渇求

『キュリオン』は繁華街からやや離れたところに構える落ち着いたバーである。


 宗慈は閉店間際、馴染みの客、もはや友人と言っていいその男と二人で談笑していた。

 と言っても主に宗慈は友人の「狙ったとおりあの女を抱いてやった」「あいつと不倫している」などの下世話な話の聞き役だ。

 たまに、やんわりと諌めはするが、むしろ調子づかせるだけ。

 バーのマスターというのは牧師並みに秘密を打ち明けられる。宗慈はオーナーからこの店を任せられてからというもの常々そう思っていた。


「でよっ! その奥さんがさ何言ったかと言うと――」


 と、ちょうど話のオチのところで店の扉が開き、男が一人入ってきた。

 宗慈と話の腰を折られて不満げな顔の友人が目を向ける。長身のその男はその身を隠したいかのようにロングコートと帽子を被っている。

 どこかダラリとした雰囲気を醸し出しているのはやや長めの、わずかに癖のある髪の毛だろうか。

 その男は宗慈の前に座る友人から二つ離れた席に座った。

 客の注文を聞きに行こうとする宗慈の腕を友人が掴み、囁いた。


「なあ宗慈、アイツが何飲みたいか当ててくれよ」


 今日、客が入るたびにしたやり取りだ。まったく飽きないものかと宗慈は少々呆れた顔をしたが満更でもなかった。


「そうだな……」


 宗慈には不思議な能力があった。

 客が飲みたいものを当てるというものだ。無論、超能力と呼ぶのもおこがましい矮小な能力ではあったが、適材適所とでも言うのだろうか、そんな能力でも物珍しさから客は噂を聞きつけ店にやってくるので、そこそこ繁盛し、宗慈自身の評判も良く店を任されたのもこの能力のおかげといえよう。


 宗慈は見透かすように目を細めてその男を見た。

 そうするとイメージが浮かび上がってくるのだ。たとえ、その客が過去に一度しか飲んだ事がなく客自身、その名称がわからなくても宗慈の頭の中には鮮明に映像が浮かんでくるのだ。グラスの形、氷の数さえも。だが……。


「何でもいい……?」


 酒である事は間違いなさそうなのだが、浮かび上がるイメージが絶え間なく変化し落ち着かない。

 つまりは迷っているのだろう。この手合いの客はたまにいる。大抵、少し待てば次第にイメージは固まってくる。

 この客も例外ではなかった……が。


「……血?」


 友人には聞こえないくらいの声、氷が割れる音に掻き消されるほど小さな呟き。

 初めはワインかと思った。しかし間違いなく浮かび上がった映像は血だった。

 奴は血を求めている。それもひどく、渇いている。

 吸血鬼? 有り得ない。頭を振り、すぐにその考えを打ち消すのだが、水面は波紋が収まれば、すぐにまたその姿を映し出す。

 自分は曲がりなりにも超能力者だ。当然、自分の能力に気づくまではそういった超常的な存在など信じていなかった。

 しかし、今は違う。超能力者がいるのならば吸血鬼がいてもおかしくはないのでは? もしくは吸血鬼に似た能力を持った超能力者かもしれない。血を飲み、若さと命を保ち、長年に渡り生き抜いてきた。何なら吸血鬼のモデルも実はあの男だったり……。


「おーい、もしもし? どしたー?」


 友人の呼びかけに宗慈は我に返った。飛躍しすぎだ。フッーと息を吐く。


「……いや、なんでもない」


「そう? しかしあの客不気味だよな。全然注文しようとしないし。

いや、もしかしてバー初心者か? ほら、プルプル震えてるんじゃないかぁ?」


 確かに僅かに震えているように見えた。と、よく見ようと目を細めたせいで、意図せずまたイメージが浮かんできた。

 ――血、血、血、血、血、血、血


 もはや疑いようがなかった。火傷しそうなほど熱い血液に呑み込まれるようなそんな感覚がしたのだ。

 そして、その熱さとは裏腹に背筋が凍った。

 宗慈どうすべきか考える。友人に伝えるべきか。お前が小馬鹿にしたような顔で見るそいつは化け物なのかもしれない、と。

そしてすぐに友人を連れ出して、二人で逃げるべきか? いや、何も我々の血が飲みたいとは……なんて正常性バイアスだ。奴は間違いなく血を求めている。強く。すぐにでも。そして今ここにある年代ものの血が入った樽は二つのみだ。


 男がカッカッカッとバーカウンターを爪先で叩く。

 注文を取りに来るように促しているのか、それとも考えているのか、あるいは苛立っているのか。

 宗慈はフゥーと息を吐くと、グラスを手に取った。


「お、おい」


 困惑する友人を無視し、宗慈はぺティナイフで手のひらを切り、振り絞るようにグラスに注いだ。


「……どうぞ」


 それを男の前に差し出した。一定の間隔でリズムを刻んでいた男の爪がピタリと止まる。

 面白いやつだ。と、思われるのを期待していなかったわけではない。

 飲み干した瞬間、足りぬと首元に食らいつかれる想像の方がはるかに勝った。

 だが、他にやりようはなかった。

 バーのマスターとして、客が望むものを出すと評判、その矜持。ただ仕事をこなす。自分の役割を、客を守る。他の客。友人にその牙が向かないように。これも正常性バイアスか。 

 いや、これではまるで生贄だな……。

 宗慈はそう思った。そして自分が血を吸い上げられている間、きっと友人は逃げるだろうとも。 

 男を見下ろす宗慈。ゴクリと唾を飲んだ。

 男はチラリと宗慈を見たあと、立ち上がった。


 ――失敗。

 ――機嫌を損ねたか。

 ――殺される。


 頭から、体から血の気が引いていく。

 それは恐怖と今しがた血を抜いたせいだが宗慈はそれをも男の能力だと思った。

 襲い来る痛みを予期し、宗慈は目を細める。

 ――血、血、血、血、血、血。

 心臓が送り出す血液、その勢いのようにそれは激しく、宗慈の脳にぶちまけ、真っ赤に染め上げた。

 だが……。


「……あん?」


 友人は席に座ったまま、歩み寄ってきた男を見上げる。

 そして……止める間はなかった。宗慈からは男が振り上げた腕が友人の目の前で、ただ空を切ったようにしか見えなかった。

 しかし、次第に友人の首に赤い線が、そしてそれはプックリといくつもの小さな赤い実になったかと思うと湯船から溢れるお湯のように流れ落ちた。


 ……ああ、あの男がその恐ろしい爪で友人の喉を掻っ切ったのだ。

 そしてそれは次に自分に向く。

 宗慈はそう確信した。

 友人はバーカウンターに突っ伏し、血が水溜りのように広がった。

 男が友人の席にあったグラスを持ち上げる。中の酒が揺れ、グラスの中に飛び散った血と混ざり合おうとしていた。

 男は口をカッと開け、その酒を流し込んだ。

 瞬間、男の渇きが満たされたと宗慈は感じ取った。


 男がコートの袖からナイフを取り出し、友人のシャツで血を拭う。

 あの男が強く求めていた液体。それは恐らく今朝から、あるいはもっと前から頭の中に思い描いていた鮮血。

 そして飲みたかったのは言うなれば勝利の美酒。

 確かに酒なら何でも良かったのだ。

 彼は、友人の不倫相手の旦那だったのだと宗慈は悟った。

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