四 章

 それからいくつかのチェックポイントを見てきたのだが、このところ部室の様子がおかしい。いつもは窓際に座っているはずの長門が古泉の横にぴったり寄り添うように座っている。俺だけがぽつんと窓際でいびきをかいていた。しかしこの姿勢でよく眠れるもんだ。そんな長門と古泉の異様な雰囲気に、ハルヒはもちろん気が付いているようでチラチラと二人を見ていた。異様というか普通じゃないというか。

「今日は帰る」

ハルヒがぼそりと言った。かなり機嫌が悪そうだ。朝比奈さん(小)はなにが起こるかとオロオロするばかりで、古泉(小)は僕はなにも悪いことはしてません的スマイルを崩さなかった。

 俺(小)、朝比奈さん(小)と続いて出て行き、長門(小)と古泉(小)が連れ添って帰った。そして部室は空になった。あのハルヒの仏頂面ぶっちょうづら、この分だと半径十キロ以上の閉鎖空間が発生するな。今の俺なら閉鎖空間予報ができるぞ。明日は一面灰色の空、ところにより神人が現れるでしょう、なんてな。

 無人になった部室で長門が不可視シールドを解いた。

「おい、どう見ても長門と古泉が付き合ってることになってるぞ」

「これは予想外ですね。二人の間にいったい何があったんでしょうか」

「……計算外の要素による展開」

「こうして見るとあの二人、お似合いですね」茶化さないでください朝比奈さん。

何が要因なのか、俺は少ない脳みそを絞ってうんうんと唸った。

「そうだ。ひとつ見落としたぞ。朝倉に襲われた日だ」

市内不思議パトロールのあった翌週、俺は下駄箱に入っていたメモで呼び出され、朝倉涼子に殺されそうになったのだ。

「朝比奈さん、白雪姫の話をしてくれた日の前日に飛んでもらえませんか」

「分かりました。みんな、行きますよ」

次の瞬間背景が変わった。もう目を閉じなくても眩暈めまいで倒れることはなくなった。度重なる時間移動で悲鳴をあげていた三半規管さんはんきかんも役目を放棄してついには麻痺まひしたようだ。


 午後四時半。教室の窓の外から射してくる光が傾いて、そろそろオレンジ色になりかけている。通常の歴史なら五時半ごろに俺が現れるはずなのだが、古泉のことだ、早めに来るに違いない。

 四人でじっと待っていると、教室のドアがガラガラと開いて朝倉が入ってきた。

「あなたたち、そこで何してるの?」

しまった、朝倉には不可視フィールドは効かないんだった。

「気にしないでくれ。そのまま続けて」俺は朝倉に向かって言った。

「未来から来たのね。わたしの邪魔をしに来たの?」

「禁則事項だからなにも言えないんだが、お前には干渉しないし、俺たちは空気だと思ってくれ」

禁則事項と言ったのは嘘だった。禁則を破っているのは、むしろ俺たちなのだ。

「分かったわ。やたら自己主張が強い空気ね」

物分りいいな朝倉。


 時計の長針が回って五時より五分前、古泉がやってきた。

「僕を呼び出したのは朝倉さんですか」

「早かったわね。そうよ」

「すいませんが、僕はこれからバイトがあるので手短にお願いできますか」

「そう急がなくてもいいじゃない。ゆっくりお話しましょうよ」

「それで、ご用件は?」

「用があるのは確かなんだけどね。ちょっときたいことがあるの」

「なんなりと」

古泉の表情が少し警戒しているのは、相手が宇宙人製アンドロイドだからか。

「人間はさあ、やらなくて後悔するよりも、やって後悔したほうがいい、って言うよね。これ、どう思う?」

「率直に言っていただけませんか。なにをおっしゃりたいんですか」

さすが古泉だ。そう簡単に朝倉の策略さくりゃくには乗らない。

「正直に言うとね、何の変化もしない観察対象に、わたしはもう飽き飽きしてるのね。だから、」

俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

「あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る」

言うが早いか朝倉のアーミーナイフがまっすぐな線を描いて古泉ののどをかすめた。古泉はとっさに後転し、両手を構えた。

「僕を殺してもたいした意味はありませんよ。次なる僕が現れるだけです。機関は代わりのエージェントを送り込んでくるでしょう」

か……かっこいい。俺もこんなセリフ言えばよかった。

「ふーん。機関ってそんなにすごいんだ?わたしにはあなたの組織の目的がよく理解できないんだけど」

俺のときとセリフが違うな。まあ相手が古泉だからか。

「ともかく、そのナイフを置いて話し合いませんか」古泉があせっている。

「うん、それ無理。だってわたしは本当にあなたに死んでほしいんだもの」

朝倉はナイフを腰にためて一気に体当たりした。古泉は教室から逃げ出そうとしたが壁に激突した。

「無駄なの」

俺たちのいる不可視フィールドごと異空間に取り込まれてしまった。俺は隣にいる長門の顔を見た。長門は大丈夫、とうなずいた。

「この空間は、わたしの情報制御下にある。脱出路は封鎖したわ。今この教室は密室」

さっきまで窓から差し込んでいた夕日が消えていた。コンクリートの壁に変わってしまっている。古泉はドアのあったところをむなしく叩いていた。

「ねえ、あきらめてよ。結果はどうせ同じことになるんだしさあ」

ここまでは俺の記憶と同じだった。ところが古泉は諦めなかった。古泉の右手から赤い炎がほどばしった。火炎は朝倉めがけて飛んでいった。朝倉はまったく予想していなかった古泉の反撃に驚いて飛び退った。

 火炎が着弾ちゃくだんした床が大きく燃え広がる。熱気の向こうにゆらめく古泉の姿があった。

「僕の力を見損なってもらっては困ります」

そうだ、ここは異空間なのだ。異空間では古泉は異能の力を発揮はっきする。

「少しはやる気があるようね。面白いわ」

朝倉は、あのきれいな顔で冷酷に笑った。

 朝倉が呪文を唱えた。古泉の足元に衝撃波がいくつも連なって走る。古泉は後転しながら宙を飛んだ。あのとき俺を襲ったのと同じ鉄のやりが古泉に向かって飛んでいく。赤く光る球体となった古泉の前で、やりは溶けて落ちた。

 これが、戦う古泉の真の姿だった。見ている俺も手に汗を握った。横にいる古泉が、かっこいいですねと言った。って自分で言うか。


 そりゃそうと、長門(小)が来るのが遅くないか。俺は長門にささやいた。長門は分からない、と首をかしげていた。朝倉には干渉しないと約束したが、このまま見ているわけにもいくまい。もし古泉がケガでもしたらそれこそ俺の責任だ。

 朝倉がまた詠唱をはじめた。壁だったセメントが崩れて砂状になり、螺旋らせんを描いて古泉の体を捕えた。古泉はバランスを失って地面に落ちた。回転する光の輪にしばられている。

「言ったでしょう。今のこの教室はすべてわたしの意のままに動くって」

朝倉は改めてナイフを取り出した。つくづく刃物が好きなやつだな。

「じゃあ、死んで」

ナイフを大きく振りかざし、朝倉の体が古泉に向かって一直線に走った。

 俺がやめろと叫ぼうとしたそのとき、天井の壁が大きく崩れコンクリの塊が降った。もくもくと白い煙が漂う中、黒い影が走った。素手でナイフを握り締めた長門(小)がそこにいた。

「……ひとつひとつのプログラムが甘い」

長門(小)は抑揚よくようのない声で言った。

「邪魔する気?この人間が殺されたら、間違いなく涼宮ハルヒは動く。これ以上の情報を得るにはそれしかないのよ」

「あなたはわたしのバックアップのはず。独断専行は許可されていない。わたしに従うべき」

「いやだと言ったら?」

「……あなたの未来を抹消まっしょうする」

長門(小)、今なんと言った。俺が覚えているセリフと違うぞ。

「それ、どういう意味?」

長門(小)が俺たちのいる方を指差した。

「今、別の流れが展開されつつある。あなたを永久に抹消まっしょうすることも可能」

おいおい、なにか違う展開になってないか。

「時間軸を武器にわたしをおどす気?」

「……そう」

朝倉と長門(小)の間に沈黙の空気が流れた。あたりに漂っていた煙が少しずつ晴れてきている。

「あなたがた、何の話をしてるんですか。僕のことはどうなってるんですか」

見ると体をしばられたまま足だけバタバタやってもがいている古泉がいた。さっきまでの雄姿ゆうしがかたなしだな。

 戦っている二人のヒューマノイドインターフェイスは古泉を放置したままにらみ合っていた。朝倉の視線が一瞬だけ宙に移ってまた長門(小)に戻った。

「あなたの言う時間とわたしの同位体が見ている時間には相当なズレがあるようね」

「……かもしれない」

それより長門(小)よ、古泉を助けてやれ。

「なぜそんなことに?」朝倉が俺たちを振り返った。

「……すでに知っている未来以外の未来を選択すること。わたしはそれこそが自律進化の鍵だと考えている」

「既定の歴史を自ら破ることが進化に繋がるっていうわけね」

「……そう」

これは長門の考えなのか。隣にいる長門に尋ねたが首を振って否定した。

「じゃあ、わたしは今のわたしの未来を選ぶわ。あなたはあなたの思うとおりにやればいいんじゃない?」

「……決裂した」

長門(小)が古泉に向かって詠唱した。しばっていた光の輪が解け、古泉は立ち上がった。

「いったい何の話をしていたんですか」

「……なんでもない。下がって」

「いえ、僕も戦います」

朝倉の腕が白く光り始めた。例のミニカー攻撃だ。

「じゃあ、死になさい。……何度も言うとかっこ悪いわ」

粒子加速砲だか凝集光ぎょうしゅうこうだか知らないが、朝倉ビームが二本、古泉に向かってするりと伸びた。古泉と長門(小)が左右に分かれて飛び、ビームは壁を突き抜けた。古泉の赤い球体がビームをさえぎるように左右に往復し、朝倉の伸びた腕は千歳飴ちとせあめを折ったようにポロポロと切断されていった。

「そんな……」朝倉がつぶやいた。

その隙を突いて長門(小)が朝倉の脇に入りこみ、襟を掴んで背負い投げを繰り出した。朝倉はそのまま二十メートルほど投げ飛ばされて地面を転がった。

「に、二対一とは卑怯よね」お前が先に襲ってきたんだろうが。

 朝倉はホコリを払いながら立ち上がった。その表情には見るものすべてを震え上がらせそうな冷笑が漂っていた。詠唱はなかった。周りの壁、机、元黒板だった塊、蛍光灯などがすべてバラバラに崩れて動き始めた。この教室の中にあったものがすべて、旋風せんぷうとなって朝倉を中心に回転し始めた。

 俺たちのいる不可視フィールドが振動しはじめた。これ大丈夫か長門と尋ねると長門はうなずいた。強度に問題はない。


 猛烈なハリケーンの中心に朝倉がいた。古泉は制御不能らしく旋風せんぷうに巻き込まれてぐるぐると回転している。長門(小)は旋風せんぷうの輪の中で宙に浮いていた。いっこうに動ぜず、

「……情報結合解除、開始」

ただそれだけをつぶやいた。

 次の瞬間、嵐の中心にいた朝倉が光の粒子となって消えていった。朝倉は難しい表情をして、消えていく体が顔だけになってもなにも言わなかった。旋風せんぷうが徐々に治まり、元は教室だったものが降りはじめ、灰色の粉のようなものが舞い降りた。灰色のもやが晴れると異空間は砂漠になっていた。

「……教室を再構成する」

前のときと違い長門(小)はかすり傷ひとつ負っていなかった。教室の壁や天井がこぼれる砂の映像を逆に再生させたかのように元に戻っていく。再び窓から赤い夕日が差し込んできた。

 元に戻った教室で古泉(小)が掃除用具入れのそばに倒れていた。頭から血を流しているようだ。

「……大丈夫?」

「平気です。旋風せんぷうに巻き込まれて頭を打っただけで」

「……動かないで」長門(小)が古泉の頭を抱え、こめかみをなでた。

「ありがとうございます」

「……」

「長門さん……気付いてますか」古泉の手が長門の頬に伸びた。

「……なに」

「あなたは、とても美しい」

長門(小)はそのまま顔を古泉に近づけ、二人はキスを交わした。こんな目もうるみそうな、美しい夕日の中で。


「おい!古泉!俺の長門になんてことしやがる」俺は隣にいた古泉の首を絞めた。

「うぐぐぐぐ、待ってくださいあれは僕じゃないでず」

「キョンくんったら落ち着いて」

「……」

頬をほんのり赤く染めた長門がつんつんと俺のそでを引いていた。気のせいか嬉しそうじゃないか。

「お前は女なら誰でもいいのか!」

「失敬な!この状況を作り出したのはあなたですよ」

「WAWAWAわっすれもの~」

谷口、お前はどうでもいい。出てくんな。


 教室から古泉(小)と長門(小)が手を取り合って消えてゆき、長門は不可視フィールドを解いた。

「これか、これがきっかけだったのか」

「どうやらそのようですね。いっしょに強敵と戦ったシチュエーションが二人をそうさせたのでしょう」

他人事ひとごとのように言ってくれるぜ、まったく」

「あの雰囲気だと、仕方ないでしょうね」朝比奈さんまで。

「……この同位体が言った、自律進化の鍵のことかもしれない」

「それも気になる。説明してくれ」

「……同位体が言っていたのは、未知の選択をすることで新しい可能性が開ける、ということ」

「古泉と付き合うことがか?」

「そのとおりです。長門さん自身が歴史改変の影響を受けているのだと思われます」

「……同意する」

やっぱり俺のせいなのか。やれやれ。

「ともかく、やりなおしだ。やっぱり襲われるのは俺じゃないとまずいんじゃないか」

「涼宮さんの情報爆発が目的なら、朝倉さんがあなたを襲う理由はないでしょう」

「朝倉に事情を話して俺を襲ってもらうとか」

四人とも、一瞬黙って俺の顔を見た。今なにげにすごいこと言ったな俺。

「あの朝倉さんが納得するでしょうか」

「このイベントは俺と長門のためにあるようなものなんだ。これがあってから俺は長門と話をするようになった」

「ということは、二人のなれめかしら?」

朝比奈さん、そこまでロマンスを込めて言わなくてもいいような気もしますが。

「まあ、平たく言えばそうかもしれません」

「……わたしも、そう思う」

思えば、俺と長門の親密な関係はあの日にはじまったのだと思う。

「……朝倉涼子に、話してみる」


 朝倉が下駄箱にメモを残す前に会う必要がある。俺たちはここから一日前の夜に飛んだ。長門の住むマンションまで行き、五〇五号室のドアをノックした。七〇八号室にいるはずの長門(小)には会わなかった。

「あら、キョンくん……よね?それに長門さんに古泉くんと朝比奈さん?珍しいわね」

「突然すまん。ちょっと話したいことがあるんだが」

朝倉の表情が固くなった。俺たちが未来から来たことに気が付いたようだ。

「上がって」

「朝倉さん、突然押しかけてごめんなさい」

朝比奈さんが朝倉の表情を伺うようにして謝った。朝倉を怒らせるのは俺も怖い。


 朝倉の部屋に入るのははじめてだった。とはいっても、知り合ってすぐにいなくなったのでたいした付き合いもなかったが。長門の部屋とは違って鮮やかな花柄のカーテンがかかり、ふわふわのカーペットの上にしゃれた応接セットが置いてあった。書棚にミニカーのコレクションが飾ってあった。

 俺たちはぎこちなくひとつのカウチに三人で座った。それも仕方あるまい、数分前に朝倉の活劇シーンを見たばかりだ。長門は慣れているようで空いているソファにひとりで腰掛けた。

「あら、もっとリラックスしていいのに」

お盆にコーヒーを載せて運んできた朝倉は緊張して縮こまっている三人を見て笑った。

「で、話ってなにかしら?」

「明日のことなんだが、予定を変更して俺を襲ってもらえないか」俺は単刀直入に切り出した。

「なんのこと?」しらばっくれている。

「俺たちはこの時間から八年後から来たんだが、事情で歴史を改変せざるを得なくなった。お前が明日古泉を襲うのは知っている」

「ふーん。面白いことやってるのね、あなたたち。明日起こることは既定事項なんじゃないの?」

「本当はお前が襲うのは俺のはずで、古泉を襲うことになったのは歴史の改変の結果なんだ」

「その流れを元に戻そうっていうの?」

「微妙に、戻したい」

「ふーん……。わたしがキョンくんを襲うとわたし自身になにかメリットあるの?」

俺は答えたものかどうか迷った。

「……ない。あなたは地球上から抹消まっしょうされる」長門が事実を答えた。

「それでもわたしにやれと」

「……どちらを選んでもあなたは情報結合解除される。それが、既定事項」

朝倉の視点がまた宙をさまよった。未来と同期しているのだろう。

「どうやら本当みたいね」

「じゃあ、やってくれるな?」

「実はね、今朝、あなたたちが同じ格好をしてここに来たのよ。前言撤回ぜんげんてっかいするって」

「なんだって!?」

「ということは、今の僕たちの作戦は失敗するわけですか」

なんだか頭痛くなってきた。ええと、俺たちがこれから翌日の夕方に戻ってそこで朝倉の襲撃を見て、それが失敗に終わって、でも失敗すると分かってるならなんらかの手を打つはずで……ということは失敗はしないはずで。

「こ、これは時間のパラドックスです。朝倉さん、それ以上未来の情報を漏らすと世界が崩壊しかねないわ」

朝比奈さんが止めに入った。世界というより俺の頭が崩壊しそうなのだが。

「ふふっ。どう?簡単に歴史を改変すると怖いことになるのよ」朝倉はニヤリと笑った。

「……今のは、朝倉涼子の冗談」

長門には最初から分かっていたようだ。三人とも深いため息をついた。

「長門さん、ひとつだけ聞かせて」

「……なに」

「キョンくんのこと、ずっと好きだったんでしょ」

「……うん」長門はコクリとうなずいた。

「分かったわ。やってあげる」

三人ともポカンと口を開けて朝倉を見つめた。

「長門さんには、幸せになってもらいたいから」

朝倉って実はいいやつなんだと、このときはじめて気が付いた。そう、クラスメイトの世話好きの朝倉。その優しさを少しだけ見た気がする。


 四人はそれぞれお礼を言って朝倉の部屋を出た。俺はドアのところで朝倉に言った。

「朝倉、すまんな。お前に襲われたときはうらんでいたけど、俺の知らないところでいろんな思惑おもわくが動いていたんだな」

「仕方ないわ。わたしは仕事だしね」

「またいつか会おう。そのときは友達としてな」

「うん、ありがとう。長門さんを大事にしてね」


 翌日の夕方の教室はあえて見に行くこともなかった。朝倉と長門(小)がうまくやってくれるだろう。


 四人はその次の日の部室を覗いた。長門と俺が窓際に座っている。どうやら古泉×長門カップルは無事に解消されたようだ。せっかくくっ付いた二人を引き離したりして少しばかり後ろめたい気持ちもあったのだが。いやいや、これはハルヒのためにやってる歴史改変なんだ。最後までやらなくてはな。


「今日、朝倉が転校したことを知って、たぶん古泉とハルヒが朝倉がいた部屋を訪ねるだろう」

「その後、あなたと僕とで閉鎖空間ツアーですね」

「やっぱりその流れになるのか?」

「歴史を踏襲とうしゅうするために、そうなるように動かしましょう。この歴史であなたをお連れする理由も曖昧ですが」

そう、古泉も気がついていたはずだ。この歴史上の俺の役回りについて。あちこち時間を移動してみてきたが、このところ俺の存在が希薄すぎる。

「こっちの俺は、どうも俺の思ってる俺とだいぶかけ離れてきてる気がするんだが」

「確かに涼宮さんから一歩距離を置いたことで、あなたの影が薄くなってきていますね」

もしかして俺、このまま歴史から消えてしまうんじゃないか。


 時計を見ると現地時間の午後六時、そろそろ俺の自宅前に古泉(小)と新川さんの運転するタクシーが現れるはずだった。俺と古泉は遠くから監視していた。

「閉鎖空間が現れませんね」

「これも改変の副作用か?」

「分かりません。ちょっと機関に問い合わせてみます」

古泉は近くの公衆電話に行って受話器を取った。数分話し込んだあと、考え込む風な顔をして戻ってきた。

「未来から来たことがバレなかったか」

「大丈夫でしょう。この時代の僕が問い合わせでもしなければ、重複ちょうふくがバレることはないと思います」

ならいいんだが。機関に歴史改変を知られると厄介やっかいなことになりそうだ。

「閉鎖空間の発生件数が改変前に比べ、明らかに少ないです」

どういうことだろう。

「改変前は涼宮さんのイライラの原因は主にあなたにあったんです」

「人聞き悪いな」

「よく思い出してみてください。朝比奈さんの写真をウェブサイトに載せようとした件、朝比奈さんとイチャついていたところを目撃された件、映画の撮影時でも社会人野球に出場したときも、それから朝比奈さんとのデートをハカセくんに目撃された件などなど。いずれもあなたです」

いや、あれはデートじゃなかったはずだが。

「発生理由はそれだけじゃないだろう」

「もちろんほかにも挙げられますが、涼宮さんがあなたに出会う前と後では発生件数に大きく開きがありました」

「最近はどういう発生理由なんだ?つまり、今の流れでは」

「報告によるとごくまれにですが、この時代の僕が女子生徒から手紙を受け取ったり屋上なんかに呼び出されるなどすると発生しているようです」

「手紙?」

「下駄箱に投函とうかんされる、いわゆるラブレターですが」

俺のときにはナイフマニアからの呼び出しとか未来人の命令でパシリとかだったが、にしても投函とうかんされるもんがかなり違うな。

「どちらの場合も涼宮さんが閉鎖空間を発生させる理由は、根本的には同じだと考えられますね」

「どういう具合にだ」

「本当にお分かりにならないんですか?」

「ああ、具体的に言ってくれ」

「たとえばですが、あなたの知らない男性から長門さんに電話がかかってきたとします。イライラしませんか」

俺はそういうシチュエーションを想像してから長門を見たが、そんなことはないだろう。

「電話くらいでイライラしたりするもんか」

「ほんとにそうですか?」

「長門、今までそういうことはなかったよな?」

「……」

などと言っていると、誰かの携帯が鳴った。長門がポケットから携帯を取り出して開いた。

「……もしもし、長門有希の電話」

こんなときに都合よく電話がかかってくるもんだな。

「……お誘いに感謝する。でも、それはできない」

なんだ、仕事の電話じゃないのか。

「……時間が取れないからではない。わたしの立場でそのような誘いを受諾じゅだくすることは、無理」

妙にねちねちした相手っぽいな。長門いったい誰からなんだという視線を送ってみるが無反応だ。

「……わたしには、特別な感情を寄せている人がいる」

な、なんだなんだ、デートのお誘いだったのかよ。俺という存在がいながら長門を誘うなんていい度胸をしてるじゃないか、いったい誰なんだ。

「……いい。ではまた」

長門が電話を切ると俺は口早くちばやに問い詰めた。

「今の誰だったんだ?デートの誘いだったのか?どんな野郎なんだ?俺よりかっこいいやつか?」

「……」

長門は右の眉毛まゆげを少しだけ持ち上げて、

「……どう。焦燥しゅうそうしている」

え、なんだ、今の電話ってカマかけただけだったのかよ。

「長門さんのほうが一枚上手でしたね」

古泉がクスクスと笑った。考えてみりゃ俺たちの携帯がこの時代で使えるわけはないわな。分かった認めよう、俺は嫉妬しっとしている。

「ということは閉鎖空間の発生理由のほとんどはハルヒの嫉妬しっとなのか」

「統計ではそうなります」

「しかもそれでこの世界が消えちまうかもしれないっていう、お前の言うちょっとした恐怖の根源か」

「そうですね」

なんとまあ、下駄箱に投げ入れられるピンク色の手紙に運命を左右されるなんて、えらく安くなっちまったもんだな世界。

 それでもまあ、改変の結果、ハルヒによって世界崩壊のスイッチが押される危険がかなり減ったということはいいことだ。機関も未来人も情報統合思念体も手を取り合って喜ぶべきだろう。これを改変の効果として宇宙安泰あんたいを祝うか、地獄の釜の温度が十度くらい下がっただけだと考えるかはそれぞれに任せることにしよう。発生の要因が俺の責任じゃなくなったってのがいちばんのメリットかもしれんが。


 それから俺たちは一週間おきにジャンプしてハルヒと古泉(小)の様子を見ていた。市内不思議パトロールでは相変わらずハルヒ古泉組の組み合わせが続き、その他三人は蚊帳かやの外だった。ハルヒはなにかにつけて古泉をひっぱりまわし、その影響範囲は副団長どころか閣僚かくりょうの域にまで達している。ハルヒと古泉を先頭に、その後ろを三人が太鼓持ちのようにいそいそとついていくという図式になっちまったようだ。いいことなのか、超能力や時間移動や宇宙的魔法の出番はあまりないようだな。文芸部部室は二人の愛の巣と化してしまい、SOS団の存在意義がいまいち分かりかねているのだが。

 俺もこのままあの二人がいっしょになってくれて、世界も安泰あんたい、未来も安泰あんたいしてみながシアワセになれるだろうなどとタカをくくっていた。ところがそうは問屋がおろさない。ハルヒ的展開の流通の事情とやらで、ここから憂鬱、暴走、活劇の順にハルヒの思念エネルギーの爆発がはじまるのである。素人の俺なんかが焼刃やきば的に歴史改変してもカミソリ程度の切れ味にしかならんのは、まあ考えてみりゃ当然か。


 数週間後、朝の教室を覗いたのだが古泉がいなかった。珍しく遅刻らしい。ハルヒのあまりの活動力に心身ともに疲弊ひへいして胃に穴が開いて病院送りにでもなったんじゃないだろうな。

「風邪でも引いたのではありませんか」

「この六月にか」

「ええ。夏の風邪はしつこいですからね。僕はこの時期になると体調を崩すことが多いです」

風邪ごときで世界を守れないなんて、意外にもろいのなお前。

 考え込むような表情をしながら教室のドアを開けて入ってきた岡部から意外な知らせがあった。

「あー、古泉だがー、お父さんの仕事の都合で、急なことだと先生も思う。転校することになった」

な、なんだってー!!ぜんぜん聞いてねえよお父さん。まったくの不意打ちにあって俺、古泉、朝比奈さん、長門の順に口をあんぐり開けた。

「お父さんの都合っていうか、機関の都合だよな」

「それしか考えられませんね」

「古泉くんがいなくなったらSOS団はどうなるのかしら」

長門か朝比奈さんが副団長に昇格か、欠員を国木田あたりで補填ほてんするかなどと呑気のんきなことをほざいている俺である。

 で、先生、どこに転校したんです?と遮音フィールドから話し掛けてみたが聞こえるはずもない。聞こえたりしたらたいへんなのだが、俺の代わりにクラスの女子が数名勢いよく立ち上がって質問攻めにしていた。

「なんでも、アラスカらしい」

そりゃまたえらい地の果てに飛ばされたもんだな。しっかしカナダとかアラスカとか、このクラスから転校していくやつはかたっぱしから北国に行っちまうのか。次は谷口あたりがシベリア送りにでもなるんじゃないのか。

 ハルヒを見ると机に突っ伏して、ただ黙っていた。目がうるみ唇を噛み締めているようで、こういう表情のハルヒはかつて見たことがなく、珍しく同情さえ覚えてしまう俺だった。

「涼宮さん、つらいでしょうね」

朝比奈さんも同じ気持ちのようだ。

「……前回とは比較できない規模の情報爆発が起こる」

長門がボソリと、ハルマゲドン接近予報のようにつぶやき、三人ははっとした。こういう状況になったときハルヒがなにをしでかすか分かったもんじゃないってのは十分に考えられることだったが、長門に言われてはじめてそれに気がついた。

「ハルヒは暴走するんじゃないのか。あれだけ気に入ってた古泉がいなくなっちまったんだからな」

「これは緊急警報発令かもしれません。今後発生する閉鎖空間は僕たちの想像をはるかに越えた規模になるでしょう」

「また致命的な次元断層が起きるかもしれないわ」

「……情報フレアが銀河をおおい尽くす危険性がある」

つまり、俺が書き換えようとしている歴史をハルヒがゼロから書き換えてしまうかもしれないってことだな。これはお前のためにやってることで、たまたま違う方向に転んだだけだから世界をまるごと書き換えたりしないでくれよ。などとハルヒに向かって拝んでみたりするのだが、唇を一文字いちもんじにキュッと引き結んだ硬い表情はいっこうに解けない。

「ハルヒの心配よりも機関を問い詰めてみたほうがいいんじゃないか。いくらなんでもハルヒの部下であるSOS団の団員を予告なしに左遷させんするなんてのは無謀むぼうだろ」

「そうですね。これが機関内部の人事異動じんじいどうだとしたら、自ら閉鎖空間の発生を招来しょうらいしてしまいますね。自分で自分の首を締めるようなものです」

「機関の上層部にかけあってみたらどうだ」

「そうしたいのですが、僕が直接問い合わせると不信に思われるかもしれません」

「じゃあ俺が聞いてみるか」

「この時代で未来人として認知されているのは朝比奈さんですから、朝比奈さんにお願いしてはいかがでしょう」

「そうね、わたしがやったほうが問い合わせの理由として自然かもしれないわ」

「お願いします。その前に僕がどういう待遇を受けているのか、周辺の情報を調べてみます。まさかアラスカにいるとも思えませんが」

俺は毛皮の帽子を被ってトナカイを追いかけている古泉を妄想した。いや、ベーリング海峡をはさんだ軍施設で歩哨ほしょうに立っている古泉のほうが似合うか。

「お前がいなくなったってことは、後釜あとがまはどうなるんだ?」

代替だいたい要員が派遣されるはずです。そのエージェントを捕捉ほそくして問い詰めてみるのもいいかもしれません」

なんだかCIA内部の抗争じみてきたな。ひとり、組織に追われるイーサン古泉。いや、どっちかというとジェイソン古泉か。


 四人は古泉の言うその、後釜あとがまエージェントとやらがやってくるのを待っていた。教室に本ストーリー初登場の教頭がやってきた。出演はこれっきりだろうが。その後ろにつづいて初老のおっさんが入ってきた。どこかで見た顔だぞ。

「あー、みんなちょっと静かに。急なことだが岡部先生は家庭の事情で実家に帰ることになった。後任の先生を紹介する」

教室がざわめいた。今度は岡部か!岡部がシベリア送りになっちまったのか!谷口か国木田あたりだと思ってたのに、いやぁフェイントだったな、はっはっは。などとツッコミどころを間違えそうな雰囲気である。

「本日付で県教育委員会から派遣された新川でございます。担当教科は現代国語です。よろしくお願いします」

あ、新川さんこんなところでなにやってんですか。あなたタクシードライバーとかパートタイムの執事しつじじゃなかったんですか。しかも年下の学生相手に敬語なんて、機関の人は敬語しか使わないんですか。

 新任の新川先生はハルヒを一瞥いちべつしたようだったが特になにも言わず、もしや以前は教鞭きょうべんを取っていたんじゃないかと思えるほど手馴れた様子でホームルームをはじめた。通常の連絡事項やら進路指導の個人面談なんかの話をしただけで、サバゲーやSFの魅力を力説してクラブの勧誘をやるわけでもなく、いたってふつうの教師だった。意外や意外だ。

「おい古泉、これはどういうことなんだ」

「僕にも分かりません。このところ機関から離れているので、どういう方針でこうなったのかまったく不可解です」

「いくらなんでも新川さんじゃ古泉の穴埋めにはならんだろう。クラスの欠員どころかSOS団のメンツを埋めることは無理じゃないか」年齢から言ってもだな。

「いったい機関は何を考えているんでしょうかね」

はいお前が言うな。

 古泉の後釜あとがまが新川さんだったとは、これは捕まえて情報を引き出すのは生易しいことではないかもしれない。機関の人なら柔道やらカンフーなんかの護身術はお手の物だろうしな。ここは穏やかに状況を打診するしかないか。

 四人は放課後になるまで待った。どこかに呼び出して状況を聞き出そうと思ったのだが、先生はなぜかそのまま旧舘に直行した。ハルヒの様子でも見に行くのかと思ったが、あいにくハルヒはその日部室には姿を見せていなかった。

「こんにちわ。キョンくんに朝比奈さん、そちらは長門さんですね。不肖ふしょうながら新しい文芸部顧問に任ぜられました新川にございます」

な、なんですって。ということはこの人が新しいSOS団員?メンバーの平均年齢を大幅に引き上げる人事じんじはいくらなんでもないだろうと予想していたのだがまさに現実になったのか。執事しつじコスを用意しないといかんな。

「先生が顧問なんですか?」

「そうなります」

古泉が突然消えてしまってどうしようかとオロオロしているところへ追い討ちをかけるように新川さんが文芸部に乗り込んできたのだから、メンバーは驚くどころかショックさえ受けているようだ。こいつらが新川さんに会うのはほんとうは夏休みのはずなのだが、かなり前倒しされてるな。

「先生、SOS団はどうなるんですか。やっぱり追い出されるんですか?」

「そんなことはございません。実は私も世界の不思議には大いに興味がありましてね」

大丈夫ですか新川さん、すでに文芸とは関係のない世界に入っちまってるようですが。

「そうですか。でも元の副団長だった古泉ってやつがいなくなったんで、涼宮のやつやめてしまうかもしれませんが」

「その辺は大丈夫かと。私はそのためにここに派遣されました。古泉と同じ組織の人間です」

新川さんは残された三人にうなずいて見せた。

「そういうことだったんですか。じゃあSOS団のいろいろな特殊な事情も知ってるわけですね」

「左様です。私の役目はあなた方のサポート。学校内での待遇でも予算面でも、なんなりとご相談ください」

頼りがいのある先生が現れて三人はほっと安心したようだった。それはそれでまことに結構なのだが、ハルヒ本人が不在でこれでは本来危惧きぐすべき事態の解決になっていない。

 朝比奈さん(小)が新川さんにお茶を勧め、先生はハルヒなんかと違ってガブ飲みしたりせず、色と香りをめられて朝比奈さんは喜んでいるようだった。それから当りさわりのない話題で世間話をしていた。なんだか部屋の雰囲気ががらりと変わったな。


「これを見る限り、機関は涼宮さんから一歩距離を置いたということでしょうか」

「古泉とハルヒがいちゃついてるのが気に入らなかったんじゃないのか。お前の言ってた機関内部の急進派とか」

「むしろ穏健おんけん派のほうかもしれませんね。世界を崩壊させるかもしれない人物に急接近するようなことになれば、派閥を問わず危惧きぐするでしょう」

「急接近したのが俺たちの歴史改変の過程なんだってことを知らないからじゃないか」

「そうですね。自然発生的にこの時代の僕と涼宮さんが接近することは、まずありませんから」

そう言い切るのか古泉。ひとりの男として、万が一ってチャンスはないのか。

「だからこれが、僕たちがやっている改変がそのチャンスなわけです」

昔の人はチャンスは掴み取るものだと言った。だが捏造ねつぞうするものだとは言わなかった気もしなくもないが。いやはや。

「朝比奈さん、このままいくと俺たちはどういう未来になるんでしょうか?」

「ええっと、今のわたしは独断専行なので未来には問い合わせできないの。ごめんね」

いえいえそんな謝らなくても。原因は俺なんですから。

「長門はどうだ?」

「……情報統合思念体は静観している。つまり、今のところは予測可能な範囲」

思念体は自分たちのことしか考えてない節があって、いざとなったら冷たいからなあ。こんなことなら最初から機関を巻き込んで改変に噛ませておけばよかったぜ。


「新川さんに古泉を元に戻してもらえないか頼んでみよう」

「歴史改変のことを明かすつもりですか」

「今回の行動で唯一蚊帳かやの外だった機関が想定外の行動を取り始めたんだ。それも含めてフォローしないとかんだろう」

機関は超能力者の集団だが、その実態は一般市民だからな。時間を超えたり超魔術的テクノロジーを使ったりはできない。時間の渦に飲み込まれてその裏で何が起きているのかさっぱりだろう。過去に起きたイベントを証拠に見せれば俺たちがやっていることを信じてくれるかもしれない。

「そういうことなんだが、長門に朝比奈さん。どうだろう?」

「……異論はない」

「わたしもありません。話せば分かってくれるかもしれないわ」

 俺は新川さんの後をつけて、職員室のドアの前で不可視フィールドから出て話し掛けた。

「あの、新川さん」

「ひぃ、なんだなんだ!すでにお帰りじゃなかったんですか。いきなり話し掛けないでください」

突然沸いて現れた俺の姿を見て飛び上がるほど驚いた。意外に小心なのか。

「あなたはキョン……くんですか?」

「ええ。この時代の俺ではありませんが」

「とするともうひとりの朝比奈さんもいらっしゃるわけですか」

「ええ、朝比奈さんにはちょっと席を外してもらっています」

見えないまくに包まれて真後ろで控えているのだが、未来人との接触はできるだけ避けたほうがいいだろう。

「折り入ってお話したいことがあります。古泉がらみで」

「……、分かりました。場所を変えましょう」

二人で食堂の外の丸テーブルに行った。新川さんが自販機でコーヒーをおごってくれた。

「お話を伺いましょう」

「あいつはどこに行ってしまったんです?」

「古泉は解任されました」

新川さんの口から出たそのセリフは、短いながら衝撃的だった。

「なぜです?」

「わたくしどもが観察対象としている人物に、精神的感情的に影響を与えてしまう立場になりつつあったからです」

「それは古泉とハルヒが付き合ってはいけないということですか」

俺の口調にはややトゲがあったが、新川さんは表情を変えずに続けた。

「左様です。機関の人間は任務として涼宮さんの周辺に派遣されています。彼女の人生に直接影響を与える関係にまでなってしまっては、倫理りんり的ラインを踏み越えていると判断せざるを得ません」

倫理りんり的ラインって何ですか?」

「機関の活動主旨は涼宮さんが発生させる異空間のフォローです。意図的に彼女の人生を左右することなどはあってはなりません」

つまり、人としての機関のルールね。

「新川さん、じゃあこうは考えられませんか。世界を守るためには、ハルヒが起こしてしまった騒動のフォローにまわるよりあらかじめ予測してコントロールするほうが安全だ、と」

これはいつだったか長門が教えてくれた理屈だ。

「そのような考え方も、機関内にはございます。ご存知かもしれませんが機関は一枚板ではなく、複数のグループによって構成されています。急進的に先手を打つことを主張をしている者もいます。ですが今のところ、現状維持がもっとも多くを占める意見なのです」

なるほど、俺たちがやっているのは実は機関の急進派と同じ考え方なのか。

「元に戻してもらうことは……」

「残念ながらできかねます」

即答されてしまった。


 俺は迷った。ここですべてを明かして、ハルヒと古泉をくっつけるために大掛かりな歴史改変をやっているのだと白状するか、事実をかいつまんであるいはでっちあげて信じ込ませるほうがいいのか。あるいはおどしてみるか、取引を持ちかけるか。だがこの新川さんは機関の代表ってわけではなく、エージェントのひとりでしかないのにここで俺が説得しても意味はあるのか。

「新川さんの上司と面会したいんですが」

「なぜでございますか」

「機関が知らない重要な情報を俺が知っているからです」

決定権のある誰かをひっぱりださないとらちがあかない、俺なりにそう考えたのだが果たしてうまくいくものかどうか。

「分かりました。連絡してみましょう」

新川さんは席を立って誰かに電話をかけ、二杯目のコーヒーを持って戻ってきた。

「局長代理が参ります」

きょ、局長さんですか。きっとずっと上の偉い人なんだろうね。

「いえ、代理は代理にすぎません」

局長の身代わりエージェントですか。ややこしい。


「お待たせしました」

後ろから呼びかけられて振り向くと、見覚えのある小柄な女性が立っていた。俺の目蓋まぶたにはメイド服姿が鮮明に残っているのだが、OLっぽい格好の森さんだった。

「局長代理って森さんだったんですか」

「はい、幹部は滅多に人前には出ませんから」

ということは少なくとも森さんは古泉や新川さんを代表する権限を持っているってことになるな。

「森さんには人事じんじの権限はあるんですか?」

「局長にはあります。今日のわたしは機関の代表だと思っていただいても差し支えありません」

なるほど。なら話は早い。

「古泉を元に戻してもらえませんか」

「新川が申しましたとおり、それは無理な相談です。異動に関しましても二週間の調査を経て、上層部で吟味ぎんみ吟味ぎんみを重ねて出した結論ですから」

「そうだったんですか。でもこれは俺たちだけではなくて機関のためにもなると思うんです」

「機関のため、とは?」

「古泉が消えてしまったんで、ハルヒが世界崩壊の引き金を引いてしまうかもしれないってことです」

「まさか、そんなことにはならないでしょう」

あれれ笑ってるけど、この人のこの余裕はどこから来てるんだ。

「閉鎖空間の拡大が止まらなくて世界が裏返ってしまうかもしれません」

「そのような拡大は今まで一度も起こったことがありませんが、その情報はどこから入手されたのでしょうか」

妙だな。古泉の危惧きぐはあいつひとりの取り越し苦労だったのか。

「神人がうようよと沸いて手に負えなくなりますよ」

「あの、キョンさん、シンジンって何ですか?」


……。


「森さん、俺のいた時代とここでの情報にちょっと食い違いがあるんで、いくつか質問してもいいですか」

「ええ。お答えできる範囲なら」

「ハルヒの作る閉鎖空間ってどんなものなんですか」

「直径で百メートル程度の異空間です。物理学的には次元の歪みのようなものです。発生から拡大したことはなく、わたしたちの世界に影響を与えたことはないので、それ自体はなんら害はありません」

「その異空間ですが、どうやって消すんです?」

「たいていは自然消滅するのですが、消えない場合は異能の力を持ったスタッフが空間のエネルギーを崩壊させて消します」

「消すってどうやるんですか」

「外から空間ごとエネルギーを吸収します」

あの世界を飲み込んでしまうかもしれない膨大ぼうだいなエネルギーを吸収するなんて、ちょっと考えられんが。

「異空間の中で人型の巨人みたいなものが暴れますよね」

「いいえ……過去にそのような例はありません。もしかしてそれがシンジンなんですか?」


 神人がいない閉鎖空間。学校のグラウンドに収まってしまう程度の灰色のドーム。ほっといても勝手に消えてしまう異空間。これはつまり、ハルヒの持つ思念エネルギーが改変前より大幅に縮小されてるってことか。いやもしかしたら、この機関の連中はハルヒの持つエネルギーの大きさを見誤っているんじゃないだろうか。

「ハルヒが暴走した例は過去にありましたか?」

「暴走といいますと?」

「飼ってた犬が死んで泣きわめいたとか、古泉がほかの女子生徒とデートしているところを目撃して激怒したとか」

「記憶している限りではないと思いますが、古泉にそういった関係があったんですか?相手は誰です?」

なんだか興味がそっちのほうに行ってしまってますね。


 ということはだ、けてもいい、これがハルヒの最初の大暴走になる。古泉や俺が過去に経験した以上の大規模な閉鎖空間が生まれることは間違いないだろう。

「誓ってもいいですが、このままだとハルヒが暴走してしまいます」

「古泉がいなくなっただけでそこまで起こるとは考えられませんが」

「いえ、古泉だから確実なんです」

「なぜそう言い切れるんです?」

森さんは俺を正視して返事を待った。俺はここでどう返答するかずいぶん迷った。後ろにいるはずの、込み入った作り話をしてお茶をにごすのがうまい古泉の助けを期待するのは、姿を見せられないんで無理だ。

 俺はすっかり冷めた紙コップのコーヒーを飲んで、カラカラに乾いた口の中をうるおしてから言った。

「この歴史は、俺が作っているからです」

森さんと新川さんは俺をあらためて凝視ぎょうしした。未来人が時間操作をしていますと自ら告白したわけだからな。

「ではわたしたちは未来から干渉されているわけですか?」

「すいません、結果的には……。これはハルヒのためなんです」

二人はしばらく考えて、ようやく口を開いた。

「残念ながら、いくらあなたが未来から来たと言われても機関は一定のルールに従って活動しています。過去に前例がないようなことが起こると言われても参考情報程度にしかできませんし、方針を変えるまでには至りません」

前例、と来たか。機関も所詮はお役所だよなあ。過去のデータにとらわれるあまり、予想外の危機を未然に防ぐってのは無理なのか。

「おい、古泉。ちょっと出て来い」

俺は後ろを振り向いて、三人が隠れているらしき付近に呼びかけた。俺の理屈じゃ説得は無理だ。こうなったらもうワイルドカードを出すしかない。

「こっちです」

古泉は森さんの後ろに立っていた。不意を付かれた二人はビクと飛び上がった。

「森さん、新川さん、脅かせてすいません」

「古泉?やけに年取ったわね」

森さんもやや動揺しているのか、俺たちが未来から来ていることを忘れているようだ。古泉は余計なお世話ですよという苦笑を浮かべている。

「何年後から来たの?」

「それは禁則事項なんです。このようにしてあなたがた二人と話していること自体、異例のことなんですが」

「そう。まああなたは機関の運営を知っているわけだから、上層部の決定を変えられないことは分かっていると思うけど」

「確かに僕たちは涼宮さんを取り巻く歴史を変えようとしています。あなたがたと僕とで違うところは、超長期的な視野に立った判断ができるということです。つまりこの時代の機関より多くの判断材料を持っているといえます」

相変わらず口が達者だが、古泉は未来人の優位性を説こうとしているのか。お前はいつだったか未来人など恐るるに足らんと言ったぞ?

「つまりあなたは、涼宮さんとこの時代の古泉が親密な関係になるのを黙って見ていろと言うの?」

「そうです」

「機関のガイドライン、涼宮さんの人生をあやつることについての倫理りんりはどうなってるの?」

「第三者的に見て見ぬフリをすることが、必ずしも涼宮さんにいい結果を与えられるわけではないんです。彼を見ているとよく分かります。機関は涼宮さんに対して経済的にまた環境保護的に支援をし、飽きさせないようにとエンターテインメントまで提供しましたが、彼の体を張った行動力にはとても及びませんでした」

そこで俺が出てくるのかよ。まあ、聞いていてやる。

 古泉は続けた。

「あなたがたの歴史では知らないかもしれませんが、彼の涼宮さんに対する献身けんしんの度合いは友人やただのクラスメイトの域を超えていました。涼宮さんに必要なのは金や物理的なフォローなんかではなく、もっと身近な、親身しんみになることができるなにか。言葉にはできませんが、見えざる関係です」

「それはあなただからできた新しい発見かもしれないわね……」

古泉の妙に説得力のある話し振りに森さんは考え込んだ。

 ずっと黙って聞いていた新川さんが口を開いた。

「では聞くが古泉。百歩譲って涼宮さんとこの時代の古泉が親密な、つまり恋愛関係に至ったとしよう。数年はバラ色の人生で幸せそのものだろう。だがその後破局はきょくを迎えた場合、キミたち未来人の言う暴走が起きるとは思わんか」

古泉は黙ってしまった。

「ならば今のうちに予防しておくのが得策とくさくと言えないか。機関の人間としては」

古泉とは前にも同じことを話した。俺たちが考えていたことを逆手に取られてしまい、グウの音も出なかった。

 森さんが言葉を継いだ。

「そうね。機関は涼宮さんの恋愛を邪魔するつもりはないわ。でも我々の方針は涼宮さんの感情活動のゆらぎを軽減すること。彼女が恋をして楽しいのは否定できないけど、スタッフがそれを助長じょちょうすることもできないわ」

「つまり我々は傍観ぼうかんすべきであって、人生に直接踏み込んではいけない、と」

「そう。残念ながら機関の決定は曲げられません」

話し合いは平行線のまま終わったようだ。俺はその間ずっと黙っていたが、言いたいことはたぶん古泉が言ったことにすべて含まれている。そのへんをちゃんとみ取ってくれていることに少し感謝した。

「では、わたしたちはこれで」

日はすでに傾いていた。俺も古泉も、黙ったままだった。


 別れ際、森さんが振り返った。

「それはそうと古泉」

「なんでしょう」

「頼もしくなったわね、少し」

「……」

そこで古泉がどういう表情をしていたのか、夕日を向こうにした後姿からでは分からなかった。

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