6−2
今日がいつだか、考えても仕方がない。そういう気持ちが自然と沸き起こる。あたかもいいことのように。いや、いいことに違いないのだ。
サロンへ行く前に、聖堂に立ち寄る。誰かの〈送り〉が行われている。高名な小説家の女性だ。わたしは過去二回、彼女の〈送り〉を目にしている。そんなことがあり得るのだろうか。あり得るのだ。わたしが経験したのだから、これ以上考えても仕方がない。わたしは広場を後にする。
教室では、講義が始まろうとしている。入室したわたしを見て、親密度の高い同期創作者二人が顔を寄せてくる。今日は遅刻じゃないね、と茶化してくる。
今日は? わたしは問う。遅刻などしたことはない。
いや、ある。
昨日――一回前の今日、わたしは遅れてこの教室に入ってきたのだった。だけどそれは、わたしの思い過ごしであり、彼女たちが認識していることではないはずだ。
わたしが口を開く前に、言った本人が訂正する。思い違いだったと、彼女は笑う。
わたしも笑う。
講師が入ってきて、講義が始まる。
講義は実践的なものが中心で、参加者が作った歌を聴き、それを題材に選評を行う形で進められる。時には講師が自ら大昔の曲を演奏したり、レコードを掛けることもある。音楽で満たされた、音楽のことだけを考えられる時間だ。
斜め前に座っていた同期創作者の一人が指名を受ける。彼女は照れ笑いを浮かべながら、チェンバロを手に壇上へ上がっていく。まだ途中だと前置きをして、自ら創った曲を奏で始める。
彼女もまた、父性担当保護者の〈送り〉のために歌を創っていると聞いた。歌詞はまだないため、演奏だけが流れていく。まだ途中だとは言っていたけど、いい曲だ。鳥が空を舞っているような伸びやかさがある。
音楽に身を任せ、目をつぶる。
わたしの頭の中で舞う鳥は、硝子の外側を飛んでいる。
加護の外。
〈ほんとう〉がある世界。
こことは違う。
ここではない世界。
気付けば、演奏は終わっている。途中までしかできていないのだから、不意に終わるのは当然だ。
けど、何か妙だ。
みんながわたしを見ている。
受講者たちも、講師も。壇上でチェンバロを手にした同期創作者も。
わたしには、なぜ見られているのかがわからない。
なぜ、みんなの顔が恐怖に歪んだようになっているのかがわからない。
背後で、講堂の扉が開く。弾き飛ばされたのではと思うほど、勢いをつけて。
コツコツと、いくつもの固い靴底が床を打ちながら近づいてくる。明確に、一点を目指していることがわかる。
靴音はわたしを挟み込む位置で止まる。わたしは、どちらを見上げようかと迷う。
名前を呼ばれ、そちらへ顔を向ける。灰色の制服に灰色の制帽。たぶん、手袋もブーツも灰色なのだろう。そうした装束に身を包んだ男性が、こちらを見下ろしている。いや、実際には彼の眼差しは制帽の影に隠れているから、本当にわたしを見ているかは定かではない。
影。
彼自身が、影の中から抜け出してきた〈影の一部〉であるような印象を受ける。逆側に立つもう一人も、恐らく同じような人物なのだろう。彼らはどんなミームを創るのか。そもそもミームを創っているのか。想像もつかない。わたしたちとは、少なくともわたしとは、全く異質の存在に思える。
もう一度、名を呼ばれる。わたしの名に間違いがないか確認される。
わたしは頷く。立つように命ぜられ、それに従う。そのまま、講堂の外へと誘(いざな)われる。
誰も、何も声を掛けてこない。ただ、わたしを見送る視線だけが感じられる。
わたしは影のような人物たちに連れられ、講堂を出る。
暗転。
次に気付いた時、わたしは灰色の制服を着た男性と机を挟んで相対している。
道徳官。
小さな頃から、畏怖の対象として、寝物語で聞いていた存在。実際に見るのは初めてだ。
向かいに座るのは、あるいは、わたしを迎えに来たのとは別の人物なのかもしれない。だけど、わたしには区別がつかない。つけようという気持ちにもならない。
狭い、石造りの部屋。わたしの正面で、小さな窓が白く光っている。外の光だろうか。だから、向かいの男性は逆光を受けた影となっている。完全な影。その影が、粘度を帯びたような低い声で語りかけてくる。
「我々は本来、こうして顔を突き合わせる間柄ではないのですが」と、彼は言う。珍しい喋り方。異質な喋り方。
どこかで聞いたような喋り方。
「自分がなぜここにいるのか、理解はできますか」
わたしは首を振る。
「全く、心当たりはない?」
わたしは頷く。
「何をしたかも、覚えていない?」
歌をうたった、とわたしは答える。
相手はわたしの言葉を吟味するように、小さく何度か頷く。それから、言う。
「そう、歌を。どのようなつもりで、あの歌をうたったのだろう?」
質問の意味が理解できない。
相手は考えるように黙ってから、再び口を開く。
「歌詞の意味を、あなたはわかっていましたか?」
わたしは初めて、自分が、歌詞の意味など考えもしていなかったことに気付く。浮かんだ旧言語の言葉をそのまま、聞こえてくる音色に乗せていただけだ。一つ一つの言葉は、意味を吟味する前に口から発せられていた。
首を振る。
「禁忌に触れたのは、故意ではない、と」
禁忌?
禁忌に触れた?
「歌詞を思い返してみてください」
覚えていない。
「なるほど。本当に、無意識にうたっていたようですね」
相手は理解したというように頷く。だけど、それがこの状況からの解放への筋道ではないことはわかる。現に彼は続ける。
「これは、かなり重症だ」
暗転。
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