水郷の贄


葉桜と楓の若葉が薫風に揺れている。

不知火屯所、作議の間から玉杉桔梗の声が漏れる。


「視察任務二名の他、参謀方と弓手?」

桔梗の形のよい眉が吊りあがる。

「あくまで、調査にあたる者の希望があったらという話だ。」

刑部が困り顔で諭すように話す。灰音と顔を見合わせる。

「では結構です。既定の人数で十分な任務と思われます。」

「桔梗。お主の内偵が決まった上でのお上の判断なのだ」

桔梗は唇を噛み、うつむいた。が、すぐに顔をあげ意思の強い瞳で

刑部を見つめる。

「大規模戦闘に入る想定をされておられますか?」

「それはない。あくまで視察だ。」

「特別扱いは結構です。悪兵衛と二人でやり遂げます。」

刑部、灰音ともに押し黙る。


「報告は密にせよ。」



水郷のにえ





東之江とうのえの里は以前は城下町であった。

藩政が幕府に接収され、今は緩やかな過疎の町里である。

その名残の城壁が苔に覆われ、あちこちに残る。

水源が豊かで里の中を堀がめぐり、猪牙船が行きかう。


旅姿の悪兵衛と桔梗が里に入った。

伸びやかな姿勢で、凛とした桔梗と、粗野で逞しい悪兵衛は

女主おんなあるじと従者といった格好である。

機嫌のいい顔で桔梗は新緑を見上げ、堀に鯉を見つける。

「悪兵衛、鯉!鯉!」

「お、でかい。」

呑気に話しながら石畳をあるいていく。

「内偵調査で、里祭りの視察とは。」

「五年に一度だから、里帰りして参加する者もいるらしくて盛大だそうな。」

「楽しみでござるな。」


川面を眺めながら悪兵衛は思う。この任務は無論視察もあるが、

桔梗の護衛でもある。何かあった場合には剣を揮わねばならない。

しかし視察の内容が祭り見物とは。今一つ刑部の思惑をわかりかねている。

「水神の奉納の祭りだとか」

「祭りの後に必ず行方不明者が出るのが問題なんでしょ?」

「不明になった者の身辺を調査するのが先決でしょうな。」

「旅行者として潜入する以上、なにか名目が無いと嗅ぎ回るのはまずい。」

「うーん」

「お前は考えずともよい。灰音殿に入れ知恵してもらった。」

「おお、そうですか。ならば安泰。」

「呑気な奴じゃ。」

桔梗は屈託なく笑った。


*


逗留先の旅籠屋に荷を下ろす。

水沓みなくつ奉納まつりと呼ばれるこの地の催しに訪れる旅人は多く、

その多くが夫婦や恋人同士に見える男女一組であった。

そこにうまく溶け込む為の人選だったかと、悪兵衛は頷く。

宿を出て、二人は別々の方向へ足を向けた。


桔梗は通りへと出、旅籠の女将に聞いた甘味屋を探し当てた。

ぜいご屋と書かれた看板に可愛らしい魚が描かれている。甘味で魚?と

訝しみながら暖簾をくぐると、店内は女性客でにぎわっている。

勧められた「うばもち」を頼み、店内を見回す。若妻風の者から学徒まで様々な年代の女性達が甘味を食し、おしゃべりに高じている。


茶くみ女が桔梗の注文を盆に乗せ、鰻の寝床のような店の通路をやってくる。

席から立とうとした他の客と脚が絡み、つんのめって盆を放り出してしまう。悲鳴があがった。

桔梗は盆をつかみ、皿を掌にのせて落下する餅を次々に皿でうけとめた。

その場の客たちからどよめきと拍手が起きる。

にこやかに中年の茶くみ女を気遣い、このままいただく。と桔梗は席につく。


うばもちは練り切りを上品なこしあんで包んだ可憐な菓子で、

三つあるが、桔梗が受け止めて形がいびつになっている。

うきうきと竹楊枝で切り分け、口に含むとしっとりした甘みと練り切りに含まれたかすかな山芋の香りがした。

「武家さんの方ですか?」

隣席でおしゃべりをしていた学徒風の女子三人が話しかけてきた。

先ほどの桔梗の手並みを見て、興奮している。

「武家の娘なだけです。お祭りを見にきたの。」

桔梗の言葉を聞いてかしましく騒ぐ。女子たちの盛り上がりを不思議に思いながら桔梗はまた、うばもちを食べた。


*


神社の境内に簡易な相撲場があり、若者が組み合っている。

周りには十名程のまわしをつけたもの、上半身だけ肌蹴たもの、

褌だけのものもいる。みな若い。

また、子供相撲をとる幼年組とその親の姿もある。

ひときわ大きな歓声があがった。

悪兵衛が派手な入れ墨を負った若者を投げ飛ばしたのだった。

渡世人風のまげに、肩に鬼子母神を負った若者は、その仲間と共に

この相撲場を牛耳っていた。

悪兵衛は紺の半着に茶の軽参という軽装である。

「服がからみやがった」

「おい、脱げ。もう一勝負だ」

入れ墨の若者と周りの者が声をあげる。


悪兵衛は袖を抜き、上半身を肌蹴た。

骨太で引き締まった大きな肩と血脈の浮き出た上腕、割れて呼吸の度に

波打つ腹部。そして首の横から腹まで袈裟切りに

幾度も切り付けられたような傷痕。右肩から左胸まで刻まれた

赤く浮き上がる刀傷。壮絶な戦士の肉体であった。

若者たちは絶句した。


「悪兵衛」

境内に入ってきた桔梗が声をかける。周りには甘味屋で知り合った女子三人を

を連れている。悪兵衛を見るなり女子たちは黄色い声をあげた。

「帰るぞ。」

桔梗の言葉にうなずき、半着を着込むと、まだ尻もちをついている入れ墨の若者ににたり、と笑いかけ相撲場を後にする。


「播磨さんは桔梗ちゃんのお小姓さんなのですか?」

「いえ、玉杉殿の家に厄介になっております。」

「家で武芸者を目指す者、何人か逗留させてる。」

「播磨さんも年十七なの?」

「はあ」

「播磨さんどうして桔梗ちゃんと二人だけで来たの?」

「さっきどうして不良の人たちとお相撲してたの?」

「播磨さんてどこの人なの?」

「播磨さんって…」

悪兵衛は閉口している。

この短時間で屯所で話す一週間分の会話をしたような気がする。

相撲の方が気楽であった。

「あ、桔梗ちゃん、お祭りね、つみの家が宮司さんだから」

「つみが奉納に巫女さんで出るんだよ。」

三名のうち、長身の少女が恥ずかしそうに自己紹介した。

「三枝つみ、です。」

色が白く、髪や眉が栗色をしている。悪兵衛よりも目線が高い手足ののびやかな娘である。はにかんで桔梗を見つめるだけで、口数は少なかった。

「つみちゃんが巫女さんなんだ。綺麗だろうね。」

微笑む桔梗の言葉につみは顔を赤らめた。

矛先が自分から逸れて、悪兵衛はほっと息をついている。





土俵の土まみれの身体を風呂で流し、

悪兵衛は桔梗と膳を囲んだ。腹が減って目まいがする。

桔梗は作戦行動指示と、要綱に目を通している。

「灰音殿は目先が利く。土地の若者と交流し、祭りの事を聞けば行方不明者の

噂もいずれ出るという事か。」

「はあ」

悪兵衛は膳にならんだ豆腐の汁椀に、芋と青菜の和え物、煮びたしした鮒に

大盛りの白飯を見つめ、丸い目が零れ落ちそうになっている。

桔梗は吹き出した。

「食べていいよ。」

「は。頂きます。」

手を合わせてにこにこと悪兵衛は食事を始める。桔梗もそれに合わせた。


膳を片付け、文机に桔梗は向かい、報告書を記している。

「奉納まつりといえど、男女の出会いの場になる意味合いが強いそうだ。」

「妻探し、ですか。」

「女も男を見初める。それに」

「将来を誓った者、夫婦となった者も参加する事で、その結びつきが強くなると言われている。」

「はあ」

要領を得ない悪兵衛の間抜けな表情を桔梗は見慣れている。

「明日、甘味屋で知り合った子達が里を案内してくれる。」

「お主は引き続き相撲でもなんでもとって顔見知りを作り、調査してくれ。」

「心得た。」

「あの娘たち、私がお前を夫にするつもりだと思っている。」

桔梗が含み笑いをしながら筆を走らせる。

「それは」

「恐れ多い事を。玉杉殿には世話になってござる。申し訳ない。」

膝を正して悪兵衛が頭をさげる。額に脂汗が浮いている。

「お前が謝らずとも」

桔梗は声をあげて笑った。悪兵衛も情けない表情で歯を見せている。


仲居が声をかけ、膳を片付け寝具の用意をするという。

桔梗は手早く報告書をたたみ、悪兵衛に荷物をもたせた。

「こちらにお布団ですねー。おつきの方は隣の部屋でよろしいですか?」

「ううん、ここに並べてください。」

「あいや玉杉殿!」

「それは待たれ、待たれい。男女七十にして席をおなじくせずともいわれ」

悪兵衛が顔を赤くして必死にまくしたてる。

「男女七歳にして、だ。じゃあ隣部屋にお願いします。」

からからと笑う桔梗を恨めしげに見ながら、悪兵衛は胸をなでおろした。


*


翌日、早朝から相撲場で悪兵衛は土地の若者たちと取り組みを行う。

我が物顔にふるまっていた入れ墨の者達は姿を見せていない。

同年代の者達と汗を流し、井戸で水を浴びて笑いあう。悪兵衛の組打ちに

教えを乞う者に、その場で親身に手ほどきを与える。


幼年組の者達がおおきな回しをつけて集まり始めた。

「お前、お前、あとお前、お前も。かかってこい。」

土俵に上がった悪兵衛は腹が丸く、足元も覚束ない幼少の子らを指名する。

おずおずと土俵に上がって来た子らから逃げるように走り出し、子らも

追いかけて悪兵衛に取り付く。子供らの笑い声と共に悪兵衛は引き倒された。

「参った。参った。」


寺社の濡れ縁に腰をかけ、手ほどきをした若者と、幼年組のその弟、

ふくよかな母親と休憩をとる。竹筒で用意された氷水を一気に飲み干した。

「播磨さまをおれがたおしたから、兄上よりおれがつよい」

頬を紅潮させて話す子の言葉に笑いが漏れる。

「ご令嬢の付き添いで奉納祭りの見物に?」

「左様でござる。」

親子は警護の為に里に使わされた武家の人々であった。番役と呼ばれる。

母親は甲斐甲斐しく息子二人の面倒を見ている。

「播磨様にはお気の毒なれど、今年はもしやすると祭りは延期になるかも。」

幼少の子の顔を手ぬぐいで拭きながら母親が言った。

「延期?」

「はい。宮司さんがご病気で伏せっておられまして。」

悪兵衛は桔梗から聞いた宮司の娘の事をうっすらと思い出す。

「さて、もう一番いかがですか。播磨様。」

若者が元気よく立ち上がった。悪兵衛も微笑みそれに続く。

幼少の子が続こうとしているのを、母親が無理やりとめて、

擦り傷に薬を塗っている。


*


こじんまりとした湖に桟橋がかかり、湖の中程に釣り船が見える。

湖面が陽光に輝き、オオルリの高いさえずりが聞こえる。

桔梗は午前中に里の史跡や名所を案内され、昼から習い事にいく二人と別れた。

三枝つみと並んで湖畔をそぞろ歩いている。

つみは桔梗の言葉にうなずき、頬を染めて笑っている。

「じゃあ、お祭りの後の行方不明って」

相落あいおち、です。」

相落ちとは婚姻や付き合いを許されない男女が共に逐電する行為である。

「奉納まつりで神性を帯びた男女は、すべてを捨てても幸福になるって」

「えーーーそんなぁ」

「ですよね」

「でも本当に好きになった人とお付き合いが許されなくなったら」

「うーん」

思わず考え込み、その後、顔を見合わせて二人は笑いあった。

意を決したように、つみは口を開く。

「桔梗ちゃんは、播磨さんと」

いいかけた所で桔梗の表情の変化に気づく。その視線の先には

相撲場で見かけた、入れ墨の若者達が道端でたむろしていた。


「要さん、あの女」

「刀傷の奴と一緒だった女じゃん」

「俺、旅籠に二人で入る所見ました」

小声で会話を交わし、下卑た笑い声をあげる。桔梗は歩む速度を変えない。

つみは俯き、桔梗の後ろに隠れるようにしている。


「お前、男と祭り見物にきたの?」

「一緒に泊まってるんだろ。」

「もう夫婦になったのか?」

にやつきながら三人の若者は桔梗の全身を値踏みするように見ている。

水色の小袖に紺の帯、髪を高く留めてやや紅潮した白い肌。

化粧気のないその顔は、目が引きつけられる瑞々しい生気を放っている。

桔梗は三人の目の前で立ち止まった。


「お前たちには一切関係のない話だ。」

「だが、侮辱は許さない。」

「一人ずつ平手、だな。」

桔梗は最初に声をかけた若者の脚を踵で踏んだ。その上で

掌を頬に打ち付ける。たなごころで打つ平手ではなく、親指の付け根の

肉が厚い部分で体重をかけて打ち抜く打法であった。

脚を踏まれて力の逃げ場がなく、若者は頬と共に鼻を撃ち抜かれた。

もんどりうって倒れた男を見ることもなく、同様にもう一人の

顎を打つ。腰を回転させ、その力と体重を伝えるように

男の顔を射撃する。がくっという手ごたえと共に顎の骨の骨折を感じる。

鼻血を振りまきながら転がる男と、涎をたらして悶絶する男。

「おまえ、こいつらの言葉で笑ってたな。」

桔梗は若者の中で中心の者を最初から見抜いていた。

鬼子母神の入れ墨の男である。

何か言おうとする男の襟首を掴み、脚を払う。

簡単に若者は倒れ込み、頭部を地面に打った。

転がって驚愕の表情で見上げる男の鼻づらに、桔梗は

掌を四度打ち下ろした。

鼻骨がつぶれ、前歯が二本折れた状態で入れ墨の若者は意識を失った。

手をふりながら一切の抵抗手段を失った男達を見て、

桔梗はまた歩き出す。つみはおろおろとしながらその後を追った。

瞬く間に、男性三人を行動不能にした桔梗を、つみは目を丸くして

見つめている。きらきらと陽光を映して輝く桔梗の髪が、

なにか遠い、恐ろしいもののように感じる。

「桔梗ちゃん」

「すごく強いんだね」

消え入りそうな声でつみは桔梗の背中に声をかけた。

「強い人はたくさんいるよ。私なんて全然。」

ごく当たり前の声色で話す桔梗が、まだつみは信じられない。

「ちょっと手が熱いな。ひっぱたきすぎた。水で冷やそう。」

桔梗のいたずらな笑顔でようやくつみは現実に戻った気がする。

川の水で濡らした手ぬぐいで掌を冷やしながら、桔梗は独りごとを

漏らす。

「悪兵衛は、私の十倍強い。」

宝物の事を語るように、瞳がきらめいている。





湖畔の東屋で悪兵衛と桔梗は向かい合い、

それぞれの情報を伝えあう。

陽光を映す湖面から爽やかな風が吹く。


「三枝つみは、父が祭りにたてなくとも、奉納は行うといっていた。」

「左様ですか。」

「内々に、宮司殿は交際を許されていない男女の相談を受けていたそうな。」

「何としてもそれは行いたいと言われている。」

「つみは歩くこともままならない父の身を案じ、留めているが。」

「相談を受けた方は行方不明に?」

「確実にそうとは言い切れぬが。」

「相落ち、ですか。その家族や、よく知るものを探してみます。」

相談にひと段落ついた頃、悪兵衛の腹が盛大に鳴る。

「これは、失礼しまして。」

「昼がまだで」

頭をかきながら白い歯を見せる悪兵衛。桔梗は風呂敷から弁当行李を

ふたつ、出した。

「用意してきた。」

「おお、これはありがたい。」

悪兵衛は押し戴く。蓋をあけるといびつな形の握り飯が二つ。

ごまが掛かっているものと、鰹節を混ぜ込んであるもの。きゅうりと蕪の

新香がふたきれずつ入っている。

手を合わせ、弁当をつかいはじめる。薫風が笑顔の二人の髪を揺らしている。

「お、煮魚が入っている。」

「旅籠の台所からわけてもらったのだ。」

悪兵衛の食する様子をちらちらと見ながら桔梗が心配そうに言う。

「どうだ?」

「うまい。ものすごくうまい。」

大口をあけて握り飯を食べる悪兵衛をみて、桔梗はすこし笑った。


「あれは」

水辺にいきものがいる。カワウソと猿を混ぜたような体つきに、

甲羅を背負っている。

いつのまにか東屋の二人を見ていたようだ。体表の薄茶の毛が乾き始めている。

いきものはひょこひょこと近づき、腰かけに乗りあがって、弁当を見ている。

「なんだこやつは」

「河童だね。」

「話には聞いた事がありましたが、初めて見ました。」

河童は素魂すだまと呼ばれる動物の一種で、超自然的な力を使う

事で知られる。狗族に近い生物だが、人間に対する敵愾心は一切ない。

人里近くの川辺や湖でよく見られていた。

けえ、けえ、と小さい鳴声をあげて悪兵衛の弁当に指をさす。

「なに、きゅうりが欲しい?」

「いかん。これは玉杉殿より拙者が賜ったもの。断じてわたさん。」

「じゃあわたしがあげる。ほれ」

桔梗は微笑んできゅうりを河童に渡した。両手でもって大人しく

食べている。

「図々しいやつだ。」

「お前がいうか。」

もうひとつのきゅうりを食べて、河童は満足したようだ。

東屋から続く桟橋にでて、けえと鳴いた。

「相撲?」

「そうそう、河童は機嫌がいいと人間と相撲を取るんだよ。」

「悪兵衛、腹ごなしに相手をせよ」

笑いながら桔梗はいう。不満顔で悪兵衛は立ち上がった。

河童が立ち上がっても、幼年組の小さな力士ほどの大きさで

悪兵衛の膝程までしかない。桔梗が喜ぶので相手をしてやるか、

という表情で悪兵衛は手をつき、組み合った。

簡単に悪兵衛は投げ飛ばされて、頭からおちた。

何が起きたのかわからないが、東屋で桔梗が手を叩いて笑っている。

「なんだ?くそ、もう一度」

悪兵衛は河童に膝にくみつかれ、くるりと回されて背中から

倒れる。わけがわからず、呆然とする。が、立ち上がった。

「こやつ、破常力めいた力で」

悪兵衛は静かに呼吸し、士魂を練る。下腹に力をいれて河童に組み付く。

小さな河童の手で巻き込むように操られ、湖に投げ込まれた。

まわりに何匹か見物の河童があつまっており、けえ、けえと笑っている。


濡れ鼠の悪兵衛はげんなりしている。足元にはぽたぽたと水が溜まっている。

「河童はね、士魂をもつ人間を操るんだよ。」

「だから侍は相撲で勝てない」

笑いつかれた桔梗はようやくからくりを教えてくれた。

「子供は自然と体内に八百万の力があって、河童とすごく良い勝負に

なるんだって」

「大人になって八百万がなくなると河童は相撲をとってくれないの。」

「ひどいでござる」

桔梗はまた笑い、手ぬぐいで悪兵衛の頭を拭いた。





水沓奉納祭りまであと三日。

その日も二人は情報を得るために里を巡った。

午後になり別行動をとる。悪兵衛は武家の親子の家に邪魔をし、

行方不明者の家族を聞き出した。夕食を共にし、

とっぷりと日が暮れた頃、番役の屋敷を出た。

旅籠に戻り桔梗に報告せねば、と脚を早める。

着流し姿に下駄ばきで、暗い路にから、ころ、と音が響く。


「播磨悪兵衛」

商家の厩舎裏を通り過ぎようとしたとき、闇の中より声をかけられる。

「不知火、頭目だな。」

帷子に袴、編み笠姿の武芸者然とした男が柱の陰から現れた。

「いかにも。お点前は。」

「隠密」

編み笠を男は脱いだ。思いのほか若い。鋭い目つきをしているが童顔で、

肩までの総髪が波打っている。同年代の少年に思えた。

「隠密は姿をみせぬ」

「月光、だ。」

その名を悪兵衛は蔵書で見、灰音に聞いた事があった。

幕府直属の工作隊で、焦眉の急に派遣される隠密諜報部隊である。

「卍組、朧丸おぼろまる。」

男は背に負った刀袋を下した。

「仕合を申し込みたい。」

「それはまたなぜだ。」

「頭目のお主の噂を聞いた。個人戦闘に特化しているとな。」

「我ら卍組は格闘を旨とする。その腕、確かめてみたい。」

朧丸は、にやりと笑った。

「承った。尋常に勝負。」

悪兵衛は小物をいれた風呂敷包みを置き、下駄を脱いだ。

「まさか一介の忍びの相手をしてくれると思わなかったぜ。」

朧丸は意外な表情をしながら刀袋を放る。

受け取った悪兵衛は二本入っている木刀のうち、長刀をとって

投げ返した。

正眼に構える悪兵衛と小刀を逆手に持ち、その前に印を結ぶような

平手を構える朧丸。どちらも、余計な力の入らない自然な立ち居で

ある。悪兵衛が無造作に振り上げ、袈裟に木刀を落とす。が、その速度は

尋常ではない。振り下ろされた芝生が大きく波打ち草が舞った。

朧丸が消えたかのように見えた。刀の軌道上からわずかに身を反らせ、片手で

後方転回をし、避けた。悪兵衛は一歩踏み込み、逆に薙ぐ。

止まらず後方転回でそれも避け、後方捻りで飛びながら小刀を突き出し、

悪兵衛の三度目の剣を払った。

経験した事のない体術の冴え。練度をあげた技であった。

一瞬、悪兵衛は攻めあぐねる。そこで朧丸は一足で距離を詰め、小刀を

構える。悪兵衛はその攻撃に備えた。

踏み込んだ朧丸は、蹴った。

悪兵衛の膝の真横、筋肉で覆われていない箇所である。痺れが襲った。

が、戦闘力を削ぐほどではない。悪兵衛は構わず刀を振るう。

朧丸は小刀で受けた。その感触は、それほどの膂力を感じさせず圧力もない。

道場で出会う凡庸な剣士のそれであり、悪兵衛は拍子抜けした。

木刀を押し返し、距離を取ろうとする、その時朧丸は逆の脚で

下段回し蹴りを繰り出す。膝横を内側から蹴られた。

脚ががくり、と力が抜ける。

距離をとった朧丸は、小刀を投げつけた。

まっすぐに眉間を狙って放たれたそれを、悪兵衛は木刀を立てて受ける。

刹那、三度目の蹴りが膝横を撃った。

しびれが脚全体を襲い、力が入らない。飛びついてきた朧丸の距離は近く、木刀で払えない。悪兵衛の肩に手を置き、大きく空中で捻りながら回転、音もなく着地したその手には、投げ打った小刀が握られている。

(剣をなげつけるとは)

侍と大きく異なるその戦技に悪兵衛は瞠目する。その技術と戦闘力に

奮い立つた。

大きく刀を変形上段に構える。瞳は燃え、体内に士魂が充溢していく。

脚の痺れは取れず、踏み込めるのはあと一度だろう。

悪兵衛の瞳と、その構えに本気を感じた朧丸は上下に身体を揺らしながら

その一撃に備える。

悪兵衛が遠い間合いから剣を振ったかに見えた。

木刀は一直線に朧丸の胸にめがけて飛来する。一瞬、その突飛な行動に

逡巡したが、小刀で木刀を払う。破双で悪兵衛は一気に距離を詰めた。

朧丸の首裏、脊髄に手をまわし、逆の手で片足を抱える。

組打ちか!と思う間もなく、高速で身体が回転、その遠心力と悪兵衛の

膂力、二人の体重が打撃となって地面に激突する朧丸の背を撃った。

胸骨がおしつぶれ、肋骨がたわみ、肺が圧迫された。

悪兵衛の得意とする組打ちの一つ、「獲投げ(とりなげ)」であった。

呼吸不全となった朧丸は必死に小刀を持ち直し構えた。

その眼前に木刀を朧丸の首筋にあてた悪兵衛が立っている。

朧丸はにやりと笑い、木刀を避けるように回転しながら立ち上がり、

後方転回で距離をとった。まだ呼吸で出来ていない。生物としての危険信号を

凌駕する戦闘への意識。悪兵衛は木刀を下した。

「体術の 覚え も」

「あるのか」

ようやくわずかに呼吸を取り戻しながら、朧丸は不敵に嗤う。

「やられ たぞ。」

「朧丸、お前の蹴りで俺の膝も限界だ。」


「侍の癖に刀を投げるとはな」

編み笠を拾い、小刀を腰にいれる。その刹那、膝をおとした朧丸は消えた。

一瞬の暗がりに入ったとき、黒い帷子の背を見せて、飛び上がったのだ。

目の錯覚を利用した逃走術であった。

松の樹上から声がする。

「烈火の侍。とくとその力見せてもらった。礼をいう。」

樹上から家屋の屋根に移動し、月光を背にして言葉を残す。

「次は、「旭光」を見せてもらうぞ」

朧丸はその姿を消し、静寂が訪れた。


残された木刀に風呂敷包みを通し、肩にのせて悪兵衛は

歩きはじめる。片足を引きずっている。


旅籠の明かりのもと、玄関で桔梗が迎える。

悪兵衛の様子に驚き、変色した脚を見て悲鳴を上げる。

庭の井戸水で脚を冷やしながら、桔梗は悪兵衛の報告を

うなずきながら、聞いている。

何度か悪兵衛とやりとりし、

立ち上がって悪兵衛の頭にげんこつを落とした。





奉納祭りを明日に控えている。悪兵衛の膝もようやく動くようになった。

旅籠の座敷で朝食をとりつつ、二人は相談をしている。

「行方不明者の近親の者と話しをしましたが」

「何の訪れも書置きもなく、祭りの前後二、三日で逐電したと。」

「それでは、つみが言っていた宮司殿への相談とは。」

「そこで、近親の者でなく、ごく近しい友人に聞きましたところ、

宮司へ相談してみるといっていた者が四名いました。その相手含め八名。」

「すべて相落ちした者か」

「はい。」

悪兵衛は漬物と葱の味噌汁、卵を飯にかけて三杯食べ

落ち着いている。

「何もいわず、宮司に会いに行った者、旅行者も含めると相当な

数になりそうだ。」

「宮司が何かを握っている。しかし、我々は不知火の内偵であって

同心ではない。これ以上踏み込んでよいものか。」

しばし二人は考え込む。

「月光が来ています。」

「隠密諜報部隊が出張っている以上、お上は弥者もしくは狗族の

関与を考えての事だと思います」

「よし、三枝つみと会い、宮司との面談を決める。」

「お主は待機せよ。」

「しかし」

「膝を治せ」

不満顔の悪兵衛を残して桔梗は発った。


*


悪兵衛は相撲を通して知り合った若者の一人の家に赴く。

その者の父は古道学を研究し、この地の歴史を編纂しているという。

若者に快く招き入れられ、父から話しを聞く事が出来た。

悪兵衛の目的は水沓奉納祭りの起り、由来等なにか有益な情報であったが

各地に残る祭りの風習とさして変わる内容ではなかった。

豊作、水害からの守り、一族の繁栄を神に感謝する祭りである。

はるけき昔、一組の男女が人身御供となり豊穣を祈った事から

参加した男女の愛情が深まるという付加がある位か。

しっかりと話を聞き、若者の家を退去した。

堀の中の鯉に餌をやる母子の姿があり、子が「相撲のあんちゃんだ」という声にも悪兵衛は気づかず、険しい表情を浮かべ歩く。


悪兵衛は直観で感じている。

行方不明になった男女は殺されている。

恐らく宮司、もしくはそれに繋がる者。

「弥者」

宮司との面談が成しえるのなら、琿青を揮わねばならない事になる。

悪兵衛の目の光が強くなり、その足取りも早くなった。


*


「明日、宮司との目通りが叶う事になった。」

「午前中、祭礼が始まった頃にお主と二人で会う手はずになっている。」

火も暮れかけた旅籠の居室で、悪兵衛と桔梗が語り合う。

「承った。玉杉殿、宮司が鍵なのであれば弥者の可能性が高いと思われます。」

悪兵衛は刀袋に入った琿青を前に置いた。

「魁音刀は置いていく。」

「なにゆえ」

「宮司が弥者の可能性はある、が。帯剣してはいかぬ。」

「私とお前は、道ならぬ恋に落ち、宮司に相談しにいくからだ。」

「は?」

桔梗の顔がやや赤らみ、生真面目な表情になっている。

「ばか、そういう体裁をとったのだ。そうでなければ深い病の宮司と

会う事、かなわぬ。」

「三枝つみの話でそれしか方法はないと思った。我らが詰問する形では

真実が掴めぬかもしれぬ。」

「はあ」

「しかし玉杉殿と道ならぬ恋とは。」

桔梗は間抜け面の悪兵衛から目をそらして、傍らの文机を引っ張り

本日の報告を書きとめる。

「我等は、結婚の認められぬ仲、という事だ。」

「はあ」

「お前は家で預かっている武芸者、私はその家の娘、だ。」

「はあ」

桔梗は筆をおいてため息をついた。

「よいか、お主は宮司の前でしゃべってはならぬ。口裏を合わせても

絶対にぼろがでる。」

「承った。」

(嘘偽りの無い男とは思っていたが、これほどに不器用だとは。)

桔梗はとうとう苦笑する。


「これは」

悪兵衛は部屋の隅にまとめられた鎧櫃、鉄環で補強された行李

を認めた。そばまでいき、櫃を開け、目をむいた。

「本日、早馬で届いた。随獣であったぞ。」

輜重隊が物資の補給を行うために随獣を使役する場合、

それは一刻を争う差し迫った状況という事である。

装備品を確認した悪兵衛は目録と見比べる。

その額には、じわり、と脂汗が浮かんだ。

「刑部殿、何をお考えなのか」





前夜祭が始まった。

巫女と宮司による祝詞のりとと共に祭礼が始まるが、

今年は巫女の三枝つみ一人による祈禱が行われる。その為に

父や神主達と何度も修練を積んできた。

つつがなく式が進みつつある。


同時刻、悪兵衛と桔梗は宮司、三枝 保麿やすまろと対面していた。

布団から半身を起こした三枝は七十の老人のように見える。

目を落ちくぼみ、黄色く濁っている。肌は乾燥し皺が深く刻まれている。

薄い髪に、申し訳程度の髷。

「つみから、お二人の話を聞いております」

「この様な姿でお恥ずかしい」

消え入りそうなか細い声で三枝は語った。

二人は名乗り、長い沈黙が訪れる。


「水神様から、護りを得られるのは」

「ほんとうの愛情で結ばれた二人です。まずはお言葉を聞かせ願いたい。」

口裏を合わせたとて、桔梗にしても嘘を並べ、信用を得るような真似は

到底できない。悪兵衛はいわずもがな、である。

沈黙のあと、頬を朱に染めた桔梗が口を開く。

「みぶんが、違うと」


そういったきり、押し黙って俯く。三枝はその姿をじっと見つめている。

「播磨様はどう思っておいでか」

悪兵衛は三枝を見、畳に視線をおとし、また三枝を見返すが

紡ぐ言葉が出ない。重い沈黙があたりを満たす。


「悪兵衛、お主は私のために命をかけられるか。」

桔梗が前をまっすぐ見たまま言った。


道場の陽の中で笑う桔梗、皮が破け血がながれる我が手を握る桔梗、

土砂降りの中、涙を流して叫ぶ桔梗の姿が巡る。

「玉杉殿に、命を差し出します。」

悪兵衛は面をあげ、力強く言った。


三枝はそれを聞き、目をつぶり何かを呟いている。

悪兵衛は自らの言葉に自分でも驚いている。

「簡単な祝詞をあげまする」

「お二人に水神様の護りありますように」

三枝はよろよろを起き上がり、小麻こぬさを持ち、立ち膝で

祝詞を唱え始める。

流れ出すその韻律に心地よい物を感じ、やがて二人は目を閉じる。


三枝の瞳が緑色に燃え上がり、炎が噴き出す。

その口から言葉と共に緑の炎がこぼれおち、やがてその火は

全身を包んでいく。


「つみちゃんと」

「奉納の儀に」

「水神様のもとへ」

桔梗がうわごとのようにいった。その眼には緑の炎が燃えている。

悪兵衛も同様の意思を失くした表情である。

「水神様のもとへ」

「玉杉殿と」


「そうだ。わが娘と共にお前たちは贄となる。」

「愛に包まれ、善き魂となりて里を護る」

すでに、宮司三枝保麿の声色ではない。低く、しわがれている。

「奉納の儀と共にお前たちは水沓堂の扉を開き、水神の元へ」


「喝!」


桔梗の怒号が響いた。悪兵衛が立ち上がり、静かに宮司に近寄る。

すでに二人の瞳の炎は消えうせ、力強い光が漲っている。

三枝は驚愕の表情で目を見開きながらも、鼻腔と口から炎を上げ続ける。

「殺すな。吐いてもらう。」

桔梗の言葉に悪兵衛は頷きながら、

三枝の胸倉を掴み、腕を固めようとした。

瞬間、全身を緑の炎が吹き上がり、三枝の身体から抜け出て

背後の神棚に吸い込まれるように消えた。

三枝は意識を失っているだけのようだ。が、重篤な状況であった。


「弥者か?」

「いえ、破常力にしては弱すぎます。ただ、士魂を持たぬ者であれば」

「操られるであろうな」

「水神と呼ばれる物は何なのだ」

「わかりませぬ。ただ、それが密かに人間を殺し続けていたのでは」

「宮司がそれを?」

「自らの意思ではないでしょう。娘を差し出そうとしております。」

「つみちゃん」

「恐らく三枝つみどのは時限式の暗示をかけられています。」

「我らと共にある時刻にある場所へいくように」

心優しい少女を思い浮かべ、桔梗の心は痛む。

「どうすれば」

「旅籠に戻り、武装します。」

「ならぬ。」

「こたびの内偵は、視察と調査のみだ。単独での戦闘は禁じられている。」

桔梗の額に汗が浮かんだ。人員の追加を断ったのは自分なのだ。

報告と援軍を待たねばならない。


「調査の任務は遂げました。状況が変わったのです。」

悪兵衛は桔梗を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。

「佐官権限において、武装し敵を殲滅する事を宣言する。」

「よろしいか?玉杉中尉」


「承った。」

悪兵衛は、いつもの屈託のない笑顔を見せた。

「ま、大丈夫でござるよ。」


*


二人は旅籠への道を急ぐ。

様々な考えが巡るが、敵の正体を掴む情報が一切無い。

何もわからない状態で戦闘に入るのは余りにも危険だが

桔梗は前を歩く大きな背中を見つめ、ふと笑みを漏らした。

「悪兵衛。」

「お主、命を差し出すと申したな。」

「はあ」

「まことか」

「はあ」

気のない返答を聞きながら桔梗は悪兵衛の尻を足の甲で蹴りとばした。

悪兵衛は前につんのめる。

「入隊の時の、お返しだ」

尻をさすりながら悪兵衛は困った顔をしている。

「では、お返しのお返しは出来ないでござる。」

「玉杉殿には、大変世話になっており、拙者」

悪兵衛の言葉の途中で桔梗はもう一度、尻を蹴った。

「玉杉殿~」

悪兵衛の泣き声に、桔梗は明るく笑った。

その二人を編み笠姿の朧丸が見つめている。





奉納の儀は里の中央北の高台にある

水神の社で行われている。

三枝が宮司を務める本殿とは離れた場所であり、祭祀の為の場であった。


そのふもとの広場では篝火が焚かれ、夕闇が迫る中

里の人々、旅行者で混みあいつつある。

賑やかな祭囃子が響き、楽し気な人々で溢れる。

まつりの最後には中央の壇上に巫女が現れ、

祝詞と共に神楽を踊る事で奉納祭りは最高潮を迎える。

集まった男女はその時を待っていた。


つみは、神主四名と共に社の廊下を歩む。

最奥、水沓堂と呼ばれる瞑目室に向かっている。が、その表情はうつろで

足取りは覚束ない。神主の一人、初老の男が気遣う。

祭礼の重責に耐えかね、疲労が出たのであろうと労う。

神主達はつみが幼少の頃より見知っている人々であった。

堂内部に入る潜り戸を抜け、つみの動きが止まる。

蝋燭が燈され、仄明るい堂の中央、二人の人物が腰を下ろしている。

ゆっくりと立ち上がった。

「どなたか」

「ここで何を」

狼狽した神主達が誰何する。


「本閥、吶喊白兵衆参、不知火。」

「播磨悪兵衛少佐である。」

「同じく、玉杉桔梗中尉。」


鉢金に鬼門甲、純白の戦陣羽織、鉄製の肩当に琿青を差した

中規模以上の戦時の姿。不知火の完全装備、であった。


「宮司、三枝保麿、弥者もしくは狗族との関連が内偵の上判明した。」

「その娘、つみを今より吟味いたす」

悪兵衛の言葉により、さらに混乱する神主達、一瞬の呆然の後

口々に話し出す。


「黙れ」

桔梗の言霊が堂をつんざいた。その威力は悪兵衛より上である。

神主達は皆倒れ込み、尻もちをついた。

一瞬の暴風のような士魂の圧で、つみの全身から緑の炎が吹き上がり、

背後の祀られた祠に吸い込まれるように消えた。同時に木組みの神棚が

内部に吸い込まれ、ぽっかりと穴が空く。

つみは力なく座り込んだ。

「お見事。」

悪兵衛はにやりと笑う。桔梗の視線の先、空いた暗黒の穴に空気が抜けている。

人の頭が入るかどうかの大きさである。

「この先は?」

「悪兵衛の鋭い問いに神主の一人が震え声で答える。

「ご神体が」

「水神様の洞に続いております」


一瞬の静寂の後、神棚がめりめりと音を鳴らして

壁ごとちぎられる様に内部に引き込まれる。

梁が折れ板壁が割れた。

一抱えもある、繊毛に覆われた昆虫の牙が、壁を食い散らかす様に

穴を広げていく。ついに壁の一角が崩れた。

内部の暗黒に三つの光源が一対光る。やがて緑の炎が噴き出され

照らされたそれは昆虫の連なった単眼であるとわかる。

壁一面程の巨大な昆虫の頭部に、

壁を食い破った黒光りする牙の生えた顎門あぎと

その中心の口中より緑の炎が吹き上がっている。

頭部を振って空中にその炎を吹き出す。

いくつかの鬼火にわかれた炎は静かに堂に降った。

悪兵衛はそれを一歩引いて交わす。桔梗はつみを抱き、堂の端まで

待避する。混乱し、悲鳴を上げる神主達に炎は注がれ、

やがて皆倒れた。その身体に炎が燃える。その火勢は強く、火の海の

ようであったが、まったく温度は感じない。

「この炎は」

悪兵衛が神主を助けようと跪いた時、

炎が吹き上がり、暗黒の壁に吸い込まれていった。

神主は絶命している。

「人の命を吸っている。」

桔梗が眉をひそめいった。神主の死を知ったつみは、大叔父様と

悲鳴をあげた。

琿青の唸りがひときわ高く鳴る。

「玉杉殿、つみさんを表に」

がちがちと鍔を鳴らし、唸り声をあげる琿青をなだめるように

柄に手をかける。

昆虫型狗族は一度姿を消し、再度壁に激突する。頭部が露出するが

身体部がひっかかり、もがく。

三名は渡り廊下を走り、社の表に飛び出た。

石畳と玉砂利が敷いてあり、かがり火が社を浮かび上がらせている。

その背後は断崖、おそらく内部に水神の洞があり、

その為に造営されたものだという事がわかる。

内部より軋るような鳴声が聞こえ、緑の炎の塊が吹き出す。

上空に吐き出されたそれは、二つ、三つ、と別れその数を

増やしながらゆっくりと降り落ちる。

落下地点は人々が集まる中央の広場であった。

悪兵衛の脳裏に相撲を取った若者たちの笑顔、まわしをつけた子供達、

その家族、里の人々が悲痛な思いと共によぎる。

「玉杉殿、あの鬼火を」

「お主は」

「ここで奴を屠ります。」

「あれは超大型狗族だぞ。」

悪兵衛は背に負った戦旗を地面に突き立て、士魂を込めた。

無地の旗に白緑の炎が燃え上がり、くっきりと不知火の紋章が浮き上がる。

「護らねばならぬ。侍として。防人として。」

「お頭に命を預け、白くもゆる焔に誓いました。」

「いまこの時、民を守らねば。国を護らねば。」


「いってくだされ。」

「あの炎の数は玉杉殿の魁音撃でしか消滅させられませぬ」


桔梗は無言で立ち上がり、一度だけ悪兵衛の瞳を見つめた。

それで、充分であった。

つみを伴い、社から里へ続く石段を飛ぶように駈け下りていく。

宵闇にその姿は消えた。





社の内部、水沓堂のあるあたりから崩壊の大音響が響き

大量の埃と木片、残骸が吹き出す。

同時に狗族が姿を現した。

ぬらぬらと光る黒色の丸い頭部に長大な顎肢、2本の長い触覚、

胴節から伸びる節くれだった腹から蠢く無数の歩肢。

半透明の黄色に毒々しい赤い斑点。とぐろを巻くその姿は、

社一軒と同等の大きさの巨大な百足であった。


悪兵衛は琿青をゆっくりと引き抜く。清浄な青い火花が辺りを照らす。

鳴りやまぬ魁音刀を大百足はその六つの単眼で見、明らかな嫌悪を示した。

無造作に歩を進め、刀を振り上げ、斬りつけた。

わずかに反応した大百足の蠢く歩肢が切り落とされ、緑色の血液が吹き出る。

大百足はその大きさ、姿から想像も出来ぬ速度で地面を滑り、巨大な顎肢を

悪兵衛に向け突進した。悪兵衛は難なく避けるが、

頭部に続く腹部から伸びる歩肢が、次々とその鋭い爪先を向ける。

受けるでもなく、避ける悪兵衛は次の攻撃を伺った。

その瞬間、大百足の尾より長く伸びる曳航肢と呼ばれる脚が

悪兵衛を跳ね飛ばした。

鞭のようにしなるそれは一度たわんで視界から外れた後、

追撃したのだ。

吹き飛んだ悪兵衛は石灯籠を崩し、社の漆喰の外壁に激突した。

その瞬間、壁は悪兵衛より放射状にひびが走り、破裂するように

内部が崩壊し、崩れ落ちた。戦陣羽織による、衝撃分散の能力である。


鬼門甲はその鎧としての外的な強度は勿論、士魂が流通し、

外部に自然放出するの妨げる。また流れる士魂により

本人の意識の中で軽量化していく特徴がある。

対して戦陣羽織は、衝撃反応装布という素材で構成され、

表面上の打撃、斬撃、爆破等を周囲に逃がし、

分散させる能力を持つ。

これらはすべて技研の松橋中佐、御津菱の竜井主任によって

開発された物であった。


潰れた果実のように即死する運命を免れた悪兵衛ではあったが

鎧内部では大きな衝撃に内臓が悲鳴をあげる。

吐き気が込み上げ、口中に血の味が広がった。

鮮血を吐き捨てて悪兵衛は立ち上がる。


鎌首を上げた大百足の腹部から胴、頭部まで連続して小規模の爆発が起きた。

乾いた音を立てて、火薬が爆ぜている。頭部の破裂は、三つの複眼を破壊し、

緑の血液が滴り落ちた。

大百足は激怒したように崖にとりついた。

断崖の途中より伸びる樹木に、影の様な者が、何かを投擲している。

大百足に当たったそれは爆破を起こす。

大百足が垂直に崖を這い上ると同時に影の男は樹木の中に姿を消し、

直後悪兵衛の元に現れた。装甲のついた黒装束に覆面をしている。

肩部に三日月の紋章が描かれていた。


「だらしがないな、侍。」

「朧丸か」

覆面の布を下す。目元を黒く塗った朧丸の皮肉な笑顔が現れた。

崖に取り付いた百足は滑るように這い降り、鎌首をもたげて

緑の炎を中空に吹いた。

夜空に打ち上がったそれは無数に枝別れし、流星のように

里に降り注ぐ。

「あれは何をしているのだ」

「恐らく、人をあの鬼火で燃やし、命を吸う」

「なにっ」

「大事ない。」


無数の鬼火が一つ消え、二つ消え、一気に消失した。

桔梗の魁音撃がすべて消滅させている。

「玉杉殿、流石。」

「あの中尉か。」

「朧丸。仲間につなぎを付け援軍を待て。」

「もうつけた。お前と共に奴を殺すのが自分に課した任務だ」

言いながら朧丸は背後より金属製の円盤を取り出し、松の大木にあてる。

小さな爆発と共に円盤が打ち付けられた。そのまま樹木を蹴りあがり、

他の木に飛び移る。

鋲と呼ばれる鉄製の投射武器を片手にまとめ、一本ずつその尾に仕込まれた

信管の紐を噛んで抜き、投擲する。

鋲は百足の腹に食い込むと火薬の爆破が起きる。

大百足は血液を吹き出して身をよじる。朧丸に向かい、突進しようとした所、

朧丸は中空に飛び出し、張ってある鋼線を伝い別の樹木に移動する。

振りむいた百足の腹元に、変形上段に構えた悪兵衛が立っている。

強烈な士魂の滾りを感知した百足はその場から離れようとした。

「旭光」

悪兵衛の叫びと共にかすかに発光する衝撃の塊が撃ち出された。

朧丸は目をみはる。回転しながら空気を巻き込み打ち上げられた

爆壁は強烈な炸裂音と共に、大百足の胴節を半ば吹き飛ばした。

一瞬の後、大量の緑の血液を噴き上げる。が、損壊部は広がる事はなく

大百足の行動の速度は変わらない。

明らかに弥者への攻撃能力とは異なっている。

それは弥者と狗族の体内の組成物質の違いによって起きる

魁音撃への反応の差であった。

「腹を吹き飛ばして死なぬとは」

悪兵衛は憮然としながら、破双で曳航肢の攻撃をかわした。

朧丸は旭光の直前まで木々と社の壁を鋼線でつないでいた。

百足は動きを阻まれるが、顎肢で糸のように鋼線を斬り飛ばす。

その間も緑の炎を断続的に吹いた。

地面に飛び降りる刹那、朧丸は悪兵衛を見た。悪兵衛は頷く。


朧丸は大百足の正面に立ち、鋲を構えて狙いを定める。

百足は炎を吹きながら一度大きく伸び、真上から朧丸めがけて

牙をむける。瞬間、朧丸は鋲をうたず、手元の鋼線を引いて大きく

背後に仰け反り飛び上がった。その足下を悪兵衛が破双で突入する。

「旭光」

二度目の爆壁が打ち上げられ、大百足の頭部の半分を吹き飛ばした。

のたうち、うねる。社の境内が緑の血液で染まり、煙を噴き上げている。

「まだ死なぬか」

大百足の生命力に感嘆の声をあげる朧丸。鋲の残りは三。

旭光によって開けられた頭の損傷部をさらに爆破するつもりで朧丸は

飛び上がった。が、その下半身を曳航肢がかすめるように撃つ。

軽量の朧丸は吹き飛ばされた。

悪兵衛は血を吐き捨てながら、月旦抜きを琿青に打ち込む。

刀身より白煙があがり、金属音が低くなった。

「侍、旭光の残弾は?」

樹上より朧丸の声が響く。しぶとく生きる忍びの声に悪兵衛は笑顔を見せる。

「いち、だ。お前は戦えるのか」

「脚が折れた。もう飛べぬ」

大百足は悪兵衛に向き直り、とぐろを巻きながら攻撃の隙を伺っているようだ。

身体の損傷による能力の衰えを全く見せていない。

じりじりとにじみよる。悪兵衛はゆっくりと正眼に構える。

大百足との間に斜めに光る銅線が見える。

朧丸が吹き飛ばされた直後、苦無ともに放ったものだ。

ゆらゆらと揺れ、松の木刺さった苦無は今にも抜けそうである。

「悪兵衛!」

朧丸の声と共に悪兵衛は苦無の背に足裏を当て、蹴破を発動する。

爆破音と共に苦無が樹木内部深くに刺さり込んだ。

朧丸は鋼線を持ち渾身の力をこめて中空に飛び上がり、

百足の頭上を飛び越す。鋼線が回り込み、頭部を中心に振り子のように

鋼線を引きながら着地する。同時に打ち付けた金属製の円盤に鋼線を固定、

取っ手を伸ばし、回転させる。

火花をあげて鋼線が巻き取られ、頭部が引き寄せられた。

その眼前には、変形上段を構える悪兵衛が立つ。

「成敗する。旭光」

悪兵衛の怒号と共に三度旭光が射出された。毒煙を吹き飛ばし、

血の底から湧きおこるような轟音を上げて破壊の塊が打ち上がる。

大百足の頭部は跡形もなく、吹き飛ばされた。

ゆっくりと倒れ込み、悪兵衛の足元に遺骸を晒す。

歩肢が痙攣しながら蠢いている。





琿青を突き立て、片膝立ちで荒い息を吐く。口中に溢れた血を吐き出した。

精神肉体ともに限界に達し、体内で生成する士魂は、すでに滅している。

朧丸は樹木に背をあずけ、腿に添木し、布で固く巻いている。

覆面を降ろし、鼻腔の血を拭う。


半壊した社より異音があがった。

無数の昆虫が這い回るような擦過音が響く。

大百足が姿を現す。次いでもう一匹、さらに一匹姿を見せる。

悪兵衛達から一定の距離で取り囲むように大百足は蠢き、

とぐろまいて、その単眼で二人を観察する。

「五匹おるな。朧丸、助太刀かたじけないが脱出し本隊へ連絡せよ。」

手下てかに伝えてある。それに俺は卍組だ。脱出なぞするか」

よろよろと朧丸は立ち上がった。


「そうか。どうやら俺はここで死ぬ。」

「死なば諸共よ。」

「よし。一匹でも多く屠ってくれる。」

「さらばだ、忍び。」

「さらば、侍。」

悪兵衛は感謝の意を込め、琿青の刀身を額にあてた。

「南無八幡」



衝撃の火柱があがり、大百足を飲み込む。半身が巻き込まれ

腹部と共に無数の歩肢が吹き飛ばされた。身動きがとれない大百足に

飛来する光点、接触と同時に衝撃波の破裂が起きる。

三発の破壊弾と足元の火柱で大百足は完全に沈黙した。

「野火…それに明星」

悪兵衛はその魁音撃を使役する二人の男の顔を思い浮かべた。


「生きておったな。」

「だいぶやられたのう。」

完全装備の仁悟朗と士道が石段を上がってくる。

流星のような光の線が大百足を貫く。何本かは頭部を吹き飛ばし

地面にその身体ごと打ち付ける。

遅れて橘川兄弟も姿を見せた。

「行部殿の指示で侵攻の前倒しだ。おかげで休みがなくなったぞ。」

「一圓、空爆追加だってさ。」

次々に殲滅させられていく大百足。

わずかばかりの間にすべて動かぬ躯となった。

悪兵衛は片膝をつき、うつろな目でその様子を見ている。

(刑部殿、報告から状況を呼んで援軍を)


「社の内部に侵攻、狗族を発見し次第殲滅せよ。」

織田刑部自ら陣羽織と鎧姿で現れる。

「刑部殿」

「うむ。死んではおらんな。」

刑部の頼もしい笑顔で、悪兵衛は気が遠のく。

その肩を桔梗がささえた。

悪兵衛は穏やかに微笑む。桔梗は何も言わない。


朧丸がはいずるように近づいて来た。

「生き残ったな、悪兵衛。」

「うむ。」

桔梗の目に涙が光っている。


*


宮司、三枝保麿はすでに息を引き取っていた。

昏睡に陥ったつみは看病を受けていたが、容体は快方に向かった。

意識をとりもどし、桔梗の手を握れるほどに回復する。

水神の洞の奥には犠牲者の物と思われる残留物が散乱していた。

その数、氏名、年代等今後調査の手が入る。

保麿と狗族の中にどのような取り決めがあったのか。

また、それはいつから続いていたのか。

現時点ではわかっていない。


「お前はあの数を相手にするつもりだったのか」

「最初は一匹でござった。」

旅姿で胸に包帯が巻かれた悪兵衛。並び歩く桔梗。

馬上の朧丸。手綱を握っているのは手下の物で覆面姿だった。

「最初の一匹で士魂を使い果たしていたな。」

「それは言うな。」

笑い声を残して朧丸は去った。



社を破壊した大百足は不知火と隠密、要請に応じ集められた藩の兵士により

内密に処理される。

水神と呼ばれた狗族はこの里で古くから人間を食らい、生きながらえてきた。

宮司は狗族に魂を引き渡しながら言った。

贄となった人間は良き魂となって里を護る、と。

狗族と人との結びつきは太古からある。

それは人間と自然の関わりに近いのかもしれない。


相反する力を弥者は利用し、戦の道具としている。

それが人間と狗族と自然にとって、善なのか、悪なのか。

今はまだわからない。




水郷の贄  了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る