第28話 ハインリヒの誓い

 

 ハインリヒは初めて唇同士を重ね合う機会が、猫の姿だとは思ってもみなかった。ミランダとは解呪ではなく、気持ちを確かめ合うものであったならどれだけ良かっただろうか――と思いながら儀式を受け入れた。



 気を抜けば常に猫の本能に引きずられそうだった思考が軽くなっていく。全ての肉体の感覚に懐かしさを覚え、自分を取り戻していく様が手に取るように分かった。


 明らかに一時的に元の姿に戻る時の感覚とは違う。自分を絡めとっていた鎖がほどけるような身の軽さを感じた後、呪いが消えていった。

 唇に触れていたミランダの存在が離れ、無意識に長くなった腕で彼女を求め、空を切った。



「――ミ、ランダ?」



 広がっていた煙が薄れ、視界に飛び込んできたのはふわふわの赤毛の猫だった。赤毛の猫は持ち主を失い、形を保てなくなった黒いドレスの上に、ちょこんと座ってハインリヒを見上げていた。



「みゅ?」



 現実を受け止めきれていない薄紫色の瞳は、間違いなくミランダの色だった。



「そんな……っ」



 解呪の代償でミランダは猫になってしまっていた。自分のせいで――とハインリヒは痛みを感じるほどの罪悪感に襲われた。

 そっとミランダに手を伸ばし、抱きかかえる。すると彼女はハインリヒを頼るように身を任せ、胸にすり寄った。とても軽く、小さな彼女の身を守るように胸の中にしまった。



「――っ、魔女たちよ、ミランダの呪い返しを解く方法はないのだろうか?」



 宮廷魔女の表情は険しく、状況の厳しさは明らかだ。

 次に老齢の魔女に問えば、首を横に振った。



「アタシと同じく、自分の力で猫になっている状態かと思いますけぇ。茜の魔女が解呪のために魔女の力を保管していれば別だけんど……あったとしても解呪の魔法陣もありゃせんし」



 時間に迫られ、ミランダはそんなことはしていなかった。元より呪い返しの解呪の魔法陣など、事前に誰もわかるはずがない。



「本当に申し訳ねぇことをしてしまっただ……アタシがキャメリア嬢ちゃんの脅しに屈することがなければ……どうせ失敗するのなら初めから断り、アタシだけ我慢すりゃ良かっただぁ」



 老齢の魔女は額を床につけた。そして遅れて煙に包まれ三毛猫の姿に戻ってしまった。魔法が解けても頭を下げたままだ。

 ハインリヒが言葉を詰まらせていると、国王が法廷に声を響かせる。



「悪の諸元はキャメリア・ドーレスと三毛猫の魔女であることはハッキリした。これにて本日の魔女裁判は閉廷とする。宮廷魔女よ、後ほどキャメリア・ドーレスに魔法尋問の許可を与える。嘘をつくようなら使うがいい」



 魔法尋問とは禁忌に指定されている精神魔法だ。意思を奪われ、記憶をも心も全て告白させられてしまう。魔法をかけた魔女でも二度と完全に解くことは難しく、お喋り人形と化して生きなければならない上級の呪い。

 キャメリアは顔面蒼白で、拘束された体を前へと引きずりながら懇願した。



「そんな……魔法尋問だけは……正直にお話いたしますので、どうかご慈悲を。お父様からもどうか――」

「謝罪よりも保身の言葉か。私が積み上げてきた信頼を、娘という立場で悪用したことは許しがたい。一切の援助はしない」



 ドーレス卿はすぐにキャメリアを切り捨てた。そして国王に頭を垂れた。



「陛下、外交大臣の任をお解き下さいませ。追加の処罰も慎んでお受けいたします」

「うむ。立太子の式典の件もある……少し待て。追って沙汰を出す」

「承知いたしました」



 キャメリアは内密に貴族専用の牢に監禁。マリアローズは王宮の客室にて待機。猫に戻ってしまった老齢の魔女は、別室で保護の指示がだされた。それぞれ後日改めて取り調べが行なわれるだろう。


 キャメリアの喚き声を背に、一行は法廷をあとにした。


 ハインリヒはミランダとベルンを抱え、国王とともに白薔薇宮の一室に入った。急ぎ宮廷魔女たちは解呪のヒントを探しに、研究棟へと行っている。呪いは時間が経つほど解呪が困難になっていくため、他の魔女にも助けを求めるようだ。


 ミランダとベルンを大事に腕の中にしまったまま、ハインリヒはソファに腰を沈めた。猫になった彼女は鳴き声もあげず、不安げに揺れる瞳を向けてジッとしている。腕から伝わってくるぬくもりが、猫の姿になっても生きているのだと訴えてきているようだ。呪い返しが死ぬものでなくてよかったと切実に思った。



「ミランダ、大丈夫だからな」



 安心させるように背を撫でる。するとミランダはもぞもぞの体を動かし、「みゃうぅぅ」と情けない声を出した。すぐにベルンからも抗議の弱々猫パンチをもらった。



「すまない。慣れない感覚は気持ち悪いよな」



 猫の姿になってすぐの辛さは、今も鮮明に覚えている。水を一口飲むのにも苦労した。その苦しみをミランダに背負わせてしまっている状況に、胸が痛くて仕方がない。



「ハインリヒ……まずは国王としてはお前が元に戻れてよかった」

「父上……いえ、陛下。この度は俺の不注意で混乱と迷惑を招き、申し訳ありませんでした。全ては俺の油断が招いたことです」



 ハインリヒは強い。剣の腕はもちろん、たいていの毒も効かないし、呪いを弾くピアスだって常に身につけていた。

 手紙で害されることはありえない――そう慢心した結果がこれだ。呪いはあっさり守りを打ち砕いた。捨て身の熟練の魔女の呪いは宮廷魔女の力を上回っていた。



「……っ」



 自然とミランダを抱きしめる腕に力が入る。

 そして深々と国王に頭を下げた。



「より自分には厳しく、国のためにこの身を捧げます。だからどうかミランダを救うための助力を承りたく……」

「茜の魔女は王家の恩人だ。あらゆる手を尽くすことを約束しよう。茜の魔女ミランダ殿、この度の働き感謝する」



 国王が手を伸ばし、ミランダの頭を撫でるとピーンと尻尾を伸ばして固まってしまった。まだ少し人としての意識が残っているようだ。

 すると扉がノックされ、国王は近衛に何か耳打ちされたあと席を外した。部屋にはハインリヒとミランダ、ベルンが残された。



「ミランダ、寒かったり暑かったりしないか?」

「みゅう」

「疲れただろう。何か食べたり飲みたいものはないか?」

「みゅうみゅ」



 答えの意味はなんとなく分かるが、遠慮してるように感じてならない。伝えたいことがあっても、言葉か話せないからと諦めているのかもしれない。



「ミランダ、俺のせいで本当にすまない。巻き込んですまない」



 ミランダは解呪のために奔走してくれたというのに、魔女ではない自分は何もできないことが悔しくてたまらない。

 呪われて良かったと、ミランダと巡り会えて良かったと思ってしまった罰なのだろうかと自嘲してしまう。



「みゅーん」

「あなたは本当に優しいな」



 恨まれたって仕方ないというのに、ミランダがハインリヒに向ける眼差しは柔らかい。聡明な彼女の事だ。呪い返しの可能性だって十分に分かっていたはず。それでも勇気を出してハインリヒを救った。


 好きな人が覚悟を決めたのだ。次は自分が――とハインリヒはミランダとベルンを膝からおろし、ソファに座らせた。そしてハインリヒは片膝を床につけ、ミランダの小さくて丸っこい前足を手にとった。



「今後、俺は生涯をかけてあなたを支えたい。どうか支えさせてくれないだろうか」



 キャットホールで出会う前からハインリヒにとってミランダは支えだった。スペアとはいえ王子という身分故、教育は常に高みを期待されていた。

 剣の腕を認めてもらってからも、他の義務が軽くなるわけではない。体に鞭打ってすべての期待に応えていくには時間も体力も限界があった。



 そんなときクラウスが買ってきた栄養ドリンクはハインリヒを大いに支えた。



 身分を明かさず気まぐれで送ったお礼にミランダは丁寧な返事をくれた。時折、体を労わる飴や菓子まで返してくれた。こうして始まった栄養ドリンクを通じての交流は彼に癒しのひと時を与えた。

 王子という色眼鏡を通さずに、純粋に心を配ってくれる見ず知らずの若き魔女に興味を持つのに時間はかからなかった。



 呪いを受けて流れのまま助けを求めた先がその魔女だと知ったときは、『運命』だと思った。



「好きなんだ。あなたの美しい心に、気高い魔女の誇りに、人見知りなのに頑張って立ち向かう勇気に、少し抜けている天然なところも全て……俺はとてつもなく惹かれているのです」

「みゅう?」



 猫になったせいで言葉がしっかりと伝わらなくなってきているらしい。それでも言葉にして伝えたかった。



「迷惑だけかけて勝手なことだとはわかっている。だが思いを寄せるあなたに尽くしたいという俺の気持ちを許して欲しい」



 ミランダはガラス玉のような薄紫の瞳を向けて首を傾けた。ネコになっても変わらぬ赤毛をフワフワさせて、あどけない仕草はたまらなく可愛い。


 もちろん人の姿の時の強気に見える容姿とは裏腹に、恥ずかしげに頬を染めるミランダも可愛らしく愛しかったが、猫の姿でもその気持ちは色褪せない。



「まだ情けなく頼りない俺だが、恥じない姿へと努力する。どうか今後の選択として考えてくれると嬉しい」



 この様子では返事をすぐに貰うのは難しいだろう。ハインリヒは微笑みを向けた。

 そのとき扉がノックされ、返事をすると国王が戻ってきた。国王の後ろからは二人の魔女が入ってきた。


 ひとりはハインリヒより一回り年上の筆頭宮廷魔女。

 もうひとりは国王と変わらぬ年頃の女性だ。真っ黒なワンピースにつばのついた大きな三角帽子姿は、お伽噺に出てきた古の魔女そのものだ。ツカツカとヒールを鳴らして近づき、ミランダを見下ろした。



「アタシの弟子は随分と可愛らしい毛玉になっちまったようだね」



 そう言ってニッと笑ったのはミランダの師匠――『先読みの魔女』だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る