特別編 サクラ(3人称視点)

特別編 サクラ(3人称視点)








「んがごご・・・うにゅむ・・・あとのせ、サクサクぅ・・・」




高柳運送、その一室。




部屋の主である顔に傷のある男が、不可思議な寝言を呟きながら世にも幸せそうな顔で眠っている。


彼・・・田中野一朗太はその珍妙な寝言とは裏腹に、寝姿は綺麗なものだ。


胸にかけられているタオルケットも、寝入る時とほぼ同じ位置にある。




「ふぁふ・・・」




と、彼のタオルケットが一部盛り上がり・・・もこもこと動く。


タオルケットの中から突き出されたのは、長い鼻。




「きゅん・・・」




それに続いて、顔が出てくる。


寝ぼけ眼で真っ暗な部屋を見つめるのは、一朗太の愛犬(本人は娘だと主張しているが)のサクラである。


生後約1年未満、もふもふの尻尾を持った豆柴の子犬である。




彼女は一瞬自分がどこにいるのかわからなくなったのか、きょろきょろと不安げに当たりを見回す。


だがすぐに寝息を立てる一朗太に気付くと、尻尾を軽く振る。




「んああ・・・ゆるしてごとうりんしぇんぱい・・・ころさないで・・・」




タオルケットから出た彼の手に、サクラは顔を擦り付ける。


軽く鼻を鳴らし、彼女がこの世で2番目に好きな匂いを嗅ぐ(ちなみに3番目はツナ缶らしい)




1番好きだった母の匂いは、もう嗅ぐことはできない。




「でんちゅう・・・でんちゅうでござる・・・」




腕に何か当たったことでの反射か、一朗太の腕はサクラを抱きしめた。


彼女が一番安心できる、この世で最も安全な場所。


彼女は一朗太の頬をペロリと舐めると、満ち足りた気分で再び目を閉じた。








サクラの自我がある程度しっかりしてきた頃、彼女には家があった。


正確には彼女の母犬の家であったが。




そこは老夫婦の家で、サクラの母犬は彼らの娘が預けていった犬だった。


娘は大層可愛がって育てていたが、仕事の都合で海外へ何年か転勤することになったからだ。


泣く泣く娘は両親に愛犬を預け、後ろ髪を引かれる勢いで旅立っていった。




その老夫婦は、犬が大好きであった。




つい何年か前に可愛がっていた洋犬が16歳で老衰という大往生を遂げた。


自分たちもこれから何年生きるかわからないから犬が残るとかわいそうだ、新しい犬を迎えるのはやめておこう。


そう夫婦で話し合っていたが、降ってわいたような娘の転勤。


表面上は仕方なしに、内面的には大喜びで母犬と・・・もうすぐ産まれそうだったお腹の中の子供も含めて家に迎え入れた。




サクラの母犬は、『ユキ』という名であった。


勿論サクラにも別の名前があったのだが・・・彼女はもう覚えていない。




サクラには、4匹の兄弟がいた。


彼女は一番の下っ端で、兄弟たちによって遊びの時に圧倒されることが多かった。


そんな時は決まって、ユキがそれとなく兄弟を諫め、サクラを優しく舐めてくれた。


彼女は、母が大好きだった。


もちろん、兄弟たちも。


そして老夫婦も。


サクラの世界は、優しさと愛情に満ち溢れていた。






そんな世界が、一瞬にして変わってしまった。






その日は朝から妙な気配を感じていた。


何かおかしい。


何かが起こるような気がする。




いつもと違っておとなしく、吠えることもしない犬たちに老夫婦は違和感を覚えたが・・・そんな日もあるだろうと日課の買い物に夫婦そろって出かけていった。




サクラたちは奇妙な感覚を覚えつつ、老夫婦の帰りを待った。


2時間ほどたった頃、駐車場に老夫婦の車がいつもの何倍もの速度を出して帰ってきた。






「ううぐ・・・ぐうう・・・!あ、ああ・・・」






焦ったような開錠の音。


続いて、よたよたとした足音。




帰ってきたのは、老夫婦の片割れ・・・夫の方だけだった。


体のあちこちを鮮血に染め、片腕などは千切れかけていた。


サクラたちはあまりの惨状に半ばパニックを起こし、すぐさま駆け寄ろうとする。




「うう、よ、寄るんじゃない・・・離れていなさい!!」




彼はリビングの入り口にテーブルを倒し、犬たちが彼の方へ来れないようにした。


それで精根を使い果たしたようで、崩れ落ちるように座り込んだ。




「きゅぉん!わん!おぉん!!」




ユキの心配するような声に荒い息で顔を上げると、彼は弱々しく微笑んだ。




「すまんねユキ・・・撫でてやることもできん、な。ふぅう・・・」




彼は天上を見上げ、大きく息を吐いた。


そうしている間にも、彼の体からは大量の血が流れ、床を汚していく。




「美知子、薫・・・すまない、許してくれ。うぅう・・・」




絞り出すように呟くと、彼は再びユキの目を真っ直ぐ見つめた。




「ユキ」




「・・・きゅぅん」




心配そうに見つめるユキに、彼は続ける。




「この家を・・・この家を、出て行くんだ・・・ここも、いつまで安全かわからない・・・食料もない。外の方が、お前たちには安全だろう」




しばらく荒い息をつき、彼は痛みに耐えているようだった。




「うぐ・・・『アイツら』が動物をどうこうするかはわからない、が・・・犬の足には追いつけないだろう・・・」




ぶるぶると震える体に鞭打つように、彼は立ち上がった。


床に落ちていたガラス製の灰皿を持ち、ゆっくりと振り上げる。




「家族を守るんだ、ユキ。その子たちを、守ってやるんだ・・・ぐ、あ、ああああっ!!!!!!」




大きく振り上げられた灰皿は犬たちの頭上を越え、リビングの窓ガラスを割った。


大きい音に、子犬たちは耳を伏せて小さくなる。




「うう・・・」




それが最後の力だったかのように、彼は壁に体を預けてずるずると床に座り込んだ。


もう、床は一面の血の海である。




「さあ・・・行きなさい・・・行くんだ、ユキ」




彼の目から急速に光が消えていく。


気力も尽き果てたようだ。




「・・・わぉん!」




言葉は通じないが、何を言いたいかは伝わったのだろう。


ユキは大きく吠えると、ガラスの破片を踏まないように注意しながら子犬たちを一匹ずつ咥えて庭へ出した。


サクラを最後に運び出すと、ユキはもう一度振り返って大きく遠吠えをし・・・子犬たちの前に立って道路方面に走って行った。




「・・・ああ、ぼくも・・・たのし・・・かったよ・・・」




彼が絞り出した最後の呟きを、その耳に残しながら。








サクラたちが街に出ると、大勢の人間たちが方々を走り回っていた。


正確に言えば、『人間』が『ゾンビ』から逃げ回っていた。




「あああが!?たすけっ!!たすげでええええ!!!」




「来るな!!来るな来るな来るなあアァ!!!!」




「おいこっちは駄目だ!道が車で塞がってる!!」




「お父さん!おとうさあああん!!!」「いいから逃げろ!!母さんと一緒に逃げろおおお!!!!!!」




人間とそれ以外の喧騒から逃げるように、サクラたちは街を駆ける。


何度か目の前にゾンビがいることもあったが、ゾンビたちは犬の姿がまるで見えないかのように無視をしていた。


人間とは明らかに違う臭いを発していたので、何度か遭遇した後はユキは鼻を頼りに回避もできるようになった。




どれほど走っただろう。


子犬たちが疲れ果てて動けなくなったころ、彼女らはある公園にたどり着いた。




「アアア・・・」「ググググ・・・」「オオオオ・・・」




何体かのゾンビがいたが、彼らは犬には全く興味を示さない。


ゾンビと濃い血の臭いに怯える子犬たちを叱咤し、ユキは公園の遊具に目をつけた。




それはコンクリートを山の形に成形した大きな滑り台であった。


内部は空洞になっており、ユキは本能でそれが居住に適した構造だと確信した。


中に入り、冷たいコンクリートに体を横たえながら・・・疲れ果てたサクラたちは泥のように眠った。


彼女らにとって、一朗太が言うところの『ゾンビパンデミック』の初日はそうして過ぎていった。






翌日から、彼女らの生きるための戦いが幕を開けた。




水に関しては公園の水飲み場の蛇口が壊れ、噴出する水が池を作っていたので問題なく摂取することができた。


近所には小さいが川もある。


問題は食料だ。


母乳の時期はとうに終わっているので、ユキと子犬たちには食料が必要だったのだ。




産まれてからこの方家から全く出たことがなかった子犬たちと違い、ユキは散歩などで外の様子をある程度見知っていた。


それらの記憶をもとに、彼女は街へ食料を探しに出かけていった。


子犬たちがついて行こうとするとひどく吠え、ここから動くなと言い含めて。




兄弟がいたからよかったのだろう。


サクラたちは寂しいながらも、身を寄せ合って母の帰りを待つことにした。


本能で、そうした方がいいと理解していたから。




ユキは今までの記憶を手繰り寄せるように、街を走り回った。


飼い主であった老夫婦の娘が、散歩の途中で買い物をすることがあった。


そこはコンビニであったり、スーパーだったりした。


それらを覚えていた彼女は、そこに行けば食料があることを知っていた。






しばらくは、それでよかった。




そういった場所はゾンビに溢れており、人間は容易に近付けない。


後にサクラの飼い主になる一朗太のような人間なら別だが・・・普通の人間はゾンビを正面から叩きのめして探索などできるものではない。


そして、何故かはわからないがゾンビは人間以外の動物には興味を示さない。




ユキは毎日スーパーやコンビニを駆け回り、食べられそうなものを片っ端から回収して公園へ戻った。


包装紙に包まれた乾燥した食品や缶詰は、犬の力ではなかなか開けられなかったのでそれらは無視した。


ユキはあまり大きな犬種ではないので、持ち帰れる量にも限りがあったのだ。




サクラたちは母が持ち帰る食品を分け合って食べ、毎日を過ごしていた。


以前のような温かい家はないし、なんだかよくわからないゾンビが周りを徘徊してはいるが・・・それでも兄弟や母がいれば幸せだった。






1週間ほどが経過すると、問題が発生してきた。




街に電気が供給されなくなり、店の食品が急速に劣化を始めた。


生鮮食品は腐敗し、パンや総菜といったものも痛み始めている。


犬は人間よりも多少は胃腸が丈夫ではあるが、ユキはともかく子犬たちはまだ体が出来上がってはいない。


別の食料を探す必要がある。




飼い主がユキをペットショップに連れて行ったことがあれば、人間用の食料よりもはるかに長持ちするドッグフードの存在を知っていただろう。


だが、飼い主はネットで買い物を済ませていたのでユキはペットショップの存在を知らなかった。




食品から漂う臭気が、もはやそれが子犬の食用に適さない状態になったことを察知したユキ。


一般の家屋には食料が残っているかもしれないが、ユキは人間の周囲に行くことを避けていた。




以前、平和だったころは街を歩いていても何も起こることはなかった。


可愛いと声を掛けられ、撫でられることもよくあった。


だが、今は違う。




「シッシ!こっちくんなよ!余裕なんてないんだから!!」




「うわ、犬だ!あっちいけ!!」




「犬がゾンビウイルス、媒介してるって噂もあるんだよな・・・来るな!殺すぞ!!」




たまに街で出会う人間たちはユキを見ると顔を顰め、追い払おうとし・・・時には石を投げることもあった。


そのようなこともあり、ユキにとって今やゾンビよりも人間の方が危険な存在だったのだ。


中にはいい人間もいるかもしれないが、子犬を抱えてそんな危険な賭けには出れない。




ユキは、公園近くの河原で食料を調達することにした。


そこは浅い川で、魚や小さいカニの姿があった。




混乱から少し立ち直って徒党を組んだ人間たちは、街にある食料を奪い合い始めていた。


まだ川や山には目を向けていない。


だからユキにはそれが都合がよかった。




犬とはいえ今まで飼われていた立場。


初めは何も捕まえることはできず、子犬たちにもひもじい思いをさせた。




だが、この極限状況と・・・母としての矜持がユキの奥底に眠っていた野生の本能を目覚めさせた。




何日かすると、ある程度の魚やカニ、鼠などの小動物を捕まえることができるようになっていた。


子犬たちは今までと違う餌に戸惑っていたが、ユキが噛んで柔らかくして与えてやると徐々に慣れて食べるようになった。




日によって増減はあるが、それでも食料は確保できる。


水も、川からいくらでも飲める。


ユキはそのころから、川にだけは子犬を連れて行くようになっていた。


ここには人間は来ないし、子犬に獲物の取り方を教えなければ・・・そんな本能があったのかもしれない。




子犬たちは遊び半分ながら、母の必死な姿に何かを感じたのか・・・ユキが狩りをしている姿をじっと観察するようになった。


サクラも、兄弟たちによりそってその姿を見つめていた。






このまま日々が過ぎていけば、冬が来る頃には子犬たちもある程度立派になり、母と協力して狩りをすることもできるようになっていただろう。


詩谷は温暖な地域なので、冬の寒さもさほど厳しくはない。


それに、市内には暖を取れる安全な場所・・・ゾンビが大量にいる学校や施設などが多くある。


人間がいなければ、そこはかなり安全な場所なのだ。


皮肉だが、動物にとっては過ごしやすい状況になりつつあった。






だが、そうはならなかったのである。






その日ユキは、いつものように子犬を連れて川へ狩りに向かった。


彼女は日によって場所を変えながら移動しつつ狩りをしている。


そうすることで、川から獲物がいなくならないと・・・なんとなく理解しているようだ。




いつものように川に入り、しばしの格闘を繰り広げてユキは魚を捕まえた。




「きゃん!」「ひゃん!」「わん!」「わふ!わふ!」




サクラたちは母の咥えた魚を見て、大喜びしている。




そんな時だった。




「ギャゥウ!!」




兄弟の中でも一番年長の子犬が、普段とは違う悲鳴を上げて河原に倒れた。


驚いてサクラが目をやると、兄弟の体には黒光りする矢が深々と突き刺さっていた。


血を吐き、痙攣する子犬にユキが走り寄ろうとした瞬間。




「ギャン!?」




また別の子犬に、矢が突き刺さった。




「ギャワァアン!?」「ギュン!?」




あっという間に、4匹の子犬は矢で貫かれた。


その小さな体に対し、矢はあまりにも大きい。


助けを求める声を上げる暇もないまま、サクラの兄弟は永遠に動きを止めた。




ユキは走った。


唯一生き残った子犬・・・サクラへ向かって。


他の子供たちが、命の火を散らしたことは匂いでわかっていたから。




ユキは、その人生で最も速く走った。




兄弟たちが目の前で動かなくなり、何も考えられなくなっていたサクラ。


その首根っこをユキが走り込んで咥えたのと―――




彼女の体に、3本の矢が突き刺さったのはほぼ同時だった。








「あー!おい矢持ってくなよ!!くっそ・・・そこで死んどけよなあ!!クソ犬が!!」




「即死したと思ったんだけどなあ・・・半矢にしちまうとはもったいない」




「お前、犬食う気だったのかよ!?ウケる!!」




「違う。もっと上手くなりたいってことだ」




矢が刺さったまま走り去るユキを、その川にかかる橋から見下ろす3人。


その走りは負傷しているとは思えないほど速く、力強い。


今からでは明らかに射程外だった。




「いい的だと思ったんだけどなあ・・・犬はまだ早かったか」




「だな、そこらへんのゾンビで練習しようぜ」




「矢も部室にまだまだあるしよ」




彼らは、近所の高校に通学していた学生だった。


アーチェリー部に所属していた彼らは、いわゆる劣等生。


ゾンビが発生した日にも授業に行かず、部室でサボっていたことで難を逃れていた。




元々さほど勉強ができるわけでもなく、賢いわけでもなかった彼らはいち早くこの現実に適応していた。


さながらゲーム感覚で探索をし、かつての級友であってもためらいなく射殺する。


どこか世間とズレていた彼らだからこそ、生き残っていた。




「でも子犬にはキッチリ当たったしな!腕もバンバンレベル上がってるぜ!」




「だなー、そろそろ行動範囲広げてみるか?もうちょい中心部辺りを探ってみようぜ!」




「あとさ、帰りにナカジママート寄ろう。ラーメン食いたいし」




「俺塩ー!」




「俺は醤油かなあ」




「焼きそばも捨てがたいなあ」




さきほどいたいけな子犬を射殺したとは思えないほど朗らかに話し合いつつ、彼らは帰路へ着いた。


もしこの場に一朗太がいれば、彼らは即刻物言わぬ屍と化していただろうが・・・ここにはいない。




川のせせらぎのすぐ近くで、子犬たちはそのまま風に吹かれていた。




なお、彼らはこの後物色しに行ったスーパーで運悪くゾンビの集団に捕捉され、悲鳴を上げながら生きたまま喰われた。


なんてことのない、どこにでもある話である。






サクラは吠えていた。


自分を咥えたまま走り続けているユキに向かって、必死で吠えていた。


子犬ながらも、母の体からどんどんと力が抜けていくのが感じられたからである。




『下ろして!』『自分で走れるから!』




そんな思いを込めて吠えるも、ユキは耳を貸さない。




彼女にはわかっていた。


自分の命が、もうすぐ尽きるということがわかっていた。


それまでに、この子を可能な限り連れて逃げるとそう決意していた。




ゾンビの間を縫い、街を駆け抜け、ユキは走った。




どこへ行くかもわからない。


だが、ここではないどこかへ。


さっきの人間たちが追ってこれないほど遠くへ。


それだけを霞む頭で考えながら、彼女はひた走りに走った。






どこかの店の裏路地で、ユキはとうとう動けなくなった。




周囲に人間の気配はない。


ここならしばらくは安全だろう。




咥えていたサクラを下ろすと、ユキはそのまま地面に倒れ込んだ。


体に突き刺さった矢から、血がどくどくと流れ出してゆく。




「きゅん!ひゃん!ひゃん!!」




横たわるユキに必死で吠えるサクラ。


だが、その声に答える力すらユキには残されていなかった。




倒れたユキの鼻に顔を寄せ、悲し気に鳴くサクラ。


じわりじわりと霞んでいく視界の中で、ユキはそれをただ見つめていた。




この子はどうなるのだろうか。




こんなに小さいのに、この先生きていけるのだろうか。




そんなことを考えながら、ユキは小さく舌を出して・・・産まれてすぐにそうしてやったようにサクラの顔を優しく、優しく舐めた。




元気で生きていって欲しい。


兄弟の分まで。


わたしのかわいい子。






それきり、ユキの意識は闇に溶けて消えた。






動かなくなってしまったユキの前で、サクラは1日中吠え続けた。


だが、幼い彼女も薄々気付いてた。


目の前にいる母が、もう二度と起きあがることはないと。


だがそれでも、彼女はそうする他なかったのである。


他のことを考えるには、彼女は幼な過ぎた。




見切りを付けて単独で生きていくか。


それともこのままここで餓死するか。


サクラに残された道は2つだった。




だがそこに、第3の選択肢がやってきたのだ。




近付いてきた人間の足音。


サクラはそれに気づき、振り返って威嚇した。


あまりハッキリ見えなかったが、兄弟や母にひどいことをしたのは人間だとわかっていた。


決して、母に近付けさせはしない。




だが、その人間は少し違っていた。




彼は、サクラと母の状況に気付くとしばらく考え込むような仕草を見せた。


しばし考え込んだのち、その人間はサクラと目線を合わせるようにしゃがみ込み、言った。




「なあ、俺んとこ来るか?」




こちらへ攻撃してこないことを不思議に思っていたサクラは、その人間を見つめる。


彼女の返事を待つかのように、彼・・・一朗太は黙っていた。




サクラはじっと一朗太の目を見た。




その目は、老夫婦のようであり、母のようであり、兄弟のようであった。


見たことのない、父のようでもあった。


彼女を害そうとする意思は、そこからは全く感じられなかった。




この人間なら、大丈夫。




何故かはわからないが、サクラはそう確信した。


近付き、差し出された指を舐める。


そうすると、一朗太は少し笑ってサクラを撫でた。


かつての幸せな記憶の中で、幾度もそうされたように・・・優しく、温かい手であった。




サクラは、彼について行くことを決めた。






一朗太は、いい人間・・・それも、サクラの知る中でも最上級のいい人間であった。


この場合の『いい人間』とは、決して『善人』ということではない。


犬にとってのいい人間・・・つまり、可愛がってくれ、遊んでくれ、飯を食わせてくれる人間という意味である。




特に、風呂はおおいに気に入ったようである。


そこで、サクラは名付けられて・・・晴れてサクラになった。


『ドライヤー』というものだけは、しばらく苦手だったが。




夜が怖くて鳴いたサクラを、一朗太は抱きしめて寝てくれた。


母よりも大きな体に、サクラは全幅の信頼を込めて体を預けた。




今まで食べたことのない食べ物を、どこから運んできてくれた。


サクラが食べている間、一朗太はそれをニコニコしながら見つめてくれる。


この人が一緒にいれば、何も怖いことはないと彼女は確信した。




彼と過ごす中で、サクラは一朗太が大好きになった。


それに、彼が時々連れてくる人間たちも。




この件について、一朗太はサクラを1つ誤解している。




彼は、サクラが人間のことを大好きだと思っているが・・・むしろ種としては大嫌いである。


サクラは『自分が大好きな一朗太が連れてくる人間』が大好きなのだ。


一朗太がいないところで初対面の人間が近付いてくれば、彼女は決して心を開かないだろう。


現に、一朗太は認識していないが・・・友愛でも他の場所でも、彼女が懐くのは全て一朗太と親しげに話していた人たちだけだ。




『ミヤタ』は優しくて大きいので好きだ。


『モリヤマ』は時々変な動きをするが好きだ。


『カンザキ』は優しいしいい匂いがするから好きだ。


『ユキコ』、『ヒナ』、『ミク』、『リコ』は、彼女の兄弟を思い出すので好きだ。


『オーキ』は時々恐ろしい気配を出すのでそこだけは苦手だ。


『レオン』は、種族は違うが好きだ。


その他の一朗太の知り合いも、みんな好きだ。


ここへ来て、サクラの周囲はまた優しさと愛情に包まれ始めていた。








今サクラは大きな建物で、大勢の人間たちと一緒に暮らしている。


前の一朗太の家の方が好きだったが、ここも好きだ。


小さい子供たちがどこへ行っても構ってくれるからだ。




だが、ここへ来てサクラには心配なことがあった。




一朗太がちょくちょく留守にすること。


そして・・・時々血の臭いをぷんぷんさせて大怪我をして帰って来ることだ。


今の所は母や兄弟のようになってはいないが、それでもサクラは心配である。




以前よりも少し成長したサクラは、色々なことを考えられるようになった。


そこで一つの考えに至った。




一朗太は、この群れの長なのだ。




だから外へ出て、外敵と戦ってこの群れを守っているのだろう。


記憶とは違う、本能に刻まれた知識からサクラはそう推測した。




何度か一朗太が戦うところを見た。


彼は自分と違って牙はないが、それと同じくらい強い武器を持って戦っていた。


いつも自分に向けるような顔ではなく、雄々しく吠えて戦っていた。




サクラにとって一朗太は強い父であり、優しい母であり、頼りになる長であった。




『カンザキ』や『ゴトウリン』によく怒られて小さくなっているが、彼女らが一朗太を決して嫌っているわけではないことはサクラにはよくわかっていた。


本当に嫌なら群れから出て行くからだ。


それをしないということは、やはり一朗太はいい長なのだろう。


こんな群れに入れてよかった、とサクラは思い。


早く大きくなって一朗太を助けてやりたい、と強く願うのだった。








母に呼ばれたように感じて、サクラは再び目を覚ました。


だがそこはいつもの部屋で、一朗太の腕の中だ。


窓の外から光が差し込み、朝の匂いがしている。


階下からはことことと音がする。


誰かが朝食の支度をしているのだろう。




サクラは腕から抜け出し、一朗太の胸の上に伏せた。


そこで、ほんの少しの間その顔をじっと見る。




このあどけない顔をしている男が、どれほど頼りになるかサクラは知っている。


どれほど強いか知っている。


そして・・・どれほど優しいかも知っている。




「うぅむ・・・うぐ、ふわあああぁああああ~・・・」




大あくびをし、一朗太が目を擦る。


何度か目を瞬かせた後、その視線はサクラに向けられた。




「わふ」




「おお・・・サクラ、相変わらず早起きだなあ・・・腹減ったか?」




「わん!」




「そっかそっか、俺もそうなの。じゃあ朝飯食って今日も適当にいこうか!」




「おん!わぉん!!」




一朗太が手を伸ばし、サクラの頭を撫でる。


この優しい手が、サクラはたまらなく大好きだ。

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