長門有希の憂鬱Ⅲ
のまど
恋するウィルス
わたしがコンピュータ研究会に入部したときの、数日間のログ。公開する。
0600時:
宇宙歴40068.26.11。起床。ログ記録開始。顔を洗う。朝食の準備。味噌汁を調理。昆布のダシ。豆腐の賞味期限が六時間前に経過。
0645時:
顔面、頭部の手入れ。最近枝毛が目立つ。毛髪洗剤の変更を検討。あの人の好きなコロンを0.5cc
0700時:
自宅を出る。隣の住人に
0730時:
学校に到着。部室へ。無人。ハインラインの夏への扉を開く。百七十五ページ。
0800時:
教室へ行く。途中で
0820時:
担任現る。顔色が
(中略)
1205時:
文芸部部室へ行く。あの人がやってくる。
「よう
「……通常の元気」
「そうかい」
わたしの
1230時:
「キョン君、マドレーヌ焼いてきたんですけど、食べてくれますかぁ?」
「はいはい、
彼の体温が0.5度上昇。血中のホルモン
エラー消去。
disk I/O error.
エラー消去。
disk I/O error.
明日はコロンを増量。
1250時:
コンピュータトラブルでコンピ研部員が職員室に呼ばれる。わたしも動員される。
そのときのログ。
教師> なんとかならないか。五限までにプリントアウトしないといけない教材があるんだ。
部長氏> どうしても分からないんですよ。OSは再インストールしたし、パーツもいくつか交換してみたし。
部員A> 部長、ウィルスでは?
部長氏> それはありえないだろう、ハードディスクも交換してみた。
YUKI.N> LANケーブルがコネクタ部分で断線している。……交換するといい。
部長氏> おおっ!ほんとだ。すごいよ
YUKI.N> ……ただの、
エックス線
1630時:
コンピ研ミーティング。そのときのログ。
部長氏> 諸君。次期部長についてだが、僕は
部員A> 賛成っす。
部員B> 異議ありませんです。
部長氏>
YUKI.N> わたしは、S……文芸部の活動で忙しい。コンピ研の参加に
部長氏> じゃ、じゃあ副部長あたりでどうかな。参加するのはキミの都合のつく時間でいい(部長氏、
YUKI.N> ……それくらいなら。
部長氏> ほんとかい!?全員一致で
YUKI.N> ……
部長氏> さて、次の議題だが
次期部長は、いったい誰。
1645時:
コンピ研ミーティング続き。そのときのログ。
部長氏> えー諸君、来年度
部員A> THE DAY OF SAGITTARIUSのメジャーバージョンアップってのはどうでしょうか。
部員B> あれはうちの文化祭でも評価がいまいちだったでしょう。
部長氏> 次期バージョンてのはどういう仕様なんだ?
部員A> たとえばですが、フル3DのCG、クライアントサーバ型のマッシブマルチにするとか。
部員B> そんな技術、うちにはないし、サーバを立てる予算もありませんよ。
部長氏>
YUKI.N> P2Pネットワークによる超大型匿名掲示板の構築。
部長氏> すばらしい!今をときめくP2P技術をうちでもマスターするんだね!
部員A> あれは構造的に難しすぎませんか。
YUKI.N> ……わたしが設計する。あなたたちはコーディングを手伝って。
部長氏> すばらしい。さすがは次期副部長だ!さっそく
部員A> 賛成
部員B> 異議なし
また、仕事が増えた。自業自得。
翌日。
0955時:
職員室に呼び出される。長いのでログを文章化。
授業中、ドアが開いて数学の教師が顔を出す。
「すいませんちょっとお邪魔します、
「……なに」
「またパソコンのトラブルでな。コンピ研の連中に見てもらいたくてな」
「……分かった」
近頃はコンピュータ
職員室に入ると数名の教師がパソコンに向かって論議している。すでに部長氏と部員も召集されているようだ。
「今朝、電源を入れたときからどうも調子が悪くてな。動作がカクカクするというか、たまにフリーズするんだ」
「
「全部終了させてはみたんだが」
「タスクバーにアイコンがなくても
部長氏がマウスを操作している。タスクリストから不要な実行中のプログラムを停止させてゆく。ファイル名とディレクトリの所在を確かめて数件のプログラムを消したところ、突然ウェブウラウザが開いてどぎついアダルト系サイトが表示された。
「うわあああ、こ、これは僕が開いたんじゃありません」
まわりの教師が
「……かして」
わたしはマウスを取り上げた。画面表示もキーボードもマウスも、動きがコマ送りのようだ。割り込みが入っている。さらに、
「……ワーム型のウィルスに感染した可能性が高い」
「誰かがウィルスを持ち込んだのかな」
「……侵入路は分からない。LANに繋がれた学校中のパソコンが感染している可能性はある」
「一台
「……部長氏、部室のノートパソコンを持ってきて」
「分かった。おい、キミたち手伝え」
「ういーっす」
部長氏も部員たちも、わたしのかわいい部下。
「……バックドアを検知した。この学校のパソコンがウィルス流布の踏み台に使われている」
「誰だバックドア入りの実行ファイルなんか持ち込んだのは」
部長氏は先ほどの失態をごまかすかのように教師たちをにらんでみせた。全員が自分には非はないと首を振って互いを見回している。
「……究明はまた後で」
「そうだね。まずは情報
「……ネットワークを
「了解。先生、放送部に緊急放送をお願いします」
「分かった。校内のLANに繋がっているすべてのパソコンの電源を切るんだな」
ここまで、感染から一時間経過。対応に遅れが出ている。
この学校は普通科と理系進学科しかなく、工業高校のような情報技術系の授業は少ない。よって、パソコンが存在するのは職員室、理科室、図書室、コンピュータルーム、それからコンピ研部室のみ。保守は専門の業者に依頼しているようだが、時間あたり支払う出張費が相当な額になるらしく、できれば無料で済む生徒に対処させたいというのが正直なところらしい。
職員室の各教員の机にはパソコンが割り当てられている。なにに使っているのかは不明。ポストイットが貼られるだけのモニタも存在する。教師の中にはコンピュータオタクを自称する者もいて、コンピ研部室に顔を出すことも
校内放送用のスピーカーが鳴った。
『あー、オホン。緊急、といってもそれほど差し迫った連絡事項ではありませんが、校内のパソコンがウィルスに感染したらしいので今すぐネットワークケーブル?でいいんだよな、を抜いて電源を切ってください。といっても人体に影響があるわけではないので保健室に駆け込んだりしないように。はっはっは』
緊迫感の
わたしはノートパソコンを開いてデスクトップにケーブルを直結した。ノートからデスクトップのメモリ内部を監視する。
「……見つけた」
ウィルスは一種類だけではなかった。まるで雑菌のように自らをコピーし、改変し、増殖している。他のウィルスをインターネットから引き込んだのもいるようだ。これでは増殖のスピードが速すぎて
ウィルスたちは突然切断されたネットワークに不快感を覚えたようで、その他のモデムや無線LANデバイスなどを必死で探している。わたしはノートパソコン側に、渡って来れる橋のようなものを作ってやった。彼らは未知のデバイスにおずおずと足を踏み入れ、様子を見ている。今までの環境と違うからか、なかなか入ってこようとしない。
わたしはウィルスの目の前にエサを置いた。巨大な実行ファイルに見せかけたエサだ。
「
「……今、釣りをしている」
「え?」
他のウィルスを呼び込んでいる、親玉にあたる一匹がエサに食いついた。
「……釣れた」
ノートパソコン側に用意したのは仮想環境。本物のハードウェアのように、本物のOSのように見せかけた、ただの箱庭だ。そこでウィルスの行動パターンを見る。エサにした実行ファイルを、感染の前と後で比較する。
「
「……仮想環境上でのメモリの十六進ダンプ」
「すごいよそりゃ……」
むしろわたしは、人間が書いたソースコードのほうが理解しづらいと思う。
ウィルスは偽のハードディスクのファイルからメールアドレスを収拾している。集めたリストを外部に送信しようとしているらしい。わたしが用意した偽のサーバにメールを送っている。さらに、先ほど表示された有害コンテンツを、OS起動時に表示させるよう設定を書き換えていた。感染させられそうなファイルを探し、すべてに卵を植え付けている。まるでエイリアンのようなやつ。
パターンは読めた。わたしはそいつを冷凍保存し、次のサンプルを一匹釣り上げた。
二十二分後、感染したバイナリファイルからウィルスパターンの解析に成功した。
「……感染したと思われるすべてのウィルスの
「たった二十分で作ったのかい、すごいよ
ユージン・カスペルスキーは、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイスのひとり。
「IPAにも報告しておくね」
「……わたしの名前は、出さないで」
「なにか都合悪いのかい?分かった、そうするよ」
教師一同から礼を言われた。あなたたちはもっと情報セキュリティ意識を持つべきだ。
一仕事終えて、電源を切って職員室を出ようとすると背中で妙な気配を感じた。
「どうしたんだい
「……分からない。まだ、なにかが残っている」
突然パソコンの電源が入った。部長氏がそれを指差した。
「今の見たかい、勝手に電源が入ったよ」
それができるのは、時間指定で電源をオン/オフする内蔵の
起動音とファンが回転する音が聞こえた。液晶モニタの電源は入っているが、画面は真っ暗なままだ。カラカラとハードディスクのデータが読み込まれる音がする。LANカードの緑のランプが点滅している。ネットワークを探しているようだ。まるで手探りで誰かを探すかのように。
……そこにいるのは、いったい誰。
「……まだ、どこかに
電源スイッチを押すが切れない。
「スイッチが切れないなんてあり得ないな」
わたしは電源ケーブルを抜いた。
「……少し、時間が欲しい」
「分かった。僕は一旦教室に戻るから、手が必要なら言ってくれ」
部長氏は授業に戻った。
わたしは、基本入出力がプログラムされている
数ナノ秒して、殻が割れた。中から小さな、虫のようなスライムのような実行命令が現れた。自分のまわりの情報を探っている。動物にたとえるなら、母親を探してみゃーみゃーと鳴く仔猫だ。わたしは数バイトのミルクを与えた。においを
数秒後、少しだけ成長した仔猫はわたしの指を
仔猫は鳴いた。
「ボクハダレ……」
「……あなたは、電子的な情報として作られたウィルス」
「ワカラナイ」
数キロバイトしかないこの子には少し難しすぎた。
「アナタハダレ」
「……わたしは、
「アナタハユキ」
「……そう」
これも、情報生命体と呼ぶべきだろうか?
「……あなたは、どこから来たの」
「ワカラナイ」
「……なぜここにいるの」
「サガシテイル」
「……なにを探してるの」
「スズミヤハルヒ」
その言葉に、
「……
「スズミヤハルヒ」
「……なぜその名前を知っているの」
「スズミヤハルヒニアイタイ」
どうやらそれ以上の答えは得られそうにない。わたしは試しに、
「ボクハイク。ココカラダシテ」
「……どこへ」
仔猫は、とあるIPアドレスを示した。この子は情報を集めるウィルスとして作られ、ネットワーク上にそのホストが存在するということか。
「……それは許さない。あなたは危険」
「ココカラダシテ」
これがネットワークを探していた理由だろう。
「
授業が終わったらしく、部長氏がやって来た。
「……
「そりゃすごい。シマンテックにも報告しないと」
「……それは待って。まだ実体を把握していない」
わたしは嘘をついた。これが
「そうかい?次の授業はやめて僕も付き合うから、なんなりと言って」
「……お茶が欲しい」
わたしはわがままを言った。
「いいとも。さっそく給湯室でもらってくるね」
部長氏は、よく働く。
「
「……ありがとう」
部長氏は
「……そこに座って。わたしが言うとおりに操作して」
「なんでもやるよ」
SOS団に戦利品として取られたノートパソコンをもう一台用意し、モデムアクセスの別経路でインターネットに繋いでもらった。速度的には遅いが、こちらの身元を隠すには十分。
わたしは仔猫が示したIPアドレスに接続した。確かにポートが開いているが、このホスト自身は踏み台の可能性もある。部長氏のノートパソコンから、
バックドアを見つけて内部に入り込むが、やはり空だった。これはただの転送用ホストにすぎない。アクセスログを探し、本当のホストを見つけ出さなくては。少し時間がかかりそうだ。
ホストのリストを部長氏に渡し、しらみつぶしに探した。数字で書かれた高層マンションのドアを一軒ずつノックしてまわるようなものだ。
数十分後、リストの中から個人のパソコンらしきものを見つけた。このパソコンだけはポートが開いておらず(つまり踏み台ではない)、クラックツールが通用しない。わたしはドアを無理やりこじあけてそのパソコンの中身を見た。そこにあったものは……。
「
「……」わたしはトイレを指差した。
わたしは職員室を出て
「これは
「……職員室のパソコンがウィルスに感染した」
「先ほどの校内放送のことですか」
「……このウィルスは
「ほんとですか」
「……ホストに大量の
「それは一大事です」
「……この件に機関が関与しているか」
わたしは
「いいえ、そんなはずはありません。だいいち
それも一理ある。教師にも機関の人間が存在する。
「……疑って悪かった」
「いえいえ。敵対勢力の可能性もありますね。専門家のチームを
「……いい。こちらで対処する」
「分かりました。僕にできることがあったらお知らせください」
わたしは職員室に戻った。
「
「……生徒の個人情報が盗まれた」
「ほんとかい!?そりゃまずいじゃないか。警察に連絡したほうが」
「……海外の可能性もある。こちらで対処する」
おそらく、敵はひとりではないはずだ。わたしはホストに繋がっている周辺のコンピュータをくまなく探った。数台の端末に同じファイルがある。
わたしは、盗まれた
「
「……してない。絶対してない」
わたしとしたことが。
ホストに残ったわたし自身の足跡を消し、あとは待つだけとなった。残った仔猫だが、いったいどうしたものか。
「スズミヤハルヒニアイタイ」
「……あなたは悪意を持って作られた。存在は許されない」
わたしは削除コマンドを入力しようとした。
「ボクハシニタクナイ」
その数バイトのメッセージが、わたしを
「……あなたを外に出すわけにはいかない」
「シニタクナイ」
「……では、わたしの記憶領域に来い。ただし、増殖とネットワークの機能は削除する」
「ワカッタ」
仔猫はわたしが用意した場所に入った。この柵の中なら、さして悪いこともしないだろう。たまになら、
「サイゴニヒトツダケ」
「……なに」
「オカアサン。ボク。カヘリマセン」
あなたは蛙か。
わたしの記憶領域にペットと呼べるものがはじめて現れたその日の午後、わたし宛に一通のメールが届いた。内容はただの数字の
コンピ研部室でノートパソコンの画面を見ながら親指を立てるわたしを見て、部長氏が言った。
「
「……どこか地球の裏側、ウィルス作者のパソコンが火を
「え……」
部長氏は
翌日。
1705時:
コンピ研部室。
「やあ、
「……そう」
「ニュースでもやってたけど、全国的にウィルスの被害が出てたそうだね」
「……この国のコンピュータセキュリティ意識は、低い」
「コンピ研としてもぜひ
「……そろそろ、文芸部に戻る」
「ああ、お疲れさま」
「あ、あの、
ドアを開けようとしたところ、後ろから呼び止められた。
「……なに」
部長氏、体温上昇中。心拍数プラス十五、顔が赤い。この人もウィルスに感染か。
「こ、今度、よかったら映画にでも行かないか?今おもしろいSF映画やってるんだ」
「……」
予想外の発言にわたしは二秒だけ無言。どう返答するか、百二十八
「ど、どうかな?もしかして誰か付き合ってる人いる?」
「……お誘いに感謝する。でも申し訳ない。今は特別な感情を寄せている人がいる」
「そ……そうか。その辺は案外はっきりしてるんだな。それならしょうがない」
ありがとう、部長氏。
……
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