が現れたことは極秘中の極秘、トップシークレットになっていますが」

そりゃそうだろう。古泉(小)本人に知られたりすると困ったことになる。

「とするとあれか、以前にも似たようなことがあったらしいってのはこのことか」

「さあ、どうでしょうね」

古泉は訳知りげにクククと笑ってみせた。


 なにも知らされていない古泉(小)は即日で元のポジションに戻り、再び北高に通うことになった。新川先生はそのままのほうが教室の雰囲気が明るくなっていいとは思ったのだが、まあ新川さんにも本業があるわけで、一ヶ月ほど経ってから岡部を田舎から再び呼び戻すはめになった。新川先生は岡部が戻るまでの間、SOS団もとい文芸部顧問としてハルヒの台風並みの活動に付き合ってくれたらしい。


 古泉(小)とハルヒがどうなったか、実は俺は知らなかった。だいぶ後になって聞いた話だ。


 新川先生が古泉を連れて教室に入ってきた。思いもかけない再登場に教室はざわめいた。なにか忘れ物でもしたのか、お別れの挨拶あいさつをしに戻ってきたのか。

「皆さん、古泉くんが戻られました。お父様の転勤が延期になられたとのことにございます。皆で暖かく迎えましょう」

クラスの女子全員がキャッホーの歓声を上げた。黄色いおかえりコールの中、どうでもいいよ的男子一同の中で谷口だけはなぜか歓迎していた。

「古泉よお、なんでそうお前だけがモテるんだ。俺にも教えてくれ」

古泉は笑ってごまかすだけだったが。


 ハルヒは窓の外を見つめたまま古泉と目を合わせなかった。二人とも寝不足のせいか、目の下にクマができている。

「黙って行ってしまうなんてひどいわよ」

「すいません。なにせ急な辞令だったものですから」

「SOS団の副団長ともあろう者が挨拶あいさつもなしに忽然こつぜんと消えるなんてゆるされないわ」

「どうしたらゆるしてくれますか」

「罰として、明日からあたしと登下校しなさい。いいえ今日の下校からよ。しばらく監視する必要があるわ」

「それで涼宮さんの機嫌が直るのなら」

古泉もまんざらではないようで、苦笑しながらも元のさやに収まったことを喜んでいるようだ。古泉にはすべて分かっていた。ハルヒが顔を見せようとしないわけも、王子と乞食がいったい誰と誰なのかも、機関の待遇がいきなりよくなった理由も。ただひとつ、赤い玉の正体を除いて。


 ハルヒはまだ視線を外から戻さない。頬がゆるんでくるのを隠そうとしているのか、あるいは涙腺るいせんゆるむのを隠そうとしているのか。

「涼宮さん」

「なによ」

「お似合いです」


 ハルヒの短い髪は、二つに束ねられて両肩の上で揺れていた。

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