決定的瞬間
やった。やってしまった。
その青年は胸に手を当てた。そこにタールのような罪悪感は溜まっていない。あるのはのたうつように鼓動する心臓。そしてその激しい鼓動の理由は走っているからだけじゃない。高揚しているのだ。
青年は走るのをやめ、周囲に人がいないことを確認するとポケットからスマートフォンを取り出した。
暗がりにボウッと青年の顔が白く浮かび上がる。緩む口元、見開いた目はしっかりと画面を捉えている。
ああ、凄いものが撮れたぞ……。
数分前、踏切が開くのを待っていた青年は、前から女性が歩いてくるのに気づいた。
その女性の視線は手に持つスマートフォンに釘付けのようだった。
歩きスマホ。よくある光景だ。だがその先の展開は違っていた。
彼女は遮断機のバーをくぐると、そのまま青年のほうに向かってゆっくり歩いてきたのだ。あまりに自然な動作だったので青年は数秒、違和感を抱かなかった。
踏み切りの警報音に気がついていないのだろうか。
そう思いつつ、青年は遮断機のバーから線路を覗き込む。
電車。徐々にその姿形がハッキリと大きくなってくる。このままだと……。
青年は次に周囲を見渡した。
誰も彼も自分のスマートフォンの画面に視線が釘付けだった。
――僕だけが気づいている。
――僕だけが助けられる。
――彼女に大声で警告。
――それか緊急停止ボタンを。
逡巡はほんのひと時の事。
青年はポケットからスマートフォンを取り出すと、女性に向けた。
彼女は直前で気づいて回避する……きっとそうさ。
青年はそう考えた。いや、言い訳した。
そして結末は彼も知らない。まだ。
彼女と電車が接触する瞬間、怖くなって目を逸らしたのだ。
そして、電車が目の前を通過し終わる前に背を向け走り出した。後ろめたさ、激しい電車の音に青年は責め立てられているようなそんな感覚を覚えたのだ。
見たぞ見たぞ! お前のせいだ!
見殺しにした! 殺人者!
人殺しがここにいるぞ!
現場から遠ざかるとその声も罪悪感も薄くなり、達成感が込み上げてきた。
青年は何度か深く呼吸をし、息を整えると撮影した動画を再生した。
女性がゆっくりと線路を横断するところから始まる。
――いいぞ、問題なく撮れている。
青年は興奮で体を震わせた。
一歩。また一歩とゆっくり。まるでモデルのように。魅せるように彼女が歩いて来る。
ちょうど電車の進路上でピタッと立ち止まる。
――えっ
そして、彼女が自分のスマートフォンの画面から顔を上げた。
その瞬間、電車が通過し、彼女の姿は少年の手の中から消えた。
青年は危うくスマートフォンを手から落としそうになった。
彼女は今、確かに顔を上げた。だが、迫りくる電車に気づき、向いたのではない。
彼女は間違いなく青年を見た。
そして微笑んでいた。
――なぜ?
――どうして微笑んだ?
――僕が撮っていることに気づいたのか?
――電車には気づいていたのか?
――自殺?
――血やぶつかったときの音が録れていないのは?
膀胱に限界まで溜めた尿を噴射するように出てくる疑問の答えを探るべく、青年はもう一度動画を再生する。
あ、これ……。
よく見ると、女性は顔を上げた後、スマートフォンを青年に向けて少し突き出している。
彼女も僕を撮っていた? どうし――
青年はパッと画面から顔を上げた。
しかし遅かった。
車の甲高いブレーキ音。そして眩しい光が目を突き刺した。
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