羅刹燃ゆ
羅刹燃ゆ
一
和賀藩は、大都市である
擁する一地方藩であった。
鉱業の成功により経済力を増し、周辺の取り潰された藩民の受け入れを頻繁に
行う事により、緩やかな拡大政策を執っている。
採掘技術と経済に通じた藩主、
藩庁のある
新興都市である御処の西のはずれ、古刹の集まる地区に和賀藩立の中高一貫の
手習い所があった。名を、
かつての城址を利用した広大な土地の学園の一角、編入した学徒達が集められ
寮生活の手引きが行われている。
「君、制服の前を閉じなさい。」
「はあ。小さくて閉じられんのです。」
濃紺の詰襟服の前を開け放ち、腕をまくった悪兵衛がのんびりした調子で
教師に言った。
「制服の寸法があっておらんではないか。」
神経質そうな痩せぎすな眼鏡の教員が悪兵衛の制服の前を閉じようとするが、
大きく発達した胸筋のせいで、前衿がまったく届かない。
「腕はどうしたのかね?」
「袖を通した時に
「…支給された物が寸違えだったか。新たに交換するまでそれでいなさい。」
十名程の学徒が、火鉢の置かれた小教室で教師の説明を聞いている最中である。
「おい、不良。木刀はないのか。」
細身の制服が似合う一圓が悪兵衛の背後から声をかけた。
「他の連中の目が痛いよ。」
一圓の隣にかけた一真が笑いながら小声で話す。
「お前ら、俺は一年上だぞ。播磨くんといえ。」
悪兵衛の言に、兄弟は口を抑えて笑っている。
「そこの早騨宿組三名。私語は控えなさい。」
学期の途中ではあったが、事情があり転入が決まった者達が、午前中に教員から教室の振り分け、寮生活の規則と学園に関しての説明を受けた。
壊滅した早騨宿からの転入の悪兵衛と橘川兄弟の三名、
山間の過疎村の統廃合された手習い所から三名、
他藩からの編入が四名で、それぞれ男女学年共にばらばらであった。
昼食時になり、それぞれが集まって弁当をとっている。
悪兵衛は薄色の沢庵をばりばりと音をたて、塩味の大きな握り飯にかぶりついた。
雀拳で負けた一圓が鉄瓶から白湯を湯呑に注いでいる。
「早騨宿って戦争あったんだろう?」
編入組の目敏い男子が声を掛ける。
「うん。我らは大番役だったから里にはいなかったんだけど。」
一真が如才無く答える。
「じゃあ、本閥の侍も弥者も見てないのか。」
「避難勧告で帰れなかったからね。」
「狗族と弥者が百以上で、不知火と玄嶽合わせて二〇人で皆殺しにしたそうな。」
「弥者の総大将が現れたけど、不知火の侍一人に撃退されたとか。」
小教室は早騨宿の噂でざわついている。
悪兵衛は満足そうに握り飯を二つ腹に納め、白湯を飲む。橘川兄弟は沢庵だけの
弁当に途中で箸を止めていた。
「香田君は本閥選を受けるんだ。いまに侍になるよ。」
先程の声を掛けた小柄な者が奥に座る体格の良い落ち着いた学徒を指した。
「よせ、岡島。」
「全国剣術会で三位だ。今期にでも本閥入り間違いなしだよ。」
「香田君は今何年生?」
「三年だ。」
統廃合組の女子が興味を持って声を掛ける。さらにいま一人も身を乗り出す。
「もう本閥選は受けたんですか?」
「一年次に一度受けたのだが、落ちた。厳しかったよ。」
「全国三位でも厳しいんだ。」
教室にため息が溢れる。
「播磨だっけ。同じ二年。
白湯をすする悪兵衛に健康的な浅黒い肌の女子が声をかけてくる。
肩までの短髪、よく動く黒目がちな表情が印象的であった。
まじまじと悪兵衛の顔を見つめている。
「播磨悪兵衛でござる。」
「何か武道してるの? すごい身体してるね。」
悪兵衛は答えず、弁当箱を片付け、風呂敷で包む。
「悪兵衛。部活動はどこに入るんだ。強制らしいぞ。」
一圓が部の一覧の書付をひらひらとさせながら言った。一真も紙を受け取り、
興味深く読み込んでいる。
「書道部。」
「何、書道? 」
「こりゃいいや。悪兵衛は字が下手だからな。」
双子は大笑いしている。
「お前達は剣術部だな。」
「剣術? それは勘弁だよ。」
「一真の論法でいけば、だ。」
「ま、入ってみるか。」
一圓がにやにやと笑いながら言った。
学徒らしい騒めきが続く中、校舎外には雪がうず高くつもり、
灰色の空は薄青い山々、庭園を白く染めていく。
学園中央に黒々とした塔がそびえ立っている。
元は天守閣であったが、きらびやかな飾りは全て撤去され、
今は立ち上がった魔物の様な威容であった。
二
不知火屯所、作議の間。伊庭辰之進と織田刑部、風祭玲が、
畦倉士道と伊駒玄真に内偵命令、その作戦行動を指示する。
二名が退去した後、伊庭は障子を開け放ち庭を見渡す。
吐く息が白い。
「和賀藩、予篠学園。」
伊庭がひとりごちた。
「作戦行動は伺いましたが、幕僚直轄の指令ではないとか。」
風祭が伊庭に向き直る。
「うむ。月光からの報告で単独での内偵に踏み切った。」
「詳細を拝見しましたが、危険な任務と思われます。特に新卒の……。」
「章雪自ら調査と経験を積ませるべきと具申したのでな。」
刑部が懐手で眼をつぶり、灰音の言を思い出しながら言った。
「何か、期する物があるように思えた。任せる。」
伊庭の言葉に二名は頭を下げた。
*
灰音章雪は元、早騨宿詰めの官僚として和賀藩に編入、勘定所にて小普請世話役
として職務を与えられている。また、悪兵衛、橘川兄弟の後見人という立場で
あった。午後の仕事を早めに切り上げ、転居の作業の名目で職場を後にする。
粉雪が舞い落ちる中、かすかになびく長髪に薄紫の瀟洒な長着に袴姿は、どこか浮世離れした雰囲気を持っている。
掘回りを歩んでいると、編み笠に外套姿の男が灰音の後にぴたりと
黒く沈み込むような色の堀と、雪の積もる城壁跡の石壁を眺めながら
東屋のもと、立ち止まった。
「灰音章雪中佐。」
編笠の男が半歩下がって声を掛ける。
「はい。そちらは。」
「月光、卍組。朧丸。」
編笠をあげると、意外な程若い男の表情に灰音は一瞬見入るが、また視線を
城壁に戻す。
「どこまで進んでいますか。」
「転入した者達の足取りを追っております。」
「…予篠学園。この管理側の人間の調査をお願いします。」
一瞬で朧丸はその気配を消し、姿も見えなくなった。
灰音は見回した後に苦笑し、雪の石畳を歩み始める。
午後の授業の後、転入組は再び小教室に集められる。部活動の説明会が
行われる為であった。
「播磨、本当に書道部に入るつもりなの?」
隣に座り込んだ冬麻が、悪兵衛の腕を握る。袖が破けそうな程張りつめ、体型の
割に太い二の腕を感じて、目を丸くして笑っている。
「うむ。一から書を鍛えて頂こうと思っている。」
容姿に反してのんびりとした悪兵衛の受け答えがおかしくて仕方がない、という
ような表情でのぞき込む。
その背後に橘川兄弟が座り、小声で言葉を交わす。二人は一年次の三つある組
のうち、別々に振り分けられた。
「どうだった?」
「うん。寮に戻ってから悪兵衛と。」
「俺も話す事がある。」
悪兵衛に比べると二人の表情はやや優れない。
やがて部の紹介と勧誘に学徒が入れ替わりで訪れ、それぞれの説明を始めた。
皆事務的に語り、特段声を張り上げたり、笑いを誘うような事はしない。
武道系は活動にやや力を入れている印象で、それなりに対抗戦や全国大会等への
参加の抱負を語る。粛々と会は進んでいった。
「冬麻殿、あの違う色の制服の者は?」
悪兵衛が小声で冬麻に語り掛ける。部団の統率者と思わしき者は、悪兵衛達や
一般の学徒の濃紺の制服とは違い、蘇芳に染め上げた黒衿の詰襟である。
「ああ、私も気になったんだけど、あれは学業、武道優秀なひとだけが
着る制服だって。部団の長や副長は皆あの服みたい。」
赤の詰襟の者が部員に目くばせをし、指示を与えている印象である。
在籍部員数が最も多く、活動が盛んな剣術部の説明が終わった。
「入部希望しているのだが、部の規模と設備の割に、全国大会での成績は思わしく
ないようだが。」
黙って説明を聞いていた香田がするどく声をあげた。編入組の学徒達はざわめくが、
剣術部員たちはその言に一顧だにしていない。
「
蘇芳服の者が無表情に言い放ち、剣術部員達は静かに退場した。
「香田君の成績を知って、皆恐れているんだろう。立ち合いもできないのさ。」
「よせ、岡島。」
香田が苦笑しつつ岡島をたしなめている。が、悪い気はしていないようだった。
悪兵衛はそのやりとりを聞きながら、入部希望の書付の中、書道部に丸を
書き記した。
*
剣術部を志望した橘川兄弟、香田行信、岡島徒八郎の四名は武道場の見学と
諸施設の使い方のきまり、部活動の時間帯等説明を受け、軽い素振りに参加した。
三年の香田と岡島は活動の終了と共に武道場を去ったが、一年の橘川兄弟は
他の同学年の者達と共に掃除を任される。元天守閣の二階部分が広大な道場として
使用され、拭き掃除は長時間にわたった。
道場の隅で二人はへたり込み、動けなくなってしまう。
肩で息をしている双子に、監督生が退去して良いと無表情に声をかけた。
詰襟に着替えた二人は武道場を後にし、本学舎へとつながる渡り廊下を歩む。
汗一つ書いていない紅顔には、武道場での疲弊はまったく無い。
実際疲れたというのは擬態であった。掃除の嫌いな双子のもっぱらのやり口である。
渡り廊下の右手は弓道場が隣接し、弓を引く学徒達の後ろ姿が並んでいる。
二人は一瞥もせず、通り過ぎようとした。
「橘川君。」
純白の上衣に紺袴、黒の胸当ての凛々しい姿の女子が射場から渡り廊下に
上がってくる。黒髪をまとめ、目つきの鋭い上背のある少女であった。
「俺?こいつ?」
「二人共。」
「一圓、転入組で俺と同じ組み分けになった者だ。名は…うーん」
「澤居今日子。橘川って、
逸鏑流弓術は、古くから存在する流派のうち、三大名家の一つと呼ばれる。
形骸化しつつある他の流派と違い、今も実践に重きを置く厳格な武門として広く
知られている。
「同じかどうか知らぬけど、関係はない。」
一圓が素知らぬ顔で言い放った。一真は笑いを堪えている。
「嘘。一真君の手。」
「手?」
二人はまったく同じ動作で掌を見つめる。左手の中心、天紋筋と呼ばれる皺あたり、
小指の中程が白く硬化している。何度も
ほの赤いてのひらで目立っている。
「弓取りの掌。どうして弓術しないの?」
「これは剣でできたものだよ。」
一真が苦笑しながら視線を外した。
「あと釣りな。いこうぜ一真。」
一圓がにべもない言を残して歩き去り、一真も続く。
二人の後ろ姿を澤居がじっと見つめている。
三
学園の食堂、静粛な中にかすかに食器の音が鳴る。
大広間に学徒が思い思いに座り、食事を摂る。一番奥にやや賑やかな話し声で
固まっている一団は、香田と岡島と中心とする転入組の六名程であった。
悪兵衛と橘川兄弟は、給仕所で角盆に食器を並べてもらい、席につく。
悪兵衛が腹を鳴らし続け、笑いながら三人は手を合わせて食事を始める。
「屯所で一人で食うのと同じ位静かだな。」
「うん。この感じは組の休み時間も同じだ。不気味な程だね。」
静まり返る広間を見回して、橘川兄弟は忌々しげに会話する。
一番奥側の固まっている転入組の馬鹿笑いがここまで聞こえてくる。
悪兵衛は飯釜に赴き、お代わりの麦飯をよそってもらった。
戻り際、隣席に華やかな女子学生達が座りこむのが見える。
冬麻、澤居、そして今一人。
「転入組の桐山優佳です。三年で、播磨さんと同じ書道部です。」
黒髪の豊かな、目じりがやや下がった優し気な顔つきの上級生であった。
明るく少年の様な雰囲気の冬麻と、凛々しい引き締まった澤居に比べると、
丸く、肉感的な体型で穏やかな話し方である。
「お、どうですか。奴は書道部では。」
一圓が好奇に溢れた顔つきで聞く。
「そうですね、男子が一人だけで後十人以上女子なので少し寂しいかも
しれませんね。」
女子に囲まれて、脂汗を流して書に取り組む悪兵衛の姿を想像し、一真は
くすくすと笑っている。
「播磨って書は達者なのですか?」
ぱくぱくと煮つけを口に運びながら、冬麻が声をあげた。
「ううん、元気は良いのですが。太い、鰻のような文字で。」
男女ともに笑いに包まれる。悪兵衛がばつの悪い顔で席に戻った。
「桐山先輩でしたか。部では世話になり申した。」
悪兵衛は頭をさげ、また黙々と食事をつづける。
「ここは、ずいぶん静かだね。」
「おしゃべりを注意されるわけじゃないみたいだけど。」
「そうですねえ。」
女子三人も異様な静けさの広間に、やや居心地の悪さを感じている。
自然と雑談も声を潜めたものになった。
「播磨、橘川兄弟。後見の方が面会にいらしている。」
食事を終えた頃、寮監より声がかかった。
「桐山先輩はかなり乳がでかい。」
「うん。あれは不便だ。」
「胸当てでも収まり切れまい。弓にはむかんな。」
「悪兵衛はどう思う。」
「俺は乳より尻が大きい人が好きだ。」
「ばか、そんな話はしていない。」
取り留めのない話に笑いながら、寮の入り口近く、面会の為の書間に
あがる。灰音章雪が微笑んで座していた。
「章さん。」
「灰音殿。」
「聞いてください。ここは何かおかしい。」
三人が一斉に話し始めたのを、頷きながら灰音は聞き入っている。
ひとしきり学園の印象や雰囲気を話した所で、灰音は懐から書付を
差し出した。
「明日以降の事を記しております。各々記憶した後、破棄してください。」
作戦指示書であった。
書間は障子が開け放たれており、他に面会の家族が二組、談話をしている。
聞かれているとは言い切れないが、灰音の警戒を感じた。
「こちらの町は、広く他藩の人間の流入を受け入れています。貴方達も含め。
労働者と学徒だけに留まらず、藩庁でさえ絶えず新規人員が採用されています。」
悪兵衛は作議の間で、刑部よりうけた説明を思い出す。
「長年の追跡調査により、特異な藩性がつまびらかになった。和賀藩は莫大な
経済力を背景に、優秀な人材を輩出し、幕僚内に出仕する者が多い。その一方で
鉱山事業、土地開発による事故による死傷、行方不明者が多発している。」
「そこに弥者の関わりがあるという事ですか。」
「報告を行っているのは潜入している月光からだ。公になった人死にと
行方不明者の数の実数が合っていない。恐らくだが、何らかの破常力による
隠蔽工作が行われている恐れがあるという事だ。しかもそれは和賀藩、藩庁絡みと
みられている。」
「お前たちは藩の人材育成の
探れ。今回に関してはそう簡単に結果がでるとは思えぬ。何期かにわけて内偵を
進める。」
「藩庁にて学園の事を色々と知りました。武道に力を入れているのは事実の
ようですね。」
灰音の言葉に悪兵衛は我に返った。
「部活動中に熱が入り、事故も発生しているようなのです。転入組の人員の
配置や管理をするのが小普請世話役という部署です。私は一日その内容を
追っていました。」
「ひと月に二名程、死亡事故が発生しています。また失踪事件も。」
灰音の言葉に各々顔を見合わせた。
「充分、活動には気を付けてください。またそのような事故が発生した場合、
詳しく聞かせてください。」
*
作戦指示書が、行燈の灯で燃えていく。
延びる炎が悪兵衛の黒目に映る。行燈を元に戻すと、渡り廊下に佇む橘川兄弟に
向かい合った。指示書には学園での生活規範と教師、他学徒の言動を記す事、
学園についての調査を聞き込みをしてはならない事等が記されていた。
「聞き込みをしてはならないというのはどういう事だ。」
「どこに間諜が潜んでいるかわからないって事じゃない。」
橘川兄弟の言に悪兵衛は黙り込む。
「お前達以外、全員敵という事もあるからだ、侍。」
廊下の外、整えられた庭先にいつのまにか黒い影がたたずんでいた。
「誰だ。」
一圓が鋭く誰何し、懐に手をいれる。一真も隠し持っていた打根と呼ばれる
小型の矢羽を構える。
「待て。大丈夫だ。陰足だ。」
悪兵衛の声と共に、黒装束に面頬を下した隠密が歩み寄る。
「朧丸。探りはどこまで進んでいる。」
「灰音中佐の指示があった。学園の管理者の周辺を調べている。」
「藩庁内部ではなく、か。」
「そうだ。我々には盲点であった。かなり、臭いな。」
「いずれ学園内で異変が起きる。それ故お前達の内偵が進められているのだ。」
「異変とは?」
「わからぬ。暫くはおとなしく生活している事だ。これは学園内の情報を
記してある。中佐に渡すよう言われた。読後、燃やせ。」
悪兵衛が書付を受け取り、暫し考え込む。
「何もせずに待つって事?」
「下手に動くなって事か。」
二人の言葉を聞き、悪兵衛は顔を上げて朧丸に問おうとする。が、すでに
人影もその気配も消失していた。
闇夜の中、渡り廊下の行燈が揺らめいている。
四
明くる日、午前中の授業を終えた学徒達は校庭に集められた。
演武台が設置され、松の紋様の校章のついた陣幕が張られている。
空には雲一つなく、輝く陽が校庭に残る雪を溶かしつつある。
予篠総会と呼ばれる全校集会が期に一度催される、本日はその日であった。
学徒は所属する部でまとまり、割り当てられた場に腰を下ろす。
剣術部の末席の橘川兄弟が、いち早く書道部、女子学徒の端で肩をすぼめている
悪兵衛をみつけ、笑いを堪えている。
演武台の正面に五つの床几が設われ、その周りを赤服の学徒達が直立不動の
姿勢で囲む。
教員達もすべて揃い全員が起立する中、鮮やかな紫の詰襟に身を包んだ一団が
現れた。
五名の紫の男女がそれぞれ床几に腰かける。
「あれが、武団会か。」
「そうみたいだ。」
一真が細かにその学徒達を観察する。朧丸からの学園の情報にあった、在校生の
自治の指導者達である。男子武道系、女子武道系、投擲武道系の総長と共に
会長、副会長で構成され、学徒の頂点の者達であるという。
「一圓、会長と副会長をみなよ。」
今紫の制帽と詰襟に身を包んだ学徒総会長は、細身の長身に白塗りの仮面、
詰襟の上に外套を羽織った副会長は総髪に黒の仮面であった。
(仮面。弥者のようだ。)
悪兵衛は向こう正面方向に座している学徒総会長を見つめる。
静かなその立ち居振る舞いに心がざわつく。仮面の黒い孔からはその瞳が
読み取れない。言いようのない不快感を感じ、視線を下した。
初老の校長の挨拶の後、教員から地方大会における部団の成績が発表され、
その部長達が壇上で表彰を受ける。精彩を欠く内容であったが、発表の度に
ぱらぱらと拍手が起きた。
次いで、武団を代表して剣術部の長と部員の計三名の赤服が壇上にあがり、
演武を披露する。構え、振り、戻る。東国風の優美な型が連続して行われていく。
「心揮流だな。」
「香田さん、わかりますか。」
「流れが悪い。踏み込みの修練が足りぬな。」
鷹揚に語る香田に、岡島が相づちを打つ。
脚を崩してぼんやりと眺めている一圓に、一真が袖を引いて書道部の一角を
指さした。陽の光のした、女子たちの末席の悪兵衛が居眠りをしている。
凡庸な演武が終わり、さざなみのような拍手と共に赤服達が礼をした。
「香田行信、三年。昨日剣術部の門を叩いた。」
香田が立ち上がり、割れるような大声で言い放った。
「剣術に力をいれ、全国大会での結果を残すためには現行の部長では心許ない。
自分が立つと共に、稽古の内容を変えていきたい。」
「ついてはこの場で部長に試合を所望する。勝負如何によってはこちらの要望を
通してもらいたい。」
転入組達の驚きの歓声が沸いた。
対して、在校生は水を打ったような静けさである。
「剣術部部長、村山一之進。お受けいたします。」
細面の赤服が抑揚のない声で答え、蹲踞の姿勢をとる。香田は肩をいからせ
ながら壇上に上がり、刀袋より木刀を取り出した。
転入組の者達が声援を送る中、試合が始まる。
香田は踏み込みと同時に鋭い振り下ろしを三度、四度と打ち込む。が、赤服は
のらりくらりと受け、躱し、距離をとる。焦れた香田が突きを狙った瞬間、
それまで見せなかった素早い剣で、香田の小手はしたたかに打ち付けられた。
右の手首が骨折している。
香田は腕を抑え、座り込む。勝負はついたかに見えた。
村山は上段に構え、座り込んだ香田の延髄にむかって無造作に振り下ろす。
その腕を悪兵衛が抑えた。
「何をする。死ぬぞ。」
初めて在校生達が騒めいた。異変を感じた悪兵衛は、破双で壇上に飛び上がり
「何だ貴様は。氏名と学年、所属を言え。」
身動きの取れない村山は、その膂力に驚きながらも表情を変えずに問う。
「播磨悪兵衛。二年、書道部。」
悪兵衛の低い声が流れた。決して大声ではない。が、腹の底に響く。
紫の詰襟の者達が一斉に立ち上がった。
白の仮面の総会長のみ、座したまま悪兵衛を見つめているように見える。
「貴様が仕合をするつもりか。ならば剣をとれ。」
怒りに震え、村山が腕を振りほどこうともがく。悪兵衛は無言で左の腕も
極め、背後に回って投げ上げた。両腕を決められた状態で中空に弧を描いて
放たれた村山は受け身も取れず、壇上から転げ落ちた。
悪兵衛が行ったのは、殺傷力を極力抑え、戦闘力を奪うために放り投げる型で
あった。
手首の激痛に唸る香田に肩を貸し、悪兵衛は壇上から降りようとする。
その時、全身を包む、怒りと憎悪の奔流を感じた。
紫の詰襟の者達、五名の武団会の学徒から、湧き上がる黒雲のような感情の
迸りを感じる。黒の仮面の副会長が、腰に差した木刀を抜き、壇上に上がろうと
する。それを総会長が無言で手をかざして止めた。
純白の絹手袋に包まれた手をさらにもう一振りし、ゆっくりと立ち上がって
退出する。武団会の他の者達も従い、後に続く。
最後に残った副会長が悪兵衛をその黒い孔から射る様に見つめている。やがて
香田を剣術部まで運び、学徒が群がる中、橘川兄弟と悪兵衛は共に騒然とする
会場から抜け出した。
「しばらく大人しくと言われたじゃないか。」
「ありゃ、書道部の組みつきだ。」
「ばか、人をぶん投げる書道部なんて聞いた事がない。」
笑っている一圓と呆れ顔の一真と連れ立ち、校舎近くまで裏道を戻る。
「目をつけられたな。」
「仕方がないか。悪兵衛が入らなければあの三年生は打ち殺されていた。」
「赤服の剣に迷いが無かった。今までもこんな事があったのかもしれない。」
「悪兵衛、どうした?」
考え込む悪兵衛の顔を一真がのぞき込んだ。
「壇上で今まで感じた事の無い怒りをぶつけられた。強烈な憎しみだ。」
「誰からだ。紫の連中か。」
「そうだ。……俺を知っている者達のように思える。」
「弥者なら売るほど恨みを買ってるぜ。」
「武団会がそうだっていうのかい?」
「わからん。が、奴らは恐らく早急に報復に出るだろう。一圓、一真、手伝え。
帰りにでもおびき寄せ、迎え撃つ。」
「よし。一番討った者の少ない奴が今夜の茶くみだ。」
「いいね。では授業終わりで玄関で待つよ。」
橘川兄弟はうきうきとした表情で校舎に入っていった。
悪兵衛はふと視線を感じ、天守閣を見上げる。
なぜか、あの白の仮面が見下ろしているように思えた。
五
「播磨、書道部は?」
授業を終え、学舎から寮へ続く木立を歩く悪兵衛に、冬麻が声を掛けた。
前を歩く橘川兄弟も振り向く。
「冬麻殿。あ、あの、筆をとりに。」
「筆忘れたの?」
からからと笑う冬麻に弓術部の澤居も連れ立っている。相変わらず厳しい
視線で橘川兄弟を睨んでいる。
広大な学園の一角、冬枯れた林を二つ抜けると学徒達の寮があり、学舎からは
天守閣を挟んで対角線上の位置にある。夕暮れ時で冷たい風が吹く林道には
他に人影は無かった。
「いま来られたらあの二人、巻き添えになるよ。」
「そうなったら仕方ないさ。怪我するだけだ。」
一圓は一真の耳打ちに答えると、悪兵衛と目くばせをした。
悪兵衛は左手の林道の先、堀を見つめたまま立ち止まる。
「冬麻殿、澤居殿、先にいかれよ。」
天守閣の堀口から赤服が率いる剣術部がこちらに向かってくるのが見える。
その数十二名。木刀をたずさえ、悪兵衛達を確認し小走りで接近する。
四名ずつ三方に別れた剣術部の学徒達は、悪兵衛達の前方、後方、堀への道に
立ち塞がった。冬麻と澤居を逃がすつもりはない構えである。
赤服の村山が一歩前に出た。
「二年、播磨。総会における壇上での狼藉、許しがたい。武団会の命により、
制裁を加える。」
悪兵衛は無言で弁当と教書を包んだ風呂敷を地に置き、草履を片方ずつ脱いだ。
橘川兄弟は懐手で嘲りの笑みを漏らしている。
「播磨と共にいる者、邪魔立てするなら同時に」
村井が言葉の途中で、うずくまった。足元には黒色の小指の先ほどの球体が落ち、
そこに血がぽたぽたと滴っている。
一圓が手元ではじいた
「同時になんだよ。」
言いながら次々に実を他の部員の眉間と鼻を狙って弾き討つ。激痛に顔を押さえ
て、三名がしゃがみ込む。
「林へ」
一真が女子達を背後に庇い、剣術部員のいない方向へいざなう。
「理不尽な襲撃だ。私も」
澤居が目を吊り上げて叫んだ。
「邪魔なんだ。」
一真の冷静な声に何も返せない。
懐から出した一寸程の打根を投げ打ちながら前に歩き出す。
堀側の四名が脚を押さえて悲鳴をあげた。それぞれ、一真が投げ打った矢羽が
足の甲を貫通し、地面に縫い付けられている。
顔を押さえてよろよろと立ち上がった赤服の足元から、獣のように突進した
悪兵衛が肩を突き上げ、上腕でしたたかに鳩尾を打つ。赤服の脚が浮いたと
同時に衿口を掴み、まっすぐに地面に引き落とす。崩落型の
赤服を投げた悪兵衛に今一人が木刀を振り上げて迫る。その剣を搔い潜り、
肘で脇腹を打つ。剣の勢いを殺して流れるように背後に回り、腹に手を回し
て放り投げた。黒打ち投げと呼ばれる組打ちである。
紺服の剣術部員は地面に激突し、苦し気にのたうちまわっている。
背後の四名は一圓の無患子の指弾で顔の急所を狙い撃ちにされ、各々目や
鼻や眉間を押さえて呻いている。
最後に残った者が震える木刀をなんとか正眼に構えているが、その眼には
恐怖が浮かび足元はおぼつかない。
「剣術部に問う。」
悪兵衛から腹の底に響く言霊が発せられ、あまりの圧に木刀を取り落としてしまう。
「武団会の命とは、総会長の命と同義か?」
「はい」
「わかった。他の者を手当てしてやれ。」
いいながら悪兵衛は風呂敷を拾うと草履を履きなおし、歩み始める。
橘川兄弟も続く。冬麻と澤居は呆気にとられながらその後を追った。
*
大広間。授業終わりの学徒達が食事前の時間にまばらに集っている。
一圓と一真に倒した者の数で負けた悪兵衛がお茶を汲み、運んでくる。
「どうする?頭目。」
湯気を上げる煎茶を一口飲み、一圓が好戦的な笑みを漏らす。
一真もうきうきとした顔で悪兵衛の返答を待つ。
「隊規の通りだ。」
報復、殲滅、吶喊の三文字を思い起こす。
「しかし、これは学徒同士の喧嘩だぜ。」
「我らが糾していいものかな。」
一呼吸おいて悪兵衛は答える。
「一圓も言っていたじゃないか。赤服の剣に迷いが無かったと。学徒を殺す程の
制裁が常態化しているのなら異常だ。総会長にその意を問う。」
「その答えによっては、制裁とやらをこちらが与えてやる。」
橘川兄弟は頷いて笑った。
「播磨君。今日はどうしたの?」
のんびりとした優し気な声。桐山優佳が隣の席につく。懐紙を取り出し、
三人の前に広げた。薄茶色で粉雪のような砂糖のかかったかりん糖であった。
「はい、これ今日の部で出たお菓子。おすそわけね。」
「桐山殿、あの、筆を忘れて一旦寮に戻る際……。」
悪兵衛があたふたと書道部を休んだ言い訳するが、そのまに橘川兄弟が
ばきばきと音を立ててかりん糖を口に放り込む。
「あ、落花生が入ってる。」
「桐山先輩、これ美味しいですね。」
言い訳の途中で悪兵衛も手に取ってかみ砕く。黒砂糖の甘い香りと歯ごたえの
ある生地に、ぽりぽりとした食感の落花生、しぜんと笑顔を浮かべる。
「この時間、男子はお腹が空くでしょうね。」
桐山は微笑んで三人を見回す。やがて悪兵衛の肩口の汚れに気付いた。
「播磨君、服はどうしたの?土塗れだよ。」
「あ、これは」
「剣術部の連中が総会の時の仕返しにきたんです。」
「一圓、われらも剣術部だよ。」
「こいつが部長を投げ飛ばして地面を転がったのでこんな格好。」
一圓はぱくぱくとかりん糖を口にいれながら説明した。
「まあ、そんな」
「桐山殿、武道系の部活は夜も活動するのでしょうか。」
「
御輪堂とは、学園の中央に位置する元天守閣である。
階層構造の内部はそれぞれ武道系の部活に割り当てられ使用されていた。
「では、武団会や総会長も御輪堂に?」
「たぶん。最上階に総会長室があるらしいから。」
桐山の言葉を聞き、悪兵衛はにやりと笑って茶を飲み干した。
「成る程。いくぞ、一圓、一真。」
「播磨君、どこに」
「いわれなき襲撃を受けました。総会長に話がござる。」
広間に入って来た冬麻浅海は四名の会話が耳に入り、咄嗟に衝立の陰に
隠れた。呆気にとられる桐山を後にして、悪兵衛達は寮へ向かう。
冬麻はその後を追った。
六
「学園長が不在?」
「は。少なくとも創立後、三年は存在しましたがその後の十年は代替の者が
持ち回りで運営しております。」
藩庁の集会所の隅、きっちりと身なりを整えた灰音章雪が自らの小物と
会話している。が、足元に跪く男は朧丸の扮装であった。
「運営会議が学園長代理の国学師範の元に行われておりますが、ほぼ藩庁の
いうままであると。またそこに、学徒代表の者が参加しており、実はその者が
ほぼ全権を握っているとの事。」
「学徒が?何者なのだ。」
「武団会と呼ばれる統率集団の長、総会長と呼ばれています。氏素性は
わかりませぬ。その片腕とも言える副会長と共に、仮面で顔を隠しています。」
仮面、という言葉に弥者を想起し、灰音は黙り込んだ。
「その、武団会。内部から調査せねばなりませんね。悪兵衛殿達に関わらない
よう、警告と今の旨の報告をお願いします。」
「それが中佐、昨日……予篠総会と呼ばれる集会がありまして、すでに
播磨少佐が剣術部といざこざを。武団会からも目をつけられている状況です。」
灰音は苦笑しつつ、立ち上がった。
「そうですか。ではいずれ必要になるものをあなたに預けます。状況を見て
悪兵衛殿に届けてください。」
「仰せのままに。」
*
青い闇が帳を下しつつある。
悪兵衛達三名は刀袋を負い、御輪堂を見上げた。
「中はどうなっている。」
「一階が女子薙刀と柔術、二階が剣術道場だ。その上はわからん。」
「更衣場奥に箱階段がある。そこから上がればいい。」
正門から入ると、威勢の良い女子達の掛け声が響く。
その左手に更衣場が続き、格子壁で道場と仕切られている。奥に階段が
見える。が、その麓までたどり着いた時、階段の天板が閉じられている事に
気が付いた。
「閉じているぞ。」
「おかしいな。いつもは開放してあるのに。」
「道場の端に正階段があるからそこからいくしかないよ。」
引き返した三名は道場が物音ひとつしていない事に気付いた。
格子の向こう、部員たちが整列している。
その眼は三人を追い、不気味な静けさが道場を満たす。
女子薙刀と柔術部員が道場脇を固める様に並び、中央には紫の制服に身を包んだ
小柄な女子が佇んでいる。
手には薙刀の木刀が握られ、その切っ先は地を向いている。
「武団会、女子武芸総長。八坂静枝。」
「二年の播磨と一年の橘川だな。何用か。」
男子の様な低い声で八坂は問う。無表情な白面に唇が血のように赤い。
「総会長に用がある。会いに行く。」
「ならぬ。部外者はあげぬ決まりである。」
「俺たちは剣術部だ。ならばよかろう。」
「現在は部主力による夜錬中だ。一年は立ち入り出来ぬ。」
取り付く島の無い様子に橘川兄弟は苦笑を漏らす。
悪兵衛が歯を見せて笑いながらずかずかと道場に踏み入る。
八坂は薙刀を脇構えで固定し、鋭い視線を投げかける。
部員達も一斉に構えた。総数は五十名程。全員の相手をするのかと
悪兵衛は困り顔で頭を掻く。
「体験入部として私と掛かり稽古している間のみ、他の者が階段を使うのを
許す。どうだ、播磨。」
「よかろう。」
一歩前に出た悪兵衛の腕を一圓が掴んだ。
「ばか、恨みを買っているのだろう?」
「奴は稽古と偽って打ち殺すつもりだよ。」
「女子全員を投げて気絶させるわけにいくまい。お前達が上がって総会長に
会え。俺も後を追う。」
「体験入部願います。」
明るい声が響いた。道着姿の女子二名が道場に上がってくる。
「二年、冬麻浅海。」
「一年、澤居今日子。」
冬麻は無手、澤居は練習用の小弓と矢羽を手にしている。
「冬麻殿。なぜ」
驚いた悪兵衛達は二人に歩み寄る。
「卑怯な襲撃を見たから。そういうの許せん。」
「邪魔と言われた。弓取りとして屈辱だ。」
強い光を放つ二人の瞳を見、悪兵衛はため息を吐いた。
「冬麻と澤居に任せて上に行こうぜ。話が早い。」
「でも危険だよ。」
「武団会は練習の名の元に、学徒を殺している疑いがある。」
悪兵衛は厳しい表情で二人に言い放った。
「侍として、戦で死ぬのと何が違うか。」
冬麻はまっすぐに悪兵衛と視線を合わせて言った。澤居も頬を紅潮させ、
八坂の一挙一動を見逃すまいとしている。悪兵衛は二人の表情を見つめ、
逡巡の後に頷いた。
「身の危険を感じたら、我らを置いて御輪堂より退避してくれ。」
二人にしっかりといい含め、橘川兄弟を伴い道場奥に向かう。
「播磨、後程に。」
八坂の声に、静かな怒りと底知れぬ憎しみを感じる。
無表情に三人を見つめる女子部員達を割るように進み、三人は階段を上がった。
*
すでに剣術道場では部員達が皆膝をつき、その中央に紫の詰襟の者が立ち
塞がっていた。筋骨たくましい均整のとれた体つきに短髪、しっかりと引き結んだ口元。強い光を放つ眼差しの男であった。
手には通常の物より縦にも横にも長大な木刀を握っている。
「武団会、男子武芸総長。
「もう話は聞いているようだな。」
「ああ。村山を二度、投げ飛ばした播磨だな。」
鏑木はにっこりと微笑んで木刀を振りながら悪兵衛達に歩み寄る。
「おい、紫。お前剣術部の部長より腕はあるのか。」
一圓が気楽に声を張り上げた。
「俺は男子武芸のすべてを預かっている。無論剣術部も含む。」
鏑木は落ち着いた声で言いながら、傍らに控えている村山を視線を走らせる。
頭を包帯で巻いた赤服は手を突いて頭を下げている。
「よし、悪兵衛。我らが剣術が苦手といったな。」
一圓がにやにやと笑いながら木刀袋から小刀を二本、取り出す。
「やるのか。」
「うむ。先に上に行け。あ、俺が勝った事を十字朗に伝えて、剣術の稽古に
手心を加える様にいってくれ。奴は厳しすぎる。」
悪兵衛と一真は笑いながら道場を進み、階段を上がっていった。
鏑木は何かを言おうとしたが、すぐに一圓に向き直る。
小刀の木剣を両手に持ち、顎を引いて射る様に見つめる一圓から、吹き出す
ような剣気を感じている。
「橘川といったか。これはあくまで剣術部の模擬試合だ。」
鏑木はうっすら微笑んで木刀を正眼に構える。
その速度とぶれのない剣先に尋常ではない膂力と鍛錬を感じさせる。
一圓はその剣の脅威に一顧だにしていないように近づいていく。
すでに踏み込まずとも攻撃の及ぶ範囲に接近され、鏑木は長刀とは思えない
程の速度で剣を揮った。同時に一圓は飛び出し、剣先を柔軟な姿勢で掠めるように避け、振り切った瞬間の木刀を脇に抱えて左回し蹴りを繰り出す。
一圓の変則的な攻撃に鏑木は面くらうが、刀が固定された状態なのを感じると、
力に逆らわず咄嗟に蹴りと同じ方向に顔面を逃がし、やり過ごす。鋭く、
訓練された反射行動であった。が、一圓は左足を振り切るとその勢いのまま
飛び上がり、右の跳び回転蹴りを撃ち出した。この二撃目こそが狙いであった。
小柄ながら跳躍と回転で威力を増し、鏑木の鳩尾を踵で撃ち抜く。
表情を歪めながら鏑木は三歩引いた。剣を正眼に構えてはいるが、その額には
脂汗が浮かぶ。間髪をいれず、一圓は距離を詰める。
小刀を
感じさせる。また自身の体格から攻撃の範囲の狭さを強く印象付け、弱敵として
認識した鏑木は不用意な袈裟切りを放った。
その油断こそが攻撃の起点であり、一旦踏み込めば優位な距離は徹底的に潰す。
一圓の冷酷な計算がそこにはあった。
懐で両刀を揮う一圓の剣を鏑木は防ぐ一方になる。優れた膂力で扱う長刀は、
一圓の剣を寄せ付けないかに見える。が、接近しての一園の連続の振りが
容赦なく叩き込まれ、攻撃の息を盗み、距離をとって反撃を狙っていた
鏑木は追い込まれる。一圓の剣はその速度を徐々に早めている。
(この迅さ。こやつ、化け物か。)
恐怖が鏑木を襲った瞬間、小刀の先が顎を掠め打ち抜いた。
刹那、全神経が分断されたかのように鏑木は垂直に膝から崩れ落ちた。
一圓は見下ろし、荒い息をついている。無呼吸での連続攻撃に肺は悲鳴を
あげていたが、その表情は不敵な笑みを浮かべている。
剣術部員達は水を打ったような静けさで、押し黙る。
一圓は小刀を納め、倒れたままの鏑木に一礼した後、その頭をまたいで歩み、
階段をあがっていった。
七
御輪堂三階は中央に環輪状の足場の畳が敷かれ、その周囲を弓と弩弓、投剣を
携えた赤服の学徒達が腰を下ろしている。
練習用の小弓と矢羽を二本持った一真の対角線上向かえに、紫の制服の大柄な
女子が大弓を構えている。燃えるような赤髪に日に焼けた肌、とび色の大きな瞳
が一真を見つめる。
階段を上がり切った一圓はその状況を一瞥した。
「
「無手。」
一真は答えながら前方の女子を眺めている。
射斗とは弓術における模擬戦である。円状の足場を回転移動しながら射手同士で
撃ち合う。防具無しで行うのは非常に危険な試合であった。
射撃回数が決められており、二射で行われる一手、四射の二手、射撃回数が無制限は無手と呼ばれる。紫服の傍らに赤服の女子学徒が侍り、
「取矢をやろうか?」
「いらない。」
一圓は腕を組んで不敵に微笑みながら一真の言葉に頷く。一手で勝負をつける
つもりである。その表情はいつも通りで気負いは全くない。
階段を冬麻と澤居が上がって来た。
共に口元や鼻血を拭った跡、瞼が腫れている。
「お、何だ。勝ったのか。」
一圓の気楽な物言いに二人は頷いた。必死で戦ってきた表情が見て取れる。
「二人同時に相手をするって女子武芸総長が。」
「それでも相手を倒したなら立派立派。」
冬麻と澤居は二人がかりで辛くも勝利したが、剣術部にて一圓が男子武芸総長を
事もなく打ちとった事を知っており、戦慄を覚えている。
そんな思いも束の間、澤居は一真の相対する者を見て息を飲む。
「射斗……投擲武芸総長。」
「一真君、辞めた方がいい。彼女は異常者よ。」
一真の背後から震える声をかける。
「
環輪状の足場を移動しながら相手を狙い討つ射斗は、まず当てる事が難しく
基本的に胴、または下半身を狙う。頭部に的中させるのはほぼ偶然で、
狙って行う事は非常に高い技術が必要であり、闘技者間の実力に隔たりがある
場合であった。
一真は澤居の言を聞きながらすり足で移動する。穂乃村は睨みつけながら
その対角線状を進む。
彼女は大弓をおろし、構えた矢は足元を指している。不意に一気に弦を引き、
矢羽を撃った。武道場の中心辺りで床に跳弾した矢羽はまっすぐに一真の頭部に
向かう。冬麻と澤居は息を飲んだ。
一真は首を傾け、その矢を避ける。速度、威力共に恐るべき膂力で撃ち出された
射撃であった。
「悪兵衛は上がったよ。先に行っていい。」
「奴は一人でどうにかなるだろ。面白そうだから見物する。」
一真の言に一圓は普段通りに答えた。
「橘川一真。撃たぬのか?」
穂乃村は鋭く声を上げながら二射目を放つ。武道場中央の柱の一本に当たり、
またも跳弾で一真を狙う。一真は予期していたように半身で避けた。
「
跳弾の技術を曲芸と侮蔑した一真の言葉に、穂乃村は色を変える。
眉が吊り上がり唇を引き結ぶ。
緩やかに歩んでいた脚を止め、力強い打起こしの動作から引分けに入る。
水をうったような道場に、きりきりと大弓を軋ませる音が響いた。
一真はあえて的になるかのように脚を止め、矢羽を口に含んだ。
弓弦の鳴りと共に矢がはしる。一真は穂乃村の気が満ち、矢が放たれる直前に
小弓を構え、撃った。
乾いた音と共に穂乃村の放った矢羽は一真の矢に砕かれた。直後その軌道上の
二撃目が穂乃村の眉間に直撃する。白目をむいて穂乃村は倒れた。
冬麻と澤居は息を飲み、何が起きたか理解できない。
一真は走り羽と呼ばれる上向きの羽に口中で水分を与え、矢の軌道が不安定に
なる代わり、強烈な回転をあたえて穂乃村の矢を射撃した。一真の挑発に
怒った穂乃村が、眉間を狙ってくる事はわかっていた。次いで、
小弓の機動性を利用し電光石火の二撃目を射出したのだった。
「草壁殿の技じゃないか。」
「悔しかったからね。練習していたんだ。」
橘川兄弟が道場の中央を歩み、階段に向かう。女子二人は慌てて後を追った。
「これ、借りていくか。」
一真が穂乃村の使っていた大弓を拾う。
「一真君。やっぱり君は逸鏑流の。」
澤居に詰め寄られ、一真は仕方なく頷いた。
「本家……家元なの?」
「いや、総師範だ。家元は俺も叶わない天才がいるからね。」
一真は先に階段を上がる一圓を見上げて笑った。
八
御輪堂四階の異様な光景に、橘川兄弟、冬麻、澤居は無言で状況の把握に
努めた。他の階層と違い大広間には練習用の木人形が無数に立ち、それらの
頭部、碗部、脚部は無残に砕かれている物ばかりであった。
その間隙に人影は二つ。
悪兵衛は木刀を下げて佇んでいる。紺の学生服は、鋭く切り裂かれた無数の
跡があり皮膚が露出している。
異様な風切り音が鳴り続ける。
悪兵衛に対峙する黒の仮面の副会長の手に同じく木刀。が、その柄から伸びる
鎖の先の分銅が危険な音をあげて回転している。
副会長が分銅を投げた。悪兵衛は一歩身を引き躱す。その背後の木人形の
頭部が一撃で砕けた。恐るべき破壊力であった。
「こいつは、当たれば死ぬな。」
一圓の声に悪兵衛が気づく。兄弟の背後の冬麻と澤居を認め、微笑んだ。
「播磨。お仲間と共に我に向かうか?」
副会長は鎖分銅を回転させながら、魂も冷える声色で言った。
「そろそろ、上がらせてもらう。」
悪兵衛は正眼に構える。屯所で用いている、心鉄いりの木刀であった。
副会長の分銅が、右前方の木人を破砕した。鋭い欠片が横殴りの雨のように
悪兵衛を襲う。撃ち返しながら柱と木人で身を隠し、やり過ごすが、副会長の
分銅は容赦なく次の木人を破壊し、木片で悪兵衛を攻撃する。
制服が切り刻まれ、左腕の肩口に血が滲んだ。
距離を詰められない悪兵衛の右側に分銅が飛来し副会長が力強く引くと柱を
中心に分銅が回転、悪兵衛の剣を絡め取り柱に縛る。
万力のような力で木刀は縫い付けられ、動かない。悪兵衛は手を離し
副会長へと駈けた。無手で迫る事を予期していた副会長は素早く剣の柄の
金具を抜き取り、足元に鎖を投げ出して構える。
明らかに命を懸けた戦闘に習熟している動作だった。
悪兵衛は副会長の手前、木人を蹴破で爆破する。大量の木片が襲った。
直接攻撃を予想していた副会長は剣を揮い迎撃するが、制帽と仮面が弾丸の
ような木片によって弾き飛ばされ、踏鞴を踏んで後退する。
「お返しだ。」
悪兵衛は見下ろして言い放った。副会長はゆっくりと顔を上げる。
黒髪が流れる。鋭く、憎しみに満ちた眼差しの青年であった。
「貴様、貴様。」
怒りに我を忘れ、瘧の様に全身が震えている。口中から白い煙が噴き出し、
瞳の色が赤紫色に変わっていく。
悪兵衛は飛びすさり、木刀を取り戻す。その背後には橘川兄弟がつく。
「悪兵衛、こやつ。」
「まずいな。まさかとは。」
行燈を背にした副会長の頭部に螺旋状のするどい一本角が伸びていく。
荒い息を吐きながら全身を震わせ、人間が弥者に変貌する。
副会長は足元の鎖を引き、手元に戻した。徐々に落ち着きを取り戻している。
「弥者帰りしたのか。」
「いや、自らの意思で戻ったのであろう。心身の変調がない。」
「こやつは元々弥者だ。」
悪兵衛は眼前で弥者帰りを果たした学徒の姿を思い出している。神田新之丞は
完全に
副会長の手元、分銅鎖が金属音を立てて振動する。やがてそれは一つの音に
変化していった。
「ミハカ。戻れ。」
「しかし……。」
「よいのだ。ミハカノヌシ。」
鎖の振動が声を生み出しているようであった。ミハカノヌシと呼ばれた
副会長は悪兵衛を一瞥すると背後の箱階段を上がっていった。
「この上が最上階か。」
「副会長に命令していたのは会長かな。宗波みたいだったけど。」
「会長も弥者であると思われる。」
「二対三か。悪兵衛、どうする。」
「戦うの?我らには装備もないよ。」
「逃走を許すつもりはない。打ち殺す。」
悪兵衛は木刀を一振りして奥に向かう。橘川兄弟も続く。
鋭い悲鳴があがった。
冬麻と澤居が恐怖に我を忘れ、中央まで走りこむ。その背後、正階段より
無数の学徒達が静かに上がってきている。
薄暗い中で皆目は赤茶に光を反射し、その頭には様々な形状の角が屹立する。
足音を立てず、声一つなく、次々と姿を現し木刀、弓、薙刀、小剣を
手にしている。静かな殺気が充満していくようであった。
「皆、弥者だったのか。」
「すごい数だな。」
「あがるぞ。澤居殿、冬麻殿。こちらに。」
悪兵衛は奥の箱階段をゆっくり昇り始めた。
九
格子壁の向こう、広間の中央に御座があり、白の仮面の総会長が座している。
その頭部からは見事な一対の角が屹立し、全身から靄のような気が漂っている。
背後には紫の制服に身を包んだ武団会の長達、その手前にミハカノヌシと
呼ばれた副会長が背を向けている。
皆、うずまく戦気を見にまとった弥者に変貌していた。
一真が矢を引く。天井に縄で括り付けてある金具を撃ち抜き、箱階段の天板を
下した。これで背後から学徒達の弥者が迫る事はない。
総会長の左隣り、桐山優佳が寄添っている。その額には小振りな角が生え、
髪色が
「桐山殿。」
思わず悪兵衛が声をあげた。桐山は答えず、微笑を貼り付けたような表情を
している。背後の男子武芸総長が鞘を鳴らして見事な長剣を抜いた。
武団会達は皆、弥者の物と思われる精緻な装飾を施された武具を手にしている。
ミハカノヌシは、翡翠の宝玉の飾りの両刃の剣を抜いた。その柄には美しい
組紐が下がり、先端に黄金色の
「あの女。俺たちの事は筒抜けだったって事か。」
「なぜ全員で待ち伏せしなかったんだろう。」
「どうも、恨みのある俺と其々が手合わせしたかったようだな。」
悪兵衛の言と共に、ミハカノヌシが紐を回転させる。高い、笛のような音が、
黄金の錘から響き始める。
「カ ゴ ノ ハ」
呪言と共にミハカノヌシは錘を撃ち出した。悪兵衛は咄嗟に木刀で受ける。
強烈な衝撃と共に、奇妙な感覚が襲った。
撃ち出された錘の打撃が、接触した刃に連続で伝わってくる。
一撃を耐えた筈が、同一個所にわずかに時間をずらし九度。悪兵衛の木刀は
砕け、内部の芯鉄は熔解した。
あまりの衝撃に悪兵衛は手元に残った柄を取り落とした。震えがきている。
「悪兵衛。」
「連続攻撃の破常力と思われる。強力だ。」
ミハカノヌシは錘を鋭く回転させ続ける。
「私がやる。」
異国風の刃先の薙刀を持った女子武芸総長が歩み出た。八坂静枝と
名乗ったが、その容姿はすでに弥者の戦士のそれであり、同様に変貌した姿の
男子武芸総長、鏑木が割って入って止めた。
「俺だ。ヤマトビトの姿では窮屈でいかん。」
「どけ。仇を討つ時が来たのだ。」
「カタガイ、ウネビ、控えなさい。ミコトの
桐山が静かに二人を諫め、両名は剣を下した。同時に総会長が立ち上がる。
他の者は皆膝をつき、
総会長は静かに紐を解き、仮面を落とす。
細面の端正な顔つきの青年であった。碧玉のような瞳をし、栗色の豊かな髪を
細かい装飾具で編み、背後に流している。
「スメロキ。」
悪兵衛が喉の底から声を絞り出した。
スメロキと呼ばれた弥者の長は静かに見つめている。
「こいつがスメロキノミコトか。」
「悪兵衛、尊級に配下の戦闘型弥者四名は手に余るよ。こちらには民間人も
いるんだ。」
顔色を変えた一真が悪兵衛に耳打ちする。悪兵衛は振り返り、冬麻と澤居を見た。
「悪兵衛、無理だ。兵装も無しで戦えるか。」
「お前たちは彼女たちと共に降下破双で脱出せよ。」
「お前は?」
「スメロキを殺す。」
髪を逆立て、拳を握りしめてスメロキを射る様に睨む。
武団会を名乗っていた弥者達は薄ら笑いを浮かべて悪兵衛を眺めている。
夫々が対侍との戦闘に習熟し、かつ悪兵衛の旭光をも知っている。それ故の
余裕の態度に見えた。今は無手の若者三人と女子学徒。勝負になりえぬ対立で
あった。
悪兵衛は弥者の長に一矢報い、橘川兄弟達を脱出させる事が、自分の最後の
任務と覚悟を決めた。
「
鎧戸が外れ、黒装束の男が顔を覗かせている。朧丸であった。
「中佐からだ。」
刀袋を悪兵衛に放る。受け取った瞬間、その重量に不敵な笑みが零れた。
黒漆の濡れたような光を放つ鞘を腰に差す。手にしっかりと馴染んだ拵えが
触れた刹那、自信と戦意が溢れる。
悪兵衛は道場の中央に歩みながら、ゆっくりと琿青を抜いた。
青い火花が迸り、床に落ちて爆ぜる。
予篠総会で感じた憎しみの奔流を全身に受けた。
魁音刀を手にした悪兵衛に対し、弥者達の表情は悪鬼のように歪む。
配下の者達は一歩引き、絶対の攻撃手段を持つ侍に警戒した。
中央のスメロキノミコトだけは、静かに悪兵衛に見つめていたが不意に左右に
視線を走らせる。
一対の太い天守の柱から黒煙が上がり始めている。ぶち抜きの構造の階下から
であった。床板の彼方此方からも煙が漏れている。
階下からは学徒の姿を模していた者達の騒めく声が響く。
弥者達の一刹那の隙をつき、朧丸が飛び出す。腰の皮筒の液体を半円に撒いた。
残りを口に含み、一気に火炎として吹き出す。
悪兵衛達と弥者達を分断するように、炎の柱があがった。
「悪兵衛、行くぞ。」
朧丸は踵を返そうとするが、我が目を疑いもう一度前方を見つめる。
スメロキノミコトが炎の壁を越えて悪兵衛と相対していた。
十
「烈火の侍。……いつも炎と共に現れるな。」
スメロキノミコトが落ち着いた声で言い放つ。すでに二人は剣の間合いに
入っているが、腰の太刀には指先すら触れていない。
深い緑の瞳が悪兵衛をじっと見つめている。
「斬る。斬って取り戻す。」
悪兵衛は両手に琿青を握り、ゆっくりと変形上段に構えた。低い金属音を上げて
刀身が吠える。
燃え広がる炎と同様に、憎しみと怒りで身悶えする獣の表情がふと、
無となった。
眼前の弥者の将軍すら悪兵衛の眼に映らない。
暗闇の中に幾つもの光が生まれ、全身に充溢する。
「旭光」
閃光と強大な破壊、衝撃の渦で形成された死の爆壁が撃ち上がった。
「お前達も異常な戦闘力を持っていると聞いた。ビャッコのサムライか。」
橘川兄弟の眼前にスメロキノミコトが立っていた。
その向こうに旭光を射出した悪兵衛が見えている。
異様な光景であった。スメロキノミコトは移動したわけではない。
最初から其処にいた様であった。腰の太刀をゆっくりと引き抜く。
橘川兄弟は両翼に破双で飛び出した。同時に一圓は小剣、一真は弓を射出する。
左右同時に飛び道具の的になる。その射手は天才の二人である。躱せるはずも
無い。だが朧丸は見た。瞬間にスメロキノミコトの全身が発光する。
次いで、旭光を射出した悪兵衛が何もない空間に向かって剣を立て、防御の姿勢をとる。そこに、スメロキノミコトは出現した。
全身が黄金に光り、放電している。
稲光の塊のような剣が悪兵衛を撃った。構えて受けた悪兵衛はそのまま
吹き飛ばされる。空中で姿勢を制御し、かろうじて膝をついた。
「何だ奴の
「一瞬で移動してる。」
橘川兄弟が叫んだ。朧丸の脳裏に(神代の力)という言葉が浮かぶ。が、すぐに
それを振り払った。
いつのまにか天守の柱まで炎が包み、天井板に燃え広がっている。
炎の波がうねり、旭光に破壊された梁が崩れ落ちた。
一瞬で出現したスメロキノミコトが桐山を抱え、階段の位置まで配下を
下がらせる。中央の御座に炎に包まれた梁が次々と落下した。
朧丸は恐慌を来している冬麻と澤居の帯に金具を通し、柱から鎧戸に伸びる
鋼線と縄で接続する。同様に鋼線に掛ける金具を橘川兄弟に渡した。
鋼線は鎧戸の外、城外に向かって伸びている。
「帯に繋げ。滑降して脱出する。悪兵衛! 」
炎の壁の向こう、スメロキノミコトと対峙する悪兵衛の背中に、朧丸は叫んだ。
「悪兵衛。お前は炎の中より立ち上がり、我の前に現れる。」
スメロキノミコトの言葉が業火の中で響く。琿青が振動し、その声を
再生しているようであった。
「だが
「お前自身を焼き尽くす。その身も、その魂も。」
悪兵衛は琿青を握り、絶叫した。
天守閣全体が炎に包まれ、めりめりと悲鳴をあげている。
「悪兵衛。」
朧丸が悪兵衛の腕を握った。
「仲間が待っている。播磨少佐。」
*
天守閣から堀を跨ぎ、周辺の木立の中でも一際大きな欅に鋼線は繋がれていた。
朧丸が最後に滑空する途中で、鋼線が切断されると共に、炎に包まれた天守が
崩落を始める。
着地地点には灰音章雪が待っていた。
「話は後程伺います。学園に多数の弥者が潜伏している事がわかりました。
包囲されるまえに脱出します。」
膝をつき、放心している悪兵衛に灰音は寄添った。
「悪兵衛殿。報復とは。」
「……報復とは不なる攻撃に対し正なる行いを持って同等の打撃を用い報いる事
なり。」
灰音の言葉に悪兵衛は反応し、繰り返し唱えた隊規を反芻する。
「章さん。」
立ち上がった悪兵衛の肩に手を置き、灰音は頷いた。
「外堀に脱出用の船舶を用意しております。」
木立の陰から朧丸が現れた。
橘川兄弟が燃え落ちる天守を見上げている。
「あの炎で弥者達が死ぬとは思えん。」
「破常力無しで勝負を仕掛けてくるとはね。」
「そういえばあの二人、よく勝てたな。」
一圓の視線の先に呆然と灰音に従う、冬麻浅海と澤居今日子がいる。
「中佐、私達は。」
「戦闘なら参加できます。」
「いえ、今回はあくまでも訓練です。まさか弥者との戦闘を想定はしていませんでした。貴方達を危険な目に合わせてしまいましたね。」
灰音と女子学徒達の会話に、悪兵衛と橘川兄弟は顔を見合わせた。
「章さん、どういう事なんだ。」
「彼女たちは来期の本閥選に合格した、新卒の不知火隊士です。」
「学園生活という事で内偵の訓練に参加していたのですが、飛んだ事になってしまいました。黙っていて申し訳ありません。」
灰音の言に、三人は絶句した。
冬麻と澤居は改めて敬礼をしている。
「灰音殿、こやつらは命を落とす所でした。」
一圓の言葉に灰音は立ち止まった。
燃える天守閣を背に、その表情は陰になって読み取れない。
「そこで終わるのであれば、不知火は務まりませぬ。……貴方達もよくわかって
いる筈。」
灰音の静かな言葉に、冬麻と澤居は震撼した。
篝火のように輝く天守閣を後にしながら、不知火隊士達が船に揺られている。
外堀はやがて畿瀬川と接続し、その先に環太積の用意した脱出艇が控えている。
暗闇の中、悪兵衛は目をつぶった。
業火の中で対峙する弥者の姿が鮮やかに浮かぶ。
「だが
「お前自身を焼き尽くす。その身も、その魂も。」
スメロキノミコトが残した言葉が、何度も残響していた。
羅刹燃ゆ 了
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