電線の蜘蛛

狛咲らき

その蜘蛛の名は

 子どもの頃は自分のことが大好きだった。

 なんでも出来て、なんでも知ってて、みんなからの期待の視線が嬉しくて。


 なのに、いつからだろう。僕が僕を嫌いになったのは。





「——すっげぇな、また学年トップかよ」


 返ってきた僕の成績表を見て、宮本はそんなことを言う。


「全然すごくないよ。ただ勉強しただけなんだから」


「勉強して赤点ギリギリの俺の前でよくそんなこと言えるな。流石1位様」


「悪かったよ。だからそんな風に言うのはやめてくれ」


「へいへい。ま、俺もあんまし気にしてねぇけどな」


 宮本はニッと笑い、それにしてもほんとにお前すごいわ、と再び呟く。僕はもう一度成績表に目を通した。


 現代文、古文、数学、英語、生物、化学、物理、地理、世界史、美術、音楽、体育……どれも前学期とほとんど変わらない点数だ。美術と音楽と体育の3教科は不安だったけれど、先生と友達が助けてくれたお陰でなんとかなったようだ。


「……本当、クソみたいだな」


「ん? なんか言った?」


「いや、独り言。それより放課後どうする?」


「あー、部活? 別にどっちでもいいって言ってたけど、1学期最後だし折角だから行ってみるか」


 分かった、と僕が答えた直後、先生の「はーい、ホームルーム始めますよ」という声が聞こえて、宮本は面倒臭そうに自分の席へと帰っていった。


 生徒全員が各々の席に座ったのを確認して、先生は夏休みの過ごし方やら宿題はちゃんとやりましょうやら、学期毎に繰り返されてきた連絡事項を話し始める。

 どうか今日は、今日だけはもっと重要な話をしてくれよと願うものの、次の話題が自分がこの休暇中にどこへ旅行するかに変わって、僕は心の中で舌打ちした。


 まるで鉛が腹の底に沈んでいるかのように、ただ座っているだけの僕を苦しめる。

 僕の胸中を覆う雲はいつまで経っても晴れやせず、かといって雨が振りだす様子もない。


 暗い、暗い、闇の空が広がるだけだ。


「——ではみんなさん、良い夏休みにしてくださいね。では日直」


「起立」


 そうして僕が苦しみに悶えている間に、先生のどうでもいい話はいつの間にか終わったらしく、みんながガラガラと椅子を引いて立ち上がっていく。僕も慌ててそれに従い、「礼」の声で頭を下げる。


「おーす、じゃあ行こうぜ」


 放課後となった瞬間、すぐさま宮本が僕に声をかけてきた。

 でも僕の机には、配布されたプリント類や昨日までに持ち帰れなかった教科書の山が築かれていて、すぐに向かうことは出来なさそうだ。


「ごめん、先行っといて」


「手伝おうか?」


「いや、大丈夫」


 宮本は一瞬迷ったようだったが、最終的にはオーケー、と部室へと向かった。


「さて……」


 気怠さに負けそうになりながらも、ゆっくりと山を片づけていく。

 教室にはまだ数人の女子達が楽しそうにお喋りしていて、それがなんだか心地良く感じた。


「ねぇ、結局海っていつ行くんだっけ」


「再来週の日曜じゃね?」


「あれ、でもその日って絢音がダメなんじゃなかったっけ」


「そうそう、確か幼馴染のコンクール観に行くとかで」


「もしかしてあのピアノめっちゃ上手い子? なんか全国大会出れるレベル〜みたいな」


「そうそう、その子!」


「そんなすごい人と幼馴染って羨ましいなぁ」


「ね〜。私もそんな才能欲しいなぁ〜」


 その呑気な言葉に僕は成績表を破り捨てた。





「——お、やっと来たか。遅いじゃないか、遅刻だぞ」


 部室に入るや否や、宮本が冗談めかして笑う。


「遅刻も何も、今日は自由でしょ。先生は?」


「まだ。でも園部くんが」


 宮本が部室の奥へ首を向ける。

 つられて見てみると、その先にはパソコンを操作している後輩の園部くんがいた。僕は彼に声をかけて、軽く会釈を交わした。


「先生、何か言ってたの?」


「あ、はい。『4時くらいに戻ってくるけど特に要件がないならそのまま帰っていいよ』だそうです」


「分かった。ちなみに他に誰かいたりする?」


「多分俺が最初だと思うんですけど、先輩達以外誰も来てないですね」


「あれ、じゃあ佐藤さんも来てないのか」


 宮本の問いに園部くんは頷いた。


 僕らが所属している部活は『総合研究部』という。プログラミングだったり、読書だったり、絵を描いたり、「個人の長所をさらに伸ばす」をモットーに幅広い活動を行なっている。とはいえ幅広い分野を取り扱い過ぎたせいで、僕らが入る少し前までは遊び目的で入部する人が大半だったらしく、部活として認められないという理由で一時期は廃部の危機にあったらしい。


 この危機から救ってくれたのが先輩の佐藤さんだった。

 彼女はこの部で絵本を描いていた。なんでも将来は絵本作家になりたくて、中学の頃から絵本を描き続けてきたそうだ。

 そんな彼女が部の活動の一環としてコンクールに応募したところ、これがなんと最優秀賞を受賞。その後もいくつものコンクールに彼女の名と絵本が記録された。

 そして校内の学年通信でインタビューを受けた彼女は、


「『総研』の人達から良い刺激を貰ったから描けました。『総研』は私の大切な場所です」


 とだけ話し、廃部賛成派の教員全員を黙らせたという。

 さらに翌年の同コンクールにも再び最優秀作品として選ばれ、その才能を求めて著名な絵本作家が高校ここへやってくることもしばしばあった。今年度もその勢いは止まることを知らず、すでに高校生対象のコンクールで優秀賞を貰い、この夏の全国コンクール三連覇に周囲から大きな期待を寄せられている。

 尤も、佐藤さん自身はそんなこと露ほども気にしていないようだが。


「良かったな」


 不意に宮本が園部くんには聞こえないくらいの声で話しかけてきた。


「え、何が?」


「今日佐藤さんが来ないってことだよ。あの人見るたびに、お前ちょっと嫌そうな顔するじゃん」


「——」


「あんま俺には分かんねぇけどよ。あの人優しくて良い人だし、めっちゃ可愛いし、尊敬してるし」


「——そう、だね」


「先輩達、何こそこそ話してるんですか」


 園部くんが僕らの会話に割って入る。

 救われた思いで僕は小さな笑みを作ってみせた。


「なんでもないよ。それよりどうする? 3人しかいないなら帰る?」


「いえ、僕はしばらく残ります。明日までに問題点とか探しておきたいですし」


 園部くんはそう言うと、パソコンの画面に目を落とし、カタカタとキーを打ち始めた。


 彼が取り組んでいるのはロボット制作だ。

 元々そういうのには興味があったらしく、夏休み明けにあるロボットコンテストに向けて他の部員と共に完成を目指している。

 今はひとりだが、明日からは朝から学校が閉まるまで、ほぼ毎日メンバー全員集まって活動するそうだ。長期休暇中の『総研』の活動は基本的に自由ではあるけれど、少し張り切りすぎなんじゃないかと、僕は思う。


 でも、それはきっと、彼らがロボットを好きで好きで仕方ないからなんだろう。

 僕にはそれが、とても羨ましく思えた。


「そうか。じゃあ宮本は? まだ文化祭までもうちょっと先だけど」


 一方僕はというと、宮本と、あと後輩ふたりと先輩ひとりの5人チームでゲームを制作中だ。一応目標は文化祭までに完成だが、完成度は75%程度とそれなりに余裕はありそうではある。


「うーん、そうだなぁ。多分ちょっとのんびりやっても大丈夫だと思うけど、俺も残るわ。園部くんのやつ手伝う」


「え、良いんですか」


「もちろん。今暇だし」


 宮本は園部くんの隣の椅子に座ると、画面に映し出された文字の羅列を眺める。


「今どんな問題があるんだって?」


「えっとですね——」


「——あぁ、それね。多分ここ直せば良いと思うよ」


 園部くんが頭を抱えていた問題を見るや否や、宮本はすぱすぱと解決していく。


 宮本はプログラミングが得意だった。

 僕と同時期にこの部に入って、同時期にプログラミングを知ったにも関わらず、僕より遥かにプログラムを書くのが上手かった。


 プログラミングは学びさえすれば誰でも出来ると聞いたことがあるが、それでも宮本のそれは他と比べると頭ひとつ抜けていると思う。

 実際、ゲーム制作の核となるプログラミング班は僕と宮本のふたりだけだが、現時点で書かれたプログラムのほとんどが宮本のものだ。僕がしたことといえば、せいぜい物理的な挙動がどうなるか、みたいな計算くらいしかない。


 たった、その程度だけだった。


「……僕は帰るね」


「あ、そう。オーケー。明日以降どうするんだっけ」


「……家で通話しながらやる。画面共有して」


「あーそうだった、そうだった。日程まだ決めてなかったよな? じゃあ夜決めるか……どうかしたか?」


「いや、何も。じゃあまたな」


「お、おぅ……」


 心配してくれる宮本を背に、ガラリと扉を開けて、廊下へと出る。


 少しだけ、胸のざわめきが落ち着いたのを感じた。





 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。


 揺れる世界の中で、僕は蝶になっていた。

 長いようで短かった蛹の期間を終え、短い木の枝に捕まって大きな羽をゆっくりと伸ばす。

 周囲を見てみると、おとなの蝶達が悠々と空を羽ばたいていて、僕と同時期に生まれた仲間達はまだ蛹から目を覚ましていないようだ。

 焦れる心を抑えて慎重に羽を動かしてみる。

 どうやらようやく僕も立派な蝶になれるみたいだ。


 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。


 僕も、僕もあの空へ飛んでいきたい。

 雲ひとつない、どこまでも広がっていくあの青い空へ。

 ふわりと風に乗るようにして、僕は木の枝から離れた。

 そして蛹の仲間達横目に羽を広げる。

 空を飛べることの幸福感を噛み締めながら。

 誰よりも早く飛べる優越感を味わいながら。


「僕もやっと、あの空へと行けるんだ!」


 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。


 突然、視界に黒い糸が現れた。

 今までなかったのに、何本も何本も、空を掻き消すように現れる。

 あまりのことに僕は反応できず、勢いよくその糸に突っ込んでしまった。

 一体何が、混乱する頭を働かせようとして、ふと僕は、自分の身体が動かないことに気付いた。

 糸に絡まったとかではないのに、ピクリとも動かせないのだ。

 頭の混乱は加速する。先ほどまでの希望は喪失し、恐怖と絶望が代わって僕の心を埋め尽くそうとしていた。


 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。


「だ、誰か、助けて!」


 喉から出たその言葉は糸を震わすこともできないくらいに微かで、誰の耳にも届かない。

 僕が藻掻いている間に蛹達は蝶へと成長し、僕に気付かず嬉しそうに空へと向かっていく。


 どうして。何故。なんで。

 思考回路をどれだけ巡らせてもその答えは出てこない。


 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。


 不意に、僕の背後から何かが歩いて来る音が近付いてきた。

 その音はまるで「もう知ってんだろ」と嘲笑っているかのように、僕には聞こえた。


 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。


 ガタン。ゴトン。





 気が付くと、電車は家からの最寄りの駅に着いていて、乗客がホームへと流れていた。

 慌てて僕もその列に参加する。

 階段を下り、改札口を出る。待っていたのは、刻々と闇へと染まっていく夕焼け空と、電車に乗ろうと駆け込む帰宅中の会社員が数人。

 いつもと大して変わらないはずの景色がやけに僕の心を蝕み、苦痛に思わず下を向いてしまう。


「なんなんだよ、本当に」


 駐輪場に停めていた自転車のスタンドを蹴り、ペダルを踏もうとして、親が僕の成績を楽しみにしていたことを思い出す。

 意味のないこととは分かっていても、僕はハンドルを握ってカラコロという音と共に歩き始めた。


「はぁ……」


 己の馬鹿さ加減に呆れて、僕は溜息を吐いた。


 結局、僕だけが置いてけぼりなんだ。


 クラスメイトの幼馴染はピアノの才能があって、

 先輩の佐藤さんの描く絵本がプロも注目するレベルで、

 後輩の園部くんは初めてのロボット制作に熱を上げていて、

 親友の宮本は多分ひとりでもゲームのプログラムを組めて。


 もちろんそれは彼らだけにいえることじゃない。たとえばC組の立山は高校から陸上部に入ったのに全国行けるくらい足が速いし、生徒会副会長の向井さんは文化祭とか体育祭の実行委員長に立候補して、生徒全員をまとめてる。隣の席の志島さんはあんまり目立たないけど、周りをよく見ていて、困っている人がいたら誰よりも早く駆け寄る優しい人だ。


 みんながみんな、僕の持っていないものを持っている。そして僕以外のみんなが本当に褒められるような才能とか熱意とかを持っていて、この高校生活を謳歌している。


 毎日毎日先生の言葉を一言一句ノートに書き取って、限界を感じ始めた体育とか美術とか音楽とかは先生や友達の助けを借りて、そうやって学年トップを無理矢理にでも維持して、せめてこのあまりにも下らない唯一の取柄だけは失ってはいけないと惨めに取り繕う。


 もし2位に落ちたらどうしよう。何も持ってない僕はどう生きればいいんだろう。


 そうやってビクビクしながら毎日を過ごす僕とは大違いだ。


 ——すごーい! うんどうもできるし、べんきょうもできるって、いいなぁ。

 ——君は我が校の誇りです。

 ——あ、あの子ってもしかして例の天才って呼ばれてる子じゃない?

 ——母さんと相談したんだが、お前ならこの学校が良いんじゃないか? 家から結構距離あるけど、勉学でも運動でも優秀で有名って聞くし、お前にピッタリだろう。

 ——保護者会ではいつもあんたの話で持ちきりでね。お母さん嬉しいよ。将来はどんな大人になるのかしらね。


 脳内に去来するのは、あの頃毎日のように聞いた毒の声。

 自分が如何に無知だったかを今になって叩きつけるその声に、当時の僕はどうして気が付かずに喜んでしまったんだろう。


 足取りがずんずんと重くなる。


 家までの道のりはそんなに長くはないはずなのに、その半分を歩くより早く、空は薄暗い夜の色になっていた。


「——そうか、お前だったのか」


 そんな空を見上げ、僕はふっと小さく呟いた。


 そこにいたのは、息が詰まりそうなほどに張り巡らされた電線の上を、我が物顔で闊歩する、きらりと輝く星の目をした大きな蜘蛛だった。


 蜘蛛は見上げる僕をじーっと見つめ返している。

 夢の中で蝶になった僕を捕らえたように、決してこの輝かしい空へは行かせまいと、憎たらしいほどに光る目で僕を睨んでいる。


 でもこれは僕が悪いんだ。


 称賛と期待しかない景色の中を、その意味を理解せずに突き進んでしまったから。

 道中にはみんなの道はこっちだよ、といくつもの立て看板があったのにそれらを全部無視してしまったから。

 奴の巣をあの目よりも明るく燃やす松明も無数に転がっていたはずなのに、既に持っていると勘違いして拾わなかったから。


 無知蒙昧を博学多才と読み違い、本当の自分を知らなかった結果がこの様なんだ。


 逃げ道はいつの間にか塞がれていて、他のみんなは幸せ一杯だというのに、僕はいつ喰われてしまうのかと不安に押し潰されそうになっている。

 僕はこのまま、あの夢と同じで空へと羽ばたくことなく、何者にもなれないままに終わってしまうのだろう。



 電柱ほどの高さを歩く低空の支配者が、あの頃夢見た僕を殺すんだ。



「——そういうところが大嫌いなんだ」


 誰もいない夜空の下で、僕は『総研』の退部の決意を固めると共に、あまりの不快感に嘔吐した。

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