鼻毛の悪魔と天使様

 洒落たレストランに食事にきた男女のカップル。マッチングアプリで出会い、彼らが正式に付き合いだしたのはつい先週。このデートを機に彼女との距離を縮めたいと思っている男だが、ある異変に気づいた。


 鼻が……ムズムズする。


 静かに鼻をすすってみるものの鼻につく不快感は取れない。男は彼女との会話をこなしつつ、更に神経を鼻に集中させる。


 ……間違いない。この感じ、鼻毛だ! 絶対に鼻毛が出ている!


 男は信じたくなかった。大事なデートのために身なりを完璧に整えたはずなのに、こともあろうか鼻毛が出ているのを見過ごすなんて己の愚行を。


 待てよ、もしかしたらデート中に鼻から飛び出したのかも知れない。そう自己嫌悪に……いや、今は鼻毛がいつ出たかなんてことは重要ではない。問題はこいつをどうやって処理するかだ。彼女に気づかれないように上手く鼻の中に押し戻すことはできないだろうか?

 ……と、待てよ。彼女は俺の鼻毛の件にすでに気がついているのだろうか?

 もしくは疑いを持ってはいないだろうか? だとしたら押し戻そうと目の前で鼻を弄るなんて滑稽な真似……。


 ……大丈夫だ。彼女の視線に不自然さはない。緊張しているのか多少落ち着きはないが俺の冗談を快く笑ってくれている。

 もし彼女に気づかれたら事だ。髭を剃り、髪を整え白のシャツにジャケットを着て大人な男を演出してきたのに、鼻毛に気付かれてはイメージが総崩れ、台無しだ。


「どうかしました? お顔が強張って……」


「え、い、いえ……美人と一緒だから緊張してるのかなぁ」


「またまたぁ、誉め上手ですねっ」


 ふぅー、何とか誤魔化せた。それにしてもなんて可愛らしい女性なのだろうか。少し天然が入っているようだがそこがまた良い。しかし、俺の行動ひとつで鼻毛のことを気づかれかねない。気をつけねば……。


 冷静に考えよう。トイレに行って鼻毛を豪快に抜き取るのが常套手段だが、それは使えない。何故なら、ついさっきトイレに行くと言って席を立ったからだ。そう何度もトイレに行っては、気分が悪いのか、などと余計な心配をさせてしまう。それだけならまだマシだが腹を下したなんて思われたらカッコよくない。

 ……いっそ自分から暴露してみるのはどうだろう。ギャグっぽく、面白くて正直、純粋な人と、むしろ好印象かもしれない。


「あ、あの」


「は、はい」


「ボク、鼻毛出ちゃったよ~ウィィィィ! イヤッフウゥゥゥゥ!」



 ……駄目だ。とてもそんなこと言えるはずがない。これまで積み重ねたクールなイメージを手放すのが惜しい、惜しすぎる。それにまだそこまで距離が縮まっていないのだ。ただただ引かせるだけ。

 しかし、こう考えている間に彼女が俺の鼻の中の黒い悪魔に気づくかもしれない。早急に手を打たねば。しかしどうする……。


「私、ちょっと御手洗いに行ってきます」


「えっ」


「えっ?」


「いや、どうぞどうぞ。はははははは……」

 

 神はいたのだ。これぞ天啓。そう、神は俺の鼻の中に巣食う悪魔を滅せよとそう仰られているのだ。さて、そうと決まれば……。

 男は鼻の右の穴に指を突っ込み一気に鼻毛を引き抜いた。痛みが神経を伝い、目を刺激し、瞳から滴が一つ溢れた。

 これは嬉し涙である。そしてその滴が落ちた先。指に乗った六本の鼻毛が男を見上げている。


 どれが飛び出していたのかはわからないが確実にこの中に含まれているだろう。もう俺に恐れるものはない。

 男はフッと笑い、その息で鼻毛を床に払った。


 数分後、女が戻ってきた。鼻毛を悪魔と例えるなら彼女は天使だろう。愛らしく心を癒してくれる。男はそう思い、綻んだ顔で女を出迎える。


「ただいまもどりましたぁ」


「ああ、おかえ……」


 あ、悪夢だ……。


 男は言葉に詰まった。戻ってきた女の鼻から、黒い悪魔がひょっこりと顔を覗かせていた。

 

 口をパクパクさせる男。それを不思議そうな顔で見る彼女。男はハッと我に返り、取り繕うようにグラスの水に手を伸ばした。


「ちょ、どうしたんですか!? 急にお水を……」


「ぷはぁ、いやー美人を前にゴホッゲホッ喉乾いちゃってゲホッ!」


「もー、でもふふふふ、咽るくらいふふふ一気にあはははっ!」


「いやーはははは!」


 女が笑ってくれたことに男は一先ずホッとした。が、すぐに現実に返った。女の鼻の中でゆらゆらと悪魔が踊っている。余りに堂々としているので寄生虫かと思ったほど。

 しかし、男は気づき、思った。あんなに出ているということは抜けている? じゃあ、ちょっと鼻から息を出すだけで飛ばせるんじゃないか? と。


「むふっー! ふーっ! ふーっ!」


「ふふふははは! 今度は急になにー? あはははは!」


「君もふっー! やってごらんよ! むふっー!

鼻から息を出すんだ! むふふっー! 最近話題の健康法だよむふっー!」


 大笑いする女。一方の男は我ながら機転が利くと自らを褒め称えた。その有様はクールとは程遠いことにまるで気づいていない。


「さあさあ! 一緒に! むふっー!」


「あははは! わかりましたからあはははは! その顔ふふふふふ!

ひひひひっ! むふっー! こうですね! むふっー!」


「いいぞ! さあもっともっとむふっー!」


「はい! むふっー!」


 ……いいぞ! よし! 飛んだ!


 あ。




「ふふふふっ怒られちゃいましたね」


「ああ、まさか退店を求められるとはね……」


「大騒ぎしちゃいましたもんねははははははっ!」


「いやぁ、まったく、著しい迷惑行為を確認しましたのでって

ちょっと騒いだだけなのに固い事をねぇふふふはははは!」


 二人は笑い合い、並んで夜道を歩いた。

 女が男の腕に自分の腕を絡める。

 男は結果、良い雰囲気になったことに安心し、まあこれで良かったんだ、と自分を納得させ、また笑った。


 故に気づかなかった。女の鼻の下の白い天使の翼に。

 そしてそれはたった今、女に拭われもう確認できなくなったことにも。更に、女がボソッと呟いたことにも男は気づけなかった。


 クスリ、また切れてきちゃった……。

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