恋をすると人はアホになる

久野真一

第1話 どうやら後輩に惚れてしまったらしい

 七月中旬、夏真っ盛りの夜。

 俺は一人懊悩していた。


「あーひめに会いたい」


 そんな事を口走ってしまう。重症だ。


 昔の人は言ったらしい。

 恋は人を盲目もうもくにすると。

 しかし、俺は異議ありだ。

 恋は人をアホにするのだと言いたい。

 だって、明日の宿題も手につかない有様だし。


『x^3 + xy - y - 1を因数分解せよ』


 簡単な因数分解の問題だ。そのはずだ。

 しかし―


『x^3 + xy - y - 1 = 姫^3 + 姫俺 - 俺 - 1

        = 俺(姫 - 1) + 姫^3 - 1

       = (姫 - 1)(姫^2 + 姫 + 1 + 俺)』


 よし、完了……なわけがない。

 変数へんすうが全部姫と俺に置き換わっている。

 自分で見返しててドン引きである。

 そもそも、姫を二乗したり三乗するって何だよ。引き算したら何か起こるのか?

 さらに掛け算をしているのも意味不明にも程がある。


「ああ、病気だ。こんなアホな事考えるのも恋愛が悪い!」


 誰も聞いていないのをいいことにくだらない独り言をつぶやいてしまう。

 幸い部屋は冷房が効いているが暑かったらもっとやばいだろう。


 そう。俺は恋をしている。正確には恋が成就したばかり。

 ひめこと吉野姫子よしのひめこ。一学年下の可愛い後輩。

 恋を自覚したのは今年の春のことだ。


★★★★


 その日の俺は放課後、課題のために必要な本を借りようとしていた。

 ふと、入り口寄りの席を見てみると彼女が居て哲学書を読み耽っていた。

 切れ長の瞳を真剣な色にしている様子が珍しくて思わず見惚れてしまっていた。

 肩まで伸ばした髪も図書室に何故かよく合っている気がした。


「姫もそういう小難しい本読むんだな」


 気が付いたら声をかけていた。 


「ああ、ウィトゲンシュタインのことですか?」


 授業で哲学史はあるけど、初めて聞いた名前だった。


「なんか舌かみそうな名前だな。ドイツ人?」


 音の響きがなんかそんな気がしたのだ。


「残念。オーストリアの人です。でも、とても面白いですよ」


 顔を上げた姫は微笑んでいて、思わずドキリとしてしまう。


「なんか意外だ。姫のイメージと正反対だし」

「確かに私、あんまり読書してるイメージ無いですよね」

「いや。哲学書っていうと、暗い奴が読んでるっていうイメージがな」


 言ってからしまったと思った。

 なのに、姫は気分を害したどころか、


「実のところ、そんなに皆が思ってるほど、私は明るくも社交的でもないですよ」


 怒るか冗談めかした返しが来ると思っていたので意外だった。

 その声色にはどこか自嘲めいた響きが感じられた。

 ただ、俺は姫のことをよく知っているわけでもなく、


「そっか。別に暗くてもいいんじゃないか?姫なりに色々悩みもあるんだろうし」


 そんな言葉をかけるのが精一杯だった。

 意外な返事だったのか、きょとんとした後、


「優しいですね、棟矢先輩は」


 そう返した姫のはにかんだ表情は魅力的だった。

 日常の一幕の些細な光景。

 ただ、それだけなのに。

 その会話をきっかけに俺は姫に恋をするようになってしまった。


 ちなみに、「姫」と呼んではいるけどこの時は深い仲でもなかった。

 ただ、登校中に名字で呼んでいたら「姫でいいですよ。皆そう呼びますし」

 と言われたのでお言葉に甘えているだけだ。


◆◆◆◆


 姫こと吉野姫子との交友は長くも浅い。

 初めて会ったのは小四の頃だったか。

 幼馴染と言える程仲良くしていたわけでもなく、ご近所でよく見かける年下の子。

 会えば挨拶と世間話程度はするけど、それ以上でもそれ以下でもない仲で、でも、綺麗な子だなと思っていた。

 ただ、登下校の道が同じこともあって、どーでもいいことはよく話したもんだ。


「あ、棟矢とうや先輩。おはよーございます」


 俺の本名が河野棟矢こうのとうやなので、下の名前だ。

 そう言えば彼女が下の名前で呼んで来たのはなんでだったか。

 二階建ての邸宅に住む彼女は、会うと気さくに会釈をしてくるのが常だった。


「ほんとよくエンカウントするよな」

「人をモンスターみたいに言わないで下さいよ」


 そんなユーモアのある返しも何のその。

 美人な上に話も面白いとあって、一学年上にまで噂が広がっていた程だ。


「あ、そうそう。こないだ初めてタピオカ専門店行って来たんですよ!」

「ああ、あの男子お断り感凄いところか」


 独り身の男子には縁がない場所だった。


「味はどうだったんだ?専門店言うくらいだし、美味しかったのか?」

「ミルクティーは普通だったんですが、ゲテモノメニューが多くて目眩めまいがしそうでしたよ。タピオカそばとかタピオカ丼とか、タピオカフルコースで吐きそうでした。なんでもタピればいいってものじゃないですよ!」


 うげーとリアクション豊かにげんなりした様子を表現する様は人気者の彼女らしい。話しやすいというか親しみがあるというか。


(こういう庶民的なとこが、手が届きそうで人気あるんだろうな)


「興味湧いて来たな。行ってみるかな」


 姫の話は面白いので行って来た店をつい見てみたくなるのが玉に瑕だ。


「今度一緒に行きます?」


 姫が冗談めかして言うのもいつものことだけど、実現したことはない。


「ああ、じゃあ。そのうちな」

「はい。そのうち」


 だから社交辞令を言うのが定番化していた。

 ただ「そのうち」と返す時の彼女は何故だか寂しそうだったけど。


◇◇◇◇


 ともあれ、何がきっかけか図書館で彼女と話して惚れ込んだ俺は決心した。


「よし。アプローチあるのみ!」


 即決即断が俺のモットー。

 翌日から彼女にアプローチを始めたのだった。

 

 例によって登校が一緒になった俺たちだけど、


「なあ。こないだタピオカ専門店いつか一緒にって言ってたよな」


 勇気を出してデートに誘ってみることにした。

 内心はドキドキだったけどなんでも無い風を装うのに必死だった。


「は、はい」


 姫は何故かぎこちない返事だった。


「今週末、一緒に行かないか?」


 俺は少し緊張しつつ話を切り出したのだった。


「え、いいん、ですか?」

「そりゃ俺から誘ってるんだし。あ、社交辞令だったら悪い」


 あ。その気があるのかちゃんと確かめていなかった。


「ち、違うんです。私、嬉しくて……」


 俯いて言う姫の様子はとても可愛らしくて、不覚にもグっと来てしまった。


「じゃあ。日曜日の昼とかどうだ?」

「は、はい。よろしくお願いします。それと、服は地味だと思いますけど……」

「別に気にしないってそんなこと」

「なら良かったです」


 露骨にほっとした様子の姫。

 内気で控えめな感じがして、図書室での言葉は真実だったのだと悟った。


 タピオカ専門店で初めてのデートをした後。

 連絡先を交換して、俺たちは急速に距離を縮めて行った。


 そうしてわかったのは、明るく朗らかなのは彼女の処世術だということだった。


「もう慣れましたけど、家に帰ると凄い疲れるんですよ。あれ」


 ある日の登校時にぽつりと姫が漏らした言葉。


「いいんじゃないか?生まれつきなんだろ。色々考え事してるのも可愛いぞ」


 仲良くなってから姫は露骨に口数が少なくなった。

 いつもどこか考え事をしているようなところがあって、それが素とのこと。

 ただ、俺は俺で自分にだけそんな姿を見せてくれるのがとても嬉しかった。


「先輩って実はチャラい人だったりします?」


 素直な気持ちを打ち明けたのに怪訝な目で見られるのは納得が行かない。


「なんでだよ」

「だって、そういうことを軽く言えるとか……」

「俺としては軽い気持ちじゃないんだけど」


 恥ずかしいのを我慢しているだけなんだけどなあ。


「そ、そうですか。あ、ありがとうございます。嬉しい、です」


 その言葉には彼女の気持ちがとてもこもっている気がして、


(ひょっとして手応えあり?)


 なんて思ったものだった。


 告白をしたのも登校中のことだった。


「あのさ。俺、なんか姫のこと凄い好きになってるみたいだ。寝る前も姫はどうしてるのかとか考えるようになっててさ。いや、迷惑だったら悪いんだけど」

「そ、それはありがとうございます。ぜ、全然迷惑なんてことはないです。私も、好きでしたから」

「じゃあ、付き合うか」

「はい。その、よろしくお願いします」


 その返事を聞いた時は飛び上がるように嬉しかったものだ。


◇◇◇◇


 それが今朝の出来事。

 ただ、恋が叶うと人はさらに欲張りになるものらしい。

 恋人としてこれからああしようこうしようと考えが浮かんで来るばかり。

 授業はほとんど聞いていなかった。


「姫にこんな様子を見られたらきっと呆れられるだろうなあ」


 まさか授業どころか宿題も手につかないなんて。

 「棟矢先輩」とそう呼んでくれる声が聞きたい。

 

(いっそのこと、今から家に行くか?)


 なんて考えて、はっとする。

 駄目だ駄目だ。もう今は夜の九時だ。

 夕食も終わってお風呂に入るか入らないかという時間だろう。

 普段ならこんな馬鹿なこと考えすらしないのに。


(よし、字でも書いて落ち着こう)


 姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫姫。

 読み返して自分でもドン引きしてしまう。

 これはもうステータス異常という奴じゃないだろうか。

 アホになってるのはわかるのに自分ではどうしようもない。


「通話くらいならいいかな……」


 このままだと何も手につかないことは確実だ。

 でもなあ。いきなり電話して心配かけるのもなあ。

 大体、「声が聞きたくなって」とか初日に言うことじゃないだろう。

 ああ、でも、いいや。

 プルルル。プルルル。

 誘惑には逆らえずに電話をかけていた。


「あ、こ、こんばんは。棟矢先輩。どうかしましたか?」


 電話に出た姫は予想通り少し心配そうな声だ。


「いや、せっかく恋人になっただろ?ちょっと夜の雑談でもどうかなって」


 ついカッコつけてしまう。


「あ、ありがとうございます。お風呂入って後は寝るだけだから、大丈夫ですよ」

「お風呂……」


 いけないと思いつつ想像してしまう。


「その。エッチな想像とかしてます?」

「いやその……ああ」


 悩んだ末に素直に白状することにした。


「嬉しいですけど、その、そういうことはもうちょっと待ってもらえると」

「そういう意味じゃないって。ちょっと、ちょっとだけ想像してしまったんだよ」

「そ、そうですか。私も先走ってすいません」

「……」

「……」


 気まずい。


「あのさ。俺たち、恋人になったんだよな」


 何を言っているんだと自分にツッコミたくなる。


「それは。先輩が告白してくれましたし」

「そ。そうだよな。悪い」

「いえ。私も嬉しいですし」


 うう。姫はいい子だなあ。


「そういえばさ。一つだけ悩みがあるんだけどさ」

 

 もう打ち明けてしまっていいんじゃないか?


「はい。私で良ければ聞きますけど」

「なんかさ。姫の事ばっかり考えて授業も宿題も手につかない」

「……」


 無言の返事。


「本当は、電話したのも雑談っていうより単に声が聞きたかったんだよ」


 引かれるんじゃないかと思ったけど、わかってくれるような気もした。


「良かった……。実は、私もだったんです。先輩の事ばかり考えてしまって」


 どこかほっとした声色で返ってきたのは予想外の返事だった。

 マジか。喜んでいいのか何なのか。

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