適性
帰宅途中、前方にあるアパートの二階の窓が開き、住人が出てきた。
男だ。タバコを吸うためか洗濯物を取り込むためか何にせよ、面白いものでもなければジロジロ見るものでもない。目を逸らす。
「おい、後ろ!」
が、突然したその声に私は顔を上げた。声の主はやはりさっきの男。慌てた様子で私の後ろのほうを指差しながら今もなお声を張り上げている。
車だろうか。そう思った私は道の端に寄りつつ、後ろを振り返る。
そこに男がいた。が、普通でないことは暗がりの中でもわかる。背筋が凍りつくような鋭い眼光をし、口元がニヤッと笑うように歪んでいる。そして……その手にあるのは日本刀だ。
男が一歩前に進んだ。街灯の光の下に出たことにより、男のシャツの柄だと思っていた黒い模様は血であることがわかった。
距離を置き、向かい合う二人の男。私も刀を持っていれば映画の決闘シーンのように見え、さぞかし映えただろうが私の手にあるのは通勤用の鞄だ。脳が先程から危険信号を発している。
場の空気が重い。刀は今、確かにあの男の手にあるが、いくつもの鋭い切っ先が私を取り囲み私の自由を奪っている。そう感じた。
男がまた一歩動いた。男の体を再び影が覆い、刀の光が消え失せたその瞬間、頭の中にフッと浮かんだ言葉。
――背を向けて走れ。
私はその通りにした。日本刀に詳しいわけではないが、それなりの重さがあるはず。持ったままそう速くは走れないだろう。
と思っていたが、走りながら後ろをちらりと振り向くと男が距離を縮めてきていた。
――まだ追いつかれるな。
わかっているとも。だが速い。いや、私が遅いのか。私は運動不足の上に革靴。自分の腹についた脂肪に憎悪にも似た嫌悪感を抱く。
それにしてもあの男は一体。通り魔だろうか。以前、若者に仕掛けられたようなイタズラ、ドッキリである可能性は……ないな。どちらにせよ止まりたくはない。
――そこだ。
だが、私の思いは容易く踏みにじられた。顔に感じる痛み。男が私に何かをしたわけではない。足が縺れ、転んだのだ。
――振り返るんだ。
息を切らしながらその場で振り返ると背後に男が立っていた。
振り上げた刀が光に反射する。
下半身に感じる不快感。
ああ……私は漏らしたのだ。
だが恥も何もない。命乞いだって何でもする。助かるならば。
しかし言葉が出てこない。
喉が熱い。
ああ、泣いてもいたのだ。
だが何か言わねば
――何も言わなくていい。
良いわけがないだろう。
何なんださっきも、この声は、私を、あ……。
男が刀を振り下ろ――
「カット!」
……その声の後、拍手が起きた。そして私の周りに駆け寄ってきた人、人、人。
彼らは……。
「いやーすごい! 圧倒されちゃいましたよ!」
「天才! 天才!」
「さすが憑依型俳優ですね!」
「髪の毛どうやったんですか?」
「迫真の演技でした! お疲れ様っす!」
「え、臭い」
寝起きのようにじんわりと頭がはっきりしてきた。
以前、若者に仕掛けられ、無断でネット上に公開されたあのドッキリ映像が俳優事務所の社長の目に留まり、私はスカウトされたのだった。
そして、天才だと持ち上げられ、あれよあれよという間にここまで来てしまった。
――椅子に座れ。
私は椅子に座り、大きく息を吐いた。横の小さいテーブルにメイク道具と共に置かれていた手鏡を手に取る。
次は斬られるシーンらしい。着々と準備が進められている。
ああ、どうなってしまうのか。なんとか断れないものか。
――断る必要なんてない。
鏡に映る、先程よりも白くなった髪を撫でるとその下の脳の中で先程、誰かが言った憑依という言葉が浮かんだが、なぜか何をどうしようという気が起きなかった。
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