君を認めてくれるもの

久河央理

第1話 the First part

 それを避ける道が思いつかなかった。少しでも変われるかもしれない。そんなほんの小さな気持ちだった。だが、知らない場所で慣れないことをしている。その感覚は鎌田雅実を縮こませるには十分すぎるものだった。


 アメリカのロサンゼルスにある語学学校。いざ授業が始まるという初日に緊張状態でクラスルームへ入った。


「おはよう、新しい生徒!」


 温かみのある室内に入った途端、これまでの人生ではなかった光景が瞳に飛び込む。講師用座席で担任が朝食を楽しんでいたのだ。


「お、おはようございます……」


 見知らぬ街で知り合いもいない。街を通り過ぎる全てが彼女にとって未知である。言語も常識も何もかも違い、まるで世界が丸ごと違っているかのような感覚だ。


 端の方に席を確保した雅実は、筆箱とエコバッグくらいしか入っていないリュックサックを正面に抱え込む。見慣れぬ顔立ちの人が次々と入室してくるのを見ながら、場違い感に頭を悩ませていた。


「よし、まずは自己紹介だ」


 予鈴を合図に、講師の呼びかけによって自己紹介が始まる。名前、国籍、趣味、そして留学の目的――これらを順々に発表するものだ。


 雅実は元々、自己紹介というものが得意ではない。何より自身で説明することで注目を浴びるのが嫌だった。おそらくそれで就職活動も失敗した。


「次はマサミ!」


「えっと私の名前はマサミ・カマタ。出身は日本。趣味は読書。えー留学の目的は、んー、旅行をもっと楽しみたい……から」


 注目されているのはやはり怖かった。日本語でも上手く言えないのに、英語なら尚更だ。そもそも文章になっているかさえ自信がない。


 その日は誰とも連絡先を交換できないまま、不安の涙を必死に留めて学生寮へのバスに乗ろう――として、バス停が分からず涙を浮かべて学校に戻り、同じ寮の人に助けを求める。何もかもが怖く、不安で押し潰されそうだった。


 今までに行った他国は、家族同伴で一週間前後しか滞在しない海外旅行だけだ。此度とは全く異なる。雅実の留学期間は三ヶ月で、それなりに生活をしていかなければならない。


 なんとか奮い立たせてスーパーで水とパンを買い、それからは夜まで部屋に引きこもった。二人部屋で当然ルームメイトもいるが、彼女はよく買い物に行くため不在なことが多い。今の雅実には都合がいいが、留学生という面ではよろしくない。


 他の留学生と積極的に英語で話すべき。それは雅実にも分かっているのだが、どうにも上手く環境に入れない。


「どうしようかな」


 日本から持参したカップ麺で夕食を済ませ、英語の復習も終わってしまった。日本とは違い、見たいテレビ番組があるわけではない。そもそも共用リビングでテレビを占領する気にさえなれず、まずリモコンに触れることが難しい。だからといって、ゲームばかりしていても仕方がない。


 雅実は早く寝ることにした。すると、流れるように早起きが叶う。こんなに健康的な生活は何年振りだろう、日本ではできない。


 緩やかに朝食を済ませ、ぐだぐだとしていたらルームメイトが起床してくる。彼女の支度を待って、ともに家を出た。


 学校に着き、ユーモアに溢れた先生と明るいクラスメイトを思い出しながら、教室に入る。しかしながら、本当に自分がいていいのかという申し訳なさは拭えない。


「ねえ、マサミ。明日、海に行かない?」


 珍しく予定のないらしいルームメイトがそう話しかけてきた。彼女なりに雅実のことを気にかけてくれたようである。


「い、行きたい!」


 そういえば、海が近いことも理由にこの学校を選んだのだった。忘れていたことを思い出し、パッと気分を明るくする。


 日本にもある見慣れたハンバーガー店で昼食を購入し、海沿いの遊園地へ向かった。風はカラッとしており、磯の匂いもあまりなく爽やかだ。雰囲気が異なっても海は落ち着く。


「あのさ、レンタサイクルで隣のビーチに行かない? 私、あそこ好きなの」


「い、行ってみたい」


 初めてオンラインでのレンタサイクル制度を使って、自転車を借りてみる。


 この日、雅実は失敗した。使用後に鍵を掛け損ねて決済が完了しなかったのだ。スマートフォンをSIMフリーにしていなかったことやWi-Fiを借りていなかったことが原因だった。電波受信ができずに、気づいた時には何倍もの料金が請求されてしまったのである。その自転車を、次の誰かが使う前に発見できた奇跡だけが小さな救いだった。


「どど、どうしよう。本当にごめんなさい!」


『身に何か起こったわけじゃないだろ? これも経験だ、そのための投資だと思っておきなさい』


 あまりの焦りで帰宅早々に両親へ電話をする。朝一番に大慌ての連絡をして驚かせてしまったが、父親の言葉に落ち着きを取り戻す。騒動に巻き込んでしまったルームメイトに改めて謝罪し、自室に戻って一人反省会を始めた。


「私は何もしない方がいい。どうせ迷惑かけるだけだ。もうほんと、やだ……」


 心の底ではそう思いたくない。だが、他人の邪魔になるかもしれないという可能性は、新しいことへ踏み出す勇気の邪魔になっていた。

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