退職したから、ダンジョンに潜ります。
樋渡乃すみか
001 俺を大事にしない会社を俺が大事にする道理があるのか? いや、ない
大学を卒業して早三年、職に就けたことはよかったものの、自身を取り巻く環境にはいまだ満足できていない。
「山城くん。この案件も頼むよ」
一仕事終えたところに上司から仕事が持ち込まれる。最近はずっとこの調子だ。
なぜこのようなことになってしまったのか。
書類の山を前にして羊太郎は自問する。
──初の仕事だからと張り切らなければよかった。
新卒入社した羊太郎は、持ち前の快活さで瞬く間に周囲に溶け込み、仕事についても自分なりの努力を重ねてモノにしてきた。
この努力がいけなかった。
早めに仕事を片付ければ、そこに目を付けた上司が、「山城くんだからお願いしたいんだ」とさらに仕事を持ってくるようになった。
最初は、上司から目をかけられていることが嬉しかった。ろくな引継ぎ資料もなく、口頭で伝えられる仕事のやり方は人によって変わることに荒んだ経験もあったが、それでも仕事を頑張っていればしっかり評価されるのだと自身を鼓舞できた。
しかし、人事評価はいたって普通だった。
もちろん、経験の浅い新人がすぐに高評価を取れるとも思わない。羊太郎は、疲労の溜まった体を推して日々の業務に邁進した。
三年が経過した今でも、羊太郎の人事評価は変わらない。
一方、仕事量は増加した。新人の教育役を務めながら自身の仕事をこなし、本来であれば上司がやるべき仕事でさえも回されてくる始末だ。
自分がやらなければ、他人に迷惑がかかる。
そんな強迫観念が羊太郎を衝き動かしていた。重ねて、努力してきた自分だからこそ、これだけの仕事をこなせているという自負もあった。
「山城くん。悪いけど、さっきの案件のほかにお願いしたいことがあるんだけど、時間もらえるかな?」
上司の樫田は、手もみしながら、脂ぎった顔で羊太郎を覗き込む。
樫田のいやらしい表情を見て、羊太郎の脳裏にひとつの思いが過った。
──俺を大事にしない会社を、俺が大事にする必要があるのか?
同課の先輩は羊太郎を助けてくれない。自分の仕事だけに集中できるように要領よくサボっているだけだ。
そして上司は、羊太郎を体のいい仕事道具のように扱うばかり。
唯一心残りがあるとすれば、こんな羊太郎を慕ってくれる後輩のことだ。お世辞にも要領のいいタイプとは言えないが、素直で気の利くよくできた後輩である。
彼女には悪いが、羊太郎はもうこの生活に耐えられそうもない。
「辞めます」
辞意を告げる言葉は、すっと口から吐き出せた。
羊太郎は、そのことが自分でも意外だった。もう少し言いづらいものと考えていたのだ。すでにこの職場を見限っていたのだろうと思うと腑に落ちた。
羊太郎が得心する一方で、樫田は二の句が継げないでいた。
きっと、いつもどおり面倒な仕事を任せようという腹積もりだったのだろう。
ややあって、ようやく事態を飲み込めた樫田が眉間にしわを寄せる。
「山城くん。君は正気かい」
「ええ。ようやく吹っ切れました」
「君にはまだ仕事があるじゃないか!」
「その差配を考えるのがあなたの仕事ですよね。ああ、そういえば退職通知は二週間前までとの規定が就業規則にありましたね。これまでほとんど使えていない年次有給休暇を申請しますので、よろしくお願いいたします」
反論材料を片付けると、羊太郎はジャケットと鞄を抱えてその場を後にする。
三年間、朝晩と挨拶を交わしていた老齢の警備員に退職することを伝えると、「そうか。よく頑張ったなあ」とどら焼きを手渡された。電話番号を交換し、今度食事でもと約束を取り付けた。
会社の入ったビルを出ると、太陽のまぶしさが目に染みた。
「さて、これからどうするか」
どら焼きを頬張りながら、羊太郎はとりあえず駅方面に足を向ける。
失業給付の申請に転職活動と、やらなければならないことが目白押しだ。
しかし、羊太郎に後悔はない。呪縛から解き放たれた爽快感と、未来に目を向けられるようになった充足感が胸に満ちている。
往来の多いスクランブル交差点に差し掛かると、羊太郎はよく知る人物を視認した。同時に、羊太郎も見つかったらしい。緩くウェーブがかった明るい髪を揺らしながら、後輩である
「山城さ~ん!」
蜂ヶ谷はまるで家主の帰宅を喜ぶ犬のようだった。
羊太郎はすでに頭を抱えたくなった。なぜ衆人環視のなかで名前を呼ばれなければならないのか。もっとも、蜂ヶ谷に悪気がないのはわかっている。周囲からの生温かな視線を感じつつ、羊太郎は手を挙げて呼びかけに応える。
「山城さん! もうじきお昼休みなのに何してるんですか?」
「ん。仕事な、さっき辞めてきたんだよ」
「おおっ。それはめでたいですね! それなら、近くにいいお店がありますから、お昼ご飯でも食べながらお話聞かせてくださいよ! わたし、おごりますよ!」
「俺はいいけど。蜂ヶ谷は職場に戻らなくていいのか?」
「いいです、いいです。仕事押し付けられるから戻りたくないですし。山城先輩が辞めるって宣言したならなおさらですよ」
羊太郎の背筋に悪寒が走った。一瞬のことだったが、蜂ヶ谷の瞳からはハイライトが消えていた。絶望と嫌悪とが表に出すぎていた。
蜂ヶ谷は素直だが、それだけに好き嫌いが激しい。外面を繕うが、付き合いの長い羊太郎の前では仮面をかぶらなくなっている。
「また愚痴は聞いてやるから」
「お願いしますよ! めちゃくちゃ溜まってますから!」
歓談を交えながら歩くこと五分少々、羊太郎たちは目的の店に到着した。
幸いと店内は空いていた。おのおの好きなメニューを注文すると、ランチと題した慰労会のスタートである。真っ昼間からすることではない。
「それで、突然辞めるなんてどうしたんです? 樫田補佐がまた無茶ぶりしたんですか?」
「そういうことだ。で、ふと『自分を大事にしてくれない会社を俺が大事にする必要があるのか?』と思った。そうしたら、いつの間にか『辞めます』って口からこぼれちまった」
「今回の衝動には抗えませんでしたか」
「どうやら俺にも堪忍袋があったらしい」
「とっくに知ってますよ。入社以来、わたしがどれだけ山城さんに叱られたことか……」
よよよ、とハンカチをまなじりに押し当てる蜂ヶ谷。
「不出来な後輩を教育するのは先輩の役目なんでね。顧客の家でみかん食ってくつろぐわ、電車に乗れば人の肩口によだれたらすわ……お前のろくでもないエピソードを挙げるとキリがないな!」
「こたつでみかん食べたらくつろいじゃうのがわたしですもん。山城さんがいれば乗り過ごすこともないから安心して寝られるし。これは信頼の証ですよ!」
「ハア……ものは言いようだわ。お前の場合、真面目に話すよりくつろいでるほうが顧客からのウケがいいし、俺以外の奴の前だとしっかりしてるから、余計にたちが悪いんだよな」
やれやれと首を振ると、蜂ヶ谷はどや顔で胸を張る。
そんな後輩の姿に羊太郎は目を細める。利益ばかりを優先して顧客をないがしろにする同僚よりも、聞いたフリをするだけで裏では羊太郎の悪口を吹聴する後輩よりも、蜂ヶ谷はずっと好ましかった。
ある意味、羊太郎の心の支えでもあった。
「でも、山城さんが辞めるとなると、寂しいですね」
蜂ヶ谷が手元のカップに砂糖を落としながら笑った。
悪かった、と喉まで上がった答えを寸前で飲み込む。衝動に任せた行動を取り繕う意味はない。
二人の間に生まれた沈黙を、陽気なジャズ音楽が端から洗い流していく。コーヒーを口に運ぶと、強い苦味とほどよい酸味が鼻に抜けた。
窓越しに外を見ると、スクランブル交差点は群衆でごった返している。
せかせかと歩くサラリーマンが、羊太郎には現代の勇者に思えた。嫌な仕事でも顔色を変えずに取り組み、日夜就業時間を相手に戦いを繰り広げている。この炎天下を汗にまみれながら進む彼らは、まごうことなき勇者だ。
──俺には真似できないなー。
羊太郎は、もともと働く意欲のない人間だ。不労所得に憧れ、金融商品などの勉強のためだけに保険会社に勤めるようになった。証券会社を選ばなかったのは、保険営業よりも客に文句を言われそうで面倒だろうと判断したからだ。
そんな羊太郎だが、変なところで真面目な節がある。
会社に勤めて給料をもらうからには、その分だけはきっちり働いてやろうという無駄な奉仕精神だ。そんな羊太郎は、蜂ヶ谷から鎌倉武士の異名を授けられている。
思考に浸っていると、ウェイトレスがランチプレートを運んできた。
羊太郎はナポリタン、蜂ヶ谷はボンゴレビアンコを頼んだ。
目の前のプレートからは、トマトの甘味とほのかに効いたニンニクの香りが食欲をそそってくる。蜂ヶ谷のボンゴレビアンコからも、アサリの出汁のいい匂いが飛んでくる。
「これこれ。これが美味しいんですよ~」
「へー。お前がグルメ志向とは、知らなかったな」
「職場ではインスタント食品ばっかり食べてましたからね。昼休みなんて、あってないようなものですし」
蜂ヶ谷は鳶色の瞳を輝かせながらスマホで写真を撮っている。おおかた、ソーシャルアプリにでも載せるのだろう。
ひとしきり撮り終えたところで、二人そろって食べ始める。
「山城さんは、これからどうするんです?」
「とりあえず、ダンジョンにでも潜ってみるかな。実は、一度行ってみたかったんだよ」
「ああ。あのテーマパークもどきですか。酔狂ですね」
蜂ヶ谷の冷めた視線を追うと、テレビでダンジョン特集番組が流れていたところだった。
「新しい娯楽のカタチ、なんて言ってますけど。モンスターと戦って、倒すとアイテムがドロップするだなんて……一体全体どういう仕組みなんだか」
「不思議だよな。しかも、致命傷を負ったらその場で救助されるときた。ゲームを参考に作られたとしか思えない世界観だぞ」
「そんなふざけた場所なのに、吐き出されるアイテムは有用な資源って……そりゃ各国ともダンジョン攻略に躍起になりますよ。ま、そのおかげでエクスプローラー向けの新商品が出て会社は儲かってるわけですけど」
「俺らの財布には入ってこなかったけどな」
羊太郎は、愚痴をこぼしながらパスタをからめとる。
「まさか、あんな奇天烈なものができるとはなあ」
「ゲームみたいな異空間に繋がる扉が現れて、しかもその管理者を名乗る人物が現れたわけですから。それにしても奇天烈って……使ってる人初めて見ましたよ」
「うるせー。どうせ俺は語彙が古いよ」
羊太郎は後輩を睨みつつ、テレビ画面に視線を向かわせる。
ダンジョンとは、一年前に世界各地に現れた扉がいざなう異空間の総称だ。扉を抜けた先は、モンスターの跋扈する迷宮となっており、その特性からゲームなどに使用されるダンジョンの名がつけられた。
また、蜂ヶ谷の言うとおりダンジョンには管理者が存在する。
「お、ダンジョンの管理人サマが出てくるみたいですよ」
羊太郎と蜂ヶ谷の視線が一点に集中する。
暗転した画面に、火花のような光が弾けた。すると、淡く幻想的な燐光に覆われながら、ひとりの女が姿を現した。
癖のある白髪の裏に黄金色の瞳が妖しく光っている。爬虫類にも似たその双眸は、言いようのない畏怖とわずかばかりの不気味さを見る者に与える。妖しさをはらんだ美しさを持つ異様な女だ。
その女は、右の手をゆっくり持ち上げると、自らの目の前でピースを作った。
『テレビの前のみんな~? こ~んに~ちわ~~~っ! みんなのダンジョン管理人、ノアちゃん様の登場だぞっ☆』
時が止まった。羊太郎はそう錯覚した。
「…………」
「…………」
なんだ、コイツ。全国のお茶の間のみなさんが思ったに違いない。
蜂ヶ谷に至っては、刺すような鋭い目つきをしている。心底からどうでもいいものを見るときの冷ややかな目だ。それが羊太郎に向けられたときには、間違いなく心臓が凍り付いて死ぬに違いない。
そんな視聴者のことは気にもせず、女は満面の笑みでこちらに向かって手を振る。
『ちびっ子たちも、野郎どもも、麗しいお姉さま方も、老若男女、一切衆生、森羅万象皆等しくテレビの前に集まれ~! ノアちゃん様のダンジョン宣伝が始まるよ~っ!』
別に、聞かなくてもいいかな。
羊太郎はひとりうなずいた。いつの間にか食べ終わったし、蜂ヶ谷も怖いし。早くこの店を出たほうがいいと脊髄が警鐘を鳴らしていた。
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