その精神科医は否定する

 その日の雷堂はひどい頭痛に悩まされていた。

 しかし、クリニックには患者の予約があったため休むわけにはいかなかった。

 なので、迎え入れた患者が背を向けている間にこめかみを揉んだが、大した効果がないことは自分でもわかっていた。特に、厄介な患者の話の前では。


「天狗を見たんです」


 椅子に座るなりそう言った男の目から涙が零れ落ちた。

 雷堂がすぐさまティッシュを箱ごとを渡したのは垂れる鼻水を目にしたからだ。

 男は鼻をかんだティッシュをテーブルの上に乗せようとしたがポロッと指から零れ落ちた。

 男はペラペラ喋るその口とは正反対の、のっそりとした動きで丸まったティッシュを拾い上げ、テーブルの端に乗せた。水分を吸収し、やや重みがあるように見え、雷堂の頭痛が益々ひどくなった。


「先生?」


「ああ、すまない。それで山登りをしていたんだね?」


「はい、自然の中で体を動かすことは心と体に良いと前に先生も仰っていたからです。

……だけど、見たんです……天狗を。怖かったです。あの皺くちゃの真っ赤な顔。

それに鼻はブツブツしていてすごく不気味でした」


 男がまた泣き出す。

 そんな熊のような図体の癖に何をそこまで恐れるのか。いや、実際の熊も天狗に遭遇したら怯えるだろうか……なんて、くだらない。天狗など存在するはずがないんだ。

 しかし、頭ごなしに否定するのは余り良い方法と思えない。このクリニックに来る患者は特に自分を肯定してもらいたがるのが多い。やんわりと否定し、彼から恐怖を取り除く。

 雷堂はそう考えた。


「先生、僕が見たものは本当に天狗だったんでしょうか?

だって、僕は……こんなんだし、本当に自分が見たのか自信がなくて」


 彼は少なからず空想に囚われる癖があった。また、心の弱さを自覚し、自分に自信がない。


「……そもそも天狗なんてものは存在しない。

単に山での行方不明、遭難、真相不明の事件を天狗の仕業と言っているだけだ。

君は記憶が混乱しているんだ。山の中で聞いた木々が軋む音。

鷹などの鳥を目にし、それで天狗を連想してしまった」


「でも……誰かそこにいた可能性はないですか?」


「天狗の扮装をした誰かが? 悪戯で? 可能性はゼロではないが……」


「いえ、ただの人です。記憶の混乱というのなら鳥と音だけでは弱いでしょう」


「確かにな。しかし……」


「いたと思いますか先生」


「……さあね。私はその場にいなかったから答えようがない」


「本当に誰もいなかったんですか?あの山に」


「何を言っているんだ?」


「いたでしょう。男が」


「いない」


「天狗を見たはずです。先生」


「天狗などいるものか」


「いるのに」


 枝分かれする稲妻のように痛みが頭の内部で迸り、雷堂は目を瞑った。

 その瞬間。ほんの一瞬だが瞼の裏の暗闇に残像が浮き上がった。天狗。その迫る顔。


 ただのイメージ。しかし、目を開けた雷堂の前に患者でも天狗でもなかった。

 ブルブル震えながら紅潮し、食いしばる歯から漏れ出ているのは「どうし、どうして認めようとしないんですか」という怒りと嘆きに満ちた音。それは声と呼ぶには、不均一で、不安定であった。

 額から噴き出した汗がソファーに、カーペット調の床に染みているのにもかかわらず雷堂が不快に思わなかったのはその量。割れた卵から白身が漏れ出ているようであった。あるいは羊膜に包まれた胎児。

 いずれにせよ破れた。男の皮膚がデロデロと液体と共に滴り落ち、そこから現れたのは真っ赤でブツブツがある皮膚。

 男は嗚咽する猫のように、身を動かし皮膚を落としていく。

 そして両手で自分の後頭部を掴むと引き裂くように力を入れた。ブチブチと音がしたかと思えば男の皮膚は豪快に破れ落ち、中から一回り大きな体が現れた。


 天狗。

 

 雷堂はそう呟いたつもりだが声が出たかどうか、自分でもわからなかった。ただ雷堂は安堵していた。

 脱皮のように男の皮膚を脱ぎ去った天狗。翼も髪もなく、血走った黄色く大きな目。全身が真っ赤でブツブツと突起があり、鼻はそれが特に顕著。そしてその鼻こそが人間の陰茎によく似ていたが、天狗のそそり立つ陰茎そのものは比較にならないほど大きかった。

 雷堂は笑った。その陰茎が目の前に、口の中に向かっているにもかかわらず笑った。

 それは先程の安堵した理由と同じ。

 これは夢だ。

 雷堂は天井を見上げ笑った。目が細くなるまで笑い、そして完全に閉じた。



 雷堂が再び目を開けると、そこに天狗も、男の姿もなかった。こそげ落ちた皮膚も、ティッシュもない。

 夢を見ていた。それか天狗は何もせず、何も残さず去った。あそこまでして。

 馬鹿げた発想だ、と雷堂は自嘲気味に笑った

 時計を見ると次の予約までまだ時間はあった。落ち着きを取り戻すためにタバコに火をつけ、患者の到着を待つ。

 

 天狗……。

 

 いるわけがない。

 目を閉じると糸が切れた風船のように幼き頃に意識が昇って行く。


 俺は山の中を走っていた。

 それほど大きな山ではない。子供の良い遊び場となっている。一度上がればあとは一度下りるだけ。入り組んでいるわけでもなく坂もない。

 それなのに出れない、道路に辿り着かない。木に石で刻みつけた目印も今ではそこかしこに点在する。それは俺がつけたはずなのだがまるで獣の縄張りのように俺を脅す。

 そして羽ばたく翼、その音。カラス。鷹。それらより遥かに大きい。

 空を見上げると突然、影が俺の目の前に現れる。

 もがく俺を抱きかかえ、体をまさぐる。汗だろうか、わずかに湿った腕。体温。山の、草と土の匂いを掻き消す体臭。かかる息。


 あれは天狗?

 違う。

 では

 違う。

 何もいなかった。

 何もされなかった。

 ただ一人で迷っただけだ。


 雷堂は目を開けた。


 静寂。独りそこに身を置く。

 吐いた煙が翼のように広がり、そして消えていった。

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