不知火戦奇

@tsuruhiroki

旭光の侍

 序


 八百万の神のおわす時代。

 日のいずる山とみ霊の宿る大地の国。

 命の白い炎燃え、天に丹の稲光走り、

 わだつみは蒼く嘯る国。


 来るべき訪れる益荒男の時代。


 人類は狗族くぞくと呼ばれる異形といくさを繰り返していた。

 超然の力を身に着けた狗族に劣勢を強いられ、数多の命を散らしている。

 また狗族を指揮する者達によって度々の敗戦を喫し、

 滅びの時が来るのも時間の問題と考えられていた。


 しかしこの非対称戦争に戦勝をもたらすと言われる兵器が登場した。

 現在より約三十年程前になる。

 以来、戦況は一変した。


 *


 戦場は陽光に輝く雪原であった。針葉樹が影を落とし、冷たい風が吹く。

 点のように落ちている赤黒い染み、それはすべて死体である。

 無念の表情をうかべる血まみれの兵士達。ぽつりぽつりと倒れている

 それはやがて、おびただしい数になった。

 埋葬も死を悼むことすらできない、生き残りの兵士達が集まっている。


「生存数六十七名。半数が戦死、戦時中行方不明含まれます。」

 茶色の胴丸に折れた槍を持った兵卒が年配の男に申告する。

 その額には血が滲んだ鉢巻が痛々しく巻かれている。

「敵は入道蜘蛛と編切り、背後と前方に無数に出現。」

「一時方向の丘陵、指揮をしている弥者やしゃ確認。」


 矢継ぎ早に悲鳴に近い報告が上がってくる。

 残存兵達はすでに恐慌をきたしていた。

 隊長と呼ばれた年配の男は言葉を発する。

「もはやこれまでと知って姿を現したか、異形めら。」

「皆、国と仲間を思いながら死のう。」

 隊長の絶望の言葉と共に兵士達は微笑を浮かべる。

 諦めと、戦う意思と、空白の混沌とした感情に支配され、異様な

 雰囲気になっている。

「それぞれ三方に退却、敵の包囲の薄い」

 足元の雪が爆発したように吹き出し、隊長の腹部を背後から

 黒々とした節足が突き刺した。胴丸を突き破り、刺にも似たそれは

 鮮血とともに隊長の命を易々と奪う。

 全身を雪中から現したそれは、およそ人の三倍はあろう巨大な蜘蛛で

 その頭部は人間の老人に酷似していた。薄ら笑いさえ浮かべている。

「敵襲」

「退却、退却、退却。」

「蜘蛛が」

「岩本殿が」

「敵が」

 兵卒の悲鳴がその場にいたおよそ六十名程の者たちに波及していく。

 すでに戦う隊列を成してはいない。恐怖が支配する混乱した只の人間の

 集まりに過ぎなかった。


 狗族、とは。異形である。その出自は詳しくわかっておらず

 太古より存在していた。人外の地に潜み、例外なく攻撃する危険な生物で

 その駆除も行われていたが、廃絶には至っていない。

 約百年ほど前、狗族を統率する「弥者」と呼ばれる亜人種が現れた。


 戦場を見下ろす小高い丘陵の先、二人の屈強な男が虐殺を視ている。

 分厚い皮製の肩掛け、鈍く金に光る装飾具、また衣服の上からでもわかる

 大柄な肉体と力を秘めた腕の血の筋。細かく文字の刻まれた仮面をしている。

 一人は静かに見守り、一人は背後に付き従い膝をついている。


「アリの巣をつつくがごとし」

「まさにまさに」

 嘲笑を含んだ声で会話する。弥者である。

 背後の男が仮面をとり、死者の数を確認する。

 男の容貌は頑健な成人男性のそれだが、複雑な文様の入れ墨がその表面を

 覆っている。またその額には瘤のような角が生えている。ふと、遠くの音に

 気が付き、顔をあげる。


 兵卒にとって地獄、であった。

 槍を揮い、漆黒の蜘蛛を突いてもその刃先は岩石のような表皮を

 貫くことはできず、節足で頭蓋を粉々にされる者。

 噛みつかれ、首元から鮮血を噴き上げる者、

 逃げ出す背中の皮ごと脊髄まで引き裂かれる者。

 踏み固められた白い地に大量の血液が降り注ぐ。

 六十名程いた生き残りが相対するのは二百以上の入道蜘蛛と呼ばれる狗族だった。


「ヤマヒコノヌシ…恐れながら」

「ワリビトが現れたか」

 ヤマヒコノヌシと呼ばれた男が仮面の奥の目を光らせる。

 雪原の向こう、かすかに太鼓の音が響いている。

 山びこのようなその音は徐々に音量を増し接近してくる。


 逃げまどい、血にまみれながら戦う若い兵卒がその音に気付く。

 幻聴をうたがい、耳元を掌で打ち付けて自らの意思を確認する。

「あれは…」

「あれは…本閥」

 死を覚悟していた兵卒の瞳に涙があふれる。

 隊長を失い、仲間を虐殺されながら踏みとどまっていた者たちから

 絶叫に近い声が沸き起こる。

「本閥だ!」

「不知火太鼓だ…!不知火だ!」

「不知火だ…不知火が!」

 若い兵卒は狂喜しながらも、目の前に現れた入道蜘蛛に槍を叩き折られ

 命を失おうとするその刹那

 飛来した光源が入道蜘蛛を爆撃した。

 八本の節足のうち四本まで爆散し、胴、胸、首も穴が開いている。

 雪原に飛来した光源は矢であった。その矢羽には揺らめく炎の紋章が描かれている。

 矢によってばらばらにされた入道蜘蛛はゆったりと動きながらその命を終えた。

 戦場には蜘蛛だけを精密に狙った矢が降り注ぎ、すべて命中後血潮を噴き上げて

 破壊していった。


「空爆命中、距離六十」

「第二射放て」

 幾人かの純白の陣羽織を纏った兵士の中、その長と思われる初老の男が

 冷静に言い放つ。その脇には轟音を放つ太鼓を打つ僧形の男。

 傍らにつく面長の男が長による指示を他の男達に与え続ける。

 二名の射手が打ち上げた矢は光弾となり、降り注ぎ、

 入道蜘蛛だけを確実に屠る。

 太鼓の轟音と矢に、蜘蛛達の動揺の蠢きが広がる。


 次々と破壊される入道蜘蛛を見つめている弥者。

 狗族の主とも思われる身分の高い男が、剣の柄を強く掴みその戦意で

 揺らめいている。付き従う男が重い口を開く。

「ワリビトの部隊、ビャッコと思われます。数七名」

「死神の連中か」

「退却する。ヤツマタノナリムシは捨て置け」

「しかしヤマヒコノヌシ」

「勝負にならぬ。ここで命を落とすことも許されぬ」

「奴らは人に非ず。ことわりを破壊する我等の天敵」

 盟主の弥者二人は戦場に二百の入道蜘蛛を残し、踵を返した。


「空爆停止、抜刀準備」

 弥者達にワリビトと呼ばれ恐れられた戦士団の長が低い声を出す。

 十名に満たない男達は腰の刀に手をかける。

 鞘の奥で低く唸るような金属音をあげた刀は、

 渦のような音響になっていく。


 何代にもわたる狗族との死闘、弥者との戦争。

 そのなかで人類はとうとう最後の攻撃手段を身に着けていた。

 本土決戦軍閥師団、通称「本閥」と呼ばれる戦士団は四つの軍団に分かれ

 中でも拠点防衛義務を持たない攻撃専門の軍閥が「不知火」と呼ばれる。

 異形との戦争に勝ち抜く為の最後の人間兵器「侍」である。


 阿環 址間 

 刃羅 別那

 聡羅刃 波螺邪弥 

 苦羅斗羅 阿環邪

 刃羅 別那

 刃羅 別那


 侍達が同音異口を発する。面頬に包まれた戦士達の目は光り

 異形に対する恐れはない。発する文言により戦意が膨らんでいく。

 腰の刀からは異様な金属音が唸り、小刻みに震えている。

 それを抑えるかのように炎の紋章の鍔を抑える侍達。


士魂しこん」が発動していた。

 それは戦いの中で編み出され、研鑽されてきた怒りを含む精神力。

 手に持つその刀は、力を刃で射出する兵器である。

 しかしそれを発動し殺傷力として扱う事のできる兵士はごく僅かにとどまる。

 精神と肉体を極限まで鍛え上げ、かつ希少な精神力を持つ超人兵器、

 それが本閥の侍である。

 弥者には死神と忌まれ、人々には軍神と崇められる

 人類最後の剣であった。

 不知火の侍達の抜刀の金属と炸薬の異様な音が雪原に響いた。







 旭光の侍



 一



 穏やかな朝の光の中、武家屋敷と町人街の立ち並ぶ境の石畳を、

 少女が歩いている。頭上の桃にはつぼみが膨らみ、黒い帽子をかぶったような

 オナガが止まっている。

 その薄青い尾を見て目を細める少女、制服に身をつつみきつく後ろ髪をしばりあげ

 木刀袋を肩からかけている。引き締まった体躯が武芸を感じさせるが

 その表情はまだ幼い。

吉房きっさどの!」

 少女を追って、小柄な少年が走ってくる。吉房と呼ばれた少女は一瞥して

 また歩き始めた。

「おはようございます!昨日の武芸大会は」

「朝から騒々しいな重森。小鳥もさえずらなくなった」

「これは…すいません」

 少年と少女は談笑しながら歩む。他の学徒達の姿も増えてきた。

「瓦版見ました?不知火が出てましたよ!」

「昨日母上から聞いたよ。狗族を殲滅したって。」

「恐ろしいですねえ 隊士は七名で狗族は二百以上って」

「不知火はそういう部隊でしょ。」

 素っ気なくいいながら、吉房七重はその侍達に畏敬の念と憧れを隠す事が

 できない。やや頬が紅潮している。

 通学している学徒達は木刀袋や弓袋を手にし、思い思いの様相だが

 心に期する表情の者も多い。

 全国でも有数の学徒練兵場である私立武僑高等学園。

 今はその全校武芸大会の只中である。


 道の傍らを、異様な男が歩いている。

 背に薪の束を背負い、行商しているのだろうがその大きさ、量が

 尋常ではない。金属製の骨格だけの背負い籠に革で巻いた山のような

 薪をのせ、一歩一歩歩いている。七重と重森は思わず顔を見合わせる。

「牛みたいな運び方するやつだな」

「薪屋の井上さんじゃない…?」

 七重の家にでも出入りしている馴染みの老人ではない。

 毛皮の作務衣に似た長着に短めの軽衫で、そこから伸びる足は力強く

 髪はざんばらの総髪で表情はわからないが若いようだ。

「松脂の匂い」

 異様な風体の男に目を奪われた七重は、そこに残った香りに気がついた。


「一年の吉房だな」

 七重と重森の前に大柄な学徒が立ち塞がった。

 若年でありながら堂々した体躯、異様な目の光を発している。

「船山さん」

 重森がおびえた表情で七重の背後に隠れる。

「船山…武専の」

 名前と顔で七重が思い出した。学園では三年次より武道専門級、

 通称武専と呼ばれる選抜組が存在する。

 船山と呼ばれた男の背後に二人、その級友と思わしき学徒が従っている。

「こいつが中等で全国優勝した吉房?」

「ふうん」

 悪意あるまなざしで七重を値踏みする二人。

「大会でお前にけがをさせたくなくてな。」

 大仰に船山が言った。

「まだ一年。俺たち三年は本閥選が掛かってる。」

「辞退届、出せ」

 武僑高等学園はその優秀な人材育成の実績により、

 本閥入団への特別推薦枠を持っている。

 本土決戦軍閥師団への入団。それは武を志し国を護る者たちの

 最高の到達地点であり、一族の誇りにもなりえるものだった。

 年間一度の全校武芸大会、そこで結果を残す者には

 本閥への推薦がかかっている。

 船山は試合の前に七重に出場辞退を強いてきたのだった。

 

 町家の間の暗い路で七重は取り囲まれていた。 

「私の怪我を気にして頂かなくて結構。大会には、でます。」

 決然と言い放つ七重。強い意志とおおきな茶色い瞳が輝いている。

 にやにやと笑いながら船山が体躯に似合わない素早い動きで

 七重の手首をとった。

「細い細い 色も白い。」

 背後の男達が笑い声をあげる。

「橈骨」

 船山が笑いながら七重の手首を味わうように握りしめる。

「ずれると二月は動かせない。」

 船山の意図をくみ取り、蒼白な表情を浮かべる七重。背後の重森は

 いつのまにかいない。万力のように手首をつかまれ引き上げられて…無理に

 引きはがせば骨折もやむない。悔しさに表情を歪ませる。


 肉体に重量ある物体が激突した音が鳴った。重く、身体を破壊する嫌な音。

 武専の一人が物言わず蹲る。

「近藤?」

 手下ともいえる男に気を取られる船山。その後もう一人の男にも鈍い音が。

 うめき声をあげて町家の壁にもたれかかる男。その腹部から地蔵の頭ほど

 の丸石が落ちた。

「片岡!?どうした」

 二人の異変に狼狽した船山は、紅潮した顔で七重を睨みつける

「吉房、何を」

 言い始めた途端、七重は足元に飛来する丸石が急激な弧を描いて

 上昇、船山の鳩尾に埋まる瞬間を見た。

 白目をむいて倒れ伏せる船山。口の端から血の混じった泡を吹いている。

 手首をさすりながら七重は後ずさりし、道の出口に視線を向けた。

 一瞬、そこに人影を見たが、表通りに出たとき、もうそれはない。

「松脂の匂い。」

 七重は、またその香りを感じた。



 二



 ざわつく教室の一角、七重は自分の机を用意し教科書を風呂敷から出していた。

 船山に襲われた直後逃げ出した重森が平身低頭、謝っている。

「もういい。大会で決着つけるから。」

 にべもなく言い放つ七重の瞳は強い光を放ち、近づき難い空気を出している。

 愛想笑いを浮かべながら重森はその横顔に見とれている。


「はいー朝礼するよー。」

 甲高い声をあげて担任の日根野が入ってくる。中年で小太りに丸顔、

 朝なのにうっすら汗をかいている。

 学徒に優しい教師で慕われているが、本人はその人気には無頓着な男だった。

 学徒と教師が一礼する。


「大会二日目ですー。来週までまだまだ日程はあるのでみんな怪我だけ

気をつけて。」

「良い成績を残したものは本閥選の推薦、あるの知ってるね」

 丸顔を紅潮させて日根野が声をあげる。ざわめく教室。

 級友がにこやかに七重は絶対大丈夫と声をかける。

 七重も微笑みを返しながら強く拳を握った。

 武専の船山達が固執する推薦枠は学年を超えて本閥への推薦を許される。

「本閥選」とは、全国の一五歳以上の男女により一年に一度行われる

 総合兵役試験である。

 厳しい試験を潜り抜けると、さらに専門課程の課題があり、その突破により

 本閥への入団を許される。

 学業・生活の全てをかける学生は多数いた。


「あ、いかん。はいりなさい。」

 日根野が廊下にたたずむ学徒に声をかける。

 教室に入ってきたのは、朝の薪を運んでいた男だった。制服ではなく作業着のまま

 総髪は申し訳程度に後ろで結わえている。

「自己紹介しなさい。」


「本日より編入とあいなった、播磨悪兵衛はりま あくべえである。」

 少年らしい緊張の混じった声で自己紹介する男、頑強な体躯の割に童顔で丸鼻、

 垂れ目に厚い唇で、なんとも愛嬌のある顔をしている。

 独特ないでたちの転入生に教室はざわめく

「きたねえ!」

「髷結ってねえよ」

「言葉が古い」

「顔洗ってなさそう」

「服からバッタでた」

「たらこ唇」

「可愛い顔してる」

「バッタでた」

「変」


「えー播磨君はお家の都合でまだ制服もないけども、みんな大会の事

 教えてあげて、早く仲良くなれるように。」

 日根野が播磨の真ん中の音が上がる妙な発音で学徒達が笑う。

 頭をかく播磨悪兵衛。

 指示された最後列の席に歩む。七重の横を通り過ぎる時、

 やはりあの「香り」を残した。


 *


 鐘楼から昼をつげる鐘が響く。

 教室では学徒が思い思いの食事の弁当を広げている。

 女子生徒で固まっていた七重は席を立ち、最後列の悪兵衛のもとに

 歩み寄り、座った。

「ね、播磨君。」

「朝会ったよね?石投げたでしょ。」

 悪兵衛は一瞥した後、手元の朴葉の包みをあけ、

 ふかした薩摩芋を皮ごと食べた。

「会っていない。」

「嘘だ。どうやって投げたの?あ、それよりありがとう。」

 頬を少し紅潮させて話しかける七重から視線をはずし、

 芋を食する悪兵衛。その表情からは何もくみ取れない。

 その様子を重森が食い入るように見つめている。

「吉房どの、転入生が気になるみてえ」

「なんか野生の男って感じだよな。」

「お嬢様はあの手合いが好きなのよ。」

 口さがない級友が笑いながら小声で話す。聞いた重森が立ち上がり

 悪兵衛に近づく。


「お前、飯いもだけなの?」

「食べ物ないとか?珍しいねえ。」

 重森が半笑いで話しかける。その意図は悪兵衛の貧しい食事を

 笑いものにする為だった。不穏な空気に教室の視線が集まる。

 七重が重森をみあげて睨む。しかしいつもと違う彼の表情に一瞬狼狽した。

「なんか言えよ。」

 普段は声を荒げたこともない重森が、机の上の芋を足蹴にしようとした。

 衣擦れの音と閃くように動いた悪兵衛の腕を、七重はみた。

 蹴ろうとした重森の足裏に、悪兵衛が掠るように拳を当てたのだ。その瞬間

 重森の身体は一回転して着地した。わけもわからず本人は足元を見ている。


「軽業!?」

「すげえ」

「転入生にかくし芸?」

「重森やるな」

 一気に教室が沸く。芋をかじる悪兵衛。事態を飲み込めない重森。

 騒然としたまま昼休みは終わった。


 *


 武僑学園の校門が開けられ、学徒達が帰途に溢れてくる。

 その日の午後から行われた大会結果に喜ぶもの、落胆するもの、

 悲喜こもごもの表情。


 取り組みのない学徒は通常の授業が行われ自習を勧められる。

 順当に剣術部門で上級生を打倒し、授業を受けた七重が現れた。

 その瞳が輝き、のそのそと歩く播磨悪兵衛の背後に追いつく。


「播磨君。」

「吉房どの、でしたか。」

「君って…すごく勉強できないんだね。」

 笑いをかみ殺した表情で深刻そうに悪兵衛をのぞき込む七重。

「面目ない…」

 ばつの悪い表情で目を落とす悪兵衛。午後の授業で

 読み書きも、算術もからきしなのが教室で話題を集めてしまった。

 指導のしようもない程の勉学の遅れを、日根野は自習にあてるよう

 促していた。

 重森はそれに気を良くしたのか、昼以降、悪兵衛に絡むような事は

 していない。

 校門から日根野が小走りでやってくる。


「播磨くん、これお家でみたらいいから。」

 読み書きの参考書を悪兵衛に渡す、相変わらず妙な発音の言い方。

 額に汗をかいている。

「お家の事情で勉強遅れてるのは恥ずかしくないから。すこしずつ進めよう」

「かたじけない。」

 参考書を風呂敷でつつみ、歩み始める悪兵衛。いたずらな瞳で観察しながら

 ついていく七重。


「昼、怒ったの?重森に使ったの合気でしょ。」

 七重の慧眼にやや驚きながら答えない悪兵衛。

「見た事ない技だった。どうやってするの?」

 困ったような表情で答えない悪兵衛。まっすぐ前を向いている。

 やや後方につくよう、歩みを遅めた七重が木刀袋から小刀を取り出し、

 しずかに片手打ちする。


 乾いた音を立てて悪兵衛の頭部に木刀が撃たれる。

 …が意にも介さず、頭をさすっている。

「痛いでござるよ。」

「え、避けないの?さっと…避けるかなって。」

 屈託なく笑う七重。悪兵衛の額に一筋の血が落ちてくる

「あ!いけない、頭割れてるよ!」

 笑いながら布を当てる七重。困った顔の悪兵衛。その二人を遠くみつめて

 にっこりと笑う日根野。学徒に帰りの挨拶をしながら校門を閉じる。


 *


「こちらでは本閥選の推薦を受けられるとか。」

「うん、武芸大会で優勝したら、推薦枠をもらえるの。」

 夕日に赤く染まる公園で悪兵衛の頭を布で抑えている七重。悪兵衛の手には

 お詫びに七重がおごってくれた五平餅の包みがある。

 丸くのしたもち米にたれをつけて焼いたもので、学徒のおやつの定番であった。

「右側がひき肉とゴマの醤油あん、左が大葉と落花生の味噌あんだよ。」

 聞きながら口に運ぶ悪兵衛。

「うまい。ものすごくうまい。」

「変ないいかた」

 こらえきれず笑い出す七重。悪兵衛は夢中で五平餅にかぶりつき、喉をつまらせ

 七重に竹筒の水までもらう。


「本閥選で合格したら、尉官として教練を受けながら本閥に入隊できるんだよね」

「この年でも勉強しながら狗族と戦う事が出来る」

 遠く夕闇をみつめる、七重の茶色の瞳に悪兵衛は問う。

「本閥四軍ではどの部隊を希望されるのか?」


「不知火。剣をいかすなら防衛義務のない白兵隊が一番だもの」



 三



 行燈の明かりに照らされた七重。ぼんやりとした表情で

 絵物語をめくっている。


「播磨くんってどういう人なんだろ…」

「後ろの剣、避けられなかったのかなぁ」

「や、むしろ石を投げて助けてくれたの、播磨くんじゃないのかな。」

「重森にかけた合気の技…」

 まとまらない考えが頭の中をまわり、覚えたばかりの悪兵衛の顔を

 思い浮かべている。

 階下から母親の足音が聞こえ、襖が開けられた。


「七重、母さん今から生徒さんくるからっ。」

「薪屋さん来てるから代金とお駄賃払っておいて!」

 三味線を持って座敷に向う母親。

 座敷には幾人かの女性徒が待っている。

「はぁい。」

 面倒くさい…と思いながら薪と聞いて何か引っ掛かり巾着を持って階下に下りる。


 土間では男が薪を積み荷から降ろしていた。その腕は重量を持ち、支え、

 降ろすごとに瘤のように筋繊維が盛り上がり、太い血管が脈うっている。

 うっすらとあせばみながら機械のように薪を下す。

 強大な膂力とその持久力が見てとれた。

 強靭な肉体に七重は目を奪われる。

 男が顔をあげる。播磨悪兵衛である。


「代金をいただきたい」

 笑いかけた白い歯の童顔の男をまぶしく七重はみた。

「あ、ごめん…まって」

「これ、駄賃分。」

「かたじけない。」


 山のような薪を背負って土間から出て行く悪兵衛。

 呆気に取られていた七重が草履をひっかけ、提灯を持って追う。

「まってよ」


 夕闇の中、提灯の小さな明かりが揺れる。足元を意にも介さず日中と

 同じ速度で歩を進める悪兵衛。

 七重はその様子をうかがうようにして連れ添っている。


「まだ集金と配達せねばならぬ」

「どこに?」

 懐から懐紙を取り出し、確認する悪兵衛。提灯で照らす七重。

「香田・・榊原・・山芝・・上野だ」

「井上さん…いつものじい様は?」

「寝ておる。腰痛だ。」

「播磨くんはじいさまの子なの?」

「いや。遠縁だ」

 ぶっきらぼうな播磨の横顔を七重が見つめている。

「頭・・割れたの大丈夫?」

「何ともない、世話になった」


 言葉少ない悪兵衛の物腰を見て七重は思う。

 目の前の同級生は決して薪取りを生業にしているわけではない。

 ましてや一般の町人でもないだろう。


「吉房どのに伺いたい事がござる。」

「先だっての武芸大会の折、優秀な成績を残したものが失踪したと聞き申した。」

「それも三大会連続。」


 悪兵衛の言葉に表情を伺う七重。だが宵闇の中では光を湛えた

 黒い瞳の様子しかわからない。

「いっちゃだめな話なんだけど…家の人が自慢しちゃうんだよね。」

「秘密に軍に召集かけられたって」

「軍に召集?」

「本閥かもって。家の人にそれらしい事をいっていなくなっちゃったんだって。」

「本閥?」

「本閥が極秘に…本閥選無しで入隊を認めたって。」

「いなくなった家の人は名誉な事だって喜んでるから…いってまわるの。」

 歩きながら、七重は悪兵衛の身体から熱気のような圧が吹き出すのを感じた。

 一瞬だけであったが溶岩のように噴火したその気は、また静かに霧散した。


「そろそろいとましなくては。」

「あ、そうだね。」

「播磨君は武芸大会…」


「吉房」

 悪兵衛にいいかけた七重の前に爛々と目を光らせた船山が立ちはだかった。

 狼狽した七重はとっさに悪兵衛をみたが今までそこにいた級友は

 影も形もなくなっている。

「今朝の話の続きだ。」

 明かりの消えた水車小屋の脇に船山は七重をおし込めた。

「本戦を辞退してないようだな。」

「お前は下級の癖に、武専への尊敬が足らん。俺が教えてやる。」

 正気を失い、口の端に涎を垂らして嗤う船山。顔を近づけられて背ける七重。

 また、鈍い音が鳴った。鳩尾に丸石がくいこみ、息がつまる船山。

 その顎にもうひとつ、風を斬って投げつけられた石が、上昇する奇妙な軌道で

 当たった。天を見上げて倒れる船山。

 荒い息をつきながら道にでる七重。その視線の先には、手の丸石を放り投げる

 悪兵衛の姿があった。

 逆光の月明かりでその表情はわからない。悪兵衛は無言で籠を背負い直し、

 闇に消えていった。



 四



 七重の見事な片手面が決まり、相手選手の額の上で止まった。

 膝をつき、絞り出すような声で参ったを申告する学徒。

 武芸場で剣術の第二試合が行われ、応援の学徒や次の試合の準備をする係のもの、

 指導する教員、見物の学徒達でにぎわっていた。

 教室の級友たちも声を張り上げて七重の勝利に沸いている。

 日根野が涙で顔をくしゃくしゃにして、学徒たちが笑っている。

「吉房、先生はほんとうに…お前を誇りに…おもう」

 しゃくりあげながら七重に声をかける日根野。そんな教師を苦笑しながら

 級友たちの中にひとりの顔を探す。

「播磨くんは?試合だったんだよね。」

 重森が笑いをかみ殺しながら困った表情で七重の元に歩み寄る。

「それが…四組の長谷川との試合だったんだけど」

「ああ…あの自己流のみみずみたいに剣を振り回す弱い…」

 そこまでいって級友たちがたまらず吹き出した。


「播磨、長谷川に胴にいっぽん受けて、動けなくなったんですよ。」


 *


 医務室にて布団から半身を起こし、濡れ布巾で腹部を冷やしてもらっている

 悪兵衛。

 急ごしらえで用意されたであろう制服が奇妙な違和感で似合っていない。

 学園付きの初老の医師より診察をうけ、手当されていた。

 試合着のままの七重が医務室に飛び込んできた。


「播磨くん、負けたって?」

「面目ない。」

 恥ずかしそうににっと歯をみせる悪兵衛。

 医師は怪我も何もないんだから早く教室に戻れと促している。

「あの長谷川に?」

「はあ」

「あの変な自己流剣法に?」

「はあ」

「なんで!?」

「さあ…面目ない。」

 屈託のない悪兵衛の表情を見て力が抜ける七重。

「もう試合ないんなら、せめて応援にきてよね」

「は、行かせていただく。」

 憮然とした表情で医務室を後にする七重。

 この後、悪兵衛が武芸大会に姿を見せることはなかった。


 *


 日を追うごとに白熱する武芸大会。

 七重は順当に勝ち進み、そのたびに泣いて喜ぶ教師と沸く級友達。

 その姿を陰で腹立たしく睨む船山。あれ以来、七重を陰で護衛する者に

 警戒して手を出すことができずにいた。

 前評判通り、武専一の実力を持つ船山と、一年生ながら天才的な剣で

 七重が勝ち上がり、決勝の取り組みになった。


「午後からいよいよ決勝ですね吉房どの」

 重森が上ずった声で七重にまとわりついてくる。

 水だ、手ぬぐいだと甲斐甲斐しく世話を焼こうとしている。

「播磨くんは?」

 あれ以来学園にもろくに姿を見せない悪兵衛に、七重は苛立っていた。

「応援くらいすればいいのに」

「薪小屋に戻ったらしいです、毎日配達したりで欠席してますねえ。」

「武芸大会で恥をさらして来づらくなったんでしょう」

 重森が吐き捨てるように笑いながらいった。


 午後、学園を挙げての武芸大会決勝が行われた。

 武専の三年船山重慶、一年吉房七重の試合は体力に勝る船山が、

 粘りつつ削るような凌ぎ合い、組付き、けた繰りで七重を苦しめた。

 二分を超え、七重の体力の消耗を感じた船山に余裕が生まれた頃、

 七重の飛び上がり片手面が飛び出し、寸止めをせず船山の額を割った。

 吉房七重は一年次でありながら、武僑学園、武芸大会剣術の部で

 優勝を収めた。

 残念なことに船山は気絶しただけで心身ともに健常である。


 盛大に祝う級友たち。武専が存在しながら選抜前の一年生が優勝することは

 前代未聞の快挙であった。日根野による勝利の妙な踊りでひとしきり笑った後、

 七重は悪兵衛の姿を探す。やはり本日も欠席との事だった。

 勝利の余韻を味わう間もなく、約束を違えた悪兵衛に一言でもいわなければ

 気が済まない七重。帰り支度を整えて、足早に学校を去った。


 悪兵衛の言葉を思い出す。香田、榊原、山芝、上野。その四件、もしくは自宅の

 どこかに配達をしているはず。おいつめてその真意を問いただす。

 だが、七重は奇妙な違和感を覚えた。

 大量に持った薪、あれは優に十件以上の量がある。配達先を選びそこだけの為に

 持っていく量ではない。また薪屋は飛び込みで売ることはない。

 自宅を含めた五件を回りながら、薪を配達している姿で

 い続けなければいけない理由とは何だろうか。

 そこで七重はある考えに至り、歩みを止め、蒼白となった。


「香田、榊原、山芝、上野、そして吉房の家」

「すべて武芸大会で優勝した者の家だ」



 五



 町はずれの薪小屋の元に歩みを進める七重。あたりは闇が漂い、

 月が出ていない道はもうすぐ漆黒に包まれるだろう。

 道すがら悪兵衛の事を考える。

「播磨くんは失踪事件を調べている?もしくは何か関わりがある?」

 愛嬌のある人懐こい笑顔の裏に、得体の知れないものを感じて

 七重はおおきく見ぶるいした。このまま悪兵衛に会わない方がいいのかもしれない。

 暗い路の先に薪小屋の明かりが見えた。

 安心と共に小屋に近づき、七重は愕然とした。


 小屋の周りを藩の兵士が警護し、みな物々しい武装をしている。

 国の紋章が入った濃緑色の胴丸、槍に刀。

 数は二十人に満たないだろうか。それぞれが緊張の面持ちでいる。

 かがり火が焚かれ、まだ続々と裏手から集まって来ているようだ。

 兵士達の姿を見て動きが止まる七重に気づいた者が静かに歩み寄る。


「吉房殿ですな。中でお待ちです」


 小屋の中に案内される七重。土間には鎧櫃が置かれ、囲炉裏に向かって

 長髪の男が横顔をむけている。その奥、正面に床几に座った侍がいた。


「播磨くん。」


 囲炉裏の炎に浮かんだ悪兵衛は、薄紫の長着を肩掛けにし、

 総髪をきつく縛り上げる、髪結いの男にすべてを任せている。

 長着の袖には焔の文様が染め上げられていた。


「吉房七重さんですね。本閥の灰音はいねと申します。」


 長髪の男がゆっくりと言葉を発した。優しく深い声色で、やや年長のようだ。

 羽衣のような薄い色の艶やかな長髪で、その間から怜悧で

 切れ長の瞳が見え隠れしている。

 兵士の耳打ちを聞いて灰音と名乗った男は悪兵衛につげた。

「悪兵衛殿、装備が到着したようです。」

 目でうなずいた悪兵衛は七重に向き直る。


「吉房どの。折り入って頼みがあり申す。」

「播磨くん…君は…」


 *


 武芸大会決勝の翌日、神前表彰式が執り行われる。

 武道場に隣接した武徳殿にて、勝利者の報告が行われるのだ。

 純白の稽古着をまとった七重は静かに、神主役の教師、日根野に伴われて

 渡り廊下を粛々とすすむ。その背後には土気色の顔をした船山、三位に甘んじた

 片岡が続いている。下級生の後塵を拝し、屈辱的な表情であった。

 神前にて勝利の報告を行う儀式のさなか、七重は緊張の面持ちである。

 昨夜の事を鮮明に思い出していた。


「これは狗族の工作隊による拝殺でござる。」

 髪を結われながら、悪兵衛は厳しい表情で七重に伝える。

「拝殺?」

「拝命殺戮。政治的意図によって布告なしに大規模な暗殺を行う、

 人道に反した行為でござる。」

 震えながら七重が聞き返す。

「暗殺って…?行方不明者は殺されたの…?」


 うなずきながら悪兵衛は鈍く光る皮製の胴着を纏う。表面を金属板が補強し

 見るからに重量がある。腕を通しながら覆面姿の者の報告を聞く。

「少佐、この者…」

「協力者だ。民間人である。」

「御意」

 胴着の前を合わせ、金属製の留め具をはめていく。胴着に巻き付くように

 張り巡らされた帯状の金具が、薄く光を発してるように見える。

「輜重隊は何をしておる。指定の半分の武装しかないぞ。」

「少佐にはそれで十分と」

「馬鹿な。戦陣羽織せんじんばおりも無しでか」

 不満顔の悪兵衛だが態度には余裕があるように見える。

 傍らの者が覆面を外すと、七重にとって見覚えのある老人の顔が現れた。

「薪取りの…井上のおじいさん?」

「軍の者です。潜入調査していました。」

 こともなげに灰音と名乗った男が言った。絶句する七重。


「装備は章さんの指示か…?」

「いいえ、刑部殿です。」

 憮然とする悪兵衛。灰音は微笑みながら鉄瓶のお湯をすくい、茶を入れ始める。

 事態を飲み込めないまま、囲炉裏の前の席を勧められる七重。

ふらふらと座り込んでしまう。


「恐らく優勝者が決まった後の神前のみことのりの儀、族は拝殺を起こす。」

「将来敵対するであろう者の芽を摘むために。今回は吉房どの、貴方の命です。」

 悪兵衛が身の毛もよだつ事を話し始めた。


「空間凝固型の破常力を使うつもりでしょう。」

「章さんが看破したとおり…賜杯をうけた者たちはある一点、

 一時期に姿を消す。おおよそ一時間ばかりの間。」

 悪兵衛と灰音の会話の中で、七重は感じ取っていた。

 薪取りの配達の間、詳細な情報を悪兵衛は調査していた。

 またそれに伴う攻撃方法、撃退方法も調べていたのであろう。

 静かな佇まいの灰音。学者然としながら茶をいれ、七重に促す。

「固定空間を魁音かいおんで割ればいいのか?」

「いえ、悪兵衛殿以外の内容物は八百万やおよろずと混濁現象がおきます。」

「どういう意味だ。」

「空間内の生物は死にます。すべて。」

 言葉を失う悪兵衛と七重。

「笠間村での戦闘に近いですね。」

「凝固した空間内で拝殺、もしくは記憶操作、抹消も行うという事か。」

 灰音がゆっくりと頷く。

 会話を聞いていた井上がしわがれ声でつぶやく。

「青田刈りですか。なんとも卑劣な」

「キリヒトノミコトの考えそうな事です。」

「何故にこのような地域を狙って?」

「武橋学園、武道専門級…通称武専ですか。本閥の合格者が飛びぬけて多い。」

「優秀なのでしょう。本閥選を潜り抜け、本隊に入る人間はごく僅かですが」

「弥者にとっては天敵。しかし実戦を経験する前はただの若者。」

「それを狙う拝殺は合理的です。弥者は志より血族を重んじます。」


 目を閉じ聞いていた悪兵衛が口を開く。

「吉房どの。お主は拝殺の目標とされている。」

 震え始めた七重が涙交じりに問う。

「私も暗殺されるの?」

「お主次第。」

 言葉を失った七重に灰音が落ち着いた声で告げる。

「空間凝固を分離させる方法がひとつあります。」



 六



 神前で神主より祝いの言葉が発せられ、神妙な面持ちでそれを賜る七重と

 背後の学徒。

 七重は我知らず、胸元に手を当て目をつぶる。

 かすかに細い指先が震えている。

 武徳殿の花頭窓からは、校庭に集まった学徒達と武芸大会の総評を話す

 白髪の校長の姿が見えている。

 春の暖かい風が吹き込んでくる。

 あくびをしながら訓話を聞いている重森の姿を認め、

 普段の生活を遠く、遠く感じ、ふと涙が溢れそうになった。


 学徒がそれぞれ言葉を受け、武芸の神への感謝と加護を受ける為に祷る。

 儀式を終え、それぞれ神前で杯を戴き、日根野がお神酒をいれる。

 そこで神前式は締められる。


 船山の杯を持つ手が震えている。額に汗を浮かべ血管が浮かびあがり、

 血走った眼で七重の後ろ姿を睨みつけている。その様子に気づき杯を取り落としそうになる片岡。

 お神酒を注ぐ日根野が慌てる。


「だめだ、だめだ、だめだ。」

「こんな女、俺が…」

 ゆらりと立ち上がった船山の手から杯が落ち、割れる。

 船山は全身の血を逆流させたような顔色で眼下の七重を見据えている。

 震える拳を確かめるように見、七重の顔を見比べる。

(殺してやる 殴り殺してやる)

 血塗れで這いつくばる七重の姿を想像したとき、船山の興奮は高まり

 叫びだしそうになるのを抑えて一歩踏み出した。


 腹に焼きごてを入れられたような感覚があった。

 みると銀色の刃が腹から生えている。刀で突かれた、と認識するまで

 一瞬の空白があった。その間に刃は左右に振られ純白の胴着に

 真っ赤な染みが溢れだす。声を発する前に、大量に腸が床に零れ落ち、

 咄嗟にそれを拾おうとして前につんのめり、倒れた。

 船山は息絶えた。

 大きく目を見開き、立ち上がろうとした片岡の横を日根野が

 つま先で回転しながら通り過ぎた。

 片岡の首に朱の線が浮かび、血が噴き出した。

 鼓動に合わせ、なんどか大きく吹き出す血を、手で押さえている。

 不思議なものを見るように片岡は床の血だまりを見つめて、

 やがて立ち膝から背後に倒れた。

 頭部が床にあたる鈍い音がする。血液は未だに吹き出しているが、

 やがてそれも止まった。


 日根野は血潮が滴っている神前刀を床に放り出した。

 額にうっすらと汗をかき、人の良い笑顔のまま低い、暗い声で呟く。

「永らく待った。」

「ヤシャショウライ」

 呪詛のような言葉を紡ぎながら着物の前をはだけ、両腕を突き出す。

 日に焼けていないぶよぶよとした中年ぶとりの身体に、

 色素が沈着していくように赤黒い染みが広がっていく。

 両腕を震えわせながらざわざわと体毛が生え、

 ぶつり、と音を立てて小さな髷を結んでいた紙縒がやぶけ

 頭髪が逆立ちながら伸びる。

 大柄な船山より一回り大きな巨躯に変貌していく日根野。

 その額に瘤が盛り上がり、皮膚を突き破るようにぬるぬると

 光る角が生えてくる。

 七重は表情のない顔で一連の出来事を他人事のように見ていた。

 俯いていた日根野が顔をあげる。複雑な文様の入れ墨が浮かび上がり、

やがてそれは上半身からも浮かび上がっていく。

上下の犬歯が唇からはみ出して伸び、鼻筋に皺をよせ、

大きく開いた瞳孔は赤茶色に変わる。

 すでに、教師日根野ではなく、人間ですらなかった。はじめて、七重は魂消る悲鳴をあげた。


 茶筅曲げを結い、囲炉裏を背にした悪兵衛の表情は見えなかったが

 その優しい瞳の光を思い出す。

「神前の儀で、異変が起きたならば」

「生涯唯一の勇気を持って立ち向こうてくだされ。」

「太鼓を叩くより他に道なしと思わずば、死。」

 別れ際に悪兵衛が託した胸元の玩具のような振鼓。

 弥者の姿に変貌した日根野を見上げる目から、自然に涙があふれる。

 震える指で胸元の振鼓を取り出し、両手の平を合わせる。


「汝を殺し血肉を啜る。心待ちにしていた。」

 すでに日根野の甲高い声ではない。

 遠雷のような低く、響く声で弥者は呟いた。

 その指先は分厚く黄色い爪が伸び、七重の胴回り程もある腕は、

 刃物無しで簡単に人間を縊り殺せるだろう。

「ハ ザ マ」

 弥者の口から発せられた言葉と共に、神殿内が海中に没したような

 圧力で充満された。弥者、七重、背後の2体の死体以外の空間が

「なにか」で満たされ、質量を伴っているようだ。

 七重の意識がふと消えそうになる。


「生涯唯一の勇気を持って立ち向こうてくだされ。」


 悪兵衛の言葉を反芻する。

 自分は幾たびも辛い思いをし、克己を繰り返し、武道を歩んできた。

 目をつぶり、恐怖と相対し、立つのは今を置いて他にない。

 やがて震えが収まり、しずかに振鼓を合わせた掌で回し始める。

 かすかな可愛らしい音が響く。


「吉房、何を叩いてる んだ やめなさい」

「先生は そういうの いやだなぁ」

 低い声と甲高い声の入り混じった奇妙な発声で弥者が後ずさった。

 振鼓の小気味のいい連続音が大きくなっていく。

「其は何か 其を止めろ」

 飛び出しそうな巨大な目で七重を睨みつけながら、弥者は耳を抑えて悶絶する

 七重は、充満していた空気以外の「なにか」にくさびを打ち込んでいるような感覚を覚えた。

 目を開き、まっすぐに弥者を見上げながら振鼓を鳴らす。

 空間にひびが入った。黒く連鎖して裂けていく。やがてそれは大きくなり、

 燃え上がるように発光し、七重を中心に広がる。

 圧縮されていた空間が破壊されていく。

 ひときわ大きなひびが天井に達した時、爆発音と共に屋根板が破壊され、

 ばらばらになった屋根板、煙、梁材と共に黒い人影が降ってきた。

 床板を割りながら着地し、ゆっくりと立ち上がる男。

 播磨悪兵衛であった。



 七


 茶筅髷を猛々しく結い上げた頭髪の下に黒光する鉢金、

 その中心には揺れる炎の紋章。革鎧の上に薄紫の長着を着込み、

 そこにも燃え上がる炎の文様が染め上げられている。

 手甲と足甲でよろわれた凛々しい若武者姿の播磨悪兵衛。腰に刀は、無い。

 やさしげな笑顔で七重を見つめている。大穴が開いた屋根から陽光が降り、

 全身が輝いて見える。


あっぱれ。よく頑張った。吉房どの。」 


 突如、自らの絶対空間を破り突入してきた侍らしき男を認めた弥者は、

 狼狽の色も見せずに両腕を振り上げ、力を充溢していく。

 あらたな空間を創造し始めていた。

 向き直った悪兵衛は高く足を上げる。ほぼ垂直に振り上げた足をゆっくり

 徐々に加速をつけて降ろし、最後は床板を抜くほど力強く踏みつけた。

 床に接触した瞬間に一瞬の光と轟く爆発が発生した。

 悪兵衛の足元より、弥者に向かって太い束のような衝撃が発生し、神殿の壁を

 爆破しながら弥者を屋外まで吹き飛ばす。


四股しこ」と呼ばれる戦技であった。体内の士魂を足先に集中、

 地面を踏み抜くと共に撃ちだすように任意の方向を爆破する。


 武徳殿の外壁が独特の破裂音と爆音で吹き飛ぶ。

 同時に巨躯の弥者が転がり出てくる。

「相変わらず悪兵衛殿の四股は爆破範囲が大きい。内偵には向きませんね。」

 のんびりとした口調で炎の紋章の羽織を着た灰音が言った。

 校庭にはすでに藩の兵士が入り、学徒を誘導している。爆破でざわつき、

 弥者の姿を認めて悲鳴があがる。緊張の面持ちの兵士達が学徒の前に立ち、

 槍を構えている。


 武徳殿の内部より悪兵衛が現れる。その飄々とした表情を認め、

 灰音は作戦の成功を知った。

 手元の絹の刀袋から、重い金属音が流れ出したのは

 悪兵衛が姿を見せたのと同時であった。

 土煙が晴れると、一人、弥者が陽光の元に仁王立ちしている。

 あれほどの爆破に巻き込まれながら、傷一つ負っていない。

 長い体毛がなびき、岩のような筋骨の肉体の入れ墨は遠目にみて

 虎の文様に似て美しい。学徒の誰もが恐怖に苛まれながら、それがかつて

 敬愛した教師であると気づくものはいない。


 悪兵衛に灰音が歩みより二人並び、灰音は膝をついた。

 まっすぐに弥者を見つめながら、戦旗を立てる。

 純白の旗にはなんの印もない。

 悪兵衛が懐より折った書を取り出し、広げる。


「宣戦布告」


 大音声が校庭を走った。悪兵衛を中心に校舎の窓の襖が振動し、破裂するように破け校長室の玻璃の窓が粉々に砕けちった。

 兵士たち、学徒達、教師達があとずさりし尻もちをつくものもいる。

 灰音が掲げた戦旗より炎が噴出し、燃え上がりながら揺れる炎の紋章となった。

 人々が遠巻きにざわめく。


「本土決戦軍閥師団」

「吶喊白兵集参、不知火 播磨悪兵衛少佐である。」

「同じく灰音章雪中佐。」


「我が国民の命を脅かし奪う行為を侵略敵対行動とみなす。」

「佐官判断によりいまこの時をもって、戦争行為を行うものとする。」

「あらためて告げる。」


「いざ尋常に勝負」

「勝 負」

 悪兵衛と灰音の大音声が再び校庭を走る。声による攻撃に弥者は苦痛に顔をゆがめ

 後ずさりながらも炯炯とした目は変わることがない。

 ざわめく人々の口から洩れる言葉。

「不知火だ」

「不知火」

「本閥だ」

「弥者を撃ちに不知火が」


 宣戦布告と共に刀袋の内部の音が大きく響き、外から見ても振動し始めているのが

 わかる。手早く灰音は紐をほどき、柄頭を悪兵衛に向ける。

 黒色の拵えに炎の紋章の鍔、音を鳴らして刀身が内部で暴れているようだ。


 これが、人間の最後の力、士魂で揮う決戦軍閥兵器、魁音刀である。


士魂ちからと剣」

 魁音刀を差し出した灰音がまっすぐに悪兵衛を見ていった。

士魂ちからと剣。…けりを付ける。烽火に夢み、研鑽を積む学徒を狙うとは」

 悪兵衛も返しながら、その目の光は燃えるように輝き、髪が逆立つ。

 秘密裡に殺され、その存在さえ強制的に忘れ去られていた哀れな学徒達に

 思いを馳せる。

 優れた力を日々鍛えながらもその夢を奪われた少年たち。

 その中にはあの船山も片岡も含まれている。彼らも武に灯を見ていたはずなのだ。

「斬って捨ててくれる」


 悪兵衛が柄に手をかけると振動が止まった。一気に引き抜くとつんざくような

 炸薬音と共に、青い火花が激しく刀身より散った。

琿青ぐんじょう」と名付けられたその魁音刀は夜空のような深い青の刀身に

 日の光をかえして輝く。不知火隊内に於いても、

 播磨悪兵衛少佐のみ扱える軍神の刃であった。


 弥者はうっすらと笑みを浮かべている。

 絶対的な力を持つ侍を恐れる弥者は多い。が、相対する場合は

 対侍の力を持つ者であると考えられる。

 恐怖の悲鳴をあげていた人々から、刀を抜いた不知火の侍への

 声があがりはじめる。


 一歩、二歩、三歩踏み出して弥者が両手を広げる。

「我はウイゴノカミ。」

「我が眷属に勝利を誓い、ワリビトの宣戦を受ける。」

「八百万と ヤシャヂカラと共に。」

「ハ ザ マ」


 弥者の呪詛が響いた。神殿を充溢していた「何か」と同じ物質が

 悪兵衛の足元を凝固し始める。それは先ほどの水中のような圧力とは

 まったく別物で、石のように固まりながら、

 悪兵衛の下半身を締め上げ始める。その形は薄く黒く煙るようで目視できた。


「飽和破常力…空間凝固は範囲を狭めるとその強度が上がるのか。

 操るのも早い。だが…」

 弥者に相対する灰音は冷静に二人を見つめている。その表情はいつも通り。

「だが、悪兵衛殿には」


 悪兵衛は青銀に輝く刃を振るう。

 身の回りの空間が透明な炎をあげて消滅する。

 何事もなかったように無造作に歩を進める。

 その様子に表情を歪ませるウイゴノカミと名乗った弥者。

「ワリヂカラ」

「死神め」

 畏怖と憎悪に歯をむき出しながら吐き捨てる。

「リ ヤ ウ ノ ハ ザ マ」

 ウイゴノカミは渾身の力を尽くし、侍達のいう飽和破常力を紡ぐ。

 一抱え程の黒い煙が複数出現し、それぞれ悪兵衛の右腕、右足、左足の

 凝固を始める。

 同時に突進し、悪兵衛の目の前で飛び上がるとその自らの足元に黒煙が出現、

 足場にしてさらに飛び上がる。

「ヤマトビトの剣は上下に標的をもてない」

 数々の暗殺を行ってきた歴戦の弥者、ウイゴノカミは

 武士が刀を振るい戦闘する場合、真上及び真下からの攻撃の手段が

 極端に少ない事を知っていた。たとえ士魂による攻撃を行う侍といえど、

 ハザマと呼ばれる空間凝固能力で有利な環境を作り出し、

 数々の拝命殺戮を成功してきたのだ。


 右腕を固定した煙を琿青の咆哮で消滅させ、足元を一振りした悪兵衛は

 同時に飛び上がる弥者の姿を途中まで目で追い、やめた。

 頭上を飛び越す上空に位置する弥者を感じながら刀を上段に構える。

 やや刀身を倒し、片ひじをあげる変形上段であった。

 全身の血液を送り込むように士魂が刃先に集まる。

 呼吸と共に練り上げられた士魂が刃を振動させ、たかい金属音が鳴り始める。

 悪兵衛は刃を袈裟に振り抜くと同時に士魂を爆発させ、叫んだ。


「旭光」

   

 切っ先の地面が円形にえぐれ、鋭い収束音の直後、あたりを震撼させる

 轟音が響いた。振りおろした剣の中心から輝く渦のような光弾が

 現れ、真上に吹き上がる。

 上空のウイゴノカミは突如、足元に発生した渦の力場に引き込まれるような

 感覚に襲われ、次いで足元が粉々に分解していく様をみた。

 引き込まれながら下半身が粉々になり空気になっていくのを

 まるで夢のように感じ、苦痛はなく意識が透明になっていく。

「割れる 身体 割れていく」

 魁音刀から発する殺傷能力を持った衝撃、魁音撃。そして悪兵衛が使役するのは…


「爆璧魁撃砲「旭光」。発動後、剣先に爆壁を生成、垂直上昇し」

「範囲内の狗族及び弥者を殺傷 昇る日に因み命名される。」

 灰音は、編纂された魁音撃一覧の一文を反芻していた。


 旭光に吹き飛ばされたウイゴノカミは消滅した。

 焼け焦げのある神主衣装から煙が上がっている。

 灰音は悪兵衛に歩み寄り琿青の鞘を渡す。

「こやつとの付き合いは長いはずなのに、いう事を聞くのは悪兵衛殿だけ。」

「恩知らずな刀ですまぬ。」

 頭をかいて苦笑しながら刀を鞘に納める。

 同時に人々の歓声があがった。人々を先導するべき兵士たちも兜を脱ぎ、

 拳を突き出して鬨の声をあげる

 校庭が歓声で包まれる。

 学徒の間より、白いあごひげをたたえた校長が杖をついて前にでる。

 灰音が気づき、悪兵衛を促す。

「悪兵衛殿。」

「うむ。」


 校長が背筋を伸ばし、敬礼する。

「私立武僑高等学園校長、吾妻平太郎 元大尉であります」


「休め。」

「局地戦とはいえ、迷惑をかけた。内偵を進めていた弥者の討伐を完了した。」

「協力を感謝する。」


 悪兵衛は校長に一礼した。

 校長はまぶしく若武者を見つめている。


「見事なお手前でございました、少佐。」

「…優秀な生徒が多いと聞く。なお一層文武を奨励する。」

「はっ」

 敬礼で返す校長、悪兵衛と灰音もそれにこたえる。

 沸きあがる学徒たちの歓声、興奮した表情の重森も見える。

 照れくさそうな無表情で手をあげて答える悪兵衛。笑いをこらえながら灰音が

 それを見つめる。

 兵士をまとめる部隊長が灰音と後処理の話を始めている。


 学徒たちの中に、笑顔の七重を悪兵衛は見つけた。

 その手には炎の紋章の入った振鼓が強く握られている。

 悪兵衛は少し微笑み、七重に問う。

「武道は続けるのか?」

「はい。不知火をこの目で見ましたので。」

「そうか。」


「さらば。」


 歩き出す悪兵衛を見つめる七重に桜が降り始める。


 話を終えた灰音が悪兵衛に付き従う。薪取りの諜報員こと

 井上と共に校門を出る三人。それを見守る藩の兵士達。


「章さん、屯所に帰ろう。」


 任務を終え、白い歯を見せて悪兵衛が言った。


 狗族とそれを統率する弥者による侵攻を防ぐため、

 時には先陣をきり、時には内偵活動を行ない、場合によっては

 単独でも戦争行為を行う吶喊白兵衆参、不知火。

 佐官以上の者には状況判断の末、単独で戦端を開く事が

 許されていた。


 圧倒的な攻撃力を持つ本閥と弥者の戦いは混沌とし、

 戦局は激しさを増していったと後に記される。                             




 旭光の侍 了                

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