人の気持ちを想像しなさい

 俺は彼女のことは愛している。

 そう、『は』

 今、助手席を陣取るこのクソ犬にはもう、うんざりだ。まあ、それはコイツも同じだろう。いつからかは覚えていないが俺たちは完全な敵対関係にある。

 これは仲直りのためのドライブじゃない。それはコイツもわかっているはず。なのに余裕綽々としている。気に食わねぇ。だが理由は何だ? 犬に帰巣本能ってやつがあるのは知っている。コイツはそれに絶対的な自信を持っているって言うのか?

 ……はは、くだらない。コイツはただの犬。つまりはやっぱりただの馬鹿だ。俺がとうとう自分の軍門に降ったと思っているんだろう。俺はコイツを嫌いすぎるあまり、無意識のうちにライバル関係など、コイツの存在そのものを自分と同等にまで引き上げてしまっていたらしい。


 車を止め、山道に入る。リードを引っ張ると嬉しそうに尻尾を振って俺の前を歩く。

 折れた枝が落ちる音。鳥か? 空気がヒンヤリとしている。踏んだ落ち葉が思った以上に大きな音を鳴らし、その度に、後ろを振り向きたくなる。

 ビビッてやがる。おいおい俺よ、よく考えたことじゃないか。彼女が悲しむ? 大丈夫。慰めて次は猫でも飼おう。そうさ、それがいい。俺は猫の方が好きなんだ。


 ……よし、ここでいい。リードを首輪ごと外してやると、奴は周囲を駆け回り、林の中へ消えていった。

 山に連れてこられ、野性の本能でも刺激されたのだろうか。何にせよ好都合。お犬様、どうぞ存分にお楽しみなさってください。私めは車に戻っておりますのでっと。


 シートベルトを締め、エンジンをかける。

 アイツは……いないな。

 だがエンジンの音を聞きつけて戻ってくるかもしれない。早々に出発しよう。


 ……なんて警戒も無用だったな。車を走らせたがバックミラーに映るものはない。なんてことはない。大丈夫だ。この解放感が正しいことをしたという証明だ。


「ただいま」

「おかえりー」


 家に帰ってきた。彼女の声でホッと一息。だがここが肝だ。犬について訊かれるかもしれない。上手く隠し通して……嘘だろう。

 家の奥から聞こえる彼女の楽しげな声。そしてカリッカカカっとフローリングに爪が当たる音。


「ありえない……」


 あのクソ犬が彼女とじゃれ合ってやがる。何故だ。帰巣本能が働いたにせよ何故、俺よりも早くこいつが家に戻っている?

 車の屋根にでもくっついていたのか? 馬鹿な。


「ん、どうしたの?」


「い、いや別に……」

 

 アイツが俺を見上げる。『彼女に話さないのか? 俺を捨てようとしたって』そんな顔で。


「ふーん? 変なの」


 捨てるんじゃなくて息の根を止めてやるべきだったか……。

 彼女を思ってつい穏便な方法を選んでしまった。今更後悔しても……いや、考えてみればチャンスはまだあるか。今回のは予行演習だと思おう。そうだ、それでいい。


「なにー? どしたの? そんなにこの子を睨んで。嫌いなの?」


「え? ははは。そんなことは……いや、正直相性が悪いというか……。

君がいない時にソイツ、俺に小便をかけたり噛み付いたりしてくるんだ。なぁ、ソイツは誰かに譲って猫でも飼わないか?」


 馬鹿。馬鹿。無理な提案だ。彼女を怒らせるだけの。それにこんなことを言えばこの先、あのクソ犬が消えた時、俺が真っ先に疑われてしまうじゃないか。ただ……どうしてか彼女には正直に言わなければならない気がしてしかたがなかった。勝手に捨てようとした負い目があったのだろうか。あぁ、彼女の機嫌を損ねてしま……と、笑った? 怒ってないのか?


「猫ねぇ、それもいいかもね」


 彼女がそう言い、俺の足元に視線を向けた。

 すると足に何かが当たる感触。


「嘘だろ」


 猫だ。何故だ、いつの間に? 買ってきたのか? 俺へのプレゼント?

 

「あ、ははは、君は魔女か何かかい?」


 驚く俺を見てクスクス笑う彼女に俺はそう言ったが、和ませるためのただの冗談だ。

 この猫は最初から部屋にいたのだろう。俺という見慣れない人物に驚き、物陰にいたのが大丈夫そうだ、と出てきただけの事。


「フフフ、違うわ。その子はそうね、イマジナリーフレンドってやつね」


「え? ……っていうとこれは君の想像の産物だって? まさか、ありえない」


「ホントよ。ちなみにこの子もそう」


 彼女がそう言い、あの犬に目を向けるとスッーとその姿が消えた。


「私ね。ぜんぜん友達が出来なかったの。だから想像した。それだけのことよ。

コツは性格や気持ちとか細かく想像することね。

何でも十年くらい続ければそれなりのものになるって言うじゃない?

私はもう二十年近くになるから、ふふふっ多分、達人の域ね。あははははっ」


「だから他人にも見えるようになったって? しかし……」


「ま、それはそれとしてやっぱり犬が好き。それにあの子は貴方よりも付き合い長いしね」


 彼女がそう言うとまたあの犬が現れた。尻尾を振り、ソファーに座る彼女の太ももに顎を乗せる。

 そして……俺の足が、手が、次第に透けて……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る