Believe in Yourself

久河央理

第1話

 由比ヶ浜の海。波音だけが金曜日の夜に響き渡る。

 いくら観光地であれども、バイト終わりの時間――バスの終電が終わる時間にもなれば、人通りはほとんどない。


「ダメだなぁ、俺」


 原田蒼介はスーツ姿で浜辺に座り、無心に水平線を見つめる。月が明かりを落とし、海面に光の道が出来ていた。

 潮の香りさえほとんどしない乾いた空気が漂う。それがぽっかりとした胸に冷たく染み渡る気がして、膝をぐっと抱き寄せた。


「はぁー」


 自分のことを冴えないとは思っていたが、こんなに悩むとは思わなかった。せっかくやる気を出して頑張っていたはずなのに、どうして気持ちが引っ張られるのだろう。


「何か気にしてるの、蒼ちゃん?」


「っふぇっ」


 背後から予想外の声に話しかけられ、蒼介は変な声を出してしまった。全く気がつかなかったため、完全なる不意打ちだった。


「ふふ、変な声ー」


「な、なんでいるんだよ、桜子!」


 振り返った先、視界に入ったのは蒼介のよく知る顔だった。衝撃にずれた眼鏡を戻すが、見間違えでも何でもない。車のライトや街頭は、狂い無く彼女の顔を照らしている。


 萩野桜子。幼稚園時代からの幼馴染みで、お互いの好みを知り尽くしたオタク友達。

 小学校から大学まで同じ学校に通うことがなかったにも関わらず、習い事が同じだったりバイト先が同じだったりと妙な縁で繋がってきた。

 桜子は去年度に無事就職し、今年で社会人二年目になる。そんな彼女が何故、夜の由比ヶ浜海岸に姿を見せたのだろうか。お互い、家の方向とはまるで違うのに。


「たまたまだよ。今日は遅くなっちゃったから、たまにはゆっくり歩いて帰ろうかなーと思って。そしたら、駅前で蒼介の姿を見かけたのさ」


「……その割には、話しかけるまでに時間なかったか?」


 蒼介の疑問に対して桜子が首を傾げると、ポニーテールにしたストレートの長い黒髪が揺れた。静かに爽やかな風が通り、面白みのない蒼介の短髪もさらりと靡く。


「うーん……だって、話しかけづらかったんだもん。落ち込んでるみたいで、歩くのだっていつもより早かったし……。あ、こんな夜に走りたくなかったというのもあるかも?」


「お、おう」


「あと、大声出したくなかった……かな」


「結構多いのな。わざわざごめん」


「ううん、いいの。私がそうしたかっただけだから」


 スーツに砂がついてしまうことなどお構いなしの様子で、桜子はそのまま腰を下ろした。改めて隣から蒼介を見つめ、その距離をすっと縮める。


「それで、今日は随分と元気ないね。私でよければいつでも聞くよ?」


 聞き慣れた声に、蒼介の頬は自然と綻んだ。

 さざなみの音が二人を包む。蒼介は星空を見上げ、ぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。


「俺さ、不安なんだよ。大学を卒業してから夢を追いかけていることが。変だよな、しっかり決意したはずなのに」


 桜子が「うん」と相槌を打つ。ここにいるよ、と告げてくれるようで心地がいい。


「夢を諦めてはないんだ。ただ、ついつい考えてしまって……」


「うん」


「むしろ、心は喜んで追いかけている」


「うん」


「それでもさ、やっぱり自信が持てない時があるんだ。俺は大学を卒業して、とっくに成人だってしてる。同級生はもうみんな立派に社会人していて……専門学校でも周りを見れば、もっと若い子達だっていて……本当にすごい。俺じゃ、そんな早くに決断できなかった。いろいろ寄り道をしてしまったなぁって」


 ハハッと乾いた笑いを漏らす蒼介。だが、桜子は笑わなかった。

 座る位置を少しだけずらして、身体の向きを蒼介の方に向ける。まっすぐに見つめながら、その顔に柔らかな笑みを浮かべた。


「私が言っても励みにならないかもしれないけど、蒼介はかっこいいと思うよ」


「……ありがとう」


「あっ、お世辞じゃないよ。だから、私は何度だって言う。蒼介はかっこいい! 蒼介は輝いてる! ってね」


「ほんとに?」


「もちろん。信じてよー」


 困り眉で桜子は浜辺を蹴った。伸びをするように空を仰いで、遙か彼方へも届くように声を投げかけていく。


「確かに、若いほうが注目されやすいかもしれない。それをすごいって感じるのは当然のことだよ。だけどね、大学を出てからも夢を追いかけてる蒼介だって、十分すごいと思うんだ」


 一度違う道に行って、それでも叶えたい夢があって、それまでの道から夢へと舵を切った。その選択はそれだけでエネルギーがある。


 自分だったら、単純に無理だろうと頭で考えてしまうから。手を伸ばす勇気を持てなかったから――。


「夢に向かって積極的に攻めて、毎週課題をこなして……そこは困難な道だと思う。だからこそ、突き進んでいこうとする蒼介はかっこいい」


 最高の承認に蒼介は胸の高鳴りを感じた。

 しかしながら、不安というのはそう簡単になくなるものではない。じんわりと滲み出てくるそれを、耐えきれずに吐き出していく。


「でもさ……中途半端じゃないか? 勉強もバイトも両立って、すごく半端なことしてる」


 夢が叶えば、金銭は入ってくるかもしれない。けれど今、そこに全部を賭けることはできなかった。

 上に向かって手を伸ばしているつもりだけど、本当にまっすぐ上を向けているか分からない。どうしようもなく臆病で、不安で、とても怖い。


「それって本当に『中途半端』なのかな?」


「え?」


「どっちも頑張ってる? それとも、どっちも頑張ってない?」


「が、頑張っているつもりだよ。金は稼がなきゃいけないし、夢だって叶えたいから手を抜いているつもりはない」


「ふふっ。なら、それが答えだよ」


「……欲張りじゃないかな?」


「むしろ、欲張りでいいじゃん。夢を追いかけてるんだし」


 サムズアップをしながら少し照れた様子で微笑む。釣られて、蒼介の頬もまた綻んだ。


  **


 ふと思い立ったように、桜子が立ち上がった。静かに、一歩二歩と進んで風を浴びる。


「ねえ、蒼介。社会人って何だろう?」


「社会人? なん、だろう……」


「出て、こないよね。ごめん、なんでもないの」


「何かあったのか?」


「あっ、いやー、ちょっとね。ちょっとだけ」


 はたから見れば、それ以上続けてくれるなと言いたげなシルエットだろうが、蒼介には分かっていた。


「今度は桜子の番だ。話してみろよ」


「幻滅しない?」


「げ、幻滅? 分かんないけど、しないと思うよ」


 困った顔を浮かべながら、桜子は再び蒼介の隣にちょこんと座る。水平線を見つめながら、桜子は口を開いた。


「私、過呼吸になっちゃったの、それも仕事中に……。トラブルが起きた時、同期の子と揉めちゃって、そこで。もともと、タイプ的に噛み合わないみたいなんだけど、ここまでぶつかったのは初めてだった」


 蒼介は黙ったまま息を呑んだ。


 ――今日は遅くなっちゃったから。たまにはゆっくり歩いて帰ろうかなーと思って。

 そう聞いて、てっきり残業でもしていたのかと思っていた。が、そうではないのかもしれないと気づいて、もう一度息を呑む。

 声まで飲み込んでしまって、上手く言葉にならなかった。


「嫌になっちゃうよね、逃げてるみたいで。相手の子に迷惑かけちゃったし。まあ、仕事できない私が悪いのだけど」


「……っ、やめろ。それはダメだ!」


 荒ぶった蒼介に、桜子は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。それでも蒼介は続けた。


「私が悪い、なんて言うな。いいんだよ、正当化しなくて。愚痴でも何でもいいから、思ってることを話してみろ」


「え、えっと、頭がぐちゃぐちゃで、どんなに考えてもまとまらなくて……だから――」


「まとめてから話すんじゃ意味がない。話してまとまっていくんだ」


「でも……」


 渋る桜子に、蒼介は頭をフル回転させた。どの方向性からいけば、彼女を納得させられるか。それを探るべく思考の海に潜る。


 いつでもどこでも何をしていても、他者に気を配れる、いや、配ってしまうほど心優しい桜子は愚痴などなかなか零さない。


「んーと……過呼吸って刺激によってだろ?」


「あとは運動した時とか、心臓がバクバクした時とか。今回はなんだろうね、運動してるってセンサーが勘違いしちゃったのかな?」


「それは違うんじゃないか?」


「違うって?」


「心が辛くて、それを頭が気づいてない代わりだろ。目を逸らしてれば、気づかないでいられる。でも、心は気づいて欲しいから身体から訴えている。そうなんじゃないのか? それを無視してさらに追い込んでしまったら、それこそセンサーがバグっちまうよ」


「……そっか、センサーはちゃんと仕事してたんだ」


「ああ、だから気づいてやらなきゃ。自分のことは自分が一番大切にしないとな……って、それは俺もか」


「あははっ、じゃあお互いにチェックしよっか」


「いいぞ、俺はもともと逃避が上手い方だ。まあ今回は、向き合った結果として躓いたわけだけど」


「いいことだね?」


「そういうことにしておこう」


 現実を思い出してスマホを確認すると、日付が変わるまであと半時間というほどに迫っていた。


「帰ろう、桜子。送るよ」


「ありがとう、蒼ちゃん」


 砂浜から腰を上げ、それぞれスーツから砂を払い落とす。それから、材木座方面へと海岸を歩き出した。

 足場は多少悪いものの、それはあまり気にならない。


 白々と月を映し出す海面。ひとけのない夜の砂浜。波の音だけが空気に響く海岸。これが映画であるならば、今宵は最高のロケーションだろう。一般の男女が歩くには、少しもったいない気がするまである。


「実はね、もう一個あったんだ。話しかけづらかった理由」


「なんだよ?」


「脇目を振らずに歩いてる様子がね、まるで、傷心して恋人の胸にでも飛び込むような感じがして――もし本当に大切な人がいたら、邪魔しちゃいけないなぁって」


「そんなの……いるわけないだろ、俺に」


「分かんないじゃん。よく知ってるでしょ? 男性向けラノベは幼馴染みの勝率が低いんだよ?」


「桜子だってよく知ってるだろ? 少女漫画なら幼馴染みが勝つ」


「……確かに」


「そもそも、これはそのどっちでもないだろ。現実なんだから」


「でも、ドラマのワンシーンっぽいよ?」


 大いに同感だ、と言いかけて蒼介は言葉を一度仕舞った。こういうときに最も似合う、今じゃないと言えないような台詞があるはずだと心が感じている。


「月が綺麗だな。って、こういうときに言うのかな」


 桜子は何も言わない。ただそっと、彼のジャケットの裾を掴んでいた。



  終

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