その傘
男は目を見開き、次に細め、瞬かせ、また見開いた。
その傘は道路の向こう、数歩先の真正面のブロック塀に立てかけてあった。
不要、あるいは壊れたからと捨てられ、だらしなく開いたビニール傘とは違い、キッチリとスナップボタンは留められ、まるで新品のような黒い傘。柄の部分はコーティングされた木製で高級感がある。誰かを待っているかのように凛としていた。
男がそう感じたのは自身の不安症めいた想像力のせいに他ならない。
しかし、それも無理はない。
その傘は雨宿りしていた男が恨めしく空を見上げ、ため息混じりに視線を戻したその短い間に突然そこに現れたのだから。
隙の無い豪雨。暴力的なまでに激しい音を奏でる雨を前に、男の頭の中もまた思考が渦巻いている。
……私が想像力豊かな子供なら、姿の見えない妖怪か何かの恩返しと思い喜んでこのシャッターが閉まり、何の店かもわからない建物に取り付けられた所々穴の開いたビニールの庇の下から離れ、小走りで道路を渡り、傘を手にしたことだろう。
あるいは私が若さ有り余る青年なら、やはりその傘を手にし、悪戯でガラスの破片やゴミが降り注ぐことに警戒しつつ、傘を開いていただろう。どちらにせよ、この激しい雨に打たれずに家に帰ることができる。
しかし、私は日々、体の痛みと戦い、健康診断の結果に怯える年頃。恐ろしいことに関する想像力だけは子供の頃に劣らず、私の頭の中で蠢き続ける。
私があの傘を手にし、それを頭上で開いた瞬間、伸びた触手が私の首に絡みつき、並んだ牙が私の頭蓋骨を音を立てて咀嚼し、流れ出た血が雨と共に虚しく排水溝へ流れていく……。
無論、ただの妄想である。それもひどく幼稚な。
そうとも、私がここに雨宿りしに来る前そこに傘はあった。それをただ見落としていただけだ。きっとそうだ。
――卑しくも傘が落ちてないか周りを探したのに?
……見落としただけだ。
――あの存在感を?
彼がまた傘を見つめた。その熱い眼差しに応えるかのように、留めてあったスナップボタンがパチンと外れ、ファサッと女性のスカートが揺れるように傘が広がった。まるで男を誘っているかのように。
それに対し、彼はウブな若者のように動揺、いや狼狽し目を閉じる。
独りでにスナップボタンが外れたんだ。いよいよあれがただならぬものであることを疑うべきじゃないのか?
……ただの偶然。そうとも、偶然だ! あれが何だというのだ! 怪物? 馬鹿馬鹿しい。ぐだぐだぐだと何を考えている。チャンスを前にあれこれ理由を付けて逃避したことがこれまで何度あった? そうとも、あれは傘じゃない。変革だ。私自身の。
彼がそう結論付けた時には、もう一歩を踏み出していた。
川の流れに投じた一石。
彼の靴が勢いよく流れていく雨水をビシャッと踏み散らす。
更に一歩、二歩。小走りで庇の下から出た彼はその傘を掴んだ。
勢いよく振り上げ、雨水が空に一線を引いた。
そして、天を衝くように頭の上に掲げ、雨を、恐れを、臆病な自分を払拭すべく、スイッチを押した。
傘が開くと同時に彼は自宅に向けて一歩、足を前に踏み出した。
……しかし、その一歩は濡れた地表を踏みつけはしなかった。急速に上昇し始めたのだ。
「うわああああああああああ!」
彼のありきたりで情けない悲鳴は地面に落ちる雨とは逆行。空へ昇る。
エスカレーターの逆走。神に楽園から堕とされた天使との擦れ違い。
まるで雨粒一つ一つが男を驚愕の顔で見るように、彼は目の前の雨粒がスローモーションに過ぎ去っていくのが見えた。
そして、彼を運んだ傘は雲を突き抜け、上空で急停止した。
彼はただガタガタと震えた。日差しはあったが暖かさは感じられず、ただ頭の中は落下したら……そのことだけを考えていた。
媚びる様な目で傘を見つめるが降りてくれそうにない。
いつまでもこうしていられる訳じゃない。そのうち握力がなくなるだろう。
そうなれば……。
彼が下を向いた。その時だった。
雲が掻き出されるように動いたのだ。
そしてそれは雲の中からその姿を現した。
巨大なエイ。ただ口は前面についている。
赤黒い口内には尖った歯が不均一に立ち並び、そしてそれは唸り声とともに蠢く。
こいつだ、こいつがこの雨を降らせているんだ。こいつは雨雲の主。
そしてこれは……釣り針だ。
傘の柄と釣り針、似ているじゃないか。何者かの遊戯。そして餌は……私だ。
迫る口を目の前にし、彼は乾いた笑いを出しながらそう思った。
……と、これも妄想。
彼はようやく目を開けた。
傘から視線を外し、足をぐぐぐっと伸ばす。
――よし。
彼は鞄を頭の上に掲げ、雨の下へ。
うん、これでいい。自分はこれがお似合いだ。
彼はそう笑う。
「お、ラッキー!」
と、彼が走り出して数歩、後ろからそう声が聞こえた。
まさかと思い足を止め、振り返ったがしかし、そこには誰もいなかった。
気のせいか。いや、あの傘が……ない。初めから? たった今頭上から聞こえた気がした悲鳴は先程の妄想の残滓だろうか。
彼は空を見上げた。
雲が蠢めいている。
そのまま何か見えないかと目を凝らしていると、雨が次第に弱まり、そして止んだ。
彼の目に丁度、恐らく最後の雨粒が入った。
瞼を擦り、再び空を見上げると雲が散り散りになっていくのが見えた。
傘はなかった。
青空にもどこにも。
……これまで掴み損ねてきたチャンスは掴まなくても良かったのかもしれない。
ふいにそう思った。
軽くなった足取りで、彼はまた歩き出した。
電線から落ちた雫が水たまりに波紋を作り、日差しが濡れたアスファルトを輝かせ、風が雨上がりの匂いを運んだ。
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